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博士論文審査要旨
論文題目:帝政ロシアの移住・入植政策と移住農民―19世紀後半から20世紀初頭―
著者:青木 恭子 (AOKI, Kyoko)
論文審査委員:土肥 恒之・渡辺 尚志・佐藤 仁史
本論文の構成
かつて帝政期の代表的な歴史家クリュチェフスキーは「ロシアの歴史は植民される国の歴史」であり、「その植民地域は、国家の領土とともに拡大した」と指摘した。植民問題はロシア史における根本的な問題で、シベリアへの移住・入植についてもよく知られているが、これまで本格的な研究はなされてこなかった。本論文は19世紀末から20世紀初頭におけるアジアロシアへの移住について、ロシア政府の政策意図と具体的な実施とともに、広大で自由な土地での「真の農民生活」を求める移住農民の志向との乖離を豊富な一次史料を用いて明らかにした画期的な研究である。なおアジアロシアとは、シベリア・極東・中央アジアを包括する地理的概念であるが、本論文では特にシベリアが対象とされる。本論文の構成は次の通りである。
序章 問題設定と研究史
第1章 移住の概要
第1節 移住者の推移と移住政策
第2節 移住者の構成
小括
グラフ・表
第2章 移住の理由をめぐる問題
第1節 社会経済的要因
第2節 心的要因
小括
表
第3章 移住許可をめぐる政策
第1節 二つの移住法による定義
第2節 1889年移住法制定まで
第3節 1889年移住法から1904年改正移住法まで
第4節 1904年改正移住法以後
小括
表
第4章 無許可移住
第1節 無許可移住の概要
第2節 政府の無許可移住対策
第3節 無許可移住者の分析
小括
表
第5章 帰郷者をめぐる問題
第1節 帰郷問題に関する認識と対応
第2節 帰郷世帯の分析
小括
グラフ・表
結論
参考文献一覧
本論文の要旨
序章は論文の問題設定と研究史の批判的整理に充てられている。シベリアがロシアに併合されたのは16世紀末のことだが、政府がシベリア植民に本腰を入れ始めるのは19世紀後半からである。シベリアを含むアジアロシアへのロシア人の移住・入植は国家的な事業として位置づけられ、さまざまな支援策が講じられた。それによって入植は大きく促進されたが、他方で移住を希望する農民はきわめて多く、政府が考える適正な規模を上回った。このことから著者は、辺境地域の入植・開拓をすすめる政府の思惑とは別に、農民には「移住を求める自発的な意志」があったという視点を提示している。
だが従来の研究史、特にソヴィエト史学ではイデオロギー、具体的にはレーニンの移住問題についての幾つかの発言に囚われてきた。ソ連期の歴史家による移住史研究は厖大で関連諸史料に基いた実証的なものだが、帝政ロシア政府は、一握りの地主貴族の利益を保護することだけを優先しており、移住農民には十分な保護や支援を与えず、辺境地域の開発や経済発展についても考えていなかった。あるいは農民は移住など望んでおらず、零落して追い詰められたものが移住を余儀なくされたというレーニンの発言のイデオロギー的制約から自由ではなかったのである。だがソ連邦崩壊後、とくに近年移住農民を主体的な存在として捉え直す視点があらわれている。本論文はこうした研究史を踏まえて、アジアロシア移住・入植を推進した政府の思惑と移住農民のそれとの「交錯と乖離」を移住統計や「移住証明書」などの一次資料に基いて解明することを課題として設定する。
第一章では移住者の規模・推移と移住政策、そして移住者の構成について、みずから改訂・作成した統計資料を用いてその概要が明らかにされる。アジアロシア移住者について、ある程度全体的な統計資料が得られるのは1885年以降のことだが、そもそも1861年の農奴解放から約20年間、この地域への移住はさほど盛んではなかった。だが1885年から1914年にかけて、アジアロシアへの統計上の移住者の累計は458万5742人に及んだ。著者はこの30年を六つの時期にわけて主要な特徴を指摘する。第1期はまだ移住者の大きな増加がみられなかった1889年までである。第2期は国有地の無期限の用益権、3年間の義務支払い猶予、兵役猶予、貸付その他の優遇措置を規定した1889年7月付け移住法から1894年までである。こうした移住政策の策定や移住環境の整備にはシベリア鉄道建設準備委員会が深く係わり、この5年間の移住者は28万余に達した。第3期は1895年から1900年までで、許可移住者に対する手厚い支援策、シベリア鉄道の部分開通もあって移住者はさらに増加し、移住民男性1人当たり15デシャチナという移住区画地の不足を招くほどであった。
第4期は1901年から1905年までで、この時期には移住者は減少した。伝統的に移住者を多く輩出してきた北部黒土地帯とヴォルガ沿岸地域からの移住者の激減、そして日露戦争の勃発による移住禁止が原因である。したがって無許可移住者が全体の9割を占めたのである。第5期は1906年から1909年までで、この時期には年間60万人を越える移住者を記録しており、「アジアロシア移住の最盛期」であった。その原因は1906年11月の土地法、つまりストルイピン土地改革にあった。これによって農民たちは共同体の許可なく自分の土地を整理して、新天地に移住できたからである。だが移住者の急増は又しても入植区画の不足を招いた。第6期は1910-1914年で、第一次大戦の勃発による政府の抑止策などによって、移住者は最盛期の4割ほどにまで激減した。
以上のような時期的な特徴の整理に続いて、より具体的に移住者の中核をなしていたのは「中農」か「貧農」か、という論点が取上げられる。農奴解放の前夜ロシアの農民は大きく「領主農民(農奴)」と「国有地農民」に大別され、前者は52.4%、後者は43.6%であった。この時期の移住農民に占める比率も各々48.9%、38.4%で大きな違いはなかった。そこで著者は地域別、県別に移住以前に所持していた農民分与地の保有状況のデータを細かく分析する。全体的には、元領主農民の方が分与地は少なく、そもそも分与地を持たない世帯も少なくない。だがそこには農奴解放に際して無土地のまま解放された「元屋敷付き農奴」、あるいは分与地の4分の1だけ無償で手にした「贈与地農民」が含まれている可能性がある。移住者の中核を「貧農」と断定することは出来ないのである。
以上を踏まえて、第2章では農民たちを遠隔地への移住へ駆り立てた要因についての考察に充てられる。当時の移住問題の実務者も研究者も揃って、移住の主たる理由を「土地不足」にみていた。だが同時に「土地不足」は主観的、相対的なものであって、「移住者のなかには中農が多く、十分な広さの土地を保有していた農民もかなり移住している」という指摘もある。とすれば「土地不足」以外の要因を探る必要があるとして、著者は当時の資料を巾広く検討することで、移住者を多く出している諸県と少ない諸県の社会経済的な特徴を引き出している。移住者を多く出している地域に共通するのは、農業中心の産業構造をもち他の産業が未発達であることである。なかには出稼ぎ者の多い地域もあるが、その場合も穀倉地帯へでかけて農業労働者として働く例が多い。他方でモスクワやペテルブルク等の大都市圏や工業地帯への出稼ぎが多い地域、あるいは農業以外の地元産業の発展がみられる地域からの移住者は少ないという傾向がみられる。つまり農奴解放後、人口増加などきびしい経済状況におかれた伝統的な農業諸県の農民たちにとって、不熟練労働者や農業労働者としての雇用は限られた選択肢のひとつであったが、共に不安定で低賃金であった。しかも農業機械の普及によって雇用機会も減少しつつあった。「農業出稼ぎ」を多く送りだしている県にはアジアロシア移住者も多いことの理由はここに求められる。
同時に著者は、アジアロシア移住が困窮した農民にとっての「最後の手段」という説を否定する。何故なら「裕福な農民には移住する理由がなく、貧しい農民には移住する資金がない」からである。そこで注目されるのは「移住熱を煽るような噂」の流布である。それはかつてのようなユートピア伝説ではなく、移住者のために無償で提供される資金、馬や牛の家畜頭数、建設資材の供与などの政府の支援策に基く、具体性をもった噂であった。農民たちがこれを「皇帝陛下による移住の呼びかけ」と受け取ったとしても不思議ではない。移住農民のなかでは、このような噂によってアジアロシアがほとんど「約束の地」になっていた。加えて、彼らが故郷へ書き送った手紙のなかにも広大な土地だけでなく、茸、野菜、木材、魚、ベリー類などの資源の豊かさが挙げられていた。新天地では故郷で見出すことの出来ない、「農民としての真実の生活」をおくることが出来るというわけである。こうした諸点を指摘したうえで、著者は伝統的に農業によって生活の糧を得、今後も農業によって生きていくことを望む「保守的な」農民にとって、その生活をアジアロシアの広大な大地で実現するという選択は自然なものであったという推論を引き出している。
第3章では移住許可に関する政府の政策とその変化について詳しく検討されている。政府の移住政策は1889年7月13日の移住法、及び1904年6月6日の改正移住法に基くものであるが、1892年に財務大臣に就任して以来、約10年にわたって政府内で最も影響力をもっていたセルゲイ・ヴィッテにあっては、シベリア鉄道建設と沿線地域への入植は当初から不可分のものと位置づけられていた。そしてヴィッテの構想を実現させ、その責任を負っていたのはシベリア鉄道委員会準備委員会委員長アナトリー・クロムジンであり、彼こそ「事実上の指導者」であった。クロムジンは「入植・移住の成功を保証するものはただ一つ、精力的で意気盛んで、自らの行動を自覚している民がシベリアへ向かうことにある」と考えており、「先乗りの派遣」が移住許可を受けるための必須条件とされたのも彼の意向による。「貧農」ではなく、「働き手の人数が出来るだけ多い世帯」が許可申請者から選ばれるように配慮されたのである。
著者の統計分析によると、こうした政府の政策意図はほぼ反映されている。ある事例では移住許可世帯の平均人数が7.3人であるのに対して、不許可世帯のそれは4.9人であった。また男性労働力が1人の世帯には容易に許可が下りなかった。改正移住法以降においてもこの傾向は変わらないが、男性労働力が1人の世帯でも移住が認められやすくなり、移住証明書を所持する世帯と不所持の世帯の平均人数の差も縮小している。だが政府は、基本的に困難な入植事業に耐えられる力のある農民世帯を「望ましい移住者」と考え、支援を与えて送り出したのである。
第4章は無許可移住についてのさまざまな問題が分析される。帝政ロシアのアジアロシア移住・入植政策は許可制を基本としており、許可移住者にはさまざまな優遇措置が講じられた。けれどもその許可も優遇措置も受けずに「勝手に」移住するものは後を絶たなかった。1890年代までは移住者全体のほぼ7,8割、1896年以降に限ってもほぼ4割前後は無許可で移住した人びとであった。著者は移住農民における「自発的な意志」の存在を裏づける証拠として、無許可移住者をめぐる政府の対策とその変遷、及び彼らのあり方について詳しく分析している。
政府はウラルを越えてきた無許可移住者の入植について、建前では禁止しながらも、事実上認めていた。1896年以降正式な移住許可者に対する支援を手厚くするとともに、積極的な情報提供によって移住を希望する農民たちが「合法的な道」を選択するように仕向けてきたが、無許可移住がなくなることはなかった。その理由として、著者は次のような諸事情を挙げている。まず彼らは移住者向けの区画地に入植しなくとも既存の共同体に加入することが出来たし、その共同体から土地を借りることも出来た。加えて一般に移住者たちは西シベリア等地理的に近く、ある程度開拓が進んだ豊かな地域への入植を希望していたにも拘らず、彼らのために用意される入植区画は次第に鉄道路線から離れた、さらに遠隔の地域に設定された。こうした環境の厳しい地域への移住を嫌うものには、たとえ優遇措置が得られなくとも上記の希望の場所への移住、つまり無許可移住を選ぶ傾向がみられたのである。
第5章では入植・定住の目的を達成できず、ヨーロッパロシアへ帰郷した移住者、つまり帰郷者の在り方が分析される。かつてこの問題は無許可移住者の問題と関連づけられてきた。確かに全体的にみると帰郷者のなかには無許可移住者の方が多かったが、正規の許可移住者も決して少なくなかった。1896年から1914年までの累計では、移住世帯の16.6%が帰郷したのである。帰郷理由についての調査資料によると、環境不適応、入植先の確保不可、資金不足などさまざまだが、許可移住者に最も多い理由として挙げられているのは入植後の環境に適応できなかったことである。割当られた入植区画が気に入らずに直ぐに帰郷するケースもみられた。無許可移住者については入植先が確保できなかったことがおもな理由として挙げられている。彼らの場合ある程度開拓された豊かな地域に集中したという移住傾向に由来するものである。
だが帰郷に関して留意しておかなければならないことは、すべてが故郷との絆を断ち切って新天地へと移住したものではなかったことである。最大の移住者を出したストルイピン土地改革期についてみると、分与地を処分せずに移住するものが少なくなく、しかもこれは無許可移住者に多くみられた。特にシベリアに近いヴォルガ沿岸地域では分与地を残して移住する世帯の割合が著しく高かった。帰郷については、こうした側面も考慮しなければならない。
本論文の成果と問題点
本論文は19世紀末から20世紀初頭にかけてのアジアロシア、とりわけシベリア移住の諸問題を豊富な一次資料を駆使して分析した画期的な論文である。当時のロシア政府にとって、アジアロシアへの移住・入植政策は中央部の過剰人口を辺境部へ送りだすことによって深刻化する「土地不足」問題の緩和を図る、つまり農業危機への対応策であるとともに、辺境地域の開発と「ロシア化」を図るうえでの不可欠な政策でもあった。本論文で著者は政府の移住政策とその推移、そして実施過程を詳細に検討することによって、政府が一貫して入植の成功が見込めるような世帯、つまり世帯労働力が多く移住資金を持つ農民たちに移住許可を与えてきたこと、したがって多くは「貧農」ではなかったことを疑問の余地なく明らかにした。本論文の第一の貢献はここにある。これによって、1890年代までは地主貴族に安価な労働力と土地の借り手を保証するために貧農の移住を制限し、20世紀に入ってからは「農民革命」を防ぐために貧農の移住を促進してきたとするレーニンの命題に囚われたソヴィエト史学は、個々の実証的な面で多くの成果を挙げてきたにも拘らず、この問題についての基本的な理解を歪めてきたことが明らかにされたのである。
第二に著者はシベリアへの移住者を多く輩出した地域の共通性を指摘して、アジアロシアへの移住を希望したのは伝統的に農業を営む黒土地帯の農業県に住み、今後も農業によって生きていくことを望む「保守的な」農民であったという魅力的な推論を引きだしている。これは移住農民の「自発的な意志」の存在という著者の主張と表裏一体をなすものだが、ロシア農民の性格を考える場合にきわめて重要な指摘であると思われる。特に「無許可移住」とその実態を細部にわたって明らかにした第四章は本論文の白眉であり、その結論は「植民の国」ロシアの歴史全体について示唆するところがきわめて大きい。
第三に著者は帝政期に刊行された移住統計資料をそのまま論文に貼り付けるのではなく、自らの論文の意図に即して組みかえ、改訂編纂したうえで、添付している。本論文の各章に付けられた資料は、全体でグラフ4点、表43点という多数に及んでいるが、この点も大きなメリットに数えることが出来るだろう。後進の研究者にはこれによって移住の凡その傾向を掴み、そこから出発出来る堅固な基礎が与えられたのであり、作成された統計諸資料はそれ自体研究史への重要な貢献となっている。
本論文の成果は以上に尽きるものではないが、幾つかの問題点もまた指摘できる。ひとつはロシア史における移住問題についてもう少し纏まった説明が望まれたことである。アジアロシア移住は鉄道という移動手段や政府の推進策など幾つかの新しい性格をもつが、他方で、著者も示唆するように移住農民の意識のうえでは従来の移住の延長線上にあったと考えられるからである。もう一つは移住形態に関するもので、個別世帯の移住の他に、集団移住の例が幾つか指摘されてはいるが、その区別についての説明が欠けている点である。この問題は利用した統計資料には現われない性格のものだが、他の資料を用いることでその欠を補うべきであったろう。さらに読者の理解のために多少詳しい関連地図が作成されたならば、本論文の主張はより説得的なものとなったであろう。もとより以上のような問題点については著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
以上のことから、審査員一同は本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、青木恭子氏に対して一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。
最終試験の結果の要旨
2010年1月13日
平成21年12月15日、学位論文提出者青木恭子氏の論文に対して最終試験を行った。試験においては、提出論文「帝政ロシアの移住・入植政策と移住農民―19世紀後半から20世紀初頭―」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対して、青木恭子氏はいずれも十分な説明を与えた。また本学学位規定第4条3項に定める外国語および専門学術に関する学力認定においても、青木恭子氏は十分な学力を有することを証明した。
以上により、審査員一同は青木恭子氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。