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博士論文審査要旨
論文題目:Failures and Legacies of Japanese Propaganda in the Sōryokusen War of Ideas
著者:カムポアモール ゴンザーロ Ⅱ (CAMPOAMOR, Gonzalo Ⅱ)
論文審査委員:中野 聡、貴堂 嘉之、ジョナサン・ルイス、稲葉 哲郎
1.本論文の構成
本論文は太平洋戦争期フィリピンにおける日本のプロパガンダを、フィリピン側の視点から思想史として検討するものである。その前提として本論文がまず注目するのは、フィリピンにおける日本のプロパガンダの受信者が、フィリピン人全体というよりも植民地の政治エリート・対日協力者であった一方、発信者(第14軍軍宣伝班・報道部)もまた日本社会における中流の知識階層としての背景をもっていたという、受信者と発信者の階級的性格の共通性である。このことから本論文は、日本のフィリピンにおける戦時プロパガンダの歴史を、日本・フィリピン両社会の知識階層の「出遭いの思想史」として叙述する可能性を提起し、とくに哲学者・三木清のフィリピン論を、フィリピン側の視点から初めて本格的な分析の対象としてゆく。
その題名から想像される内容とは異なり、本論文は、日米比3国いずれの歴史家たちも、先行研究のなかで、文化・思想戦としてのプロパガンダを、日本の完敗に終わった軍事戦と同列視して失敗の烙印を押し勝ちであると批判する。そして、プロパガンダの主たる受信者であったフィリピンの政治エリート・対日協力者の間では、日本の文化戦争が一定の成功を収めていた可能性を示唆する。そしてこの可能性を検証するためには対日協力者の言説を仔細に検討することが必要であることを認めつつ、本論文は、フィリピンにおける日本の軍宣伝・プロパガンダに関する初めての本格的な研究として、まず優先的に取り組むべき課題として以下の4点を設定する。すなわち、1)思想戦を担った日本人たちの開戦前の履歴やその主張にさかのぼる検討。2)日本側のプロパガンダが過小評価される一因ともなってきた、未利用の日本語史料を整理・公開すること(このために本論文には長文のappendixとして三木清著作等の英語訳が付されている)。3)日本のプロパガンダの高度に観念的な性格を解明するためにも、日本の戦時イデオロギーの観念化に大きな役割を果たした思想家を分析し、その思想が文化政策やプロパガンダの内容にどのように具体化されたかを解明すること。とりわけ三木清の役割の検討。4)フィリピン政治エリートの対日協力問題をプロパガンダ史の観点から客観的に再評価すること。これらの課題を検討する本論文の目次構成は以下の通りである。
Table of Contents
List of Abbreviations
Abstract
Chapter I – Introduction to the Dissertation
Chapter II – Thought War within the Total War
Chapter III – Propaganda in 1942
Chapter IV – Propaganda in 1943
Chapter V – Propaganda in 1944
Chapter VI – Miki Kiyoshi and the Japanese Intellectual Propaganda
Chapter VII – The Thoughts of Miki Kiyoshi
Chapter VIII – Japanese Propaganda and Filipino Political Collaborators
Chapter IX – Conclusion: Of Failures and Legacies
Bibliography
Appendix
1-17: Translated Works of Miki Kiyoshi
18: Kon Hidemi’s “Human Studies in Miki Kiyoshi,” March 1949 (partial translation)
19: Nakano Satoshi’s Interview of Hitomi Junsuke, 1992
2.本論文の要旨
第1章「序論」は、まず日本の第2次世界大戦期東南アジア占領地におけるプロパガンダについて、先行研究が安易に「失敗」を断じている傾向を批判し、日本の戦争目的の正当性とはまったく別の問題として、日本が展開したプロパガンダが東南アジア側から見ると西洋に対する健全で現実的な対抗文化イデオロギーを示すものであった可能性を指摘する。さらに筆者が収集した膨大なプロパガンダ史資料・関連文献の分析から、日本のプロパガンダが、フィリピン人全体を対象として展開することを期待しながらも、実際にはその対象をマニラなどの中心都市圏の富裕層・高学歴層・(不在)地主層としての性格をもつフィリピン社会の支配層・中間層とせざるを得なかったことは明らかであると述べる。その一方、日本側のプロパガンダの担い手たちも、国民徴用令によって軍属として徴用された作家、詩人、映画監督、広告業者、コピーライターなど、総じて言えば中流ブルジョワジーに属していた。このことから、日本の言う「思想戦」は、同じ(小)ブルジョワジーとして、またそこから知識人を輩出した社会階層としての共通性をもつ、三木清の言葉を借りれば「知識階級」の間の関係史として捉えられなければならないことを筆者は強調する。具体的には第14軍に軍属として徴用・派遣された三木清、尾崎士郎、石坂洋二郎、今日出海、火野葦平、寺下辰夫や、比島調査委員会で派遣された学者の蝋山政道、武内辰治などを分析の対象として挙げ、なかでも蝋山政道と三木清はともに昭和研究会において東亜共同体論を展開するとともに、日本のフィリピン占領政策にも重要な影響を与えた存在として注目できると筆者は述べる。
序論後半で筆者は、戦時プロパガンダ研究史をレビューし、コール(1996)やイーラル(1973)、ジョウェット&オドンネル(2006)のプロパガンダ論が日本のプロパガンダにほとんど触れていないことを指摘したうえで、日本のフィリピン占領史におけるプロパガンダに関する先行研究を検討し、いずれも史資料の渉猟という点で限界があること、三木清についてはそのフィリピン滞在やフィリピン論に関する研究は今日出海(1949)と平子友長(2008)による近年の論考などきわめて限られていることを指摘している。さらに使用資料に関しては、フィリピンのロペス博物館、アテネオ・デ・マニラ大学のリサール図書館、フィリピン大学アーカイヴス、日本の東京大学社会情報コミュニケーション研究所所蔵資料、そして米国の国立公文書館における収集資料、日本語の刊行資料・未刊行資料、回想録・小説・インタビューなどを1次文献として挙げ、三木清のフィリピンに関する著作やフィリピンから家族などに送った書簡も分析対象とすることを述べている。
第2章「総力戦のなかの思想戦」で筆者はまず、ジョウェット&オドンネル(2006)によるプロパガンダの定義(周到で計画的な試みによって人々のものの見方を方向づけ、認識を操作し、人々がその行動でプロパガンダ発信者側の意図するとおりに反応するように仕向けること)は、受信者と発信者間、階級間、社会間の葛藤を捕らえる双方向的な分析視角に欠けることや、コミュニケーション研究に視野を限定しているために、プロパガンダをイデオロギー・思想史という角度から分析する視角に欠けると批判する。次に筆者は、日本のプロパガンダに影響を与えた重要な2著作として辻正信の「これだけ読めば我は勝てる」(1941)、文部省の「臣民の道」(1941)のイデオロギー的諸特徴を整理する。さらに太平洋戦争開戦後の軍宣伝の前提として、開戦前から総力戦体制のもとですでに民間のメディア関係者が思想戦・文化工作に動員され始めていたことに注目し、報道技術研究会やプレス・アルトなどが情報局や大政翼賛会と契約してポスター制作などを行っていた状況を概観している。さらに筆者は開戦後の第14軍(フィリピン派遣軍)軍宣伝班の編成過程を検討し、さらにこれを第16軍(ジャワ派遣軍)と比較して、統治行政に関わるプロパガンダを展開して軍との関係が希薄であった後者に対して、治安回復に重点をおかなければならなかったフィリピン派遣軍の場合、宣伝班員は軍属も軍服を着用し、戦闘地や宣撫地域に直接赴かなければならないなどの違いがあったことを指摘している。
第3章から第5章は、1942年から44年までのフィリピンにおける日本のプロパガンダの展開を、プロパガンダ史資料の分析を中心に検討している。まず、第3章「新比島:1942年のプロパガンダ」は、緒戦における軍宣伝上の最大の課題であったバタアン・コレヒドール戦における対敵宣伝(投降の勧誘)で使用されたポスター図像の分析から検討を開始する。日米比3カ国にまたがる図像資料の収集から得られた知見のひとつとして興味深いのは、比米戦争(1898-1902)の記憶を利用してフィリピン民族主義の反米の記憶を喚起しようとする動きが日本のプロパガンダ発信者の一部には見られたものの、実際には比米戦争に関する知識そのものがきわめて断片的で、これを十分に利用するには到らなかったという指摘である。次に筆者は日本軍占領下におかれたマニラ(周辺)におけるプロパガンダの検討に進み、宣伝活動の実態を検討し、一部の地方宣撫活動を除くと、開戦当初からゲリラの抵抗活動が活発であったフィリピンにおいて、少人数の警備でプロパガンダ活動の安全を確保できた地域は都市部に限られていたことを指摘し、それがプロパガンダ活動の内容にも影響を与えた可能性を論じる。次に筆者は開戦初期のプロパガンダの内容的特徴として、日本が強国であることやその文化的・イデオロギー的優越性に宣伝内容がほとんど固執しているかのように集中していたことを指摘する。そして、このような日本の「独善的」な自己宣伝が、すでに日中戦争時代に三木清によって批判されていたことを指摘する。
第4章「匪民分離工作と独立:1943年の対ゲリラ・平定プロパガンダ」で筆者はまず、宣伝要員の配置計画など当時のプロパガンダの実態が分かる貴重な資料である、第14軍報道部「昭和18年度宣伝計画」に詳しい分析を加えている。次に、1943年のプロパガンダを一貫する特徴として、筆者は、フィリピン独立に向けたプロパガンダ活動を挙げる。そしてそれが、一面においては1943年1月14日の大本営政府連絡会議におけるフィリピン・ビルマに対する独立付与方針に基づくものであったものの、各地方で抗日ゲリラ活動が激化し、日米の戦局も日本の不利に逆転した情勢をふまえれば、実はそれがゲリラ活動に対抗するため必要に迫られた対抗的宣伝でもあったという見方を示している。こうした情勢のもとで、パナイ島など各地で、激化する抗日ゲリラの糧道を絶ち孤立させるために、農民とゲリラを引き離す目的で匪民分離工作が行われたが、フィリピンの政治エリート(対日協力者)はこれに強く反対し、一部では中止された。このように、1943年10月のフィリピン共和国独立に向けたプロパガンダ・キャンペーンは匪民分離工作と複雑に絡み合いながら展開したと筆者は叙述する。さらに、第5章「1944年のプロパガンダ:必勝のなかの無益と絶望」は、1944年のとりわけ後半に向けて日本の軍事的劣勢が明確となる中で、絶望的な色彩を帯びながら展開したプロパガンダの内容を分析している。
第6章と第7章で、筆者は、フィリピン人研究者として初めて、思想家・三木清のフィリピン体験とフィリピン論を検討している。日本の「知識階級」がプロパガンダの担い手となっていたことに注目する筆者にとって、三木清はその代表事例である。まず、第6章「三木清と日本の思想プロパガンダ」で筆者は、太平洋戦争期における大東亜共栄圏構想の前史としてのアジア主義思想の系譜とりわけ三木清と蝋山政道が深く関与した東亜共同体論を整理し、さらに、三木のような日本の知識人たちが1930年代および太平洋戦争の開戦直前に日本の外交政策に対して果たそうとしていた役割やファシズムとの関係に関する論点を整理する。そのうえで、三木清の経歴をたどり、国民徴用令によりフィリピンに派遣された三木のフィリピンにおける様子を、今日出海の「三木清における人間の研究」、軍宣伝班関係者の戦後の証言、平子の研究など多様な文献資料を用いて再構築している。結論として筆者は、平子と同様に、三木清が単なる宣伝班員を超えて日本軍の占領政策や独立付与方針に大きな影響を与えた可能性を強く示唆している。
第7章「三木清の思想」で筆者は、三木がそのフィリピン研究と在比体験から生み出したフィリピン論を検討し、(1)「現代民族論」で、三木がフィリピン人の「遊惰」説の検討を通して、民族論が人種・生物学的原因説や形而上学や純血観念に陥りがちな傾向を批判し、何よりも民族形成が歴史の産物であり、それゆえに変化する可能性もあること(日本人の民族的性格が衰弱する可能性もあること)を指摘していた点、(2)帰国後、「国民的性格の練成」などで、アジアだけでなく日本の国民的性格を変革する必要性(魅力ある洗練された存在になる必要)を論じていたこと、日本軍兵士たちに向けた文章などで、飲酒などフィリピン人から見て洗練されていないと見られがちな日本人のマナー向上を呼びかけるなどしていた点、(3)日本がフィリピンに与え得るものとして「精神」をあげる点では当時の占領者・日本の通念の典型を表現しつつ、その「精神」とは具体的には「農業」によって裏付けられなければならないとしていた点で、精神主義の観念論と一線を画していた点に注目している。そして筆者は、総じて言えば、三木のフィリピン理解が同時代の外国知識人と比較して正確で客観的であったことを評価し、さらに日本のフィリピンにおける思想プロパガンダにおいて三木が果たした役割はきわめて重要であることを強調し、それゆえ三木清のフィリピン論を正確に理解し、評価し、また記憶してゆくことが重要だと論じている。
第8章「日本のプロパガンダとフィリピンの政治的協力者たち」は、侵略者たちのプロパガンダに対するフィリピンの政治エリートの反応を、限られた範囲ではあるが検討している。エリートの日本軍占領下での発言そのものについては、戦後その大半が日本との関係を撤回したために、かえって過大評価される危険があるとして本論文はその分析を最小限にとどめ、日本の戦時プロパガンダの最大の焦点であったフィリピン独立問題を検討している。そして独立の約束が、日本側から見ると最も有効な戦時プロパガンダであった一方で、同じプロパガンダが、日本側の思惑を超えて、少なくともフィリピンの政治的協力者たちの間では、あるレベルの解放意識をもたらしたことを論じている。
第9章「結論:失敗と遺産」は、あらためて先行研究における日本のプロパガンダ「失敗」の断定に疑義を呈し、三木清の言う「歴史科学」的方法によっていま一度プロパガンダ史を再検証する必要性を主張し、そのためには日本語史資料がもっとフィリピンをはじめ日本人以外の研究者に利用される環境をつくることが重要だと述べている。そして、三木が最も強く説き、日本の占領政策の核心ともなったフィリピン独立がプロパガンダとして一定の有効性をもっていたことなどを、日本の戦争を正当化することとはまったく別の問題として再検討・再評価する必要性を主張し、あわせてフィリピンの対日協力者問題にも新しい自由な視点から取り組む必要性を主張している。
本論文には付録として、三木清のフィリピンに関連する著作・書簡の英語試訳が17本、今日出海の回想小説「三木清における人間の研究」の抄訳、中野聡による人見潤介(第14軍軍宣伝班将校)インタビュー記録の抄訳が付されている。
3.本論文の成果と問題点
本論文の成果は、第一に、第2次世界大戦期における日本のフィリピン占領におけるプロパガンダ・軍宣伝について日米比3国の史資料を渉猟して書かれた初めての総合的研究であることに求められる。もちろん日米比3国の先行研究においてもプロパガンダは日本の東南アジア占領史とりわけフィリピン占領史において見逃すことができない重要な主題として触れられ、寺見元恵やリカルド・T・ホセ、リディア・N・ユ・ホセらによって重要なモノグラフや解説論文ないし著書の一章などをあてての検討が行われてきたが、本論文のような水準で日本語資料、ポスター・図像資料、英語・フィリピン諸語資料、および関連する研究文献を大量に渉猟し、総合的に分析した学位論文は存在しない。第3章から第5章までのプロパガンダ分析では主としてポスター・図像資料が用いられているが、従来は断片的な分析にとどまり折衷主義的に利用されるに留まっていたものが、日米比3国での史資料収集の成果に基づいて飛躍的に緻密な分析が行われている。この点に関連して、フィリピンのみを対象としているわけではないが、ポスター・図像資料を多用した先行研究として、もちろんジョン・ダウアーの『容赦なき戦争(War without Mercy)』(1987年)を挙げることができる。ダウアー著は人種偏見を日米のプロパガンダから抽出するという折衷主義的な方法を取るのに対して、本論文はあくまで史資料・記録の分析に徹しており、日本軍が人種戦争プロパガンダを避ける指令を出していたことを指摘して、現場でも人種戦争プロパガンダはかなり抑制されていたことを明らかにしている。さらに、巻末の三木清文献の英訳試作版は、その重要性にも関わらずこれまでほとんどフィリピンに紹介されてこなかった三木清のフィリピン論を初めて英語圏に紹介するもので、刊行されればきわめて高い意義を有するものとなるだろう。パイオニア的研究であることに配慮して、全体として叙述の姿勢は慎重であり、とくに英語圏に対して日本語の資料・文献情報を提供することをも自らの課題としており、第3章から第5章まではクロノロジカルにプロパガンダの展開を追うなどバランスの取れた総合的研究となるように配慮がなされている。
本論文の第2の成果は、日本の占領地プロパガンダ研究に思想史という新たな視角から挑んだ点に求めることができる。先行研究では、軍宣伝班・報道部が発信した図像・テキストや、徴用された文化人たちが残したテキストは、軍の宣伝目的に従属して作られたものや、その体験の私的回想として作家論・作品論的に解釈されるにとどまり、そこに思想史的課題が見出されることは稀であった。また、徴用された文化人・知識人たちが残した日本語テキストは、その一部が翻訳されてプロパガンダに利用されたものの、大半は日本語で書かれて出版されたために、それらがフィリピン側で研究対象となることは、これまできわめて稀であった。これに対して本論文は、プロパガンダの受信者・発信者の担い手たちに共通する階級性に注目し、「出遭いの思想史」という概念を導入することによって、フィリピン占領に関わった日本人によるフィリピン論を初めて思想史的角度から、そして侵略史観と解放史観の二元論から自由な立場から研究対象とする可能性を開き、具体的には三木清に注目したのである。そして思想史的方法を取ることによって、三木のテキストそれ自体をフィリピンとの「出遭い」から生まれたひとつの「対話」として捉え直す可能性を示したことは、フィリピン出身で日本語に精通した研究者だからこそできる新たな第2次世界大戦史研究の方向性を示すものとして高く評価することができるだろう。
もちろん、本論文に関し、問題点が指摘できないわけではない。
第1に、本論文は日本のプロパガンダ「失敗」説を批判して、一定の受容の可能性を指摘したうえで思想史としてプロパガンダ史を論じるという方法を採用しているが、それにしても、プロパガンダ研究である以上、受容や効果の問題を全く避けて通ることはできない。また筆者が主張する「出遭いの思想史」という方法を取るにせよ、日本側の発信者に対してフィリピン側の受信者としてのフィリピンの政治エリート・対日協力者側が残したテキストをより網羅的に検討すれば、受容や効果、あるいは「対話」という観点からより検討を深めることが可能である。筆者は、日本のプロパガンダ、とくに独立付与に向けたプロパガンダが政治エリートの間で広く受容された可能性を指摘しているが、この点も含めて、プロパガンダの受容の実相について、フィリピン側の史資料とくに日記・書簡などから裏付けてゆくことが望まれる。
第2に、フィリピンにおいて展開した日本のプロパガンダにおける、担い手としてのフィリピン人の役割により注目すべきである。なぜなら、ポスター、新聞、映画などの制作で現実に大きな役割を果たしたのは軍宣伝班・報道部に雇用されたフィリピン人であり、プロパガンダのテキスト(英語・フィリピン諸語)も、おおむね日本人の指示のもとにフィリピン人が制作したものだからである。そして、どのプロパガンダ作品を日比どちらの側が制作したかを特定することは比較的容易である。フィリピン人の軍宣伝班・報道部への参加のあり方そのものが、ある意味では受容の問題を解く鍵ともなるだろう。さらに、三木清のような思想史的作品についても、彼のフィリピン論をかたちづくるうえでのインフォーマントや文献を特定してゆく作業が望まれる。
以上のような課題は残されているものの、それは本論文の研究成果を損なうものではなく、本論文において示された構想が今後のさらなる研究により精緻化されてゆく課題であると論文審査委員会は考えている。
4 結論
審査員一同は、上記のような評価と、6月12日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。
最終試験の結果の要旨
2009年7月8日
2009年6月12日、学位請求論文提出者Gonzalo Campoamor II 氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文 “Failures and Legacies of Japanese Propaganda in the Sōryokusen War of Ideas: An Intellectual History of Encounters between Political Collaborators and Japanese Propaganda with Emphasis on Insights of Miki Kiyoshi during the Japanese Occupation of the Philippines.” に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、Gonzalo Campoamor II氏はいずれも十分な説明を与えた。
よって審査委員一同はGonzalo Campoamor II氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。