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博士論文審査要旨

論文題目:憑依という振舞い:コモロにおける霊の人格と主体性に関する考察
著者:花渕 馨也 (HANABUCHI, Keiya)
論文審査委員:浜本満、内堀基光、足羽與志子

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1.論文の構成
 本論文は、学位請求者がコモロ諸島ムワリ島において1994年から1997年にかけて数回にわたっておこなった延26ヶ月の現地調査に基づいた、コモロ諸島における精霊憑依をめぐる信仰と実践に関する民族誌的研究である。現地語を修得し憑依の実践者たちの社会的ネットワークに自ら参加するなかでのみ手に入れることが可能である深い現実理解とすぐれた洞察力にもとづいた、憑依という我々の目には特異な文化的現象に関する質の高い民族誌的研究となっている。その構成は以下のとおりである。

 序章 問いの射程
  1 憑依のパラドックス
  2 従来の憑依研究
  3 視点と方法
  4 フィールドとワーク
  5 本稿の構成

 第1章 人間の世界
  1 インド洋の交差点
  2 コモロの人々と生活
  3 憑依の形態と変化

 第2章 憑依という領域
  1 憑依の領域
  2 信念と実践
  3 ジェンダーと憑依
  4 ジャズィバとジニ:イスラムと憑依
  5 儀礼の失敗:形式と革新

 第3章 パラレル・ワールド
  1 個体性と社会性
  2 ジニの世界
  3 種族と親族
  4 分布と移住の歴史
  5 ジニの社会関係
  6 個体性と個性
  7 パラレル・ワールド

 第4章 ンゴマ:治療の過程
  1 憑依の理由
  2 診断
  3 治療
  4 ンゴマ(饗宴)
  5 ンゴマの論理
  6 二度目のンゴマ

 第5章 共生関係:役割とふるまい
  1 共生関係
  2 フンディの役割
  3 ダダのセアンス
  4 シェトアニを払う治療
  5 共軛的な辻褄合わせ
  6 役割とふるまい

 第6章 三つのマウ
  1 欲望の構造
  2 共生社会の構図
  3 マウの規則
  4 サリム・アベディのマウ:夫婦喧嘩の顛末
  5 シディ・マリのマウ:無視されたジニ
  6  ルヒ・ブン・スビヤニのマウ:最後の調停
  7 身体状況の二重性

 終章 まとめと課題
  1 憑依という存在様式


2.本論文の要旨

序章

 序章では、問題の提示と先行研究の批判的な検討を通じて、花渕氏自身の問題に対する理論的スタンスが明らかにされている。

 憑依という現象は「一つの身体には一つの人格が宿る」という日常的な常識に反するパラドックスであり、それを論理的に説明しようとする人類学者は、自己と他者、心と身体、現実と虚構といった日常性を支える二項対立にはげしく揺さぶりをかけられる。花渕氏によると、憑依のなかに弱者の偽装された抵抗やストレスに対する反応をみてとろうとしたり、憑依におけるふるまいを演劇のメタファーでとらえようとする先行研究の多くは、この領域に整合性を導き入れることを焦る余り、こうしたパラドックス的な身体状況そのものを主題化することに失敗している。憑依は閉じた自律的なコンテキストをなしているのではなく、「その都度構築されるコンテキストとして成立する現象」であり、「ふるまいの主体帰属が揺れ動いているように見える」事態こそがまさに憑依という現象を特徴づけている。花渕氏は、こうしたパラドキシカルな身体状況を生きることを通じて、どのような社会的現実が形成されていくかをむしろ分析の焦点にしようと提案する。


第1章

 本章では調査対象であるコモロの歴史と社会についての概観が記述される。

 次章以下で論じられていく主題の社会的、歴史的背景が明らかにされていくなかで、東アフリカとマダガスカル北西部をむすぶ、人や物の移動のネットワークのなかでのコモロの特殊性が指摘され、変化と文化的混淆というこの地域の特徴を反映して、憑依においても多様な形態がモザイク状に存在しているという事実が示される。


第2章

 本章はコモロ社会における憑依について語るための基本的な概念と知識を提供している。

 ジニと呼ばれる不可視の存在が人々に憑依して、さまざまな病気をもたらすとされており、その治療にはジニ自身からその要求を聞き出し、それを満たしてやるための一連の儀礼が必要である。こうした治療にかかわるのがジニのフンディと呼ばれる人々である。しかし病気は人とジニとの関係の端緒に過ぎない。病気とその治療をきっかけに人は特定のジニと恒常的な関係を結び、ジニは患者やその家族の人間にとって、彼らの日常生活のなかにたびたび登場しては、親しく話をしたり忠告を求めたり、ときには喧嘩したりする、家族の一員ででもあるかのような位置を占める。本章では、こうした憑依という事実についての人々の多様な解釈や態度、ジェンダーと憑依との関係、憑依とイスラムとの複雑な関係について概説される。本章の最後ではジニ自身--もちろん患者に憑依したかたちでの--の創発的な振舞いによって、イスラムと憑依の領域とを互いに区別する境界が曖昧にされ、二つの領域が相互浸透してしまう可能性を暗示する事例を分析することを通して、コモロの社会生活を理解していく上で、ジニを単なる虚構的な存在ではなく、それ独自の主体性をもっている存在であるかのように捉えてみる必要があるという。後の諸章の議論への橋渡しが行われている。


第3章

 それぞれのジニは人間と同様に個別的な存在であり、たがいに人間社会に似た社会関係をもつとされる。ジニの世界は人間世界といわばパラレルな関係にあり、しかも人間世界と連続している。本章ではコモロ社会に独特のこうしたジニ世界の位相を、人間世界と共通する種族や親族とイディオムをつうじて描き出し、ついでこれらのイディオムが個々の憑依の場面でどのように成立し、またジニの個体性の同定に関わる矛盾あるいは曖昧さがいかに調停されるかが論じられている。たとえば人間の移動によって、あらたなジニが登場することはめずらしいことではないが、こうしたジニの種族・親族関係の同定は、憑依の場面における人間とジニ、および複数のジニ間のやりとりによって成立する。また複数の人間に憑依するジニの語る経験に含まれる矛盾は、人間の側のつじつま合わせや等閑視によって調停されることによって、個々のジニの個体性は維持される。ここに見られるのはジニと人間との共軛的ともいえる関係である。この関係が具体的に実現される個々の憑依現象に着目するとき、ジニの世界は抽象的に人間世界の関係を反映したものとして想像されているものではなく、憑依をとおして再生産され、更新されるものとして具体性を帯びて現出してくることが理解される。ここから著者は、ジニの存在様態という現実は、このような憑依コンテクストにとよってその都度構築されていくという視点が必要であると論じる。


第4章

 憑依という出来事は基本的には治療過程において生起する。コモロでは多くの病がジニの動機に理由づけられ、しかもその治療に当たっても、治療者のジニと患者のジニとの交渉が中心的な役割を果たす。本章では、こうした治療過程における儀礼としての憑依を、そこに至る診断、推測等の前段階をも含めて具体的に詳述し、治療を終えた後の患者のジニの位置づけの変容を射程に入れて、これをジニのイニシエーションの構造をもつものとして捉えようとする。すなわち、ンゴマと呼ばれる治療儀礼においては、患者の病の原因となっていたジニが特定され、患者と安定した関係をむすぶことによって、患者は病から快復するとされるが、この過程は同時に、一方では患者のジニが既存のジニ社会に取り込まれ、加入していく過程でもあり、また他方では、快復した患者がワナワリと呼ばれるジニに憑依される人間の集団に加入する過程でもある。ンゴマの加入儀礼的な側面がよく現れているのは、そこにおけるジニの「名乗り」すなわち自己同定の局面である。本章の最後において、著者は、治療儀礼から離れた「名乗り」の確認を目的とするンゴマ儀礼を例示し、そこにおいては身体を共有する人間とジニとのあいだに主体の交錯、すなわち人間が主体なのかとジニが主体なのか判然としない状況が生じる可能性について言及し、これをもってジニと人間との「共生社会」と呼びうるコンテクストが成立していると指摘する。


第5章

 治療儀礼の後、ジニと憑依された人間が恒常的で公的な関係を作り上げていく。この関係の展開と多様なあり方についての記述と分析が5章である。

 この関係には様々な規則が伴うが、同時に、多様であること、人間とジニの両方の能動的関係であること、人間とジニのそれぞれの世界での社会関係が広がることなどが特性であるという。特に治療能力のあるジニが憑依し病人の治療儀礼ができるようになった人間のフンディに注目し、フンディ、病人、フンディのジニ、病人のジニがそれぞれ重層的関係を結ぶ様子が生き生きと記述されている。そして、不可視であるジニの世界と可視である人間の世界の現象とが、ンゴマ儀礼のフンディの二重性によって「創造的」に結びつくさまを、「憑依される人間を主体としたコンテクストと、憑依するジニを主体としたコンテクストとがしばしば重なり合うような場面」ととらえ、そこにこそ「一つの身体における二つの主体という存在様態」を可能にする憑依というふるまいがある、という。


第6章

 前章までのコモロ社会の憑依の分析はいわば6章を理解する為の準備であり、本章は、それらが論文全体のクライマックスで改めて意味ある関連のなかにより明瞭に浮かび上がるべく意図された章である。

 調査期間中に観察された一連の出来事の経緯--そこでは、ジニ社会での夫婦・親族対立と人間社会での二人のフンディと取り巻きの勢力争いによる葛藤や対立とが、両者様々に絡み合いながら、次々と新たな出来事を引き起こしていった--についての詳細な記述と分析がこの章の中核である。執行すべきンゴマ儀礼が行われない、儀礼の招待や情報がしかるべき人物にこない、儀礼を開いても主役のジニが現れない、主役がいるのに他のジニが帰ってしまう、など、ジニ内部や人間内部の関係性の不整合や歪み、綻びが儀礼を介して表面化し進行する一方では、調停、調整、辻褄合わせも同じ場面で展開され、最終的にはある「和解」のありかたが提示される。この過程を花渕氏は、当事者やジニの語りを辿るという記述方法を使って詳細に描き、ジニという主体と人間という主体が交差しあう独特な事態、氏によれば「ジニ社会と人間社会が複雑に重なり合うところに生成する『共生社会』」がもっとも明瞭に長期にわたってみてとれる複雑な状況を描いた。ジニ社会と人間社会が混じり合う共生空間が動く場のあり様の生き生きとした記述は、本論文の圧巻であり、「憑依が可能とする存在様態とは、・・二つの主体を中心とする身体状況が重なり合い、融合し合うような不安定な関係性の場に身体を置くことである、という論文全体を通じた主張が強い説得性をもつ。


終章

 終章では、これまでの各章の議論をうけて、論文全体の主題を再度まとめ、今後の課題を提示している。

 憑依というふるまいは他の諸活動に還元できず、その時々で生じる状況に対応する人格的ふるまいであり、自律的な秩序をもった独自の現実を築いている。また、憑依とそれをとりまく状況において、一つの身体を媒介にジニと人間の主体性、そしてジニと人間の社会的コンテキストが重なり合う「身体状況の二重性」がうまれ、不確定で曖昧な領域が確保される。この主題の要約のあと、花渕氏は、本論ではこの憑依のあり方にこそ問題の所在があるということの実証・論証に留まったといい、問題そのものを明らかにするためには、「憑依という枠組みがもつ構造的な危うさや曖昧さを、それが破綻する場合をも含めたメタ・コンテクストにおいて捉える」必要性を今後の課題として、本論を終えている。


3.成果と問題点

 本論文は第一級の民族誌的研究であり、その綿密な記述は花渕氏が高い質をもった現地調査を行ったことの証である。長期のフィールドワークのなかで、人々の日常的なコミュニケーションのネットワークに当事者として日々参加し、そこで展開する細々とした出来事に目をこらし、そこで交される語りに注意深く耳を傾けることを通じて、現地の社会的現実に肉薄できた者のみが提供することのできる理解が提示されている。憑依研究の資料としては国際的にも高水準のものと判定する。

 コモロ社会についての研究は、インド洋における人や物資や観念の交流の歴史にしめるその重要な位置にもかかわらず、まだ十分にはなされているとは言いがたい。本論文で提示された資料はそれ自体で、この地域の民族誌学への大きな寄与となりうるものであり、その民族誌記述の構成も妥当なものである。

 本論文で描かれている憑依の社会的世界--それはちょうど、私が常日頃つきあっている人のほとんどがもし多重人格者であるとしたら私が経験できるかもしれないような種類の世界であるように見える--は、読者の目には当初いかにも現実離れしたものに見える。しかし読者は花渕氏の記述を読み進むうちに、最後にはそのリアリティに説得されている自分を見出すことになる。文学的な技法や策略を通じてではなく、ただ現地の人々の語り口をそこで生じている事件の展開に沿って、忠実に提示していくという実証的で地道な記述をとおしてそれが実現しているのは驚くべきことである。ジニと人間の二つの主体のあり方が、人間がフンディとなり治療儀礼にあたる一連の手続きのなかに、丹念に記述され分析されている点はおおいに評価してよい。

 憑依をめぐる既存の人類学理論に対する花渕氏の批判は、こうした綿密な記述と理解によって支えられており、十分な説得力をもっている。花渕氏が自分の今後の課題としている「メタ・コンテクスト」の解明については、メタ・コンテキストという言葉でなにが意味されているかいささか不明な部分もある。しかしそれがもしジニと人間とで作り上げている社会コンテキスト自体が埋め込まれている、状況のより高次の組織化を意味しているとするならば、本論文は単に憑依という突出した文化現象の領域に限らず、役割を生きる身体の上に成立しているごく通常の社会的リアリティの領域のうちにもみてとることのできる「多層的な社会的コンテキスト」を読み解いていくうえで、身体状況の二重性の「曖昧性」自体のしくみの解明がいかに大きな課題であるかを明らかにしたものといえる。

 本論文に不満な点がないわけではない。序章をはじめとして、本論中にしばしば宣言される「ジニ世界が憑依の現象において、その都度構成される」という観点は、理論的志としては評価できるが、本論文で示された資料のみによってはかならずしも説得的に展開されているとは言いがたい。現実構成の文脈性と知識の総体との関係について、理論的つっこみがさらに必要であろう。

 憑依に関する一連の出来事の記述には、儀礼の記述という基本的な技巧の点でやや問題もある。複数の主体の言説が時間の経過と状況の変化とともに競い合い、蓄積され、そして共有の「合意」となる、その動的展開の経過は、しばしば錯綜した不明瞭な形のままで提示されてしまっている。その不明瞭さを、氏が繰り返す「曖昧性」「多重性」という説明の証明として、分析者である花渕氏が許してしまっている感も拭えない。また儀礼の場に居合わせた当事者としての花渕氏の言説と分析者としての花渕氏の言説が曖昧に重なり合う部分も気になる。花渕氏が示唆するように、もしそれらが意図的記述技法であるならば、本論の主要テーマの設定方法に関わるほどの重要な問題を孕む試みであるはずなのだが、それを正当化する方法論的議論が十分に尽くされているとは言いがたい。

 こうした問題点があるにもかかわらず、審査委員会はコモロ諸島に関する優れた民族誌的研究であると同時に、憑依という社会現象をその内部からみごとに記述しその理論的理解への展望を切り開いた本論文の価値を積極的に評価し、花渕馨也氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1999年6月9日

 1999年5月11日、学位論文提出者花渕馨也氏の論文についての最終試験を行った。試験において、提出論文「憑依という振舞い-コモロにおける霊の人格と主体性に関する考察-」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、花渕氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、花渕馨也氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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