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博士論文審査要旨

論文題目:1950年代日本における漁村社会と漁業秩序の変容
著者:森脇 孝広 (MORIWAKI, Takahiro)
論文審査委員:吉田 裕、渡邊 治、田﨑 宣義、木村元

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 本稿は、1950年代における日本の漁業社会の歴史的変容を、主として漁業秩序のありように注目して分析しようとするものである。戦後の日本社会を規定してきた日米安保体制と高度経済成長路線は、漁業生産・漁業社会の犠牲の上に成り立ってきたと言っても過言でない。本稿は、漁業と漁村の歴史から、戦後の日本社会を逆照射しようとする意欲的な試みだが、特に1950年代に着目するのは、その時代が、戦後改革期から高度経済成長期にいたるまでの過渡期として、独自の固有性を持ち、漁業生産と漁業社会が多様な発展の可能性を未だ持ちえていた時代だからである。具体的な分析課題として、著者が設定しているのは、(1)「漁業の民主化」をうたう戦後の漁業制度改革が、どのような意義と限界を持ち、その矛盾が生産現場にどのような形で噴出したか、(2)漁業制度改革によって生じた矛盾を、漁業関係者はいかに調整し、その中から新たな漁業秩序とその担い手が形成されてきたか、(3)基地反対闘争を経験した上で米軍基地を受け入れた漁村が、基地の受け入れによって、いかなる変容を蒙ったか、以上の3点である。

Ⅰ 本論文の構成

序章
 問題意識
 研究史
 課題
 方法

第1章 浅海養殖漁業地帯における漁業制度改革と漁業秩序
     ―千葉県昭和町奈良輪の事例―
 はじめに
 第1節 漁業制度改革実施過程における新規参入者と漁場利用
 第2節 新しい養殖技術の登場と漁村青年
 第3節 漁業秩序の確立と農地干拓問題―長浦干拓反対運動とその背景―
 小活
第2章 沿岸定置網漁業地帯における漁業秩序と漁業資本
     ―神奈川県小田原市の事例―
 はじめに
 第1節 小田原地域の漁業構造
 第2節 米神漁場問題
 第3節 漁業制度改革の実施
 第4節 小田原漁港建築をめぐる議論と漁業秩序
 小活

第3章 沖合・遠洋漁業地帯における漁業団体
     ―千葉県南房総の事例―
 はじめに
 第1節 敗戦後の日本の水産事情と水産政策
 第2節 千葉県沿海漁業協同組合の結成と取り組み
 小活

第4章 漁村における軍事基地反対闘争と漁業秩序の変容
     ―内灘闘争とその前後をめぐって―
 はじめに
 第1節 闘争以前の村の産業―漁業・農業を中心に―
 第2節 試射場接収問題の経過
 第3節 闘争終結後の村の変容と村民
 小活

第5章 九十九里米軍基地闘争における漁業問題と漁業対策
 はじめに
 第1節 九十九里地域の漁業
 第2節 米軍の接収と被害の諸相
 第3節 補償要求運動の論理
 第4節 九十九里浜沿岸地区総合振興計画へ
 小活
 
終章

Ⅱ 本論文の要旨

 序章の中心的課題は研究史の整理である。筆者によれば、戦後日本の漁業・漁村に関する研究には、いくつかの問題点があった。一つは1950年代における「講座派」系の研究者による漁業制度改革研究である。これらの研究は、漁業制度改革の不十分さを明らかにした点で一定の意義を持っていたが、「漁業の民主化」を担う漁民運動を過大に評価し、実際の漁業政策が漁業生産力の向上に果した役割が軽視されるという問題点を有していた。さらに1960年代以降になると、重化学工業化の進展・臨海工業地帯の形成に伴う漁業権放棄の問題に関する研究が大きな進展をみせるようになる。しかし、これらの研究は、開発による漁業への被害や漁業の終焉に研究の関心が集中しているため、漁業制度改革後の生産力の発展やそれを支えた漁民の主体形成の問題が十分視野に入っていないという問題がある。
 第1章では、1950年代初頭においてノリ養殖地帯の奈良輪漁協が直面した諸問題についての分析が行われている。漁業制度改革で漁民数が増加した奈良輪では、漁場の漁民への開放と生産力の向上という大きな課題に向き合っていた。このうち、漁場の開放問題、すなわち、新規着業希望者の漁場利用の可否について決定権を有していたのは、各部落の有力者で構成される総代会であり、彼らが漁業秩序形成の担い手となった。他方、生産力の向上という面では、青年層からなる浅海増殖研究会が、新技術の開発と導入に積極的に取り組み、人工採苗技術とベタ流しの実用化に成功したことが、画期的な意味を持った。また、奈良輪漁協では、1950年代後半に長浦干拓反対運動に取り組み、干拓計画を撤回させることに成功するが、その要因としては、高い生産力や恵まれた漁業資源、漁協の豊富な資金力、婦人部・研究会など、県の推進する新漁村建設運動を担う主体の形成、といった問題があった。奈良輪漁協の活動は、漁業が未だ独自の産業的基盤を持ちえた最後の時代の象徴だったのである。
 第2章は、小田原地域における漁業秩序形成の過程についての分析である。この地域では、漁業制度改革が進展し始める中で、下層農漁民の利害を代弁する「自営派」と呼ばれるグループが台頭し、漁民による共同的漁場利用を、この海域を支配する相海漁業経営組合に要求する。しかし、この運動は、結局は「自営派」の敗北に終わった。小田原地域の名望家である鈴木家は、小田原魚市場を経営し、相海漁業経営組合や市政にも大きな影響力を及ぼしていた。また、「自営派」の拠点である米神部落は、商業的農業の発展の中で、ミカン経営への依存を強めていた。その結果、この地域では、資本家的漁場利用の論理が、下層農漁民の共同的漁場利用の論理を圧倒していったのである。そして、「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へ」という漁業政策の流れに乗る形で、市当局は、漁業関係者を巻き込みながら、小田原漁港修築運動を推進してゆくことになる。しかし、用地買収の困難さもあって、修築工事はあまり進捗せず、工事が完成する1960年代に入ると、工場開発の急速な進展によって、工場排水による漁場の汚染が大きな問題として浮上してくる。
 第3章は、敗戦によって、壊滅的打撃を受けた沖合漁業の復興過程において、漁業団体が果たした役割を考察した論考である。戦争による漁船の大量徴用、石油の配給統制などによって、生産力を大きく低下させた日本の漁業は、漁船の大型化、設備や漁法の近代化などによって、漁獲高を大幅に増大させていった。しかし、その結果、優良な漁場に多数の漁船が集中し、地域間・漁業種間での対立や競合関係が深刻化する。本章が分析の対象とした千葉県南房総では、沖合漁業船主によって、千葉県沿海漁業協同組合が設立され、補助金を中心とした県による水産振興政策にも積極的に対応しながら、出漁調整や新たな漁場の開拓に積極的に取り組んでいく。同時に、戦後の新しい沖合漁業秩序の形成過程で、沿海漁協は、保守政党や行政との結びつきを強め、利益団体・圧力団体としての性格を強めていく。また、50年代末に発生した米海軍演習場拡張問題では、沿海漁協は,県内の漁業関係者とともに反対運動に加わり、一定の成果をあげるという一面も有していた。50年代は、様々な面で、沿海漁業が相対的には高い地位を保持していたのである。その優位性が崩れていくのは、高度経済成長によって若年労働力の急速な流出が始まり、漁船乗組員の確保が困難になる1960年代のことだった。
 第4章は、50年代における基地反対闘争の象徴的存在である内灘闘争の分析である。戦前の内灘村は、村民の多くが北海道・九州への出稼ぎ漁業と砂丘地を利用した自給自足的農業で生計を立てていた。1947年に村長になった中山又次郎は、砂丘地の農地化と河北潟の埋め立てによって、内灘村を、漁村から半農・半漁の村に作り変えていく構想を持っていたが、1952年9月に米軍射爆場建設のための土地接収問題が持ち上がると、内灘革新協議会を中心にした反対運動が高揚した。同協議会は、外部団体の支援と結びつきながら、保守的な村政のあり方を変革していく上で大きな役割を果たした。しかし、出稼ぎ漁業と農業への依存度の差から反対運動の中に亀裂が生じ、中山村長は、補償金による村の産業構造の改革を重視して、射爆場の受け入れを決定する。接収受け入れ後、補償金と補償事業とによって、村は、漁村から漁業・農業・工業(撚糸業)の村へと変わり始めるが、高度成長期に入ると、金沢市の人口増などによって農地の宅地化が進み、中山村長の構想は結局は挫折する。
 第5章は、九十九里浜における米軍基地反対運動の分析である。1948年に、この地域に
米軍射撃演習場が設定されると、現地の漁業は、不漁、操業規制などのため大きな打撃を蒙った。直ちに、村長や網元などを中心とした反対運動が、保守系国会議員とのパイプを最大限に活用しながら展開されるが、補償要求運動に力点をおいていたのが、この地域の運動の大きな特徴だった。また、内灘闘争の影響、特に補償要求に関する情報が運動を大きく刺激したことも見逃すことはできない。同時に、行政の側は、九十九里浜沿岸地区総合振興計画の実施によって、補償要求運動の高まりに応えようとした。計画の最大の柱は、片貝漁港の建築であり、このことは、演習場補償要求運動が公共事業によって吸収・代位されたことを意味していた。
 終章では、1950年代における漁村社会と漁業秩序の変容について、概括が行われるとともに、今後の研究課題についても言及がなされている。

Ⅱ 本論文の成果と問題点

 本論文は、1950年代の漁村社会の変容を、地域社会の歴史的・具体的実態に即して明らかにした労作であり、具体的な研究成果としては、次の4点を指摘することができる。
 第1の成果は、50年代の漁村社会を、浅海養殖漁業地帯、沿岸定置網漁業地帯、沖合・遠洋漁業地帯という3つの異なる漁業地帯を設定して多面的に把握した点である。とりわけ、浅海、沿岸、沖合、遠洋と海岸線から離れるにしたがって、それぞれの漁業経営間の生産手段、設備などの面での格差が拡大し、より優位な漁業経営が漁業秩序の担い手となること、そして、担い手の相違から漁業秩序に差異が生まれることを具体的に明らかにしたことは高く評価できる。また、漁業政策、水産行政、漁業インフラの整備政策など、行政の側の対応が、漁業秩序形成の際に触媒の役割を果たしていることを明らかにしたことも注目に値する。
 第2に漁村社会の経済的・階層的分析を丁寧に行ないながら、各部落の有力者から構成される総代会、青年層を中心にした漁業技術改善のための研究会、漁業協同組合やその婦人部、漁業資本家など、漁業秩序形成の多様な担い手の存在を、その主体形成のあり方とも関連させながら、明らかにしたことである。
 第3に、漁業制度改革の分析に際して、民主化(漁場の漁民への開放)と生産力の向上との矛盾という新たな視角を設定し、その問題解決のための模索の中から、新たな漁業秩序とその担い手が形成されてくるプロセスを明らかにした点が重要である。筆者は、戦後改革期と高度経済成長期にはさまれた1950年代は、過渡期としての固有性・独自性を持つことを強調しているが、民主化と生産力の向上との間の矛盾という問題に着目することによって、その固有性・独自性を見事に描きだしているといえるだろう。
 第4に、1950年代の漁村社会における基地闘争の再検討という面でも、本論文は重要な研究成果である。筆者は、漁村社会内部の経済的・階層的分析を踏まえながら、特に漁民の補償要求に焦点を合わせることによって、一度は高揚した運動が衰退してゆく内在的要因を明らかにした。その際、政治や行政の側の対応をも視野に入れていることはいうまでもない。1950年代の反基地闘争がアメリカ側の対日政策にも大きな影響を及ぼすだけの力を持ちえていたのは事実だが、それが衰退し新たな保守的秩序が形成されてゆく過程を運動に内在しながら解明したことは、運動史研究にとって、大きな意義を持つ。
 とはいえ、本論文には、以下のような問題点を指摘することもできる。第1には、漁業制度改革と農地改革との異同が明確にされていないことである。1950年代の漁村は半農半漁が通常の形であり、農業と漁業が分離するのは1960年代のことである。むしろ、1950年代においては、両者の関連性こそを問題にすべきだろう。
 第2に、本論文では主として漁業秩序を経済的に担う主体に焦点を合わせて分析を行なっているが、漁村における政治的秩序や政治文化のありかたとも関連させながら、漁業秩序を分析すべきだろう。同時に主体形成の契機を多面的に明らかにするためには、漁民の民俗や伝統文化にも目を配るべきである。第1,2,3章の分析と第4,5章の分析との関係が必ずしも明確でないのは、以上の点に関連している。また、社会経済史的な階層分析と基地反対闘争の実際の展開との間にズレがみられる場合があるのも、政治的要因についての独自の分析が必要なことを示している。
 第3に、1950年代の独自性・固有性を問題にするのであるならば、食料供給政策全体の中に占める漁業・漁村の位置付けをもう少し明確にする必要がある。また、基地闘争をめぐる補償問題の場合でも、1960年代の利益誘導型政治とは異なる、地域の現実を踏まえ生産力の向上に結びつくような形での補償が、この時期にはなされていたようにも考えられる。
 しかしながら、こうした問題点については、著者自身が十分自覚しており、今後の研究の方向性も明確である。したがって、今後の研究の発展の中で、これらの問題点は克服されていくものと確信する。
 以上の理由により、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究の発展に大きく貢献したものと認め、森脇孝広氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2009年6月30日

 2009年6月17日、学位論文提出者、森脇孝広の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文「1950年代日本における漁村社会と漁業秩序の変容」に関する疑問点について、審査委員から逐一説明を求めたのに対し、森脇孝広氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、森脇孝広氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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