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博士論文審査要旨

論文題目:神話と浄化―マレ地区保存にみるパリの景観形成
著者:荒又 美陽 (ARAMATA, Miyou)
論文審査委員:内藤 正典、町村 敬志、森村 敏己

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本論文の構成
 本論文は、パリのマレ地区を事例として、歴史的街区の保護政策をめぐって、
政策の立案者および影響を与えた個人や組織の行動と思想の相互関係を地理学
的・社会思想的観点から検討した実証的研究である。
論文は、第1章で19世紀までのマレ地区の歴史、第2章で20世紀前半の歴史
協会の活動、第3章で戦後から1960年代の「保全地区(secteur sauvegardé)」
指定までの経緯、第4章ではマレ地区の都市空間の変貌を中世から現在までを
歴史的にたどりつつ、現在の景観保全の実態を描いた。それぞれの章において、
各時代の都市景観を変貌させてきた新しいアクターと都市計画事業の関連性を
示すとともに、新たな都市計画によって排除されてきた存在が明らかにされて
いる。
歴史的街区を保存する政策は、現在では世界的に推進されている。本論文は、
その傾向が街区の外観を重視して住民生活を軽視するのみならず、ある時代に
意識的に作られた地区認識である「神話」を固定化し、それにそぐわないもの
を排除する「浄化」作用を持つことを史資料の分析と実地調査によって明らか
にした。

序 「パリ神話」と都市景観
地区の成り立ちと衛生主義
歴史性と衛生性をめぐる表象と主体
神話の具現化の過程
マレ地区の浄化と特権化
結 都市景観による神話の固定化

本論文の要旨

 序では、事例としてパリのマレ地区を扱う意義とともに、本論文の主題とな
る「都市景観」および分析視角の鍵となる「神話」について、議論を整理し、
本論における位置づけを示した。マレ地区は、歴史的街区を政策的に保護した
例としては世界でも最初期のものである。1964年の「保全地区」指定から既に40
年が経過しており、今日、UNESCOの主導によって世界的な傾向となっている
歴史的街区保存の意義について批判的に検討するうえで好適な事例である。著
者は、マレ地区での修復の手法が1970年代以降パリ全域に適用され、都市部の
「ブルジョワ化(enbourgeoisement)」を進めたことから、この事業が豪奢で権
威を体現する都市部と劣悪な環境と貧困を体現する郊外という対比を、フラン
ス社会において明示する基点となったと指摘する。
 「神話」という概念は、芸術作品などで描かれた都市が、ひとつの世界観と
して共有されるようになった状態を指し、パリについては多くの論者が考察を
加えてきた。本論文では、ロジェ・カイヨワの「パリ―現代の神話」において、
パリにまつわる神話が、集団の心理を「拘束」すると指摘されていることを手
がかりに、都市計画におけるパリ神話の影響を検討した。マレの場合も、地区
の性格を彩る神話には明暗があり、双方に対応する都市計画が練られていた。
 都市景観の概念は、近年は建築や都市工学の立場から、街区の外観を整える
際に用いられている。他方、景観とは客観的に存在する事物の空間的表象では
なく、それを見る際に、なんらかのイデオロギー性を刷り込まれたうえで「見
える」ものであるとの視点に立つ地理学での研究が1980年代以降に増えている。
景観を整備するということは、ある社会層のイデオロギーを反映するために、
街区の住民の生活までもが規定されるということではないかというのが、本論
文の問題提起である。
 第1章では、マレ地区の建造環境にかかわる歴史と地区への人々の認識が示
される。マレ地区の地名は、沼地を意味するmaraisに由来する。17世紀から都
市の街区として大きく発展し、アンリ4世が建設したヴォージュ広場を中心に、
多くの貴族がマレ地区に邸宅を持った。しかし、18世紀になると、貴族たちは
都市化が進展してより広い住居を建設できるパリ西部に移り、マレは急速に衰
退した。19世紀には、中小商工業者や労働者がマレ地区に多く移り住み、徐々に
密集化が進んだという。
 実際、19世紀から20世紀にかけて、民衆化が進むマレ地区を描いた文学作
品は数多い。本論文で取り上げているレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ、オノレ・
ド・バルザック、ジョージ・オーウェルの作品には、地区における民衆のプレ
ゼンスが次第に高まっていく過程が活写されている。しかし、マレ地区が貴族
の街区であったという記憶は、19世紀になっても忘れ去られることはなく、オ
ノレ・ド・バルザック、そしてアルフォンス・ドーデの作品では、生活する人
間よりも貴族の邸宅のほうが大きな意味を持つことさえある。論文では、階級
としての貴族の衰退に反して、マレ地区の表象としての「貴族性」が強まって
いく過程が明らかにされている。
 他方、19世紀半ばには、衛生概念による都市計画という新たな政策が推進さ
れていく。とりわけ、1832年のコレラの流行以降、密集地区の解体が推進され
たが、マレ地区はこれらの事業の対象とはならず、20世紀前半まで放置されて
きた。しかし、19世紀末から20世紀初頭にかけて、セーヌ県が「不衛生区画
(îlot insalubre)」を選定した際、マレ地区の南部の地区は「第16不衛生区画」
に指定された。1936年には、区画をほとんど取り壊す計画も練られたが、1942
年、逆に建造物を保存するための都市計画がセーヌ県によって採用された。
 この転換の経緯と背景を明らかにしたのが第2章である。歴史性を理由に国家
が建造物を保護するという考え方は、フランス革命当時に遡る。20世紀初頭の
パリには行政と住民が一体となった歴史協会が次々に発足し、現在のマレ地区
にあたるパリ3-4区ではラ・シテ(La Cité)という協会が活動していた。4区の
富裕層市民・知識人を中心としたラ・シテが行った研究や広報が、歴史的街区
としてのマレ地区を、初めて、広く認知させていく過程を本論文は明らかにし
ている。
 ラ・シテでの研究には二つの特徴がある。ひとつは、開発に対抗するための根
拠として「歴史性」を追求しようとしていたこと、もうひとつは、地区に相応
しくないと考えられた存在を躊躇せずに排除したことである。東方ユダヤ人(ア
シュケナージ)の追放は、後々、マレの保全問題に関する批判の主要な部分を
成すことになる。ロシアやポーランドからポグロムを逃れてきた彼らは、歴史
協会「ラ・シテ」においては、狂信的、反啓蒙的であるだけでなく、不衛生を
もたらす元凶とみなされていた。
 1942年、ヴィシー政権の下、第16区画の都市計画が転換する。その背後で、
アシュケナージは、「強制移送」によってフランスから強制収容所へ送られ、マ
レ地区から姿を消した。「不衛生」のスティグマを押し付けられた人々が、すで
に存在しなかったことによって、建造物の歴史性を重視する啓蒙的事業がオー
ソライズされていく過程を、本論文は権力による都市空間の編成として分析し
ていく。
 第3章では、第16区画の経験が、マレ地区の保全地区指定につながる経緯が
論じられている。中心となるアクターは、建築家アルベール・ラプラドである。
彼は、1942年の第16区画整備を担当した。建造物の密集状態を改善するため
に「掻爬的撤去(curetage)」(建造物のファサードや重要部分は残しながら、中
庭や庭園部分に増築された部分を解体すること)を実行したことがラプラドの
評価を高めた。
 ラプラドと彼の同時代の知識人たちは、マレ地区の建造物の保存活動を1930
~1960年代まで熱心に続けていた。そこには、植民地の文化と比較したフラン
スの起源、過去の栄華に対する追慕、アメリカへの対抗意識などを通じ、フラ
ンス共和国の首都パリにあってマレがいかに比類なき存在であるかを再認識さ
せようとする意欲が溢れている。その過程で、地区の主要な住民であった低所
得層は、建造物を維持する役割を終えたとして排除され、地区の保存は国家を
主体に実行されていく。
 ラプラドは、航空写真を撮り、貴族の時代であった18世紀の古地図と比較し
て、後の時代に作られた不要な部分を「掻爬的撤去」の対象とする計画を練っ
ていた。セーヌ県もマレ地区の一部について具体的な事業を始めるための準備
を行っていた。しかし、第五共和制の発足と緊急の国内統合の要請から、マレ
地区は国家によって保護される地区に選ばれ、ラプラドやセーヌ県が進めてい
た事業は国家に引き上げられた。こうして、地区の景観保全はローカルな主体
の手を離れることとなった。
 第4章では、1960年代に国家によって定式化された「マレ地区に対する視角」
が社会に受容されるに伴い、住民にも多大の影響を及ぼした経過が詳述されて
いる。1962年と1999年のセンサスを比較すると、保護されたマレ地区は、皮
肉なことに他の地区よりも激しい変化にさらされた。建造物が大きく解体され、
人口も半減した。職業分類で見ると、管理職層が大きく増加し、学歴もパリ平
均を大きく上回っている。その意味で、マレ地区は「神話」をなぞり、現代の
「貴族の居住地」へと変貌した。
 1970年代になると、行政主体の景観保全事業は、費用負担が大きく、また住
民の立ち退きに対する問題意識の高まりから、次第に批判されていく。1960年
代に国家によって提示された「貴族の居住地」というイメージは、1996年に最
終的に採用されたプランでは後退した。しかし、マレ地区を保護したこと自体
を批判する議論はほとんど見られない。むしろ、修復を主体とする事業手法が
その後パリ全体に適用されることとなり、パリで二つ目の保全地区に元貴族の
居住地が選ばれたことも、マレ地区保全事業をポジティブに評価したものと本
論文は指摘する。
 保全地区指定は街区の住民にも影響を与えた。1980年代から、セファルディ
と呼ばれる中東から北アフリカ地域出身のユダヤ人、ホモセクシュアル、中国
系の皮革加工業者の流入が地区で注目を集めるようになった。彼らは、地区の
歴史性を守ろうとする住民としばしば衝突しているものの、実際は「マレ」と
いう威信ある呼称を積極的に用い、かつ貴族の邸宅が集中していない区域で活
動することによって、行政の事業と共存している。さらに、彼らの活動がしば
しばマレ地区の特徴の一部として商品化される傾向も指摘されている。
 結では、この事例から導き出される歴史的街区保存の過程として、知識人に
よる神話の形成、政策化される際のイデオロギー性、新しいアクターさえもそ
れに拘束される可能性を指摘し、現在の歴史的街区保存政策に警鐘を鳴らして
いる。

本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、第一に、パリの都市景観保存が、結果として、第五共和制
成立以後のフランス共和国の正統性を示すためのプロジェクトとして実施され
た経緯を実証的に論述した点にある。1964年のマレ地区の保全地区指定は、植
民地の独立(フランスにとっては植民地の喪失)によって誕生した第五共和制
が、歴史的遺産を利用することによって国家・国民の再統合を図るための政策
のひとつであった。歴史的遺産の保存という国家の文化政策のうちに、国民の
文化的な同一性を重視し矛盾を覆い隠す意図が存在し、都市景観の歴史性さえ
も、保存を企図した政権によって再構築されることを明らかにしたことは、本
論文の主たる成果といえる。
 最終的な保全計画の策定以前に、ラ・シテ(歴史協会)や建築家ラプラドを
はじめとする多様なアクターが、各々街区の歴史性を追求する思想的営為を先
行させていたことを本論文が明らかにした点は、都市計画の思想史というべき
領域を開拓する成果であった。マレ地区が保存の対象となるには、フランス史
において重要な役割を担う地区としての「見映え」を担保する物語性が必要で
あった。この論文は、その背景を探るために、20世紀前半にさかのぼって史資
料を渉猟する歴史学的な手法をとった。国家によるマレ地区保護の背後には、
保存に必要な要素とそれを作り出したアクターが膨大に積み上がっており、彼
らによって構想された「神話」が最終的に保全のための政策を形成していった。
本論文は、アクターの多様性を詳細に描いた労作である。
 結果として、多様な動きは、国家による保全地区指定によって統合され、都
市空間の意味も含めて改めて再編成された。そのなかで、戦後から20年もの間
マレ地区の整備に取り組んできた地方行政のセーヌ県や建築家のラプラドの貢
献は忘却されていく。
さらに、保全の対象となった都市空間において起こったことの是非、とりわけ
戦時中のユダヤ人の強制移送に関することは、1964年の保全地区指定以降、ご
く近年まで隠蔽されてきた。批判の高まりによってパリ市が行った2000年の調
査においても、ユダヤ人ではなく「外国人」への差別感情があったとすること
で問題は隠蔽された。保全地区は、この地区がたどってきた歴史を「17世紀の
貴族の街区」という神話によって見えにくくする構造を持っている。その意味
で、本論文は、都市空間における支配的な表象の意味を問うものであり、歴史
的街区の保存が政策化されることによって何が巧妙に隠蔽されるかを描くこと
に成功した。とりわけ、保全地区を整備するために用いられた「掻爬的撤去」、
すなわち地区の密集度を軽減するために街路から見えない内部を取り壊す手法
を、衛生主義の歴史の中で捉えなおした点には著者のオリジナリティがある。
人口が稠密であるところから感染症(結核)による死亡率が高かったマレ地区
において、衛生状態の改善のための解体政策は急務とされた。そこで、歴史性
の保全と衛生状態の改善とを両立させる手法として「掻爬的撤去」の手法が編
み出されたのである。この手法は、19世紀以降に付け加えられた低所得層の倉
庫や工房、住居などを対象としており、民衆的街区となった「過去」を消滅さ
せた。こうして、街区は権威あるファサードを維持しつつ、衛生面でも改善さ
れたが、そこには、望ましくない景観を排除するという「浄化」のプロセスが
織り込まれていたのである。
 他方、本論文の主題となっている「神話化」および「浄化」のアクターが多数
に及んでいるため、それらの主張と営為を統一的に提示することが望まれたが、
この点においては必ずしも十分に答えたとは言い難い。マレが保存される過程
での政策立案に際して、さまざまな「歴史の参照」が行われたことを著者は指
摘しているが、ロジックの異なる歴史性への言及を、総じて「歴史性の追求」
と括ることができるかどうかについては疑問が残る。また、マレ地区と称され
る街区は、実際には126ヘクタールに及ぶ面積をもち、個々の保全計画事業は
街区全体を均質に対象にしたものではなく、対象地区のスケールがまちまちで
あった。そのため、著者の責に帰すことは難しいものの、提起された諸問題が、
スケールの相違によって異なる位相をもつことを、どのように評価できるかは
今後の課題と言える。著者は、都市計画に直接かかわるアクターに焦点を当て
たため、あえて観光客を含めビジターの側から見た都市景観について論じなか
った。世界有数の観光都市であるパリ市内にあり、ピカソ博物館やヴォージュ
広場などがあるところから観光客の集まるマレ地区の景観保全については、ビ
ジターとの相互関係によって規定される部分も少なからずある。しかしながら、
これらの諸点は、本論文の価値を損なうものではなく、荒又氏の今後の研究に
おいて考究されることは大いに期待しうる。よって審査員一同は、本論文が当
該分野の研究に十分に寄与したと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授
与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2009年7月8日

 2009年6月12日、学位論文提出者荒又美陽氏の論文について最終試験を行った。試験においては、「神話と浄化―マレ地区保存にみるパリの景観形成」に関する疑問点について審査員から説明を求めたのに対して、荒又美陽氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専門学術に関する学力認定においても、荒又美陽氏は十分な学力を有することを証明した。
 以上により、審査員一同は、荒又美陽氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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