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博士論文審査要旨

論文題目:江戸の転勤族―代官所手代の世界―
著者:高橋 章則 (TAKAHASHI, Akinori)
論文審査委員:若尾 政希、渡辺 尚志、鈴木 俊幸

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本論文の構成
 江戸時代、幕府の直轄地である天領を治める代官のもとで、下級事務に従事した代官所手代が本論文の主人公である。従来、代官所手代については、町人や百姓の中からその二三男が採用されたとされ、代官の個人的な雇用者として扱われたり、代官所に丸抱えされた存在として論じられたりして、その実態についてはほとんど解明されてこなかった。本論文は、菊田泰蔵と尾崎大八郎という二人の代官所手代を歴史の闇のなかから表舞台に引っ張り出し、その事績を明るみにするとともに、彼らが熱心に取り組んだ狂歌(誹諧歌)を史料として、近世後期(19世紀前半)の地域社会・文化の新たな像を提示しようとした作品である。なお、題名中の「転勤族」とは、地域間の文化の流れに主体的に関わるとともに、自身も全国各地の代官所支配地を「移動」した代官所手代のありかたを象徴的に示したものである。 目次は以下の通りである(なお、原文には節の番号は付されていないが、説明の都合上、適宜振ることとした)。

 序 章 出会いの物語
    江戸時代の転勤者たち
    二人の代官所手代
    信達地域―文化が交錯する場
    「手代」と「狂歌」
    「天領」の文化
    「書物」からたどる「人」の歴史
 第一章 書物の移動が語る歴史―飛騨郡代元締手代菊田泰蔵
  1.墓石が語る事実―菊田泰蔵の二つの墓
     高山―手代の住む町
     菊田泰蔵の二つの墓
  2.「書物」の移動がひらく世界
     内池永年
     みちのく社中
     菊田からの手紙
  3.「書物」の行方
     「竹取翁物語解」
     「高山奇勝」
     書物を運ぶ人―蚕種商・飛州山口村平塚新七
  4.書物の移動を指示した人物―「菊田泰蔵秋宜」とはなにものか
     飛騨郡代元締手代
     漢詩人館柳湾の「婿」
     内池永年との縁戚関係
     高山赴任以前の経歴
     天保八年の菊田泰蔵
     高山以後の泰蔵と「菊田啓蔵」―広瀬淡窓の日記を中心に
  5.「手代文化」と狂歌
     地域文化と手代
     狂歌作者・泰蔵
     『狂歌扶桑名所図会』
     泰蔵再発見と狂歌
 第二章 狂歌歌集から見えてくる世界―「在」字付き地名表記の謎
  1.なぜ「在」の字が必要なのか
     狂歌作者に付された地名
     「在」の字を冠した地名表記
  2.月次撰集と誹諧歌の運動
     誹諧歌の一年
     化政期の狂歌会
  3.月次撰集と出版書肆
     誹諧書林・北林堂
     「北林堂蔵板書目」
  4.誹諧歌撰集ではなぜ作者の居住地表記が必要か
     移動する作者・撰者
     類型化する狂名と作者の特定
     地名の「鮮度」―月次撰集システムの試金石
  5.「在」字地名が物語る世界
     「日野在下野 月盛」
     「月盛」の月次の入花
     月次誹諧歌撰集と「月盛」の地名表記―文化十一年から文政二年
     「水戸村」と「日野」の狂歌事情
     「月盛」の移動と日野商人
  6.もう一つの地名表記
     五側の地名表記―六樹園飯盛の「在」字地名表記
     「在甲陽官舎」という例外
 第三章 手代の経歴―陸奥代官手代尾崎大八郎一徳
  1.手代の家―尾崎家三代
     墳墓の地桑折
     無能寺の四基の墓
     代官手代尾崎大八郎一徳
  2.手代の家の近代―息子・一成の履歴
     酒田県少属尾崎一成
     一成降格の理由
     代官手代尾崎方之介
  3.大八郎一徳の履歴
     寺西代官二代と一徳
     寺西代官と小名浜陣屋
     尾崎正九郎の登場
     尾崎正九郎は大八郎一徳
     名前の変化
     代官と手代の平行関係
     もう一人の正九郎
  4.狂歌撰集の中の一徳
     『新玉帖』・『誹諧歌睦玉百首』・『誹諧歌父母百首』
     「三箱」と「田場坂」
     「心高さよ風の青柳」
 第四章 手代と狂歌
  1.狂歌作者・愚鈍庵一徳
     野雁と一徳
     信達三十六歌仙
     狂歌作りのキャリア
     媒介者としての余所者
     信達歌人の『誹諧歌周花集』
  2.会津の撰者・百中亭筈高の添削
     「狂歌番付」
     『誹諧歌真弓集』
     百中亭筈高が撰んだ一徳作品
     添削のあとさき
  3.狂歌と定住
     別号披露の歌筵
     『興歌喚友集』
     「桑折のさとなる尾崎ぬし」
     四方同盟五十沢連
     一徳主催「四方同盟判都講披露誹諧歌合」
     「磐城藤原一徳」から「在桑折一徳」へ、そして「桑折愚鈍庵一徳」へ
 おわりに

本論文の要旨
 序章では、まず、従来の研究を批判する。著者によれば、幕府の代官所の下僚である代官所手代について、これまで、代官個人の雇用者・地方代官所の雇用者という対立する立場から把握するに止まり、その実相を手代個人のありかたに即して明らかにしてこなかったという。著者はこのような研究状況を克服すべく、本論文において菊田泰蔵・尾崎大八郎という二人の人物に注目してその「個」の実相に迫っていくのであるが、その際に留意すべき方法や視点について次のように整理している。まず①「信達地域―文化が交錯する場」という節では、この二人が桑折代官が支配する福島信達地域(陸奥国信夫郡・伊達郡、現在の福島県北部)にゆかりの人物であることを述べるとともに、桑折に限らず代官所所在地を、多様にして雑駁な文化が交錯する場として意義付ける。②「「手代」と「狂歌」」の節では、この二人の代官所手代が、ともに狂歌のサークル(連)を形成し地域のおもだった人々を糾合していた人物であることが述べられる。狂歌は文芸史で取りあげられることはあっても、これまで歴史資料としては扱われて来なかったのであるが、手代の「個」に迫る重要な史料となり得ることが指摘される。③「「天領」の文化」の節では、幕府代官支配地である天領が、人や文化が活発に移動する地域であり、そのような観点から天領をみることにより、その文化的意義が捉えられるとする。最後の④「「書物」からたどる「人」の歴史」の節では、本論文が、書物に着目して時代や社会を読み解こうとする「書物」研究の視点をとるものであり、とりわけ「書物」「移動」「媒介」の三語をキーワードとして、書物に関わる人を研究しようとしたものだと意義づける。
 第一章は、飛騨郡代元締手代・菊田泰蔵の詳伝である。高山の郡代役所で元締手代を勤めた泰蔵が『竹取翁物語解』、『高山奇勝』、『狂歌扶桑名所図会』といった書物を通じて、遠隔地である陸奥の福島の人物と交流した事実を紹介し、それが彼の出自を解明する鍵となったこと、さらには代官所が存在する地域の文化状況を考える糸口となったことを指摘し、福島の商人内池永年、飛騨山口村の蚕種商平塚新七、漢詩人館柳湾らと泰蔵との交流の意義について論述した。菊田泰蔵は、現在ではまったく忘れられてしまったが、同時代の高山では、郡代の善政を補助した能吏として知られるとともに、『狂歌扶桑名所図会』(初編~四編、天保 7(1836)~天保13(1842))にいくつも狂歌を寄せる高山を代表する狂歌人であり、高山の地域文化のリーダーでもあったことを明らかにした。
 第二章では、これまで歴史資料として活用されてこなかった狂歌を歴史資料化する方法を説いている。19世紀の狂歌の作品集においては、作者の狂歌名の上に地名表記がなされるのが通例である。その地名表記の特殊な表記に、地名の上に「在」の字を冠するものがある。著者は、その「在」の文字が、地域を越えて移動する「移動者」たちを明示していることを明らかにした。具体的には、5節で「月盛」という狂歌名で登場する人物は、本名不詳の近江日野に住する近江商人であるが、恐らく商売のために、関東に移動していた時期があることを読みとることができるとする。このように狂歌の月次撰集を年次に沿って整理し特定の作者の数年にわたる動きを導出するという手法により、狂歌を歴史資料として活かすことが可能となるのだと主張する。
 第三章では、本論文のもう一人の主人公である桑折代官所手代尾崎大八郎及びその親族の経歴を丹念に洗い出すことによって、手代の社会的な位置を定位しようとしたものである。18世紀末から19世紀末に至る尾崎家三代の歴史を叙述することを通して、代官所手代の任用の実際や代官や同僚との関係等、これまで分からなかった手代の実態が明らかとなった。第4節の「狂歌撰集の中の一徳」では、狂歌を史料として利用することによって、代官所手代である尾崎大八郎の「個」の人生を浮き彫りにするのに有効であると強調している。
 第四章は、手代の地域社会に果たした文化的な意義を狂歌に即して詳細に検証した章である。桑折代官所手代の尾崎大八郎は、彼の上司である代官寺西蔵太の西国筋郡代(九州日田)への栄転に伴って移動しなかった。同僚たちが代官に付き従って移動するなかで、桑折の地に残った。もともと「余所者」として桑折にやってきた大八郎が、桑折に残り、桑折で死んでいったのはなぜか。大八郎をこの地に止まらせたのは、狂歌であったと著者はいう。大八郎の狂歌は、全国的にも評価され判者としての立場を確立する。のみならず、彼の信達地域での活動も認知されるに至る。『俳諧歌周花集』のような代表的な狂歌撰集に名を留めるにいたり、大八郎は地域を束ねる「判者」として生きることを決意し、さらに桑折に根ざした活動を繰り広げる。信達地域の人々に狂歌を教え、制作指導を行い、やがては息がかりの狂歌人を独り立ちさせ全国に紹介する。生業である代官所手代としても能力を発揮する一方で、そうした文化的な役割を大八郎は自らに課したと著者は論じる。このように本章は、政治面のみならず文化面でも地域社会とともに生きた人物として代官所手代尾崎大八郎の「個」を叙述する。
 「おわりに」では、一見何の脈絡もなさそうな手代と狂歌とが、実は19世紀の前半の政治・経済・文化・社会を読み解く上で大きな意義をもっていること、とりわけこの両者の絡み合いに着目することにより「地域」を捉えることができること、等を述べて、本論文を締めくくっている。

本論文の成果と問題点
 日本近世史の研究は、戦後、各地の蔵に眠っていた文書の掘り起こしと分析によって新たな境地を開いてきた。手書きの文書が歴史を叙述する一次史料として脚光を浴び、日本全国で史料調査が行われ文書の整理と目録の作成がなされてきた。ところがそこでは文書のみが重視され、文書とともに書物が出てきても、複製物(印刷あるいは書写による)である書物には史料的価値を見出してこなかった。これに対して、書物に着目して書物を史料として近世史を語ろうとする研究動向が出てきたのは、戦後半世紀も経過した90年代半ば以降のことである。近年では書物への関心が高まり、歴史学の諸学会で書物史料を主題とした研究会が企画されたり雑誌の特集号が組まれる等、ようやくにして近世史研究は、文書に加え書物をも史料として歴史を叙述できる段階に到達したのである。本論文は、そのような研究動向をリードしてきた著者が、19世紀に作られ出版された狂歌撰集を史料として時代・社会を読み取ろうとした意欲的な論考である。
 狂歌といえば、太田南畝の名がうかぶように、狂歌とは18世紀半ば過ぎの天明年間に江戸を中心に流行したウイットに富んだ短歌である。その後、19世紀半ばにかけて、狂歌を愛好する人々が地方に広がり、日本各地で連と呼ばれる狂歌のグループが形成され、月次の狂歌合が開かれ、秀歌を集成した狂歌撰集が各地で編まれ、出版されたのである。これまでの文学の研究で注目されたのは、いうまでもなく大田南畝の時代であり、19世紀のそれは量は増えたが文芸としての質は低下し低俗化したと見なされ、研究の対象となって来なかった。歴史研究でも同様で、後者についてはうち捨てられてきた。これに対し、著者は、狂歌撰集(全部でどの程度作られたかもわからないほど多く出された)を史料とすることによって、地域社会の文化的力量を見ることができるとする。とりわけ本論文で著者は、代官所手代や近江商人等の日本各地を移動する人々の存在形態をその政治的・社会的・文化的役割にまで踏み込んで解明するとともに、地域社会の文化のありように迫ろうとした。これが本論文の第一の成果である。
 第二に、狂歌を史料として活用する際の方法論を提示していることも挙げておきたい。狂歌の作品集において、作者の狂歌名の上の地名表記に付された「在」の文字が、地域を越えて移動する人々を明示しているという指摘は重要である。
 第三に、代官所の手代という「中途半端」な階層に注目したことの方法論的意義は大きい。これまでほとんど目が向けられてこなかったこの階層の人々の文化史的役割について、また、彼らの勤務の実態や後継・連携の実際について初めて実証的に解明したことの意義も大きいが、それとともに、彼らの動きを追うことによって、武家社会と農商層との文化的交流を描き出し、地域の文化総体に迫りうる可能性を実例をもって示したことの意義はさらに大きかろう。
 第四に、代官や郡代が支配する天領の文化を人や文化が活発に移動する地域として捉え、天領の文化の歴史的位置を考察しているのも、これまでの研究にない新機軸を出したものとして評価できる。
 第五に、なによりも菊田泰蔵と尾崎大八郎という二人の人物を歴史的「個性」として、その魅力を描いており、歴史叙述としてもきわめてすぐれている点をあげておきたい。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。19世紀前半に狂歌が流行したことは著者の言うとおりであるが、狂歌がたとえば和歌・俳句・漢詩等々の他の文芸のなかでどのような位置を占めたのか、狂歌という切り口で代官所手代の文化活動のどこまでを見通すことが可能なのか、本論文のなかで十分に述べられていない。代官所所在地は多様にして雑駁な文化が交錯する場であると著者は論じているが、狂歌にのみ着目したため、その多様さ・雑駁さを描くことができていない。本論文には多くの事例が取り上げられているが、事例個々における研究の達成、完結性よりも、さまざまな「方法」を提示することが優先されすぎているきらいがある。たとえば、菊田泰蔵にしても尾崎大八郎にしても、これまで取り上げられることのなかった人物を本論文は魅力的に描き出しているにもかかわらず、文化活動の一事に限っても、そのすべてが描き出せているとは思えない。菊田の場合など、「狂歌」という「方法」への限定が強すぎ、公務と文芸との関わりや、狂歌活動と和学との関係など、人物を描き出すのにあってよい視点が捨象されており、多面的かつ総合に人物像を提示しきれているとはいえないだろう。ただし、本論文の第一の目的が、学術的に「方法」を提示し新しい歴史研究の可能性を広げることであった以上、大きな難点とすべきことではないであろう。むしろ、本論文で提示された方法によって、「文化の素材を駆使した歴史叙述」の豊かな成果が今後に保証されたことの意義は大きい。
 以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、高橋章則氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2009年7月8日

 2009年6月12日、学位論文提出者高橋章則氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「江戸の転勤族―代官所手代の世界―」に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、高橋章則氏はいずれも十分な説明を与えた。 
 よって、審査員一同は、所定の試験結果をあわせ考慮して、本論文の筆者が一橋大学学位規則第5条第3項の規定により一橋大学博士(社会学)の学位を受けるに値するものと判断する。

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