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博士論文審査要旨

論文題目:自傷行為の社会学的分析 ――嗜癖性とコミュニケーション資源という二つの側面に着目して――
著者:戸高 七菜 (TODAKA, Nana)
論文審査委員:久冨 善之、中田 康彦、木村 元、安川 一

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1、論文の構成

 本論文は、リストカットに代表される自傷行為について、その当事者6人に直接インタビューし、当事者のインターネット上の日記や送られてきたEメール、そしてインタビュー記録をデータとして、自傷行為には、行為段階での「嗜癖」という傾向がある点、また、その行為の語り・提示段階においてコミュニケーション資源として活用する指向があるかどうかをめぐっては、特有のコミュニケーション様式をめぐる分化がある点などを、ケースに即して詳細に検討し実証して、現代社会において「自傷行為」が持つ意味について考察した論文である。構成は以下の通りとなっている。

序章
 第1節 問題の所在
 第2節 自傷行為に関する先行研究
 第3節 先行研究に対する本稿の位置
 第4節 先行研究を踏まえた整理と本稿の目的
 第5節 各章の内容

第1章 方法論
 第1節 調査の方法とインフォーマントの概要
 第2節 多角的分析の意義と必要性
 第3節 当事者性の問題
 第4節 傷つき体験を語らせることの暴力性

第2章 嗜癖としての自傷行為
 第1節 嗜癖が問題化される社会
 第2節 どうして嗜癖に陥るのか
 第3節 自傷行為は嗜癖といいうるか
 第4節 インフォーマントが語る自傷行為の嗜癖性
 第5節 小括

第3章 コミュニケーション資源としての自傷行為
 第1節 理論枠組
 第2節 インフォーマントが意識するコミュニケーション資源としての自傷行為
 第3節 流花さんのコミュニケーション様式とその背景
 第4節 調査者と流花さんとのの間に展開したコミュニケーション
 第5節 キキさんのコミュニケーション様式とその背景
 第6節 友美さんのコミュニケーション様式とその背景
 第7節 小括

第4章 ケーススタディ
 第1節 直子さん
 第2節 流花さん
 第3節 亘さん
 第4節 瑞樹さん
 第5節 友美さん
 第6節 キキさん
 第7節 小括

結語――まとめに代えて


2、論文の概要

 「序章」では、近年のリストカットをはじめとする自傷行為の広がりと、その中での先行研究の整理・批判的検討に立って、著者の本論文での追究方向を明確にしている。
 著者によれば、2000年代に入ってから、自傷行為経験者による手記やルポルタージュが相次いで出版され、少女マンガでも登場人物が自傷行為を行う様子が描かれるようになるなど、その関心は精神医療の現場を超えた広がりをみせている。しかし、自傷行為マンガや「自傷系サイト」の流行は、それが共感を持って受け入れられる素地があるからで、著者は、現代社会で育つ子どもたちが共感とリアリティを持ってそれを受け入れていることの深部には何があるのか問わなければならないとしている。
 先行研究の検討の冒頭、著者は、火のついたタバコを皮膚に押しつける、頭を壁にぶつける、処方をこえた薬物を摂取する(overdose:オーバードーズ)など、カッティング以外の行為も含めて自分を傷つける行為全般を「自傷行為」と呼び、自傷行為が刃物などで身体を切るという形で行われた際には「カッティング」、その中で、手首および前腕の内側を切った場合だけを「リストカット」と呼んで区別するとして、これまでの若干の混乱から、本論文での用語整理を行っている。
 先行研究の検討において著者は、自傷行為には、自分の感情を変化させることと、他者の態度や行動をコントロールすることの2つの側面があることが指摘されている点に注目し、そこから本論文では、<自傷行為が行われる「行為」段階>と、<自傷行為を行ったことを他者に語り/提示する「語り/提示」段階>とに分析的に区別することによって、それぞれの段階における行為主体にとっての意味と機能を分析する、という著者の整理と追究方向を明確にしている。その際、他者をコントロールしようとする側面が、他者とのコミュニケーションのあり方であるとの洞察から、これを「コミュニケーション資源」と呼び、コミュニケーションの中で他者を方向づける資源として自傷行為が用いられるという視角から分析する立場を打ち出している。
 著者は、このように二つの段階を区別することで、ほとんどの自傷行為は1人きりのときに行われるので、「行為」段階では自傷行為の第一の目的は自分の意識や感情を変えることであり、自傷行為のコミュニケーション資源としての側面が問題となってくるのは「語り/提示」段階になってからである、という二つの段階とその機能・意味との対応関係が整理され、明確になるとしている。
 それらを踏まえて、本論文が目指す方向性2点が述べられる。
①自分の意識や感情を変化させるという側面を嗜癖性という観点から把握することで、類型論を乗り越えた一貫性のある理解を可能にするとともに、嗜癖が病として問題化されることの意味を考察することを通じて、特定の自己のあり方を規範とする後期近代の特質に迫ることを目指す(第2章)。
②先行研究で「操作」と呼ばれて指弾されてきた「コミュニケーション資源としての自傷行為」が、ある社会的文化的な経験に強く影響されたコミュニケーション様式であることを明らかにし、そのようなコミュニケーション様式を身につけた個人に対する共感的理解を可能にするような理論の構築を目指す(第3章)。

 「第1章」では、本論文執筆のために行われた調査の内容と、6人のインフォーマントの属性の概略がまとめられ、調査の特徴を明らかにするとともに、調査を行う上で直面した方法論上の問題が記述されている。
 著者の説明によれば、本論文執筆のための調査は、6人のリストカット経験者に対して行われた。インタビュー調査を断続的に行うのと平行して、彼ら/彼女らがインターネット上に公開した日記、調査者個人宛に送られてきたメールについても引用の許可を得た。これによって、インタビュー、日記、メールという、語りの場面ごとに自傷行為やその動機についての語り方がどのように揺れ動くかを多角的に分析することが可能になった、とされている。
 続いて、調査を行うなかで、<当事者>として調査を行うこと/論文を書くことが持つ危険性と意義について、著者自身が直面した当惑と模索が記述されている。そこでは、要約すれば「同じ<当事者>であっても、他者の言葉を代弁することが正当化されるわけではない。同じ<当事者>であっても、他者との間には依然として差異がある。<当事者>として語ることで、他者を代弁することが持つ暴力性はむしろ大きくなるかもしれない。」、「しかし、<当事者>である調査者が、調査を通じて自傷行為(者)の多様性と多面性に気づいていく姿(自分が思い込んだあらかじめの仮説が裏返されて行く過程)を描くことを通して、単純な理解を超えた自傷行為(者)内部の差異を浮かび上がらせ、<当事者>が調査し論文を書くことの可能性をさぐった」という著者自身の調査体験と、著者の記述における基本姿勢が語られている。
 また著者は、傷ついた体験についてあえて聞くという、調査を行うことが本質的に持つ暴力性について考えるなかで、「切ることの痛み」と「生きることの痛み」との不可分性について確認しつつ、その「痛み」の現代性を分析する論文を書き切ることでしか示すことのできない「暴力性への自覚」を述べて、この章を結んでいる。

 「第2章」では、序章において<「行為」段階>と、<「語り/提示」段階>という二つに分析的に段階分けされた、その前者について、「行為」の段階で、自傷行為が行為者自身にとってどのような意味や機能があるのかを、6人のケースをていねいに追跡することで検証している。
 著者はまず、リストカットには「やめようと何度も思ったがくり返される」ということがある点から、そこに、自分の意識や感情を変化させるための「嗜癖としての自傷行為」という特徴が見いだせるという仮説を立てる。そして「嗜癖」に関して「外傷的な事件を体験した個人は嗜癖に陥りやすい」というトラウマ論の知見を参考にしながら、ギデンズの自己アイデンティティ論を手がかりに、嗜癖が個人の病として問題化されることの意味を探求している。嗜癖がなにゆえ問題化されるのかを問うことで、「自由意志による選択」や「自己コントロール」を通じた「自己という再帰的自己自覚的達成課題」という特殊な自己アイデンティティのあり方が、個々人に規範として課せられている後期近代の社会の特質、その重さが嗜癖という形で、(そして自傷行為が嗜癖だとすれば)自傷行為にも示されているということになる。
 次に著者は、自傷行為の嗜癖性として、「不快気分の解消」と「衝動コントロールの喪失」という二点を分析視角として設定し、インフォーマント6人の日記/メール/インタビューのデータから、リストカット行為の前後に当事者がどのような気分を持ったかの体験に関する「語り」を追跡している。そして「行為」段階においては、どのインフォーマントにとっても、自傷行為が自分の意識や感情を変えることを第一の目的として行われていて、そこで変化させることが目指される意識や感情は、離人感や抑うつ、不安、罪悪感など多様なバリエーションがあり、その主観的意味も「生きている実感を感じる」「ほっとする」「自分に罰を与える」などさまざまに表現されているが、「不快な感情を解消する」という共通点を持っていることが確認される。また、インフォーマントは、自傷行為によって意識や感情を変化させたいという衝動をコントロールすることに困難を感じている。つまり「不快気分の蓄積とそのリストカッティングを通じた解消」、その間の「衝動コントロールの喪失」、そしてやめようと思い、あるいはカウンセラーに約束しながら、なおくり返す。それらの諸点を端的に示していると思われる箇所を抽出することで、6人全員にとって自傷行為が多かれ少なかれ「嗜癖」という側面を有していることを検証している。
 「自傷」が、何らかの嗜癖性を持つのではないかという点は、先行研究のいくつかでも指摘されていたが、本章での6人のリストカッターの「体験の語り」の抽出は、そのことの具体的な姿、そこで感じ体験されているものを、当事者の語りが持つ迫力で提示したもので、そのデータ提示と、著者による意味づけがかみ合って、一つの「リアリティ」を感じさせる検証になったと思われる。

 「第3章」では、序章において<「行為」段階>と、<「語り/提示」段階>という二つに分析的に段階分けした、その後者の段階について、自傷行為が持つコミュニケーション資源という側面に着目し、インフォーマント6人内のこの点での分化とその背景を追究している。
 著者によれば、リストカットは現代の日本社会の文脈において、他の自傷行為と異なった独特の意味を付与されている。リストカットの特殊性としては、①自傷行為として広く認知されている行為であること、②「自殺」というイメージを強く喚起する行為であること、③人目につく部位なので、傷痕を誰にどのように提示するか(包帯を巻くか、リストバンドをつけるか、そのまま放置するか)をコントロールしやすいこと、の3点が挙げられる。
 そして、このリストカットの特殊性が特に重要になってくるのは「語り/提示」段階であるわけだが、じつは「行為」段階においても、多様な自傷行為のバリエーションの中から、今この瞬間に自分が行う自傷行為が、後にどのように他者に語り/提示できるかを意識して選択される側面もあるとされている。そのため、「語り/提示」段階で他者を方向づける資源として利用することを意識して自傷行為が行われる場合、自傷行為の中でも二の腕や太もものカッティングよりリストカットが選択されやすいと著者は述べている。
 続いて著者は、行われた自傷行為を他者にどう提示し語るかという「語り/提示」段階で、他者の行動を方向づける資源(コミュニケーション資源)として自傷行為を利用しようとする層と利用しない層への分化である、という点に強く着目している。利用する層では、「行為」段階でどんな自傷行為を行うかを選択する際に、後の「語り/提示」段階で効果的に利用できるリストカットのような自傷行為を集中的に行い/語るという。こうした分化がどのように起こるのかについて、著者は、各々の自傷行為者が背負っている社会的文化的属性に関連するある種のコミュニケーション機能の分化があって、それがコミュニケーション資源として利用する/しないの傾向としてあらわれるという仮説を立てている。
 ここで著者は、「語り/提示」の段階において、自傷行為をコミュニケーション資源として利用するようなコミュニケーション様式が、どのような社会的文化的属性と関連しているかを、バーンスティンの<教育>論に依拠して考察している。具体的には、他者を方向づける資源として自傷行為を利用したことがあると語った3人のインフォーマントをとりあげ、彼女たちの両親の最終学歴や職業領域と、彼女たちが家庭で経験してきた<教育>コミュニケーションとに関連性があることを分析した。
 彼女たちには、統制者(伝達者)が直接的な命令を避け、被統制者(獲得者=学習者)の自由裁量をできるだけ認めようとする、バーンスティンのいう「見えない<教育>実践」で行われるような<教育>コミュニケーションを経験してきた傾向がある。「見えない<教育>実践」においては、獲得者は伝達者の明示されていない期待を読み取って行動し、正統なテクストを産出することが期待される。自傷行為を資源として利用するコミュニケーション様式も、自傷者は、自分の期待や要望を直接的には言語化せず、できるだけ相手に自由裁量を与えながら、自傷行為という非言語的なメッセージで自分自身の期待に添った行動をとるよう相手に影響を与えるコミュニケーション様式をとっている。自傷行為を資源として利用するコミュニケーション様式と「見えない<教育>実践」で行われる<教育>コミュニケーションとの間には、その意味では一つの相同的な関係がある。そしてデータ精査と読み取りを通じて、家庭で「見えない<教育>実践」に似た<教育>コミュニケーションになじんで育ったという経験が3人のケースで確かめられる。またそのコミュニケーション様式を、成長過程の学校での人間関係において強化している例も確認される。逆に、他の3人にはそのような傾向が見られない。著者はこれらのことから、分化の片方である「自傷行為をコミュニケーション資源として利用する傾向」は、家族でのペダゴジー型(「見えない<教育>実践」)が生み出すコミュニケーション様式が、それを促進することで、前出のような分化が生み出されたという点が論証されたとしている。
 著者はさらに、職業領域を生産領域と象徴統制領域とに大別すると、象徴統制領域で仕事を行っている者のほうが「見えない<教育>実践」を支持する傾向があるというバーンスティンのペダゴジー論の枠組みを展開する。この章でとりあげたインフォーマント3名も、両親のどちらかあるいは両方に象徴統制領域で勤務した経験があり、そこから著者は、自傷行為をコミュニケーション資源として利用するかどうかという自傷行為者内部の分化に、社会的文化的な背景がある程度影響を与えていることを示している。
 親子関係に関する「語り」は若干の揺れもあるが、二つの層への分化の社会的文化的、そして成育史的背景が、家族のペダゴジー型の分化につながっているという著者の仮説が、かなり有力なものであることを実感させる記述となっている。
 
 「第4章」は、インフォーマント6人が、それぞれに傷つき体験を重ね、その傷つきから回復するための十分な資源に恵まれないなかで自傷行為を行うに至った経緯を、6人のケースについて詳細に描いた章となっている。それは著者が、自傷行為やそこでの「操作」と言われてきたコミュニケーション様式を、個人責任として捉えるのではなく、インフォーマントたちが資源に恵まれないまま、限られた資源を使って何とか生きている姿として理解していることを、個々のケースについて示したものになっている。
 著者が着目する「傷つき」体験は、たとえばアルコホリックの親のもとで家庭が慢性的な緊張状態にあった経験とか、暴力をともなうようないじめの攻撃に学校生活の長い間さらされた経験、さらにまたアトピーや喘息などの慢性疾患を持っていたりすることなどである。多くのケースでは、このような成長過程のリスク要因が重複して体験されていることが、ここでは確認されている。
 著者によれば、どのケースでも、そのような傷つきやリスク要因にたいする適切なケアが不十分で、そのような状態の中を、一人で傷を抱えながら生き抜かなければならなかった。また著者が一貫して強調するのは、傷つき体験の後遺症を抱えながら、どのような人間「にみえる」かだけでなく、どのような人間「である」かまでが再帰的な評価のまなざしにさらされる後期近代の時代特性の中で、苦しい状態を生き抜き生活するための方策として自傷行為に頼らざるをえなかったという点である。そうした経緯を描くことで著者は、このケーススタディが、現代社会で育つことの困難の一端を描き出したものとしている。
 またこの章で注目されるのは、ケースごとデータを集めて時系列的に並べた場合、日記・メール・インタビューの3種のデータ間に焦点のずれがあるだけでなく、インフォーマントの「語り」が、たとえば「家族」に関して、日常的で穏やかなものから、否定的なものに変化したりといった、いろんな形でのことがらの「語り直し」や揺れが、著者によって確認されている点である。こうしたいろんな「語り直し」の中に著者は、「親子関係説」というドミナントストーリーの影響をそこにみたり、あるいはその時点での自己のあり方に対応する「自己物語」の主要な筋と焦点の変化などを読み取ったりしている。またこのような「語り直し」があることは、「語られないもの」がある可能性も意味する点が指摘されて、こうした調査が抱えている可能性と限界への自覚も表明されている。

 「結語」では、本論文2・3章の内容の要点が改めてくり返された上で、著者の考える達成成果と、残された課題が述べられている。
 2・3章の要点を省略すると、著者の考える「成果4点」は次のようである。
 一点目は、心理学的なアプローチが中心だった自傷行為の機能・メカニズムを、社会学的に考察しなおし、自傷行為を個人の病理としてではなく、それが嗜癖として生じる社会的背景を考察した点。
 第二に、自己コントロールを行っていくことが規範として迫られている後期近代に独特の自己のあり方、不安定な関係性のあり方を、時代特性として、この自傷行為への嗜癖を通じて、浮かび上がらせたこと。
 第三に、自傷行為(者)内部の差異や多様性を示すだけでなく、両親の学歴・職歴と家庭の<教育>コミュニケーションと自傷行為の行い方/語り方とに関連があることを論証したこと。
 第四に、自傷行為者が「操作」的コミュニケーション様式をとることが、成長過程でなじんだ<教育>コミュニケーションの影響であることを示し、そのようなコミュニケーション様式を身につけてしまった個人に対する共感的な理解をさしむける可能性を示したこと。
 著者の考える「残された課題」3点は次のようになっている。
 ①、ケース数が少ないため、嗜癖性とコミュニケーション資源という自傷行為の2側面が、自傷行為者全般に当てはまるかどうかについては、今後も新たなインフォーマントを募りケース数を増やして検証していく必要がある。
 ②、家庭の<教育>コミュニケーションを親の側がどのように行っていたか、検証していく必要がある。自傷行為経験者を子どもに持つ親の側の対象者を募るなどの調査を進めたい。
 ③、自傷行為者自身が自傷をどう乗り越え、周囲はどう対応するべきかについての具体的な指針を、明確にすることはまだできていない。どう接すればいいかという実践上の問題もこれから考えていかなければならない。


3、成果と問題点

 本論文の主たる成果は、以下の諸点として整理することができよう。
(1)まず、自傷行為者6人のインフォーマントにアプローチし、直接インタビューを複数回詳細に行い、日記やメールの転載許可も得てきた当事者との信頼の関係性形成、そのような調査過程全体の努力の大きさを通じて、これだけの実証データを集め、分析できたということじしんが、一つの成果として特筆されるような研究であること。
(2)議論の多い自傷行為について、「行為段階」と「語り/提示段階」とを区別して、行為段階の分析を通じて、それが「嗜癖」という性格を共通に持っている点を、6人のケースではあるが、その体験的語りの分厚さにおいて、具体性をもって浮かび上がらせることができたこと。
(3)「語り/提示段階」において、自傷行為をコミュニケーション資源として利用するかどうかという点で、インフォーマントの間にはっきりと分化があること、利用層には相手への期待を直接には伝えないような(相手に読み取りを求める)特有のコミュニケーション様式がある点を検証することができた。またこの点で、そのようなコミュニケーション様式が、バーンスティンの言う家族での「見えない<教育>」およびその社会的文化的背景とのつながりがあるのではないかという仮説を打ち出したこと。
(4)各ケースの成長過程での「傷つき」体験とその回復への資源の不十分さを描き出し、起きていることがらが「個人責任」の問題ではなく、いまを生きる社会的な問題であることを、一つの共感性をもって描き切ろうとした論文であること。

 しかし、このように多くの成果をあげたものの、なお今後に残された課題として次の諸点をあげることができる。
 まず、第一に、成果の(3)後半の、「見えない〈教育〉」は必ずある特有のコミュニケーション様式につながるとは限らず、そこにはいくつかの媒介項が理論装置としても、実証視角としても求められているだろう。それは、著者の「残された課題①・②」の追究にも必要とされるだろう。
 第二に、「語り」の「語り直し」や揺れ・ずれは、2・3章でそれを「体験」そのものとして解釈する場合について、著者のインタビューの際の質問指向がかなり明示的であるだけに、その資料批判と方法論的整理も必要になっていると思われる。
 第三に、著者の「残された課題①」でケース数を増やす場合に、それは本研究の2・3章での仮説を単に数を増やして検証することに止まらず、そこに改めて「仮説が裏切られる」ことを含めた新たな重要な<分化>が見出され、それによって本論文の6ケースのことがらのあれこれも意味づけを変えることがあり得る点を含めて、「多様性」の姿を追究することが求められるだろうという点である。

 しかし、これらの課題は著者も自覚するところであり、今後これらの問題についても持続的に追究を続けて一層の解明と改善の努力が払われることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2009年2月18日

2009年2月3日、学位論文提出者戸高七菜氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「自傷行為の社会学的分析 ― 嗜癖性とコミュニケーション資源という二つの側面に着目して ― 」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、戸高氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は戸高七菜氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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