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博士論文審査要旨

論文題目:日本統治下台湾の広告研究
著者:林 恵玉 (LIN, Hueyyuh)
論文審査委員:山本武利、松永正義、坂元ひろ子、安川 一

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I 本論文の構成
 本論文の構成は次の通りである。

序章
第1章 植民地台湾における政治、経済、社会・文化、消費生活
 第1節 台湾総督府の統治政策概要
 第2節 台湾総督府の経済政策概要
 第3節 植民地台湾における社会・文化の特質
 第4節 日本商品の消費市場としての台湾
第2章 植民地台湾における広告媒体
 第1節 日本植民地時代の新聞と広告
 第2節 日本植民地時代のラジオ放送と広告
第3章 植民地台湾における製造業の広告 -食品、日用雑貨を中心に-
 第1節 新聞における代表的な広告商品
 第2節 食品の広告 -調味料、飲料を中心として-
 第3節 日用雑貨の広告 -化粧品を中心として-
第4章 植民地台湾における小売業(百貨店)の広告
 第1節 植民地台湾における百貨店の登場
 第2節 植民地台湾地元3大百貨店の営業戦略と戦術
 第3節 日本内地百貨店の植民地台湾における営業戦略
第5章 十五年戦争とその台湾の広告への影響
 第1節 台湾総督府の政治、経済政策の広告への影響
 第2節 広告と消費(節約、企業統制)
 第3節 広告と軍国化
 第4節 広告と皇民化
終章
主要参考文献


II 本論文の概要

 序章では、先行研究がきわめて少ないことを指摘したあと、本論文では、日本企業の広告活動を対象とした「日本統治下の台湾における広告に関する研究」という修士論文をより広い視角、とくに政治、経済、文化などのマクロの歴史的側面と関連づけて発展させることをねらっていると述べている。また広告史研究を通じ、日本の植民地支配の否定面、肯定面を客観的に評価することも本論文の目的だという。

 第1章では、日本統治下の台湾における広告をとりまくマクロの背景を分析する。1895(明治28)年に日本に併合されてから、1945(昭和20)年までの半世紀の間、台湾は日本総督府つまり日本政府の統治政策に左右された。砂糖などの食品原料の供給地として経済開発がなされる一方、内地の日本企業の生産する加工品の販売先として利用する経済政策が実施された。しかし満州事変の起こる1931(昭和6)年あたりから、軍需にともなって徐々に工業化がなされた過程が第1、2節で説明される。

 第1章第3節では、社会、文化の特質とくに教育の普及と日本語の識字率(リテラシー)の数字に注目する。日本政府は日本語の普及によって文化的統合を図った。初等、中等教育が次第に拡充され、台湾人の就学率は1940年には57.56%、1944年には71.31%に上昇した。それにともなって、識字率は1914年には1.63%にすぎなかったものが、1941年には57.0%になった。日本語媒体への接触の必要条件である日本語識字率の上昇は、広告媒体である新聞の発達を支えた。またそれは日本商品の普及、日本文化の浸透に大きな役割を果たした。しかし日本語のリテラシーをもたない人びとは多かったため、かれらを対象とした漢文の記事、広告欄が掲載禁止命令の出る1937(昭和12)年まで並存するという二重構造を生んだ。

 第2章は植民地の広告媒体として新聞、放送をとりあげた。当時の台湾では、新聞が最大の広告媒体であった。許可主義がとられたため、発行された日刊新聞は『台湾日日新報』、『台湾新聞』、『台南新報』(台湾日報)、『東台湾新聞』、『高雄新報』の日本語新聞五紙と白話文(中国語口語文)を主体とする『台湾新民報』(興南新聞)一紙しかなかった。思想、言論統制の目的で、総督府は新聞紙の数を制限するだけでなく、事前検閲制をとった(本土の新聞は事後検閲制)。新聞の記事は総督府のプロパガンダの道具として利用された。広告欄にも、時局を反映したコピーやイラストが本土の新聞よりも頻繁に登場しており、紙面全体が世論誘導というプロパガンダ機能を担わされていたことがわかる。また各紙の発行部数、読者層の分析は広告媒体価値との関連でなされる。各種年鑑によって、『高雄新報』を除く五紙の年次別部数が把握される。最有力の『台湾日日新報』は1924年に1万8千部だったものが、1939年には6万8千部に増加した。そして台湾人読者も知識人を中心に激増していることが判明する。

 第2章第2節では、1931年から始まったラジオ放送について分析する。普通放送、海外放送のほかに、1942年から台湾人むけの第二放送も始まった。海外放送では、「思想戦」の一環として、福建語等の短波放送を行った。だが、本論文の主題との関連で重点的に分析されるのは、1932年に実施された日本最初の広告放送である。これは本土の新聞社の反対で、6か月間で中止に追い込まれた。しかし短期間であったとはいえ、広告放送が実施された意義は大きい。それは1936年からの満州での広告放送を促すことになったし、戦後の民間放送の実験台ともなった。なお1943年には、ラジオ聴取加入者世帯は日本人5万4千、台湾人4万6千へと15年戦争期に急増しており、ラジオの影響力が大きくなったことが述べられる。

 第3章では、各種製造業の広告を『台湾日日新報』の1926年から1945年の全紙面の広告欄を調べて、業種別に分類している。それによると、医療、化粧品が58%とトップで、飲食料品が17%と第2位である。そして上位2種のうち、とくに食品、化粧品の広告の事例を収集し、分析した。両者はもっとも活発な広告活動を行った業種であるが、食品は本土に見られぬ台湾むけの独自の和文広告や漢文広告を出稿したこと、化粧品は本土と同一の広告コピーを使用したことに代表性をもたせた。食品広告では「味の素」と「キッコーマン醤油」の販促活動と和文、和漢混合、漢文広告コピーが豊富に引用される。とくに「味の素」の漢文広告は和文広告の直訳ではなく、広告コピーにもイラストにも台湾人の生活と感情に即した独自の工夫がなされていた。このような多種言語広告の使用は、これらの広告主が台湾人を消費のターゲットとしてねらった戦略を展開し、現実に台湾人に購入されていたことを示している。また総督府への企業の漢文広告掲載要請が強かったことを示している。

 化粧品の広告はクリーム、白粉、養毛剤、ポマード、ローション、香水、石鹸と幅広かったし、平尾賛平商店、花王石鹸、長瀬商会、丸見屋商店、小林商店の大手五社が一ページもしくは2分の1ページの大きな広告を掲載した。しかし食品広告主のような漢文広告を掲載しなかったし、広告コピーは本土と同一であった。そして当時の消費者へのヒアリングから、化粧品は台湾人には高級品、贅沢品で、上流階級が主として贈答品としてしか消費しなかったと結論づける。

 第4章では、第3章の広告商品を販売する小売業とくに百貨店の広告を扱った。資本主義経済の急速な発展と近代都市の急成長という条件の下で、昭和初期、台湾の都市においても日本人による近代的経営の百貨店が登場した。1932年台北市において「菊元」という名前の百貨店が開業し、さらに同年台南市においても「ハヤシ」という百貨店が開店した。その他、高雄市では1938年に、旧店舗を改築し百貨店として生まれ変わった吉井百貨店が登場した。こうした百貨店の出現の要因としては、都市に住んでいた台湾人の生活水準の向上や日本化・西洋化志向が指摘できる。また、地元百貨店の出現という現象から、都市の消費文化が質的に変わりつつある様相を見ることができるという。台湾における近代百貨店の誕生は、台湾の文化・経済の発展を端的に物語っている。また、菊元百貨店等は都市の台湾人に日本的・西洋的生活様式の環境を提供したという側面もあったことを認めなければならないとされる。

 また第4章第3節では日本内地の有力百貨店の通信、出張販売に触れる。各紙にかなり大きな広告が掲載されたが、そのターゲットは日本人で、地元百貨店ほどには台湾人に利用されなかったという。

 第5章では、50年間の日本統治がもっとも集約した形であらわれた15年戦争期の広告が分析対象となった。満州事変の前までは、新聞広告コピーにはあまり非常時色が出ていなかった。しかし日中全面戦争の開始とともに、総督府の政策が広告にも露骨にあらわれた。新聞の漢文欄は廃止され、漢文広告が消えた。『台湾新民報』は日本語新聞となった。戦争の激化にともなって、「節約自体が戦力増強」というスローガンの下に、増産や貯蓄を奨励する「決戦体制」への移行が広告欄にも反映した。「決戦服装教授」といったコピーが登場した。日本内地と同じく台湾でも「銃後国民」としての気構えの中での生活が強いられ、耐久生活を送ることを余儀なくされた。

 商業広告から政治宣伝のプロパガンダへの移行は、広告欄での軍国化や皇民化の叫びの高まりにも見られた。ラジオが新聞に唱和した。「軍用機献納運動」や「国防献金募集」などの軍国化のコピーは、日本人だけでなく台湾人にも訴えるものであった。「台湾行進曲」ばかりか「皇民行進曲」も公募された。「皇民化新劇団」の設立や「皇民化模範区」の新設が各媒体から報道された。台湾語の使用の統制や台湾神社への参拝強要が露骨になされた。「内台融和」から皇民化への転換が戦局の悪化とともに進んだとされる。 しかし、このような上からの厳しい統制は広告全般に及んだけれども、台湾文化の日本文化への統合とか、台湾人の精神の支配は成功しなかった。台湾文化の基盤は揺るがず、台湾文化の土台の上に異質な日本文化がもたらされただけの量的な変化に終わったと結論づける。


III 本論文の成果と問題点

 近年、日本でも台湾でも、日本の植民地支配の実証的研究があらわれてきたが、それは政治史、経済史の分野に限られ、社会史の研究はほとんどなされていない。台湾への植民地支配の研究についても同様である。ことに台湾国民党政府が台湾内部で長く植民地時代の研究を禁止したこともあって、台湾の研究の遅れがはなはだしい。また日本のマス・メディア史や広告史の研究でも、植民地媒体は視野に入っておらず、台湾媒体の研究は皆無に近い状態である。この空白の広告史の分野に切り込んだ最初の研究が、本論文である。とくに広告媒体としての新聞や広告主の動きを『台湾日日新報』などの紙面、『台湾新聞総覧』などの年鑑、『台湾実業界』などの業界紙誌、『台湾日誌』など総督府資料、同時代人の伝記、回顧録、ヒアリングなどの新資料を駆使して実証的に把握している点が第一に評価されるべきだろう。

 広告は政治、経済、社会文化の影響を受ける従属変数であるとともに、社会文化などに影響を与える独立変数でもあろうと筆者は考えた。しかし筆者はアプリオリに視角や問題点を設定するのではなく、膨大な資料を幅広く収集し、それを整理、分析する過程で問題の所在を浮き彫りさせる手法を使用した。そうして広告機能には、商品情報提供(マーケティング)と政治情報提供(プロパガンダ)、広告内容には日本語広告、和漢混合広告、さらには漢文広告、商品広告には本土商品、外国商品、台湾商品、消費者には日本人と台湾人といったように、植民地特有の二重構造ないし多重構造があることを的確に把握するのに成功した。

 さらに本論文の成果として『台湾日日新報』全紙面の広告欄、記事欄の精査によって、植民地広告の特色を把握、分析していることがある。とくに広告が皇民化、軍国化のためばかりでなく、消費を抑制するプロパガンダのために活用されているパラドックスが指摘されている。広告は50年間の植民地支配のなかで台湾人の消費を喚起し、経済を活性化し、社会の近代化を促す機能をもったが、あくまでも日本の国策の道具であったことが本論文で明らかになった。

 問題点や限界も指摘できる。それは広告の独立変数としての機能、役割の記述で見られる。筆者は結論部分で、広告は日本商品への消費欲求を増大させ、日本の生活様式を台湾人に導入させるのに役立ったが、台湾文化の土台は質的に変化しなかったと述べている。この点にかんし、台湾人の好む儀礼的贈答という伝統的文化の内容が日本商品の購入によって、日本の商品に一部分とって代わったという点の指摘があるにすぎない。生活と広告の関連を論じたものだけに、台湾人の生活のどの部分にどのような変化があったかといった台湾人の消費文化の変化の動態をより多面的に実証して欲しかった。

 さらに大陸での日本商品の広告活動との関連も調べて欲しかった。「味の素」などの大陸での広告戦略と台湾のそれとを比較すれば、本論文の記述はより客観的になっていただろう。また植民地支配では関連の深い日本の満州、朝鮮支配との比較もまったくなされていない。ただ満州との比較分析の必要性については、本論文でも筆者自身が述べ、今後の課題としている。

 だが、こうした問題点があるにもかかわらず、審査委員会は、本論文が博士の学位を授与するのに必要な水準を達成していることを認定し、林恵玉氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1999年5月19日

 1999年4月28日、学位論文提出者林恵玉氏の論文についての最終試験を行なった。 試験において、提出論文「日本統治下台湾の広告研究」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、林氏は、いずれにも適切な説明を行なった。
 よって審査委員会は、林恵玉氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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