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博士論文審査要旨

論文題目:アンシァン・レジームにおける美術政策と鑑賞者 −王室建造物局総監ダンジヴィレとルーヴル美術館構想(1747-1793)−
著者:田中 佳 (TANAKA, Kei)
論文審査委員:森村 敏己、山﨑 耕一、土肥 恒之、中野 知律

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 1 本論文の構成
 田中佳氏の博士論文「アンシァン・レジームにおける美術政策と鑑賞者−王室建造物局総監ダンジヴィレとルーヴル美術館構想(1747-1793)−」は、18世紀フランスにおける「公衆」の登場を背景に構想されたルーヴル美術館計画、およびその一環として制作された絵画・彫刻を詳細に検討することで、美術作品を媒体とした啓蒙と教育という理念の成立を、アンシァン・レジーム末期における広範な文化変容と関連づけながら具体的に解明した貴重な研究である。
 本論文の構成は以下の通りである。なお、節よりも下位の区分については省略する。
 
 序章
  第1部 ルイ15世期:鑑賞者層の形成
 第1章 ル・ノルマン・ド・トゥルヌエムの政策
  第1節 王立美術ギャラリー創設案
  第2節 国王コレクションの公開
 第2章 美術館開設への要請
  第1節 「公衆」をめぐる論争
  第2節 マリニーとテレーの時代
  第2部 ルイ16世期:ダンジヴィレの美術館計画
 第3章 「美術館」の構想
  第1節 展示作品の調達
  第2節 展示空間の整備
 第4章 奨励制作
  第1節 物語画①徳と習俗の尊重
  第2節 物語画②才能の奨励
  第3節 偉人像
 第5章 「愛国心」の形成
  第1節 偉人称揚の系譜
  第2節 歴史への関心
 第6章 鑑賞者の影響力
  第1節 鑑賞者の拡大と美術館
  第2節 複製と流通
 終章 ルーヴル美術館の開館
 謝辞
 参考文献
 参考図版
 奨励作品カタログ
 
 2 本論文の概要
 序章では、美術鑑賞者層の拡大を背景に、それに後押されると同時にその状況を利用した美術行政の展開という観点から、ルーヴル美術館計画を検討するという本論の目的が明示される。また、美術政策と鑑賞者拡大という従来別々に検討されてきたふたつのテーマを結びつけることは、18世紀後半における「公衆・世論」や「文化変容」といった重要なテーマの解明に寄与するとの展望が示される。
 次いで第1章で著者は、バショーモンおよびラ・フォン・ド・サン=ティエンヌというふたりの美術愛好家が、就任後間もない王室建造物局総監ル・ノルマン・ド・トゥルヌエムに対し、ほぼ同時期に行った提案を分析する。彼らはルーヴル宮を改修し、フランス王室が所有していながら適切な管理を欠いたまま放置している優れた美術作品をそこに展示することを求めているが、著者はこうした提案の背景として18世紀におけるロココ様式の興隆と物語画の衰退、およびヨーロッパ諸国における美術館設立の動きを指摘する。著者によれば、芸術作品の維持・管理問題の解決と同時に物語画の復興を目的としたラ・フォンによる王立美術ギャラリー設立提案は、批評家たちの間で賛同を得ただけでなく、ほどなく政府によって取り上げられることになった。提案を受けたトゥルヌエムは就任当初から王立絵画彫刻アカデミーの活性化、物語画の復興に極めて熱心であり、そのために様々な施策を講じていた。そうした彼にとってラ・フォンたちの提案は真剣な検討の対象となり、トゥルヌエムは国王が所有するコレクションから作品を選別し、王立美術ギャラリーを設立してそこに展示する計画に着手する。1750年、実際にギャラリーが設けられたのはルーヴルではなくリュクサンブール宮であったが、ともかくもフランスで初めて公開を目的とした美術ギャラリーが設置されたのである。筆者はここで、トゥルヌエムの目的は物語画の復興に留まらず、「フランス派」を中心とした美術作品の展示により国王の栄光を誇示することだったと指摘している。
 第2章ではラ・フォンが提起したもうひとつの大きなテーマである「公衆」の問題が検討される。ラ・フォン以前から特別の知識や趣味を身につけた専門家である「目利き」と、非専門家である「公衆」との関係は批評家たちによって論じられており、一定の知識と良識を備えた「公衆」は作品の一般的効果については正しい判断を下せるが、芸術的価値に関して評価できるのは専門家であるとの線引きがなされていたという。しかし、ラ・フォンはこうした区別を曖昧にし、「公衆」を美術作品の最高審判者の位置に引き上げ、匿名で出版した著書においても「公衆」の名においてサロン展に出品された作品を批評したのである。その背景として、美術品の競売会の増加や様々な展覧会の開催が示すように、美術作品を鑑賞、あるいは蒐集する機会が1730年代以降急速に増えていたという事実が指摘される。いわば「美術作品を見る公衆」が拡大するとともに、彼らにとって美術作品はより身近なものとなっていたのである。しかし、ラ・フォンの行為は絵画・彫刻アカデミーのメンバーたちから痛烈な批判を浴びた。こうした反応は制御不能で顔の見えない「公衆」の誕生と、その「公衆」が作品の価値を判断することへの不安と反発の表れであったと著者は言う。
 だが、アカデミーの画家たちの願いとは裏腹に、芸術作品に触れる機会が増えた「公衆」はよりいっそうの機会拡大を求めるようになる。1750年のリュクサンブール宮への王立ギャラリー設置は政府にとっても暫定的な措置に過ぎず、本格的な王立ギャラリーの場として期待されたのはやはりルーヴルだった。トゥルヌエムの死後に総監に就任したマリニーもテレーも美術館開設を念頭にルーヴルの改修に意欲を見せたが、財政難や政治的混乱の中で計画は進まなかった。しかし、1774年にダンジヴィレが総監となるまでにルーヴルに美術館を開設すべきという要求はいっそうの高まりを見せるようになっていたという。
 第3章ではルーヴル美術館設立に向けたダンジヴィレの準備と構想が検討される。総監に就任したダンジヴィレは、建造物局の財政効率化や絵画・彫刻アカデミーへの権限集中など積極的な美術行政を展開するが、ルーヴル美術館計画もその重要な柱であった。彼はすでに国王が所有するコレクションに加え、競売会を通じてあらたに絵画を購入したり、ルーヴル宮の改築計画に着手するなどの準備に取りかかる。実際に美術館として予定されてたのはルーヴル宮のグランド・ギャルリーだが、ダンジヴィレは多くの建築家、画家、彫刻家などにその改装計画の作成を命じる。財政難による制約もあり、最終的には革命が勃発したため、改装計画が実現されることはなかったが、著者によれば空間構成や採光問題をめぐるこの時の議論は、芸術作品を良好な条件の下で公衆に見せるための展示方針や空間条件の整備といった、今日にまで続くテーマを先取りするものであったという。
 続く第4章では、国王コレクションの充実とグランド・ギャルリーの改装と並んで、ルーヴル美術館計画における第3の柱であった奨励制作が検討される。ダンジヴィレは、初めからルーヴルに展示することを前提に絵画・彫刻アカデミーの会員に物語画とフランスの偉人像を定期的に発注したが、それらの作品の分析を通して著者は、ダンジヴィレの意図、彼が美術館に求めた役割を解明しようとする。
 物語画を奨励制作の対象としたことは、ダンジヴィレもまた物語画の復興をめざしていたことを示すが、より重要な点は、宗教や神話に題材を取った伝統的な主題の注文が極端に少なく、代わりに古典古代のエピソードと並んで、フランス史を主題とする作品が注文されていることである。従来、フランス史を主題とする場合、その目的はしばしば国王もしくは王族の軍事的栄光の称揚であり、このため戦争場面が描かれることが多かったが、ここで取り上げられたのはフランス史上の偉人であり、選択されたのもそうした人物たちの敬虔さ、公正さ、人類愛、祖国愛、公共善の重視といった徳性を示す場面であった。こうした「ナショナル」な主題の設定は画期的であり、批評家たちの間でも好評を博したとされる。また、ダンジヴィレは奨励作品をサロン展に出品させることで、作品に向けられた批評を次の奨励制作担当者の人選に活かしていている。この意味でダンジヴィレは「公衆」の存在を意識し、「世論」を重視していたと著者は指摘している。もっとも1783年以降、ダンジヴィレは主題の選択を画家たち自身に委ねる方向に転換するが、こうした変化はダンジヴィレの意図と狙いが画家および鑑賞者に浸透した結果だとの解釈が示される。
 同じく奨励制作の対象となった彫刻ではダンジヴィレの主導性はより顕著である。隔年毎に4点ずつ合計28点が発注されたが、対象となる偉人はすべてダンジヴィレが自ら選択した。それだけに偉人像のラインナップには彼の意図が明瞭に反映されている。著者によれば、注目すべきは「徳と才能と知性」が選択規準として明示されていること、そのため学問や文芸で傑出した業績を上げた人物が、それまで偉人像の定番であった軍人とほぼ同数選ばれていることであった。また、偉人たちの大半はフランス絶対王政の黄金期ともいうべきルイ14世時代の人間であることも指摘される。つまり、フランスにおいて多くの才能と徳性が花開いた時代としてルイ14世期を位置づけ、その時代を象徴する人物群を通して近代フランスの栄光を公衆に示すことがダンジヴィレの目的であったとされる。さらに、その栄光は軍事に留まらず学問・芸術にも及ぶこと、慈悲心や人類愛といった徳も称揚の対象であること、宗教的信条は問われていないことを指摘しながら、著者はダンジヴィレのこうした選択基準に「啓蒙」的特徴を読み取っている。
 第5章では奨励制作に顕著に見られた歴史への関心と偉人概念の変化というテーマが、より広い文脈の中に位置づけられる。著者はまず、17世紀の偉人概念との比較を念頭に、18世紀における新たな偉人観の特徴をアカデミー・フランセーズの公頌演説、地方アカデミーでの公募論文、同時代の著述家たちの言説を参照しながら明らかにしていく。それによれば、偉人であるためには能力・功績はもちろんだが、徳が不可欠であるとされ、逆に17世紀までは偉人の条件であった高い地位や身分は問題とはされていない。さらに、能力・功績が発揮される分野も軍事や政治に限らず、学問・芸術を含む広い範囲に及び、徳の内容も武勇を基本とした軍事的要素に加え、人類愛、慈悲心、公正無私といった「穏やかな徳」が重視されていることが指摘される。こうした変化は戦功を強調したルイ14世から平和や慈悲深さをアピールするルイ15世、16世への国王イメージの変遷にも共通している。そして、著者はダンジヴィレの偉人像選択基準が18世紀半ば以降に見られるこうした広い文化的変容と軌を一にするものであることを明らかにしている。
 また、歴史への関心についても著者は、書物の社会史の成果を参照しつつ読書傾向が宗教から歴史や文学に移行していたことを確認した上で、美術批評家や鑑賞者からも決まり切った主題の神話画、宗教画ばかりでなく、歴史画とりわけフランス史を題材とした歴史画を求める声が高まっていたことを明らかにしている。ダンジヴィレが奨励制作の主題としてフランス史上のエピソードを選んだことの背景にこうした状況があったことは言うまでもない。著者によればダンジヴィレの意図は極めて好意的に受け止められ、フランス史を主題とした作品をよりいっそう増やすことを求める意見が多く見られたという。さらに著者は当時やはりフランス史を題材とした演劇が人気を博していた事実を指摘し、ダンジヴィレの美術行政との関連を論じている。最後に18世紀においてフランス派の絵画への人気、評価が急速に高まっていたことがフランス史を主題とした作品への愛好と関連づけられ、ダンジヴィレの美術館構想がこうした「愛国的趣味」を背景に「徳と愛国的感情」をかき立てることを目的としていたことが明らかにされる。ダンジヴィレにとって美術館は優れたフランス芸術によって「フランスの栄光」を描き、公衆を教化する手段だったのである。
 第6章ではあらためてダンジヴィレの美術館計画の背景にあった「美術作品を見る公衆」の問題が検討される。ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌによる匿名のサロン批評からダンジヴィレの総監就任までの30年間にサロン展への入場者数が大幅に増加したのに伴い、サロン批評もまた拡大していった。こうした状況は、批判の的となるアカデミーの芸術家たちの不安と恐怖をいっそうかき立てた。しかし、ダンジヴィレは批評の取締りを求める芸術家たちの要求には耳を傾けなかった。それどころか、すでに述べたように次回の奨励制作担当者を選定する際にサロン出品作品への批評を参考にしたのである。さらに、フランス史をテーマとした歴史書や演劇の人気と呼応した主題の設定もまた、ダンジヴィレがその政策決定において「公衆」の意見を重視していたことを示していると著者は言う。ただし、「徳と愛国的感情」の涵養に適した主題そのものへの批判に対してはダンジヴィレは厳しい態度を示した。この意味で彼の美術行政は「公衆」の声に追随するものではなく、あくまで美術鑑賞者の拡大と世論の台頭という状況を利用しつつ、芸術作品による国民の教化を目指すものであり、その意味で美術館は市民を「啓蒙する場」として構想されたという。その最終的な目的が王権の求心力を高めることにあったのはいうまでもない。
 さらに著者は、芸術作品による国民の教化という観点から奨励作品の複製をめぐる動きを分析している。美術館に直接足を運ぶことのない人々の存在を考えた場合、複製による作品のより広範な流通は重要な意味を持つ。著者によれば奨励作品はタピスリーとして織られたり、テラコッタ製の小像にされたりもしたが、流通という意味で重要なのは複製版画である。当時のフランスでは人気を博した絵画の複製版画のほうがオリジナルな版画作品よりもはるかに多く制作されていた。複製版画を媒体とした名画集も出版され、現在の写真を用いた画集と類似の機能を果たしていたという。版画はオリジナル作品を直接目にする機会がない場合に、簡単に絵画に接する機会を与えてくれるものだったのである。こうした状況を背景に、奨励作品を含め美術館での展示が予定されていた絵画の版画化計画は幾度も持ち上がっており、ダンジヴィレが許可を与えたものもあったという。しかし、どの計画も実現にまで至ることはなかった。著者はその理由を、ダンジヴィレが版画という媒体が持つ影響力の大きさを十分に認識しながらも、まずはオリジナル作品を展示する美術館の開館が先決だと判断していたからだろうとしている。
 終章ではフランス革命の最中にようやく実現したルーヴル美術館の開館をめぐる問題が分析される。革命勃発後ほどなくダンジヴィレは亡命を余儀なくされ、実際にルーヴル美術館開館にこぎつけたのは革命政府だった。1793年8月10日、王権停止1周年の記念行事として強引に開館された美術館の目的は、歴代の国王政府が挫折したルーヴル美術館計画を革命政府が実現してみせることで、専制に対する共和国の勝利と優位をアピールすることであり、芸術作品による徳と愛国心の涵養というダンジヴィレの目指した理念は消し飛んでしまった。しかし、「美術作品を見る公衆」が成立しているという認識とそれを背景とした「美術館」という制度への着目、そしてこの制度がメッセージを発信するうえで極めて有効な媒体であるとする見解は、革命政府が旧体制の美術行政から受け継いだものだという。著者によれば、革命政府はこの意味でダンジヴィレが美術館に期待した「啓蒙」の効果を誰よりも信奉していたのである。
 
 3 本論文の成果と問題点
 本論文の重要な成果として指摘すべきは以下の諸点である。
 第一は、ルーヴル美術館構想の端緒から1793年の開館にいたるまでの経緯を豊富な資料を駆使して丹念に分析したことである。とくに美術館構想の具体化に向けてもっとも重要な役割を担ったダンジヴィレについて、彼が建造物局総監として交わした多くの書簡を検討することで、その意図と目的を解明した功績は大きい。それにより18世紀後半の美術行政が芸術作品さらには美術館という存在に担わせようとした機能と、こうした構想を可能にした社会的・文化的背景が明らかとなった。この点は革命前夜のフランス行政への「啓蒙的」理念の浸透という観点からも重要な成果であるといえる。
 第二は絵画・彫刻合わせて120点を超えるすべての奨励作品の網羅的分析を行ったことである。それぞれの作品のテーマ、担当者が決定あるいは変更される経緯から完成した作品に対する批評にいたるまでが丹念に分析されている。さらに著者は現存する作品すべてを直接調査もしている。本論文の巻末に掲載された150ページに及ぶ「奨励作品カタログ」では、すべての作品についてその所在と各作品に言及あるいはそれを掲載した史料や文献、美術品カタログが調査され、記述されている。奨励作品に対するこれほど徹底した調査と分析は初めての試みであり、著者の努力は高く評価されるべきであろう。また、個々の作品に対するこうした徹底した調査がダンジヴィレの意図に関する著者の解釈を説得的なものとする上で重要な役割を果たしていることは言うまでもない。
 第三に、本論文は18世紀後半のフランスにおける文化的変容という大きなテーマとの関連を常に意識し、新しい角度からこの問題にアプローチしたものとして評価できる。ハーバーマスが提起した公共空間と世論の問題はフランス史研究にも大きな刺激を与え、多様な研究を生み出してきたが、近年ではこうした問題に加え、あるいはそれと関わるかたちで18世紀後半、とくに七年戦争終結後における徳と名誉心の再建、愛国心の称揚、、国民意識の形成といった問題が重視されつつある。こういったテーマを扱う上で史料とされるのは圧倒的に文字史料が多く、芸術作品の分析を中心にした本論文の分析はその意味で貴重であり、独創的である。本論文は革命前夜の「公衆と世論」「道徳」「ナショナリズムと愛国心」をめぐる問題関心が単に文壇や政治的論争の場だけでなく、美術界や美術行政の世界にも浸透していたことを実証してみせることで、当時こうしたテーマがもっていた射程の広さを示すことに成功している。
 第四に複製版画による普及・流通という観点への着目を評価したい。高画質の写真を用いた画集はもとよりインターネットにより簡単に芸術作品にアクセスすることが可能な現代とは異なり、18世紀においては芸術作品に触れる機会はいかに「絵画を見る公衆」が拡大しようとも限られていた。だからこそ、作品を非難する批評は文字を媒体として広く普及するが、非難された作品自体を実際に見ることで批評の正当性を判断できる機会は限られているとしてアカデミー会員は専門家以外による批評を警戒したのである。しかし、複製版画による絵画の普及への注目は、普及という観点から見た作品自体と文字媒体による批評との本質的な違いという議論をよりニュアンスに富んだものとする。また、この問題は美術作品を用いた国民の啓蒙・教化というダンジヴィレの戦略の有効性を考察する上でも有益な視点であると思われる
 こうした成果の一方で課題とすべき点も残されている。
 ひとつは美術館構想の目的を愛国心や穏やかな徳の称揚といった道徳的側面に集約しすぎた点である。そもそも美術館計画は、ずさんな管理体制のもとで放置されている国王コレクションを展示することがフランス王室の栄光に寄与するという発想に根差していた。そのため美術館を訪れる人間として想定されていたのはフランス人のみならず外国からの訪問客だったのである。その後、ダンジヴィレが美術館での展示を念頭に積極的に絵画を買い足したのも国王コレクションのいっそうの充実を意図していたからである。この意味でルーヴル美術館の目的のひとつがフランス王室が所有する豊かな芸術的冨の誇示であったことは間違いない。著者はもちろんこの点を幾度も指摘しているが、本論文の功績である奨励作品の丹念な分析に引きずられて、奨励作品に特徴的に表れる道徳的意味が強調されるあまり、論文全体を通してみた場合、豊かな国王コレクションの公開により王室の威光を内外に示すという意図が後景に退いてしまった憾みがある。この点は、革命期に実現されたルーヴル開館の際、革命政府はダンジヴィレの意図から何を受け継ぎ、何を拒んだかという問題にも関わってくる。その意味でも、美術館構想の目的をより重層的なものとして描写すべきではなかっただろうか。
 また、奨励作品の彫刻に取り上げられた偉人の選定についてはより深い分析が欲しかった。たとえば著者は、ジャンセニストの論客であり、その意味で王権によって迫害された人物であるパスカルを偉人像とするにあたっては、数学者としての側面を前面に出し、ジャンセニスム問題に触れない配慮が制作過程において必要だったとしているが、こうした考察は当時パスカルがどのような存在として認識されていたかについての議論を伴ってこそより説得的なものになるはずである。パスカルに限らず、偉人はルイ14世時代から多く選定されているが、彼らに対する評価、どういった側面をとくに重視するかはその人物が生きていた時代と彫刻が制作された1770年代以降とでは異なる。それを思えばとりわけ著名な人物に関しては18世紀後半における彼らへの評価に関する調査・考察が望まれるところである。それによって偉人像のラインナップの意味はより明確になったと思われる。
 以上のような課題は残されているものの、それらは本論文が高い水準に到達していることを否定するものではなく、また今後の努力によって克服されることを期待すべきものである。
 
 4 結論
 審査員一同は、上記のような評価と、1月21日の口述試験の結果にもとづき、本論文が当該研究分野の発展に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2009年2月18日

 2009年1月21日、学位請求論文提出者田中佳氏の論文についての最終試験を行った。試験においては審査委員が、提出論文「アンシァン・レジームにおける美術政策と鑑賞者−王室建造物局総監ダンジヴィレとルーヴル美術館構想(1747-1793)−」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、田中佳氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は田中氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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