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博士論文審査要旨

論文題目:近代中国知識人に関する一考察―研究系の思想と行動、1912~1929―
著者:原 正人 (HARA, Masato)
論文審査委員:坂元 ひろ子、三谷 孝、洪 郁如、若尾 政希

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一、本論文の構成

 本論文は、辛亥革命後の中華民国の成立時からほぼ1910~1920年代をとおして、「研究系」といわれる、国民党・共産党の枠ではくくれない知識人集団を想定のうえ、思想史上に初めて位置づけようとする研究である。この知識人集団の中心人物で、清末思想界における立憲君主派のスター的存在、梁啓超は、ポスト五四新文化運動期におけるその文化・学術活動でも知られてはいる。しかし、民国期をとおして政党政治や新聞・雑誌活動で梁啓超となんらかの関係をもち、しかものちの影響についても看過できない、緩やかな知識人集団としての「研究系」の思想史における位置づけは、従来、ほとんどされることはなかった。それだけに、梁啓超の弟子筋で、同集団において中心的役割を果たした張君勱・張東蓀の日本における先駆的本格研究であるばかりでなく、民国期の思想史研究の新たな側面を浮かび上がらせようとする、野心的な試みといえる。
 構成は次の通りである。

序章 
第1節 問題の所在
第2節 先行研究の概観
(1) 研究系に関する研究
(2) 研究系のメンバーに関する研究
(3) その他
第3節 分析手法および対象
第4節 使用する史料について
第5節 本論の構成

第1章 近代中国知識人論への視角
第1節 近代中国知識人論の位相
第2節 「文化的資源を持つ知識人」としての研究系

第2章 研究系の活動および交流―中国知識人のなかの研究系
第1節 研究系の定義および名称
第2節 研究系の政治行動とその位置
(1)清末から辛亥革命へ
(2)民主党および進歩党―民国初期における政党活動
(3)研究系の形成と消滅
(4)梁啓超の死まで

第3章 研究系の文化活動と知識人ネットワーク
第1節 研究系の「文化」「政治」観
第2節 研究系の文化活動
(1)新聞・雑誌
(2)学会・学術集団(学校を除く)
第3節 政治権力からみた研究系の文化的資源
第4節 他の知識人との交流
(1)国家主義派の知識人
(2)国民党・共産党系・その他の知識人
第5節 小結―研究系からみた「近代中国知識人」

第4章 研究系における「政治」と「文化」―「連邦論」の分析を通じて
第1節 近代中国における「連邦論」の位相
第2節 研究系知識人の連邦論
(1)梁啓超の「連邦論」
(2)研究系の「連邦論」―張君勱と張東蓀を例として
①1910年代までの張東蓀の国家構想と連邦制
②1910年代までの張君勱の国家構想―中央集権と「行政区」としての「地方」
③1919年以降の彼らの「歩み寄り」と「一致」
第3節 考察   
(1)「思想集団としての研究系」の形成
(2)研究系の連邦論の位置
第4節 小結 

第5章 制度にみる研究系の「政治」と「文化」 
第1節 研究系の教育観
第2節 研究系による学校運営
第3節 研究系の文化的影響力―カリキュラムの変遷を手がかりとして
(1)「理念」としての自治学院
①人脈と思想的源泉
②カリキュラムからみた「理念」としての学院
(2)教育機関としての自治学院―カリキュラムからみた諸権力の介入
(3)考察
①カリキュラム変遷の理由と矛盾
②カリキュラムからみた研究系の位置
第4節 小結   

終章 
第1節 1930年代以降の張君勱と張東蓀   
第2節 本論の整理   
第3節 結論      
第4節 今後の課題と展望 

(附録)<参考資料>主要人物・事項一覧
主要参考・参照文献一覧

二、本論文の概要

 中国では開国以降の近代化の過程で、千年以上にわたって高等文人にして政治家を養成してきた科挙制度の廃止(1905年)と学校教育の開始、中華民国期に自由化されて隆盛を迎える新聞・雑誌等のメディア(著者はこうした学校やメディアを「文化的資源」と呼ぶ)を背景として、知識人のありかたにも変化をきざした。そこで著者が注目するのは、「研究系」という知識人集団である。「研究系」という呼称は、1916年、帝政を復活した袁世凱の死後に、清末の立憲君主派で国民創出の思想営為において突出していた梁啓超が、国会復活時に結成した「憲法研究会」の名にちなみ、「系」とは当時の政治党派を示す。かくして狭義には憲法研究会のメンバーに対する、主に政敵からの呼称で、袁世凱の幕下からでて北洋軍で絶大なる軍事力を保持した段祺瑞の短命政府に梁啓超が入閣したことから、段よりの「系」と目され、また梁啓超らとは無縁ながら、政界に寄生して暗躍した人物たちがしばしば「研究系」と自称することもあった。本論文では、こうしたものとは区別し、以下のように、緩やかな知識人集団として想定する。すなわち、当時の梁啓超から大きな影響を受け、その支援下で『時事新報』や『解放与(と)改造』等の比較的メジャーといえる新聞や雑誌を発行、長期にわたって言論活動を繰り広げ、のちの抗日戦争時期にはその一部のメンバーが中国国家社会党を結成し、国民党・共産党に対する「第三勢力」として政治活動に参与した。そこに関与した人たち、具体的には、中華民国憲法の起草にも関わった張君勱や、張東蓀らを含む知識人群である。
 序章ではこうした知識人集団そのものおよび1910、20年代におけるその中心人物たちの政治・文化活動について、先行研究では看過してきた問題点を指摘し、そのうえで、以下のような分析方法、本論構成の意図が示される。知識人集団の政治と文化への意識を、言論と政治行動にまたがりつつ定位するために、 (a) 中国の現実に即していかに国家変革をすべきかについての、実際の政治・政策提言を手がかりとする言説(思想)分析、(b) 新聞や雑誌に依拠した実際の政治・文化行動と時の政治権力との緊張関係からの影響力測定、(c)実際に運営した学校制度に対する知識社会学的手法による分析をおこない、「研究」知識人群の民国言論界、思想界、さらには政治社会における位置づけをする。また、そのためには史料面では、台湾政治大学へ留学し、また中国各地の図書館・檔案館などに赴いて収拾した文集類、檔案類、新聞・雑誌、日記・回想録のほか、関係者へのインタビューをも用いて、多面化をはかる。
 第1章では、近代中国知識人研究として「研究系」という知識人集団を扱う意味をより具体的に示しながら、新文化運動期の知識人の大部分は五四運動後に「政治」化したとされるなか、「研究系」知識人群は逆に政治から文化や教育へと重点をシフトさせた点、党派や世代を超えた多くの知識人と広く交流した点で独特な存在であること、さらには、彼らの政党の組み方が近現代中国の政党政治を再考する材料になりうることなどを看取する。
また、本論文で分析する時期の設定を、中華民国と国会の元年、1912年から、中心人物の梁啓超が死去し、国民党の統治体制が整い始め、「研究系」のメンバーが一度離散せざるをえなくなった1929年までとすることが説明される。
 第2章においては、体系的な研究のなかった「研究系」の行動、とりわけ政治方面に着目し、梁啓超(1873年生まれ)と張君勱(1887年生まれ)が「研究系」を代表する二つの世代であると規定し、この両者および、憲法研究会会員ではないが、彼らの文化的活動を支えた張東蓀(1886年生まれ)の三人に特に研究の焦点をあわせる。「研究系」を憲法研究会メンバーに限定せずに、より広く緩やかな集団と捉えるべきだという見解を前提としている。
 また歴史的な「研究系」の原点を、立憲君主を主張した梁啓超が亡命生活を送った20世紀初頭の東京圏とみる。早稲田大学に留学した張君勱や、藍公武とともにやはり東京で学んだ張東蓀をはじめ、主要なメンバーのほとんどが1907年に梁啓超が組織した政聞社や関連する政治活動を通して知り合ったのであり、短命に終わったものの、政聞社はそういう意味でも重要であったことを指摘する。また張君勱と張東蓀は、多くの清国留学生のように政治行動に専念することなく、学術も重視した点に特徴を見出し、そこに一流の学者で政治活動にも従事した「研究系」の特徴を見いだしうる、とする。
 梁啓超は政聞社閉鎖後、立憲派の人脈を活用して、憲友会、民国になってからは共和建設討論会、民主党、進歩党へと活動の場を移し、国民党系に対抗するため、進歩党内の憲法討論会と憲法研究同志会の二つの派閥を上述のように1916年に合併して憲法研究会を組織、その間、1912年7月の熊希齢内閣に入閣したが、こうした梁啓超の動きに協力、ブレーンになっていたのは張君勱であった。張勲の復辟を経て1917年に結成された段祺瑞内閣に「研究系」から梁啓超・林長民・湯化龍が入閣するがこれも短命で、翌1918年の選挙で段祺瑞の影響下の政党、安福倶楽部との政争に破れ、やむなく政治舞台から退いたが、その後は教育・学術など文化的行動を中心とした知識人集団に移行した、とみる。
 第3章においては、まず「研究系」の文化に関する言説を整理し、さまざまな立場の多くの論者意見を発表した彼らの雑誌や新聞(『国民公報』・『晨報』・『時事新報』・副刊『学灯』・『解放与(と)改造』(『改造』))を中心とする文化的活動に焦点をあて、それら刊行物が新文化運動の舞台となり、学生を含む知識人界に大きな影響を及ぼすとともに、共学社や、バートランド・ラッセル招聘(1920年)で知られる講学社といった学術団体の結成や、多くの知識人を巻き込んでの「科学と人生観」論戦などの学術活動を行い、政治的立場や党派にとらわれることなく、学術的な見地から論戦を繰り広げており、研究系が学術集団としての一面を持っていたことも明らかにした。
 そうした活動のうち、メンバーたちが発行した『国民公報』(1919年)および『新路』(1928年)の発禁という事態に注目し、『国民公報』の事例からは、「研究系」は政治的立場では軍閥側と親和性があったとはいえ、彼らのメディアは当時の北京政府にある程度は警戒されており、両者間にも一定の緊張関係があったことを読みとる。一方、『新路』の事例では、国民党が南方の地方勢力であった時期から「研究系」の雑誌・新聞に警戒感を示し、北伐で政治権力を掌握後は、共産党はいうまでもなく、彼らをも抑圧し、言論行動の自由を奪っていることからみて、結局、「研究系」は北京政府・国民党系のいずれの政治権力とも緊張関係を有していた、と指摘する。同時に党派や立場に関わらない幅広い交流も、知識人集団としての「研究系」につながった、とみる。
 第4章では、あまり先行研究の蓄積がない連邦論を中心に、「研究系」の政治思想を考察する。連邦制とその近代中国における受容の様相をおさえたうえ、まず梁啓超の連邦論に対する考えの推移を以下のように分析する。清末から梁啓超は「開明専制」論者であり、中国に強力な政府が必要だとして、連邦論の導入には否定的であったが、1918年末からの張君勱らとの欧州視察前後に劇的に変化し、中央に対する地方の主体性を確保し、国家がそれを追認するという中央-地方関係を模索するようになり、おそらくそれは梁が深く関わった湖南省憲法にも色濃い視角だと指摘する。
 さらに、張東蓀と張君勱の連邦論について論じ、以下のように指摘する。1910年代から連邦制に好意的で、中央と地方が互いに牽制しあい、人民による国家権力の制御の制度としての連邦制を考えた張東蓀は、一方で法律や議会などに中央主導を認め、全体的には連邦制と集権制を併用したような国家構想を抱いていた。それに対して、民国初期には連邦制に興味を示しながら、梁啓超と同様、連邦制の中国導入には反対した張君勱にしても、欧州視察以降、ドイツに留まって哲学者オイケンに師事することになったあたりからは、とりわけドイツの制度に影響を受け、連邦制を理論としては認める。かくして1920年発表の張東蓀との往復書簡「中国の前途:ドイツか?ロシアか?」において、張東蓀・張君勱は理論でも制度でも連邦制賛成で一致をみたのだ、とみなす。
 結局、梁啓超・張君勱・張東蓀の三者は1920年代に「連邦論賛成」という立場を同じくしたとして、以下のように分析する。1920年代における「研究系」の連邦制をめぐる議論は、軍閥割拠状況を利用して連邦制を導入しようとするものであったために、権力を多元化させる国家構想を提起する結果となった。西洋モデルの援用による具体的な国家構想の提起そのものに、「研究系」知識人たちの理念的な貢献が認められる。国民党や共産党でも権力の分散の観点から連邦制に興味を示しはしたが、結局は統一を強く意識した国家構想を主張したのであり、「研究系」のモデルの独自性はやはり歴然としている。梁啓超ら三人の連邦制議論をとってみても、多様な国家構想の提起をみてとれ、そこにも彼らの独自性が認められる、と。
 第5章では、「研究系」が運営し教育にあたった国立自治学院(1923-27年、上海)という学校のカリキュラムの変遷を通じて、「研究系」と「学閥」を中心とする地方政界や教育界などの諸勢力との関係を、以下のように考察する。彼らの理想が反映された学院でのカリキュラムは、諸勢力によって軍閥式に変質させられ、さらに国民党によって閉鎖に追い込まれた。それでも、張君勱らは短い期間ながら自らカリキュラムを設定し、それに沿って講義をしたわけで、政治が文化を全面的に支配したわけでは決してなかった。このように学校という制度からみても、「研究系」と政治権力とには緊張関係もあり、その一方で妥協的な関係もあった、と結論づけ、「研究系」が後に政党活動をするにあたり、それを支える人材を同学院で養成したことなどは、政治に対する文化のささやかな抵抗でもあった、と指摘する。
 終章においては、まず1929年以降の張君勱および張東蓀の行動を以下のように述べる。
 1929年には国民党の統治体制が固まり、張君勱と張東蓀は言論活動の自由が著しく制約され、張君勱は誘拐・監禁の憂き目に遭ったことから脱国して渡独し、張東蓀は国内でそれぞれ学術に専念、張君勱は、張東蓀が務める燕京大学の招きで1931年に帰国する。国難に直面した二人は長年温めていた政党結成を相談、1931年に中国国家社会党を結成し、国民党・共産党外のいわゆる「第三勢力」として政界で活動したが、国民党独裁政権下で実質的な権力を持つのは非常に困難であった。1946年、国民党は形式的に他の政党を参加させて「民主」を装い、憲法を定めるための国民大会(いわゆる「制憲国大」)を召集した。憲法草案にかかわった張君勱はこれに独断で参加し、強く反対した張東蓀と袂を分かつことになる。張君勱は1949年の中華人民共和国建国時に台湾に逃れるや、すぐにインドや日本などで学術講演をした後、アメリカに移住、1969年にサンフランシスコで病死した。一方の張東蓀は中国大陸に残ったが、文化大革命時に受けたスパイ嫌疑や息子たちの自殺によって精神的に疲弊し、1973年に北京で病死している。
 次に、本論文各章の論点を整理したうえで、結論として以下のような指摘をする。
 梁啓超ら「研究系」の行動は、清末以来、一方では国家権力を牽制し、その一方で知識人として、国家と国民の間に立って利益を調整すべきだとする点で、一貫するものがあった。だからこそ民国初期には参政を果たし、梁啓超らは入閣にまで至ったが、実際の政界においてはさほど影響力を持たなかった。政治権力を志向しつつ文化的活動を展開しようとする点では士大夫的だが、こと政治の場面における影響力では、政権内にあってさえ、自らの国家構想をほとんど実現できず、メディアの発達の助けで文化活動の影響力を増大させたとしても、政界では「周縁化された」近代的知識人のまま参与するほかなかった。
 そうすると、「研究系」は今までの知識人研究における「士大夫から近代的知識人へ」、あるいは「政治の中枢から周縁化された存在へ」といった図式では理解されえない存在ということになる。彼らは1910年代に政治権力の中枢にいたときも、1910年代末に政争に敗れ、政治世界から退却後も、そして抗日戦争時期に「参政」を果たしたときも、一貫して「近代的知識人」あるいは「士大夫的意識こそ持つが実際は近代的知識人」といえるような存在であった。
 近代世界においては出版資本主義がナショナリズムの興隆の大きな要因となっていた(Benedict Anderson)。1920年代の中国においてもメディアが大規模になり、初歩的出版資本主義がみられ、五四新文化運動の過程で「国語」形成も進んだ。「研究系」の新聞や雑誌もまた五四新文化運動の舞台を学生らに提供し、ある種のナショナリズム喚起に寄与したともいえる。にもかかわらず、「研究系」が重視した文化的資源は雑誌にしてもあくまで学生・知識人向けで、権力をもつ北京政府および国民政府による「公定」ナショナリズムが流布すると、その政治的影響力は広さや浸透度等の点で、一部の教育の場という限定的なものになっていかざるを得なかった。
 結局、「研究系」は、自らが固執した文化的資源の性質ゆえに、政治・軍事的統制の強まりのなかでは、政治的・社会的影響力を弱めたかもしれず、それは近現代中国という独特な磁場に置かれた多くの知識人にもあてはまる悲哀だともいえるだろう、と。
 最後に、「研究系」というミクロな視角から近代中国知識人を考えた本論文の今後の課題および展望として、二方向を示す。まず、抗日戦争時期における「研究系」の言論を厳密に分析し、1920年代と1930年代、あるいは戦後まで考慮したうえで、思想と行動の連続面と断続面を探る、という方向。もう一つの方向は、本論文が対象とした民国初期、1910年代から20年代の思想史および言論界の一側面を、別の知識人の思想や行動から照射することである。いずれにせよ、近代中国における知識人の営為および言説を、多角的な方法論から明らかにしていくという作業となるだろう、と。

三、評価と判定

 中華民国期の思想史研究は、ことに政治党派が「混迷」といわれるほどの複雑な様相をみせる早期については、困難であるとされてきた。また、史料の制約もあり、とりわけ冷戦構造下での研究は、どうしても国民党と共産党という二大政党に関連したものに対象が限られがちであった。二者対立史観化は「革命史観の断罪」を反復連呼して超克できる問題ではなく、「混迷」を多様化として、厚みのある思想史を実際に描きだすことこそが待たれていた。そこへ、本論文は、「傍系」とみなされてきた「研究系」を、知識人集団としてトータルにとらえなおし、民国期の政治思想史になんとかして確たる位置づけようと奮闘し、その課題に答えようとしている。
 その「研究系」の中心にいた梁啓超こそは、ことに清末思想文化界にあっては思想家としても、「新聞文体」の創出にも貢献した先駆的ジャーナリストとしても、掛け値なしに最重要人物のひとりではあった。とはいえ、中華民国成立後の新文化運動で青年知識人たちが一挙に華々しく登場すると、梁啓超はただでさえ存在がかすむなか、新青年たちを幻滅させていた政治に参与したあげく、政争に敗北し、第一次世界大戦後の欧州視察に出かけ、「科学万能の夢の破綻」を宣告し、学術界に沈潜することになる。張君勱ら清末の日本亡命時代からの弟子や、同時期に日本で出会いのあった張東蓀・藍公武たちを含めて、明らかに絶頂期を過ぎたその頃の梁啓超と、さまざまな面でゆるやかにつながりあった人びとを主メンバーとする知識人集団となると、おいそれとはその姿を見いだしうる存在ではなかったのである。
 従来、「研究系」のメンバーに関する個別的研究は、梁啓超のそれを除いては、政治や学術などの思想面のみに焦点を当てるものがほとんどであった。「中華民国憲法の父」ともいわれる張君勱にせよ、非理性主義哲学のオイケンの影響もあって、人生論哲学の立場から科学批判をしたことに端を発する「科学と哲学」論戦、そして後半生における伝統学術論が近年の「新儒家」ブームで注目されるなか、その一人として主に知られるのみで、その研究も多くは1930年代以降に限定的である。一方、迷信の支配する古代の「第一種文明」と科学による自由・競争の「第二種文明」を経て、今や求むべきは「互助と協同」の「第三種文明」だと提起し(1919年)、ラッセルやギルド社会主義の紹介やベルグソンの翻訳でも知られる張東蓀については、なおも資料の整理段階にあって、その独自な認識論の研究がある程度にとどまる。本論文がとりあげる、張東蓀が主筆をつとめた『時事新報』での言論はほとんど関心の外におかれてきた。こうした人物たちは、やはりその集団としての位置づけがあってこそ、重要性が浮き上がるような存在なのであろう。
 本論文では、対象時期こそ1920年代までに限られているものの、「研究系」集団の、そして個々のメンバーの知識人の思想のみならず、実際の政治行動および文化的行動の描写、さらには政権の彼らへの対応に至るまでを、思想・政治的な交流を強調しつつ、知識社会学の手法をも参照するなどの工夫をこらして、多角的に論じる。そのうえで歴史的な言論界の文脈全体のなかに「研究系」を定位しようとしていて、従来の研究にはない奥行きを持ち、日本また欧米はもとより、中国や台湾をも含めての最初の系統的な研究といえよう。
 このように新地平を切りひらこうとする本論文では、研究対象の関係者に対するインタビューを含む、使用史料の幅広さと史料文献解読の精度の高さにおいても、特筆すべきものがある。中国や日本における未出版のアーカイブのみならず、日本における既存の研究においてはどうしても軽視されがちであった台湾やアメリカ、香港等刊行の文集、回想録、政党発行の内部文書や檔案も、吟味のうえ、適宜用いている。かといって史料の海におぼれることなく、粘り強く筋道をつけた論証に心がけ、また、文語と白話がまざって解読が容易ではない当時の文献を、若手では珍しいほどに優れた語学力で読みこなしている点も、高く評価できる。
 さらに、本論文の「知識人の人的つながり」に関する成果を援用して、いわば“ヨコ”の思想史、すなわち従来の通史とは異なる視角から、1920年代の思想史をみる可能性にもつながりうるであろう。

 本論文は上述のような大きな成果を示した力作であるが、意欲的な論文であるだけに、以下のような、今後の課題として残された問題点も指摘しうる。
1,1920年代の上海は政治・経済等において流動的な時期にあるだけに、たとえば「研究系」が1927年に拠り所とした『時事新報』を売却したり、自治学院を閉鎖したりした背景を知るためにも、経済状況を考慮のうえ、財政方面からの分析が必要であろう。
2,中国史上にあっては、政治闘争で失敗して「文教界」に身を寄せ、また政治界に復活するというタイプの知識人もいたことを考えれば、知識人分析にあたっての、定義が十分とはいえない「文化的資源」と「政治的資源」という二項対立的な枠組みは、再考が求められる。
3,「研究系」内部にみえる張君勱や張東蓀の兄弟の影(君勱の弟、張公権、東蓀の兄、張爾田)について、血縁関係そのものは注記されるのみで本論文で言及されることがない。だが、中国史上において、多くは親族の延長拡大上に知識人の集団があったことを考えれば、彼らを「士大夫的意識こそ持つが実際は近代的知識人」集団として結論するためには、この血縁性、そして「新青年」たちとの同時代性からいえば、ジェンダーという観点からも最低限、検討があってしかるべきである。
4,従来、ほとんど研究されていない人物たちを中心とする、緩やかな知識人集団を想定して思想史を位置づけるという大きな展望をもつ論文であるからこそ、その説明には周到さが求められる。その点で工夫がないわけではなかったものの、不十分、不親切な点が少なくなかったので、公刊に当たっては、茫漠すぎるタイトルともども、改善が望まれる。

 本論文はこうした課題を残しつつも、これらは本人のすでに自覚するところでもあり、上述のように、「研究系」知識人集団の思想史的な位置づけにおいて、内外の学界で注目されるであろう、水準の高い先駆的研究を示しえており、公刊に値する内容を有する。
 以上、審査員一同は、本論文が中国近現代思想史研究の学界に大いに刺激を与え、寄与しうる成果を確実に挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2009年2月18日

 2009年1月29日、学位論文提出者原正人氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「近代中国知識人に関する一考察─研究系の思想と行動、1912~1929―」についての審査員の質疑に対し、原正人氏はいずれも十分な説明をもって答えた。
 よって審査委員会は、原正人氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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