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博士論文審査要旨

論文題目:近世の村落・地域社会における土豪の存在形態
著者:小酒井 大悟 (KOZAKAI, Daigo)
論文審査委員:渡辺 尚志、若尾 政希、池 享、田﨑 宣義

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1.本論文の構成
 本論文は、17~18世紀の村落・地域社会における土豪の存在形態とその変容過程を、政治・経済・社会関係の3側面から解明し、もって土豪を近世の中間層の第1世代と位置づけたものである。
 本論文における土豪とは、戦国時代の土豪・地侍の系譜を引き、17世紀において、広大な所持地、山野・用水の用益に関する特権を有し、庄屋・大庄屋などの地位にあった有力百姓のことである。
 本論文の構成は、以下のとおりである。

序 章 近世土豪論の成果と課題
 第一節 研究史の整理
 第二節 分析視角と方法
 第三節 本論の構成

第一部 大庄屋制支配の様相

第一章 土豪(=大庄屋)の地域支配
 はじめに
 第一節 早川谷の組と斉藤家
 第二節 大肝煎間の相互協力・補完関係―二つの地域的入用―
 おわりに
第二章 大庄屋制下の土豪(≠大庄屋)と地域社会
 はじめに
 第一節 広域支配区画下の土豪と地域社会
 第二節 大庄屋制支配の様相
 おわりに

第二部 土豪と同族団

第三章 村政と土豪・同族団

 はじめに
 第一節 保坂太郎左衛門の同族団
 第二節 寛文期大野村の構成と流地問題
 第三節 寛文十年の村方騒動
 おわりに
 第四章 土豪の年貢算用システムと同族団
 はじめに
 第一節 寛文・延宝期の年貢算用
 第二節 貞享期の年貢算用
 おわりに

第三部 土豪の経営形態と変化

第五章 所有・経営からみた土豪の存在形態とその変容過程
 はじめに
 第一節 豊田村の階層構成における小谷家の位置
 第二節 土地所持
 第三節 山所持
 第四節 下人所持
 おわりに
第六章 一八世紀畿内における豪農の成長過程
 はじめに
 第一節 岡村の変容と岡田家
 第二節 商業経営
 第三節 所持地の経営―手作と地主経営
 第四節 金融活動
 おわりに
補 論 松代藩領下の役代と地主・村落
 はじめに
 第一節 役代とは何か
 第二節 上五明村と坂木村団右衛門の一件
 第三節 市村南組と栗田村源左衛門の一件
 おわりに

終 章 近世の村落・地域社会における土豪の存在形態
 第一節 各部での分析結果の整理
 第二節 本論全体からみえる近世の土豪像と残された課題


2.本論文の要旨
 序章では、近世土豪論の成果と課題について述べられている。従来の研究史においては、17世紀の土豪について、中世の遺制と位置づけ、小農自立の過程で否定されるものと評価する傾向が強かった。また、土豪の存在形態をトータルに分析するという姿勢が弱かった。そこで、本論文では、17世紀の土豪について政治・経済・社会関係の各側面から総合的に分析し、それを通じて従来の土豪に対する消極的・否定的評価を再検討することを課題とする。
 第一部では、政治的側面から土豪にアプローチしている。具体的には、土豪が主導する、村を越えた広域支配制度の実態が分析されている。
 第一章では、越後国頸城郡早川谷で大肝煎(大庄屋)を務めた斉藤家を事例に、同家の地域支配について検討している。斉藤家は居村では最高の有力者であり、その経済的影響力は周辺村々にも及んでいた。しかし、それは早川谷全体に及ぶほど強大なものではなかった。そのため、斉藤家は自らの経済的実力だけでは谷全域を安定的に統括・編成することはできなかった。そこで、同家は、周辺の大肝煎たちと、谷全体に関わる経費の算用などにおいて相互に協力・補完し合うことによって、地域支配を円滑に行なっていたのである。
 第一章で大庄屋を務めた土豪を扱ったのに対し、第二章では大庄屋を務めなかった土豪の動向を分析している。取り上げるのは、越後国魚沼郡堀之内組上条の土豪目黒家である。堀之内組では、中世以来の土豪宮家が大肝煎(大庄屋)を務め、目黒家は堀之内組のうちの16か村で構成される上条という地域単位の庄屋を務めていた。16か村にはまたそれぞれ庄屋がおかれていたが、17世紀前半にはいまだ村々の自立性は弱く、そのため目黒家が上条16か村を全体として統括していた。つまり、堀之内組村々の上部には、宮家と目黒家という二重の統括者がいたのである。このうち、宮家が就いていた大肝煎職は近世になって新たに設けられた広域支配制度であり、他方目黒家は中世以来の枠組みに依拠して上条の支配を行なっていた。宮家と目黒家の間には地域支配のあり方をめぐって対抗関係が存在したが、17世紀後半になり、上条内部の16か村が自立性を高めてくると、それと結びついた宮家が目黒家を圧倒し、宮家の影響力が上条内部にも貫徹するようになっていく。こうして、近世に成立した地域支配制度である大庄屋制が、地域全体に浸透していくのである。
 第二部では、社会的側面からのアプローチとして、村内部で土豪が形成した同族団に着目した分析が行なわれている。
 第三章では、越後国頸城郡大野村の土豪保坂家とその同族団について検討されている。大野村の庄屋は代々保坂本家が務めてきた。しかし、17世紀後半になると、保坂一族の分家筋に当たる長三郎が庄屋に就任した。長三郎は、保坂本家が庄屋だったときの施策を反故にして新たな村運営を行なったため、長三郎支持派と保坂本家支持派との間で村方騒動が起こった。騒動後も庄屋職は保坂本家には戻らず、庄屋は任期2年の年番制に移行したのである。従来から、17世紀後半に、村方騒動を通じて、土豪の専断的な村運営が否定されていく事例は多く紹介されてきた。しかし、これまでは、土豪を批判する主体としてはもっぱら小百姓層が想定されてきたが、本章の事例からは、それとともに同族間(本家・分家間)の矛盾・対立と本家に反発する分家の動向が、村落秩序の変動に大きな役割を果たしていることが明らかになった。
 第四章では、第三章と同じく大野村と保坂家を対象として、第三章に続く17世紀後半から末期の同族団について分析している。当該期に成立した分家は、もと保坂家の従属的身分の者たちであった。彼らは、分家したものの、単独では毎年の年貢を完納することができなかったため、保坂家を中心とする同族団全体で協力しつつ年貢完納を果たしていたのである。同族団は、いまだ脆弱な分家が経営を存続させていくためには不可欠の存在であった。
 第三部では、経済的側面からのアプローチとして、土豪の経営形態とその変化が追究されている。
 第五章は、和泉国大鳥郡上神谷豊田村の小谷家を対象として、耕地所持と農業経営、山所持、小谷家の下人の動向の3側面から、同家の経営の特質について検討している。小谷家は、17世紀を通じて手作地を縮小し、小作地経営を拡大していった。そして、小作地においては土地生産力の正確な把握に努め、それによってより多くの小作料を収取することを目指した。ここに、村方地主としての経営発展を目指す小谷家の主体的努力を認めることができる。他方、山所持については、小谷家の所持する山が遠隔地に散在していたこともあって、山の権利を小作人らに脅かされることになった。さらに、下人については、17世紀を通じて、下人たちが着実に経済的力量を蓄積して小谷家から自立していく傾向がみられ、小谷家の下人に対する支配力はしだいに弱まっていった。このように、17世紀の小谷家は、地主経営を発展させる一方で、山所持や下人支配を動揺させていた。同家の経営は、一路衰退したのでもなければ、右肩上がりに発展したのでもなく、正負両面における質的変化をともないつつ18世紀を迎えることになったのである。
 第六章は、河内国丹南郡岡村の地主岡田家を事例に、18世紀における同家の経営動向を追究している。岡田家は、18世紀前半には、岡村を中心に周辺10数か村にわたって糟・木綿販売を行なっていたが、18世紀後半にはこうした商業活動からは撤退していく。18世紀を通じて、一貫して経営の柱だったのは地主経営と金融活動であった。岡田家の所持地の中核部分は岡村と隣の藤井寺村にあり、同家の地主経営の基盤はこの両村におかれていた。それに比べて、金融活動はより広範囲の地域にわたって展開していたが、岡村が貸付額・貸付人数の双方において最大であった。金融活動においても、最大の基盤はやはり岡村にあったのである。このように、地主経営・金融活動の双方において、村の規制を受けつつ村に立脚して経営を営む岡田家は、基本的に村落規模の村方地主であるといえる。そして、こうした村方地主としてのあり方は、第五章で分析した小谷家の経営発展方向の延長線上に位置づけられるものである。
 補論では、信濃国松代藩領を対象に、他村の地主と村の小作人との間を媒介する「役代」という存在に着目して、役代を挟んだ地主と村の関係のあり方を検討している。
 終章では、以上の分析結果をまとめたうえで、17世紀の土豪が、村落・地域社会において自らの主導的地位を確立・維持すべく、政治・経済・社会関係の各側面において能動的・積極的に努力していたこと、その意味で土豪は単なる中世の遺制ではなく、近世における中間層の第1世代として位置づけられること、を主張している。

3.本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、17世紀における土豪の存在形態を、政治・経済・社会関係の各側面にわたってトータルに解明したことである。土豪については、1960年代以降主に経営内容に重点をおいた分析が行なわれ、その面では成果をあげたが、土豪が村や地域社会において取り結ぶ社会関係が全面的に追究されることは少なかった。ところが、近年では逆に、土豪が地域社会において果たした役割には注目が集まっているものの、そうした研究は土豪の経営や村・地域の経済・社会構造の充分な分析をふまえたものとはなっていないことが多い。そうしたなかで、本論文が、土豪について、大庄屋などとして地域社会において果たした役割、同族団結合をはじめとする村内での社会関係、経営の全体像とその変容過程、などの各方面から、その全体像を提示した意義は大きい。
 第二の成果は、第一の成果をふまえて、17世紀の土豪を近世の中間層の第1世代と位置づけたことである。従来の研究では、土豪は中世からの残存物で、17世紀を通じて否定・克服されていくものとして、否定的・消極的に捉えられるのが常であった。しかし、本論文では、土豪が、所持地の生産力の正確な把握、同族団の結束による村内での地位の安定化、大庄屋制支配を管轄地域に浸透させる努力、などさまざまな仕方で、自らの政治的・経済的・社会的地位を維持・上昇させるべく主体的に行動していた姿を明らかにした。こうした努力の結果として、土豪のかなりの部分が18世紀以降も村方地主として存続していくことができたのである。その意味で、土豪は単なる中世の遺制ではなく、18世紀以降に続く、近世中間層の1類型なのである。このように、土豪を、近世中間層論のなかに明確に位置づけた点が、本論文の第二の意義である。
 第三の意義として、従来の17世紀土豪論が、史料が比較的多く残っている近畿地方の事例を中心に組み立てられてきたのに対して、本論文では越後の事例を多く取り上げ、それと近畿の事例を組み合わせて、より豊かな土豪像を描き出している点があげられる。
 以上のように、本論文は、研究史上大きな意義を有しているが、もとより不十分な点がないわけではない。
 本論文では、終章で土豪の総括的位置づけを行なうに際して、「土豪の実力」、「土豪の能動的・積極的姿勢」などといった表現が用いられている。しかし、こうした表現は抽象的に過ぎ、それが各章における実証分析のどの部分から導き出されたものなのかがわかりにくくなっている。また、土豪に主体的な行動を促した時代的・社会的背景についての考察がやや手薄になっている。さらに、戦国期の土豪と17世紀の土豪との共通点と相違点、前者から後者への移行過程の分析が今後の課題とされている点も、いくぶん物足りない。
 ただし、こうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のことから、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、小酒井大悟氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2008年11月12日

 2008年10月16日、学位論文提出者小酒井大悟氏の論文について最終試験を行なった。試験においては、提出論文「近世の村落・地域社会における土豪の存在形態」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、小酒井大悟氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は、小酒井大悟氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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