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博士論文審査要旨

論文題目:日中民間漁業協定の歴史的意義
著者:陳 激 (CHEN, Ji)
論文審査委員:吉田 裕、渡辺 治、三谷 孝、高津 勝

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1、本論文の構成
 1949年10月に成立した中華人民共和国と日本との間には、東シナ海・黄海における日本漁船団の操業をめぐって、中国側官憲による日本漁船の拿捕、日本人乗組員の抑留など、深刻な対立が生じていた。この問題の解決のため、1955年1月から4月にかけて、北京で日本側の日中漁業協議会と中国側の中国漁業協会との間で一連の会談が行われ、その結果、締結されたのが史上初の民間漁業協定である日中民間漁業協定であった。本論文は、両国間に国交がない段階でのこの民間協定の意義を戦前の歴史にまで遡りながら、歴史的に解明しようとした意欲的論文である。その構成は以下の通りである。

はじめに
第一章 戦前日本の遠洋漁業と以西漁業
 第一節 遠洋漁業の発達
 第二節 以西漁業の形成・発展
 第三節 公海自由・3海里領海と日本
第二章 占領期の以西漁業と講和問題
 第一節 マッカーサーラインと以西漁業
 第二節 以西漁業の復興
 第三節 以西漁業の企業と労働者
 第四節 講和と日本の漁業
第三章 民間交渉の提起と実現
 第一節 中国による拿捕・発砲事件の発生
 第二節 民間交渉への道
 第三節 交渉の焦点―公海自由
 第四節 協定の実施とその後
終わりに

2、本論文の概要
 第一章では、戦前期日本における遠洋漁業及び以西漁業の形成・発展の歴史が丁寧に整理されている。欧米列強に対抗して遠洋漁業を振興するため、明治政府は、1897年制定の遠洋漁業奨励法などによって、漁業の近代化に大きな力を注いだ。トロール漁業やその発展型である機船底曳網漁業に国家資金を重点的に投入することによって、漁船の大型化、漁業機器の技術革新、石油発動機関の普及を強力に推進したのである。しかし、機船底曳網漁業の高い漁獲高は、近代化の遅れた沿岸漁業民にとっては深刻な脅威であり、各地で両者の間に激しい紛争が繰り返された。このため、政府は機船底曳網漁業の漁場を日本の沿岸から離れた地域に設定し、最終的には東経130°以西の地域をその漁場とした。ここで形成されたのが以西漁業である。
 同時に、漁業の近代化は、日本の帝国主義的な発展の結果である漁場の外延的な拡大によってももたらされた。日本の朝鮮支配が強化されるに伴って、日本漁民の操業範囲は拡大され、さらに、日清戦争による台湾の領有、日露戦争による関東州の租借などによって、漁場の拡大と大陸における漁業基地の確保が達成された。この結果、日本の漁船団は中国沿岸での乱獲によって中国の沿岸漁業者の生活を脅かし、水産資源の荒廃をまねくことにもなった。また、侵漁による大量の漁獲物を日本の漁業者は中国に密輸出し、中国市場で廉価で売りさばいたため魚価が暴落した。この結果、中国では、日本漁船の操業に対する抗議行動が拡大していくことになる。1930年代には、日本の漁獲が全世界の総漁獲高の3割以上を占めるようになり、日本は世界一の水産大国となったが、そのことは関係諸国にとって日本が大きな脅威となったことを意味していたのである。
 注目する必要があるのは、日本の野放図な漁場拡大政策を国際法の面から支えていたのが、無制限の公海自由原則だった。日本は、この原則を盾にとって乱獲を正当化したのである。しかし、従来、国際法の分野で支配的であった公海自由原則にも、水産資源保護の立場から一定の規制が始まりつつあった。1911年締結のオットセイ保護条約、1937年締結の国際捕鯨取締条約などがそれである。しかし、日本政府は前者には加盟したものの、その後、脱退し、後者には加盟すらしなかった。公海自由原則に固執することによって、日本は国際的孤立化を深めていったのである。
 第2章では、占領期の以西漁業の実態が、日本政府やGHQの政策、水産会社の経営や雇用関係の特質と関連させながら、多面的に分析されている。多数の漁船の喪失、漁場の大幅な縮小など、日本の水産業界は敗戦によって大きな打撃を蒙った。しかし、当面する食料危機を打開するためにも、漁業の復興と、豊富で安定した漁獲量を見込める以西漁業の再開は焦眉の課題だった。このため、日本政府は、操業の再開をGHQに強く要請し、GHQもこの要請を受けて操業範囲を定めたマッカーサーラインを設定した。これによって以西漁業の再開は認められたものの、その漁区は、戦前より大幅に縮小されていた。GHQは、自国及び連合国諸国の漁業権益の保護のため、日本の操業水域を規制しようとしたのである。こうした状況下で、日本政府は、以西漁業を重点目標にして、漁船の新造船計画を実行に移し、復興金融金庫を通じて多額の国家資金をこの計画に投入した。この結果、占領期には、以西底曳網漁船数は、戦前の水準を突破するに至った。しかし、この計画は、操業水域の水産資源とのバランスなどを考慮したものではなく、かなり杜撰な内容を持っていた。GHQもまた、基本的には日本側の計画を黙認した。この結果、豊富な漁獲が見込める以西漁業の漁場に多数の漁船が殺到し、熾烈な競争環境が形成されたのである。そして、これらの漁船は漁獲高を上げるため、マッカーサーライン(1950年以降は華東ライン)を意識的に越境して操業するようになる。
 また、このような状況に拍車をかけたのが、以西漁業における経営と雇用のあり方だった。以西漁業では、少数の大経営水産会社が多くの漁船を所有する一方で、小規模経営の漁業者が多数を占めていた。後者の場合、賃金形態は、純歩合給か、固定給に歩合給を加味する混合給のいずれかであり、漁業者(船主)が船頭(漁労長)を雇用し、さらに船頭が口頭の約束で漁船員を雇用するという二重の雇用関係が形成されていた。このような不安定な雇用関係の下では、最下層の漁船員も生活のために、越境操業を受け入れざるを得なかったのである。
 第3章では、中国側による拿捕・抑留の実態と日中民間漁業協定締結までのプロセスが詳細に分析されている。1950年頃から、中国側官憲による日本漁船・漁民の拿捕・抑留事件が頻発するが、その背景には、自国の沿岸水産資源の保護、日本漁船による情報収集活動の阻止などの理由に加えて、高性能の日本漁船の獲得という現実的理由があった。しかし、長期間にわたる抑留は、日本側漁業関係者の生活に深刻な打撃を与えたため、以西漁業関係者を中心にして、中国側との民間交渉によって安全操業を実現しようとする動きが台頭してくる。当初、中国政府は、吉田内閣の対中国政策に反発してこの要請に応えようとしなかったが、1953年7月に朝鮮戦争の停戦協定が締結されると対日関係の改善に乗り出し、1954年末には多数の漁民や漁船を日本に送還した。中国側は、鳩山内閣の誕生によって日本政府の対中国政策が転換することを期待したのである。こうした中で、1955年1月から4月にかけて、中国側との交渉が開始されたが、日本政府も中国との国交回復交渉には応じないという従来の路線と矛盾しない範囲内で、日中漁業協議会の対中国交渉を黙認・援助した。交渉は難航したが、最終的には安全操業の確保という現実的利益を優先させた日本側代表団が、操業規制を受け入れることによって妥協が成立する。日本側が無規制の公海自由原則を放棄することによって、日中民間漁業協定がついに成立したのである。

3、本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、従来、日中国交回復の前史としての意味しか与えられてこなかった日中民間漁業協定問題を本格的に取り上げ、その固有の歴史的意義を多面的に明らかにしたことである。その分析は、近隣諸国に大きな脅威を与え続けてきた水産大国日本の歴史、敗戦が水産界に与えた打撃、日本政府・GHQの漁業政策の特質と以西漁業復興との関連、経営と雇用関係から見た以西漁業の特質、50年代前半における日中間の漁業をめぐる紛争の実態、中国政府の対日政策の特質と日中民間漁業協定締結に至る経緯など、極めて多岐にわたり、論旨も極めて説得的である。その点では、本論文は日中民間漁業協定に関する最初の本格的実証研究といえるだろう。また、水産大国としての日本の復活が、中国や韓国、さらには英連邦諸国などにとっては大きな脅威であり、そのことに対する危惧が、連合国の対日政策に無視しえぬ影響を及ぼしていたことを具体的に明らかにしたことも本論文の大きな成果である。
 第二には、日中民間漁業協定が、漁業をめぐる国際法の発展に寄与した事実を明らかにした点があげられる。すなわち、同協定の締結は、公海における漁業に一切の規制を加えない伝統的な公海自由原則を一定程度修正し、水産資源保護のための操業規制という新たな原理が確立されたことを意味したのである。本論文は国際法研究と歴史研究の結合を意図しているが、それに見事に成功していると評価できよう。
 第三には、文献史料の分析とオーラルヒストリーの手法を巧みに組み合わせている点が上げられる。文献史料の分析では、日本側の史料だけでなく、従来閲覧することができなかった豊富な中国側史料を使って、中国側による拿捕の目的を明らかにした。オーラルヒストリーの問題では、抑留された漁船員たちからの丹念な聞き取りによって、越境操業をせざるを得ないような不安定な雇用関係、抑留中の中国側による「思想教育」や厚遇政策の実態などを具体的に明らかにしている。また、中国側の意識的な政策によって、漁船員たちが中国に好印象を抱いて帰国している事実を明らかにしている点も重要である。この聞き取りによって、中国側の政策的意図がより鮮明になったということができよう。
 とはいえ、いくつかの問題点を指摘することもできる。第一は、無規制の公海自由原則が修正されたとはいえ、日本政府がその後に締結した国際条約の中で、この修正が確実に継承されているか否かが問題となる。この点については、さらなる実証研究が必要となるだろう。
 第二には、従来の日中国交回復史研究に対する反省から、日中民間漁業協定の固有の意義という問題が重視されているが、その反面、この協定の締結自体が、日中民間貿易協定の締結と並んで、国交回復への歴史的流れを作り出していったという側面が、軽視されているのではないだろうか。
 第三には、アメリカの東アジア戦略との関連が十分に分析されていないという問題がある。アメリカは、この日中民間漁業協定問題にどのような姿勢で臨んだのか、また、それは、アメリカの対中華人民共和国政策や対中華民国政策とどのように関連していたのか、という問題の解明は今後の大きな課題だろう。しかし、以上の問題は、筆者自身が十分に認識しているところでもあり、また、日中民間漁業協定に関する先駆的研究である本論文の価値を貶めるものでもない。
 以上の理由により、審査委員会は、本論文が当該分野の発展に十分寄与する成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2008年11月12日

 2008年10月15日、学位論文提出者・陳激に対する最終試験を行った。試験
においては、提出論文「日中民間漁業協定の歴史的意義」に関する疑問点につ
いて、審査委員が逐一説明を求めたことに対し、陳激氏はいずれも十分な説明
を与えた。
 よって、審査委員会は、陳激氏が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与され
るのに必要な研究業績及び学力を有することを認定した。

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