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博士論文審査要旨

論文題目:ベギン運動の展開とベギンホフの形成
著者:上條 敏子 (KAMIJO, Toshiko)
論文審査委員:土肥恒之、深澤英隆、森村敏己、阪西紀子

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I 本論文の構成
 ベギンとは、修道会に所属せず、俗人の資格のまま敬虔な生活を営んだ女性に対して、13世紀から広く一般に用いられた名称である。修道院に入る場合、自分の財産すべてを放棄することが求められたのに対し、ベギンの場合、質素な生活を誓いはするが、財産を自分で管理し続け、経済的に自活することが原則とされた。このような半聖半俗の女性は、初期には特にネーデルラントとドイツに見られたが、後には北ヨーロッパの各地で見られるようになった。本論文は、ベギンとは何であったのか、中世の女性にとってベギンになるとはどのような意味を持っていたのか、という問題を考えることを課題としている。

 本論文は以下のように構成されている。

緒言
序章
第1部 ベギン運動とベギンホフの形成
 第1章 ベギンとは何か
  ベギンとは
  マシュー・パリスの年代記にみるベギン
  一三世紀ドイツの教会会議によるベギン運動規制法
  リヨン公会議前夜の教会情勢とベギン問題
  クレメンス教令とその影響
  結び
 第2章 ベギン運動の展開
  ライン川流域諸都市及びマインツ司教区における最初のベギンの出現
  ベギン運動の展開
  ベギンの居住形態
  一三世紀のベギン館
 第3章 ベギン集中居住区の形成
  中世シュトラスブルク市概観
  ベギンの居住地の地勢的集中
  托鉢修道会とベギン
 第4章 ベギンホフの形成
  ベギンホフ形成以前のベギンの居住形態
  ベギンホフの設立年代
  ベギンホフの人口
  ベギンホフ建設の動機
  ベギンホフ建設の推進者
  レウヴェンのフロート=ベギンホフ形成
 第5章 ベギンホフの法と生活
  フロート=ベギンホフの法と生活
  ベギンの経済生活
  ベギンホフの社会経済的機能

第2部 ベギンホフの慈善制度
 第1章 聖霊ターフェルによる貧民救済
  1.フロート=ベギンホフの聖霊ターフェルの管理機構
     管理者
     会計簿
  2.フロート=ベギンホフの聖霊ターフェルの財政基盤
     所領収入
     所領外収入
  3.フロート=ベギンホフの聖霊ターフェルの支出の構成
     所領維持費
     ターフェル運営費
     「貧民救済費」
  4.フロート=ベギンホフの聖霊ターフェルによる貧民救済の性格
     誰がターフェルの貧民か
     貧民の資格
     ターフェルによる貧民救済の規模
 第2章 施療院
  1.施療院とは
     施療院長
     病者と看護婦
  2.施療院経済
  3.施療院の生活
     禁域
     建築
     病室
     施療院付属礼拝堂
  4.施療院の支出の構成

第3部 近代以降のベギンホフの歴史から
    16、17世紀のベギンホフ
    18世紀以降のベギンホフ
    ベギンホフの現在
    存続を支えたもの

終結部 修道生活の多様化と貴族主義の終焉
    女子修道制をめぐる問題
    変化のきざし
    修道生活の多様化
    ケルンにおける女子修道院設立動向
    ケルン市におけるベギンの増加
    修道女及びベギンの出自
    宗教生活の選択

結語
付録
(レウヴェン最後のベギンへのインタヴュー/レウヴェン最後のベギンの死亡記事/ユリアの肖像/ベギンの肖像/初期ベギン関連史料抄訳/ベギンホフ建設関連史料抄訳)
文献目録
あとがき


II 本論文の概要

 序章では、問題へのアプローチに関わる基本的問題と切り口、先行研究における当該テーマの位置および独自性、方法および本論文の構成が述べられる。基本的問題として、第一に、研究者がベギンと呼び習わしてきた女性の範囲が、中世においては必ずしも明確ではないこと、第二に、ベギンの組織形態には地域差があったこと、第三に、多様な史料群に登場するベギン像が一定ではないことが指摘される。

 ベギンに関する先行研究としては二つの流れがあり、一つは都市史研究の立場からのもの、もう一つは宗教史研究の立場からのものである。前者の一つ、ビュッヒャーの著書(1882年)では、特に都市において成人女性人口が男性人口を大幅に上回っていたとして、これを中世の女性問題の根源と見なす。そして、結婚できない多くの女性たちを受け入れたのが、修道院やベギン館であり、後者は特に、貧困ゆえに身を持ち崩しやすかった下層の単身女性を救済するための施設であった、と説明される。これに対して、中世の宗教運動に関する古典的研究となったグルントマンの著書(1935年)では、初期のベギンは清貧の理念に強く影響されて物質的な富を自ら放棄した、と主張される。その理由として、初期のベギンの出身階層の高さ、修道願望の強さ、女子修道院の収容力の相対的不足、が挙げられる。グルントマンのこの理解は学会に強いインパクトを与え、その後の研究の枠組を規定することになった。なお、ビュッヒャーの中世都市の人口比に関する説に対しては近年、反証が示され、その面からも修正が迫られている。

 ベギンの関連史料、特に文書史料の刊行状況は、ドイツ語圏の特定の都市をのぞいては概して悪く、現在のベルギーについては史料の整理そのものが行なわれていない例も少なくない。そのため文書史料を網羅的に探索した研究文献は限られている。本論文では、地域による比較の対象としてライン川流域からシュトラスブルク市が、ネーデルラントからレウヴェンが取り上げられる。

 第1部第1章では、さまざまな史料から、同時代人の目に映ったベギンの姿が描き出される。イングランドのベネディクト会修道士マシュー・パリスは、その年代記に、13世紀初頭、ドイツでベギンが増えていることを記述し、この勤労と敬虔を兼ね備えた新しいタイプの俗人修道女に関心を寄せている。13世紀のドイツの教会会議におけるベギン規制令は、放浪と托鉢を行なうベギンの姿を明らかにする。また、リヨン公会議前夜にグレゴリウス10世に提出された教会改革案では、それぞれの地域におけるベギン運動の特色を反映し、ある地域ではベギンそのものの禁止が、他の地域では宗教に関する俗語の書物――ベギンが読むことで異端的な思想が広まる可能性がある――の根絶が、提言されている。しかし、ベギンをめぐるさまざまな問題に抜本的な対策が立てられないまま、ベギンは増大し、1311年にはベギンを全面的に禁じるクレメンス教令が出される。

 第2章では、ドイツにおけるベギン運動の中心地であったライン川流域諸都市のベギン運動の発展が、先行研究によりながらたどられる。史料として用いられているのは、ベギンによる資産譲渡契約書で、そこにベギンは家屋の売買、賃貸、遺贈を初めとする財産契約の当事者として登場する。ライン川流域諸都市において、最初のベギンが史料に現れるのは1220年代のケルン市であり、1300年までには多くの都市に現れている。資産譲渡契約書に現れるベギンは13世紀後半以降急速に増加し、14世紀には多くのベギン館が設立され、1400年頃までにはすべてのベギンがベギン館に住むようになったと推測される。ベギンはその後減少し、15、16世紀にはベギン館に欠員が出ることになった。

 第3章は、シュミット、フィリップスの研究によりながら、シュトラスブルク市を例にベギン集住区の形成を考察する。シュトラスブルク市において、ベギンが好んで托鉢修道会の周辺に住居を求め、その礼拝堂に通ったことが明らかにされる。また、托鉢修道会の側でも、貸家を経営したり、家屋の購入の斡旋を行なったりしており、多くの女性がその斡旋を受けた。こうしてシュトラスブルク市ではベギン館が特定の場所に集中することになり、またベギン館の周辺には一般の独身女性や、ベギン館に居住しないベギンが多く住んだことから、特定の地区以外に住むベギンは少なかった。

 第4章では、ネーデルラント諸都市に見られるベギンホフというベギン専用の居住地の建設が扱われる。ドイツ諸都市ではベギンの生活空間を俗人の生活空間から完全に分けようとする試みは見られなかったのに対し、南ネーデルラントでは、ベギンホフはしばしば囲壁によって囲まれ、小都市の様相を呈した。ベギンホフは、修道院のような地域を越えて横の広がりを持つ組織ではなく、一人の共通の創立者があったわけではないが、さまざまな人々がそれぞれの理由で、それぞれのベギンホフを設立した。例えば、高貴な家門の結婚できない女性が名誉を失わずに自活できるように、教会に行くベギンが途中で俗人と紛れることのないように、などである。

 第5章では、ベギンホフの自治とベギンの経済生活が問題とされる。レウヴェンのベギンホフは、シトー派修道院長ヴィレールの介入により教区司祭からの独立を認められ、内政に関して完全な自治権を持っていた。ベギンホフに住むベギンも、各自が生計を維持する責任を負い、自分で自分の財産を管理することになっている。共同生活を好まないベギンは、経済力が伴えば、一戸建ての家に住むことも可能であった。

 第2部では、ベギンホフにおいて経済的に自活できないベギンのために設けられていた一連の救済制度が扱われ、第1章では聖霊ターフェルについて、第2章では施療院について、それぞれの会計簿の分析からその機能が論じられる。聖霊ターフェルの収入基盤は、ターフェルがレウヴェン市の内外に所有する土地からの収入であり、その他にベギンと市民からの喜捨と遺贈による収入があった。ターフェルの貨幣支出の大部分は食糧と布の購入に当てられ、それらは決まった日にベギンホフの貧民に分配されたと見られる。ターフェルの貧民としてこれらの分配に与かるには、評判が良くなければならない、賭博を行なってはならない、などの倫理的な条件を満たさなければならなかった。地代として取り立てられた穀物の大半が、そのまま貧民に配給されたとすると、ベギンホフの貧民は非常に内容のある援助を受けていたことになる。

 第2章では、病気のベギン、老いて体のきかなくなったベギンのための救済施設である施療院が論じられる。施療院長はしばしばベギンホフ長と兼任され、施療院が雇用する使用人は、しばしばベギンホフ全体のために雇われた。聖霊ターフェルの場合と同様、施療院財政を支えた所領は、かなりの部分をベギンからの贈与によっていたと見られる。そして、施療院で看取られて死亡したベギンの財産は、強制的に施療院のものとされた。会計記録などを総合すると、施療院の入所者の生活は、当時としては粗食とは呼びがたい食事を三食支給され、ベッドに横たわったままミサに与かれる、など恵まれたものだった。このような点も、女性たちがベギンホフ入居を考慮する際の判断材料となったと考えられる。

 第3部では、近代以降のベギンホフの歴史と、ベギンホフの現況が述べられる。南ネーデルラントにおいて、ベギンホフは宗教改革時代を生き抜き、17世紀に第二の繁栄期を迎えた。しかしその後、フランス革命の時代にベギンホフは国有化され、資産を売却されることになる。その後ベギンホフは再建されたが、19、20世紀とベギンの数は減少の一途をたどった。現在ベルギーに残された数十のベギンホフのうち、ベギンが住むものはわずかである。

 終結部では、ベギン運動の展開の背景を探るために、修道院制度の展開の中にベギン運動が位置づけられる。修道制の初期から女子修道院は設けられていたが、その数は男子修道院に及ばず、特に10世紀以降、その差はますます大きくなった。そのため、女性にとっては修道院に入る可能性がせばめられ、そのことがベギンの増加の背景にあったと見られる。さらに、12世紀初頭までは修道生活はもっぱら貴族のものであったが、ベギンも含めた修道生活の多様化により、この状況は一変する。都市の生んだ新興階層であるパトリツィアートなどの修道願望は、既存の女子修道院制度によっては満たされず、それを吸収することでベギン運動は成長していった。

 ベギン運動が展開した時代、ネーデルラントもライン川流域も織布が基幹産業であり、それは都市の富の源泉であると同時に、ベギンにとっては主要な生計手段であった。13世紀初頭のベギンの増加はまた、修道者を広義に解釈し労働を肯定的に評価する、ヴィトリのヤコブによる新しい修道観にも支えられていた。修道院に入るためには高額な持参金が必要とされ、結婚持参金はさらに高かった時代にあって、経済活動の余地のあるベギンの生活は、すべての女性に対して開かれたものだった。


III 本論文の成果と問題点

 本論文の成果は、まず第一に、これまで日本ではまとまった研究の存在しなかったベギンについて、先行研究を踏まえつつ、史料にあたり、また現存のベギンホフを訪れるなどして、一つの像を再構成してみせたことである。グルントマンによる初期のベギンについての肯定的な見解はあるものの、従来、ややもすれば異端視され、集団で怪しげな生活を送る女たちと見なされがちであったベギンを、地域による比較を試みながら、経済的な自立を目指した敬虔な女たちとして説得力をもって描き出した意義は大きい。また、主たる研究対象地域であるベルギーは現在もオランダ語とフランス語を併用しており、中世の史料を読むためには、これらの言語の古い形に加えてラテン語が読めなければならない。さらに、ライン川流域諸都市について研究するにはドイツ語が必要となり、言語の面からも苦労の多い対象である。そのような困難にもかかわらず、著者が文献・諸史料を網羅的にフォローしていることは、研究の当然の前提とはいえ、評価されるべきであろう。

 第二に、従来の都市史あるいは宗教史の枠組を越えて、経済的・社会的な側面からもベギンをとらえていることである。例えば、聖霊ターフェルや施療院を都市の貧民救済政策という面からのみではなく、ベギンホフへの入所を促進する要因たりえるものと見ていることが挙げられる。それらの施設が提供した処遇を会計簿の分析から明らかにすることを通して、当時女性が置かれていた状況との関わりで、女性にとってベギンとなることを選択する意義の一つがより明瞭になったと思われる。

 本論文は、基本的にはその成果を積極的に評価すべきものであるが、限界や問題点もないわけではない。第一に、中世の女性にとってベギンになることはどのような意味を持っていたのかという問題について、上述のようなある程度の示唆はなされているものの、十分には答えられていないことである。第二に、13世紀以降のベギン増加の背景として修道願望の高まりが述べられているが、他の形態との関係でなぜベギンが選ばれたかについての論証が弱いということである。第三に、労働していても救われることは可能だ、という思想の源泉として、ヴィトリのヤコブが挙げられているが、それだけでは不十分だということである。

 しかし、このような問題点は著者も自覚するところであり、史料の制約が大きいことは予想されるが、当該テーマにおいて重要な位置を占めると思われるので、今後の研究の進展に期待したい。

 以上、審査員一同は、本論文が西洋中世における女性の一つのあり方としてのベギンをさまざまな側面から明らかにした意欲作であることを積極的に認め、上條敏子氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1999年3月10日

 1999年2月12日、学位論文提出者上條敏子氏の論文についての最終試験を行なった。 試験において、提出論文「ベギン運動の展開とベギンホフの形成」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、上條氏は、いずれにも適切な説明を行なった。
 よって審査委員会は、上條敏子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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