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博士論文審査要旨

論文題目:アナーキズム思想に見られる革命観とその背景 ―『フライハイト』紙を中心にして 1879-1886年 ―
著者:田中 ひかる (TANAKA, Hikaru)
論文審査委員:加藤 哲郎、渡辺 治、平子 友長

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 田中ひかる氏(以下筆者と記す)の学位請求論文「アナーキズム思想に見られる革命観とその背景 ―『フライハイト』紙を中心にして(1879-1886年)―」は、19世紀後半ドイツの社会運動のなかで重要な役割を果たしたアナーキズムの新聞『フライハイト』と指導者ヨハン・モストの論調を丹念にあとづけ、そこにみられる革命観を、当時の歴史的文脈のなかで抽出し論じたものである。

一 本論文の構成

 本論文は、以下のように構成されている。
序章 
 第1節 1880年代におけるアナーキズムの革命観の位置
 第2節 アナーキズムおよびその革命観に関するイメージ
 第3節 『フライハイト』紙について
 本論文の構成
第1章 創刊からニューヨークへの移動まで
 第1節 社会民主主義からアナーキズムへ
 第2節 革命観の諸特徴
 第3節 ロンドンからニューヨークへ
第2章 『フライハイト』紙とアメリカにおけるアナーキズム運動
 第1節 社会革命派の成立
 第2節 演説旅行と組織の再生
 第3節 ピッツバーグ会議
 第4節 労働組合とアナーキズム
第3章 「自由社会」論をめぐって
 第1節 「自由社会」論の成立
 第2節 「共産主義的アナーキズム」
 第3節 批判と反論
第4章 ヘイマーケット事件前夜の革命観
 第1節 ドイツ語圏各地での「行動」
 第2節 革命観とその変容
終章 ヘイマーケット事件とその後


二 本論文の概要

 序章は、先行研究の批判的整理と視角の設定である。ヨハン・モストと『フライハイト』紙は、これまで主にドイツ社会民主主義との関わり、シカゴでのヘイマーケット事件に代表されるアメリカ・アナーキズムとの関連で言及されてきた。そのさい解釈の基準とされたのは、E・ホブズボームらによって与えられた、「革命的状況」なき時代の「主意主義」という規定であった。しかしこれは、筆者によれば、アナーキズムの思想の解明を軽視したもので、実証されてはいない。ドイツ歴史学における近年の「少数派の伝統の再発見」の動向からしても、改めて検討さるべき課題である。そこで筆者は、「自由意志だけで革命ができる」と主張していたとされる『フライハイト』紙から、その革命観を抽出する。革命の原因・端緒、革命過程とその結末へのある程度まとまったイメージが内在していたとすれば、「革命的状況」を省みずに革命到来をやみくもに主張する「極端な主意主義」というホブズボーム的規定は、根拠を失うからである。

 19世紀から現代までのアナーキズムを一括して「主意主義」とするホブズボーム風の見解は、現代ドイツにもみられるが、筆者は、歴史的文脈に即した思想解釈の方法をとる。アナーキズムに対する「主意主義」という批判は、モストの同時代の社会民主主義者W・リープクネヒトらによって、すでに述べられていた。そのように批判する社会民主主義者たち、たとえばA・ベーベルも、またより慎重ではあるがF・エンゲルスも、1880年代には革命早期到来を主張していた。社会主義者鎮圧法を制定したビスマルクの議会演説や同時代の百科事典・警察資料は、支配層の革命への恐怖・不安を表明している。したがって両派の争点は、ホブズボームのいう「革命的状況」の有無ではない。筆者は、アナーキズムの「革命的状況」「革命の方法」認識に内在して、社会民主主義とは異なるアナーキズムの思想を読みとることの重要性を説く。

 そこで主たる分析対象とされるのが、1879年1月にロンドンで創刊され、ヨハン・モストにより編集されたドイツ語週刊新聞『フライハイト』である。同紙はたびたびの弾圧で中断されたりモストの手を離れたりするが、82年7月から11月までチューリヒで、82年12月からはニューヨークで刊行され、1910年まで発行され続ける。ただし本論文の分析は、シカゴのヘイマーケット爆弾事件の扇動者としてモストが逮捕される、86年5月までである。筆者は『フライハイト』紙の国際的な執筆・編集体制、財源・支出を含む運営、印刷所と発行部数、紙面構成の変遷、発送方法と配布先などについて、各時期毎に綿密に考察している。これは、世界的にも初めての本格的な『フライハイト』紙のメディア分析となっている。

 第1章は、1879年の『フライハイト』紙創刊から、82年末のニューヨーク移転までを扱う。もともと『フライハイト』は、社会主義者鎮圧法で全ドイツ規模での政治活動が禁止された局面での社会民主主義(ドイツ社会主義労働者党、いわゆるゴータ党)の国外機関紙の一つとして創刊された。初期には主流派の『ゾツィアルデモクラート』紙と拮抗する部数が印刷され、イギリスやスイスからドイツ国内に持ち込まれた。筆者は『フライハイト』紙が社会民主主義からアナーキズムへと移行していく過程を、同紙の論説・記事をたどって明らかにする。ドイツ国内の具体的事実から「革命早期到来」という認識は社会民主主義者と共有されていたが、リープクネヒトらが鎮圧法の枠内での合法的抵抗にとどまるのに対し、モストらは当初社会革命家と自認し、やがてアナーキズムに移行していく。権威的指導者や国家社会主義・帝国社会主義に反対して、クロポトキンのいう「反逆の精神」にもとづく行動を訴える。これが、この期の『フライハイト』の基調となる「行動によるプロパガンダ」である。革命的「状況」下では、少数者であっても人民を革命へと駆り立てる具体的行動が、それ自体革命を促進する「プロパガンダ」となる。そのさい、パリ・コミューンの教訓に学んでプロレタリアートの武装とその準備が必要であり、革命的テロルを否定する「ブルジョアの倫理」にこだわってはならない。ダイナマイトによる爆破や石油による放火のような軍事技術も重視され、81年ロシアでのアレクサンドル2世暗殺のような「圧制者殺し」も肯定される。こうした主張はイギリス政府を刺激し、ドイツ政府の要請もあって、モストは逮捕・投獄される。しかし中心人物を失っても『フライハイト』はロンドン、チューリヒ、ニューヨークと刊行され続ける。筆者は、このモスト入獄中の『フライハイト』の刊行体制、紙面内容、執筆・編集・運営・発送の担い手たちについて詳しく考証して、モストが中心人物であったにしても『フライハイト』派の思想はモストの言説のみに解消できないことに、注意を喚起している。

 第2章は、ドイツ語アナーキズム新聞『フライハイト』が、アメリカでドイツ系移民労働者たちに受容され定着していく過程を、アメリカにおけるアナーキズムの形成を視野に入れて論述している。『フライハイト』派がドイツ社会主義労働者党から分離して形成されたように、アメリカにおける社会革命派も社会主義労働者党(SLP、1874年結成)から分裂して生まれた。SLPは東部の第1インターナショナル脱退派のドイツ人たちで結成され、やがて英語を話すメンバーも加わった。70年代末に、武装闘争への態度と農民中心のグリーンバック党との共闘問題をめぐっての内部抗争のなかから、社会革命派が分離・結成される。それはドイツ国内での社会民主主義派からのアナーキズム派の分離にも影響されたもので、81年ロンドン国際社会革命家会議を経て、同年10月、シカゴでの合衆国社会主義者会議で革命的社会主義者党(RSP)結成にいたる。この組織が活性化するのは82年末にモストがニューヨークに移住してからであり、ニューヨークとシカゴを中心にモストが合衆国各地で演説旅行を行い影響力を広め、83年10月、ピッツバーグでの全国社会主義者会議、いわゆるピッツバーグ会議にいたる。この会議で採択されたピッツバーグ宣言は、アメリカ建国の父ジェファーソンを引きながら「圧制者に対する暴力は正当化されうる」と説いた。この会議で結成されたインターナショナル(IWPA)のなかで、『フライハイト』派はドイツ人グループの中心となる。筆者はネルソンらの研究に依拠しつつ、とりわけシカゴのIWPAについて、多くは移民労働者から成る26の加盟グループの構成メンバーを詳しく考証する。ドイツ出身者が45%と最大であったが、特に女性グループの存在や家族・親族ぐるみの活動に注意を喚起している。ただしアメリカでの研究では、モストら「純粋のアナーキスト」は労働組合に否定的であったためピッツバーグ宣言では労働組合に積極的に言及されなかったとされているのに対し、筆者は『フライハイト』紙の論調とモストの演説から、たしかに労働組合の賃上げや労働時間短縮についてアナーキズムは重視しなかったが、社会革命の闘争体、将来の生産の組織化の中核体としての労働組合の役割は認めており、実際モストも労働組合の集会に呼ばれ働きかけていた事実を挙げて、通説を修正している。

 第3章は、筆者がアナーキズムの革命観を理解するさいに重要と考える「自由社会」論についての考察である。ただしその未来社会構想を理論的に論じるのではなく、それをめぐる議論の歴史的検討である。「自由社会」の言葉自体は、モスト以前にドイツ社会主義で影響力を持ったオイゲン・デューリングが用いていた。1881年末には、『フライハイト』紙上でもしばしば用いられるようになった。そのさい、「自由社会」は「国家」に対比するものとして使われ、他方「集権主義」に対しては「連合主義」が用いられていた。未来社会が「連合主義にもとづく自由社会」と構想されることによって、革命プロセスのイメージも具体化されてくる。『フライハイト』紙では当初「革命の完全な見取り図」を描くことは意味がないと主張されていたが、「自由社会」論はクロポトキンらの「共産主義的アナーキズム」との関係で論争をよびおこし、モストらは、未来社会は現実を基礎に構想されねばならない、未来社会像は「実践に必要なプロパガンダ」として、「全面的社会革命に向けての闘争と計画、準備」として必要であるとして、「自由意志にもとづく連合主義的社会」のイメージを構成してゆく。

 第4章では、1886年5月シカゴのヘイマーケット爆破事件にいたる時期に、モストら『フライハイト』紙の革命観がどのように具体化していったかが描かれる。そのさい筆者は、80年代前半ヨーロッパのドイツ語圏で起こった革命的「状況」、すなわちメアシュタリンガー事件、シュテルマハーらの暗殺・強盗行動、ニーダーヴァルト事件、ルンプフ暗殺事件など警察によるデッチあげを含む「アナーキスト」によるとされた社会的騒擾の報道の分析から、『フライハイト』紙がダイナマイトの威力に注目しニトログリセリンの製造方法を解説する記事を掲載しはじめること、テロルや暗殺を「反逆の精神」による少数者の革命的行動として評価し「革命の前哨戦」と位置づけること、それが85年初頭から半年間にわたるモスト執筆の『革命兵学』の連載に結晶していくことを、詳しく論じている。この『革命兵学』刊行(1885年7月)が、ヘイマーケット事件の「扇動者」としてのモストの逮捕・投獄に連なる。

 終章は、ヘイマーケット事件とその後のドイツ・アナーキズムを扱う。ヘイマーケット事件そのものは、シカゴにおける8時間労働制を要求する労働運動の高揚のなかで起こった「状況」的事件であった。1884年10月シカゴでのアメリカ=カナダ職業・労働組合総連合の会議で、8時間労働制の立法決議が出された。当初は全国葉巻工組合とドイツ人植字工組合が支持する程度であったが、しだいに各地の労働組合や移民労働者たちの運動になっていった。当時アメリカにおける最大の全国的労働組合であった労働騎士団は、86年には72万人を組織していた。労働騎士団指導部は8時間労働制に必ずしも積極的ではなかったが、地方支部レベルではストライキによる8時間労働制実現の動きが広まった。『フライハイト』が影響力をもつシカゴのIWPAも、当初は賃金奴隷制打倒こそ問題だとして8時間労働制に消極的であったが、85年10月にはこの運動の支持を表明し、「搾取者に対する武装」をよびかけた。ドイツ系移民のさまざまな組合も運動に加わった。86年5月1日にはイリノイ州全体で30万人が、シカゴで4万人がストに入った。その「状況」下で、5月3日マコーマック刈り取り機製造所で警官隊がスト参加者に発砲し2名が致命傷を受けた。これに憤激した労働者たちの翌日の抗議集会に、警官隊が介入したさい起こったのがヘイマーケット爆弾事件であった。6名の警官が数週間内に死亡したが、実際に爆弾で死亡したのは1名のみであったことは、後に明らかになる。警察はこの事件を用いて、IWPAとそのメンバーを徹底的に弾圧した。4名のアナーキストが死刑になり、ニューヨークに住んでいたモストも逮捕され入獄する。これを契機にアメリカ・アナーキズムは大きな打撃を受け、ドイツ語アナーキズム運動も分裂する。『フライハイト』紙は1910年まで刊行され続けるが、モストの革命観にも「プロパガンダ」の大衆化を重視する変化が現れる。ただし筆者は、この転換を、経済状況の変化という経済的要因からのみ説明する見方には疑問をもち、ヘイマーケット事件とそれを口実にした弾圧の直接的効果ばかりでなく、アメリカにおけるドイツ系移民社会の生活世界の変容が重要であるとして、その本格的研究を今後の課題であると述べている。

 本論文で考察した1880年代前半は、ホブズボームらの通説が否定するのとは異なり、マルクスの盟友エンゲルスにとっても、社会民主主義者ベーベルにとっても、政治家ビスマルクにとっても、アナーキスト新聞『フライハイト』にとっても革命的「状況」であったのであり、その認識を規定していたのは、フランス革命の記憶というよりも、パリ・コミューンの経験であった。そのなかでモストらのドイツ・アナーキズムは、確かに少数派ではあったが盲目的な「主意主義」グループではなく、あらゆる「権威主義」に反対する自由で自律的な労働者たちが、「行動によるプロパガンダ」という戦術及びある種の革命観と「自由社会」という連合主義的未来イメージをもって活動した社会革命家集団であった、というのが筆者の結論である。


三 本論文の成果と問題点

 本論文は、第一に、わが国はもちろんのこと、国際的にもかえりみられることの少なかったドイツ・アナーキズムの源流、ヨハン・モストと『フライハイト』紙の主張を、ヨーロッパ各国史資料館所蔵の膨大な第一次資料を丹念に掘り起こして、当時の歴史的文脈の中で再現した貴重な研究である。ドイツにおいても、1970年代以降、いわゆる社会史や生活史の視点からの社会運動史研究がすすみ、少数派運動や亡命者・移民労働者の労働運動史研究が現れてはいるが、社会主義者鎮圧法下のアナーキズム運動を、本論文のような密度で研究したものはなく、そのオリジナリティは高く評価できる。当時の社会運動組織の研究には、その非合法組織としての性格から、史資料収集や匿名・執筆者特定上の困難を伴うが、特に『フライハイト』紙については、その刊行体制・配布方法・配付先まで詳細に検討し、モストらの論説ばかりでなく報道記事にも目配りして、1886年までの全容をほぼ明らかにした。

 第二に、本論文の分析によって、従来の定説的研究が「革命的状況が欠如しているもとでの極端な主意主義」と済ませてきた『フライハイト』派の主張を、ある種の時代認識と戦略・戦術をもった革命像として再構成することにより、ドイツ社会民主主義のなかから、それとの対抗で分岐し生まれてきたドイツ・アナーキズムの思想的骨格が明らかになった。

 それは、通常プルードン、バクーニン、クロポトキンの流れで語られる19世紀後半のアナーキズム思想一般と反権威主義や自由意志の思想を共有しながらも、未来社会への移行プロセスや革命の方法について、独自のドイツ的構想をもつものであった。たとえば『フライハイト』の労働組合への態度等については従来の俗説・通説を修正しており、マルクス派対ラサール派の対抗や後の修正主義論争・大衆ストライキ論争とは別の文脈での、ドイツ社会民主党成立(1890年)前夜の革命論争史の存在を浮き彫りにしている。

 以上のように本論文の到達点を評価した上で、以下のような問題点も指摘できる。
 それは、主として叙述の方法に関わるものであるが、通説、特に20世紀のドイツ社会民主党や共産主義運動の系譜からの諸説への歴史的実証的批判・相対化に主眼をおいたため、そこで看過されてきたドイツ・アナーキズムの主張を明らかにできたにしても、それが当時のフランス、スペイン、ロシアなどのアナーキズムとの対比でどのような個性・特殊性をもったかという点に、十分論究されていない点である。また、『フライハイト』を歴史の文脈に位置づけるさいには、その紙上で「語られた」主張ばかりでなく、「何が語られなかったか」を探求することも重要であろう。筆者は「革命論」ではなく「革命観」のレベルで論じ、20世紀的な理論的争点には敢えてたちいらない態度を一貫しているが、「書かれざる争点」にまで目配りすれば、理論的問題も避けて通れないであろう。アメリカ・アナーキズムの生成は、ヘイマーケット事件に関わる限りで論究されているが、今後1886年以降に射程を広げる際には、ヨーロッパについて収集しえたような第一次資料にもとづいて、改めて論じる必要があろう。日本での研究史に即して言えば、本論文が明らかにした社会主義者鎮圧法下のドイツ社会民主主義とアナーキズムとの対抗は、第一インターナショナル期のマルクス派対バクーニン派というよりも、日本の初期社会主義における議会政策派対直接行動派の論争を想起させる。そうした比較史的視点での検討も、課題としては残されている。

 もっともこれらは、筆者自身が自覚し今後の課題としているもので、本論文の蓄積のうえに、今後の研究において期待されるものである。

 以上の審査結果から、審査委員一同は、本論文を学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものとみなし、口述試験の成績をも考慮して、田中ひかる氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。
  

最終試験の結果の要旨

1997年6月11日

 1997年5月28日、学位請求論文提出者田中ひかる氏の試験および学力認定を行った。
 試験において、提出論文「アナーキズム思想に見られる革命観とその背景――『フライハイト』紙を中心にして(1879-1886年)」にもとづき、審査委員が疑問点につき逐一説明を求めたのに対し、田中ひかる氏は、いずれにも適切な説明を行った。
 専攻学術について、審査委員一同は、田中ひかる氏が学位を授与されるのに必要な学力を有するものと認定した。
 

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