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博士論文審査要旨

論文題目:朝鮮高宗の在位前期における統治に関する研究(1864~1876)
著者:金 成憓 (KIM, Sunghyae)
論文審査委員:糟谷 憲一、三谷 孝、坂元 ひろ子、加藤 哲郎

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1.本論文の構成

 本論文は、朝鮮王朝の第26代君主である高宗(1852~1919、在位1863~1907)がその
治世において果たした役割をその活動の実態に即して再検討しようとする研究の一環と
して、在位前期(1864~1876)における高宗の活動実態を詳細に究明し、この時期の政治
においても高宗が積極的で能動的な役割を果たしたことを論じたものである。本文・参考
文献目録・関連用語解説を併せて、400字詰原稿用紙換算にして約1440枚に及ぶ労作であ
る。
 その構成は次のとおりである。なお、本論の各節に節の「まとめ」が付されているが、
ここでは省略する。
序 章
1 問題提起と研究現況
  2 研究方法と史料
第1章 高宗即位前後における状況
 第1節 高宗即位以前における君権の推移、および統治様相
1   勢道政治の背景
2   哲宗代における安東金氏の権力掌握
 第2節 高宗即位の状況
  1   高宗の即位
  2   大院君の登場
第2章 在位前期における高宗の聖学
 第1節 高宗の講筵の進行、高宗の聖学態度
  1   君主の聖学
  2   高宗の講筵の実態
  3   即位初期の講筵における高宗の関心と態度
第2節 高宗の講筵官の構成
  1   高宗の講筵官の年度別実態
  2   高宗在位前期における講筵官構成の推移
第3章 大院君政権期の統治
 第1節 大院君の権力基盤の形成
  1   大院君の政治参与過程と高宗の支持
  2   大院君の権力基盤勢力の形成と実体
 第2節 大院君の統治政策
  1   王宮再建、および政府機関の増築による中央権力の拡大・安定化政策
  2   書院撤廃と武断土豪抑圧による地方統制政策
  3   軍事政策をつうじた財政拡充、および権力基盤の拡大
第4章 高宗の親政宣布と統治権強化
 第1節 1873年における高宗の親政宣布の過程
  1   君主の統治力量の形成と発揮、および親政の名分の強化
  2   高宗の親政宣布前後の状況と過程
 第2節 君主主導下の統治権力の再編
  1   政界再編をつうじた権力基盤の形成と強化
  2   親政初期における高宗の政策
終 章
参考文献
論文関連用語編
Abstract

2.本論文の概要

 序章では、まず、高宗の在位期間を大院君政権期(1864~1873)、閔氏政権期・甲午改
革期(1874~1895)、露館播遷期・大韓帝国期(1896~1907)と時期区分するのは、高宗
の活動を軽んずるものであると批判し、筆者独自の区分として在位前期(1863~1876、伝
統的体制の維持と転換の模索期)、在位中期(1876~1894、伝統と西欧との調和・折衷期)、
在位後期(1894~1907、伝統体制の崩壊と再定立期)の三区分を提示する。そして、本論
文では在位前期に焦点を当てるが、それは在位前期が以後の高宗の統治理念と活動を規定
する重要な時期であったからであるとする。
 ついで、筆者の提示する在位前期に関する先行研究として、大院君政権期に関する先行
研究、親政開始(1873年末)前後の高宗の政治活動に関する先行研究が検討され、また、
在位前期に限らず高宗の統治権に関して論じた先行研究も検討される。そして、(1)在位前
期における高宗の聖学〔君主教育〕が高宗の政策形成と実行に反映されて非常に重要であ
ったにもかかわらず、ほとんど研究されていないこと、(2)大院君と高宗の対立を強調する
研究が主流となり、両方の権力基盤と統治政策の類似性が見逃されていることが批判され
る。この批判の上に、この時期における高宗の教育課程、大院君の統治基盤の形成と政策
の推進における高宗の役割、親政後に高宗が大院君の統治基盤と政策をどのように受け継
ぎ、あるいは改編・廃止していたかについて、より詳細で正確な分析が必要であると、本
論文の課題を述べている。
 序論の最後に、各章の考察内容をあらかじめ述べるとともに、使用する史料に触れ、高
宗の言行を最も詳細に記録した『承政院日記』を主として用いることを述べている。
 第1章では、高宗即位の前史として、高宗即位前における君主の統治権の推移、高宗即
位時における諸政治勢力の動向が分析される。
 第1節では、第23代君主の純祖(1790~1834、在位1800~34)から第25代君主の哲宗
(1831~63、在位1849~63)までの時期における君主の統治権の推移が分析される。(1)
純祖の初年に、王妃の父である金祖淳が政権を掌握し、安東金氏〔金祖淳の一門〕による
勢道政治=外戚政治が成立すること、(2)純祖とその世子・孝明世子は政治主導権を奪還し
ようとしたが挫折したこと、(3)第24代君主の憲宗(1827~49、在位1834~49。孝明世子
の子)は年少であったために純祖妃であった純元王后(1789~1849。金祖淳の娘)が垂簾
同聴政〔摂政〕を行って、安東金氏の勢道政治が持続したこと、(4)憲宗死後には純元王后
の指名で哲宗が即位し、純元王后が再び垂簾同聴政を行い、安東金氏による政権掌握が強
化されたことなどが、先行研究に依拠して順を追って簡潔に説明されている。
 第2節では、高宗の即位をめぐる諸政治勢力の動向が、次のように分析されている。哲
宗が嗣子無く死去した際に、大王大妃の豊壌趙氏(神貞王后)の指名により、傍系王族の
興宣君の次男が即位した(高宗)。神貞王后は翼宗(孝明世子が憲宗の即位後に追尊され
る)の妃であるが、高宗は翼宗の嗣子とされ、年少であったので神貞王后が垂簾同聴政を
行うことになった。この即位過程において多大な影響を及ぼしたのは興宣君であった。興
宣君は、1815年に正祖(第22代君主。純祖の父)の弟・恩信君の後を継いだ南延君の子
であるが、宗親府(王族や璿派〔王族に出自する全州李氏〕に関する事務を管掌する官庁)
の堂上(高官)として力を蓄えた。1857年に純元王后が死去すると、興宣君は神貞王后に
接近し、政権掌握のために両者の密約が成立した。こうして高宗が即位したのであるが、
安東金氏もこれに同調したのは、大院君が安東金氏勢力と円満な関係を維持していたから
である。興宣君は大院君の尊称を受け、神貞王后の支持で政治に参与することになった。
これに反対した安東金氏の領議政・金左根は、辞任をせざるをえなくなった。安東金氏は
高宗即位に同調したが、金左根は大院君の政治参与に反対して勢力を抑えられたとするの
が、筆者の分析の独自な点である。
 第2章では、在位前期に高宗がどのような君主教育を受けたのか、教育の担い手の構成
にどういう特徴があったのかを検討している。
 第1節では、朝鮮王朝の君主には「聖学」(君主の学問)が重視されてきたこと、純祖
以降の勢道政治期にはそれがさらに強化されたことを指摘した後で、高宗に対する授業の
場であった「講筵」の実態が検討される。その内容は、次のとおりである。
 「講筵」とは、王朝本来の制度である「経筵」(「法講」とも称され、一日に朝・昼・
夕の三回行われる)ではなく、簡素化した形式で行われた授業である。即位当初には、講
官が主宰して参賛官(王の秘書官である承政院承旨が兼任)などが参席する「勧講」と参
賛官が主宰する「召対」との組み合わせであったが、1866年3月に「勧講」は「進講」に
改められ、親政開始後の1873年12月にはさらに「日講」に改められた。
初期には「勧講」・「進講」で『孝経』・『小学』・『通鑑節要』を講読し、「召対」で
復習した。1867年10月からは「進講」で経書の『大学』・『論語』・『孟子』・『中庸』
などを、「召対」で『資治通鑑』を講読することになった。「講筵」の回数は1864年に
は391回、65年には286回であったが、1871年には98回、72年には103回、73年には
91回としだいに減り、親政開始後の1874年には52回、75年には7回、76年には23回と
激減した。ことに、「召対」の回数は、1864年に181回、67年には101回であったが、
68年に44回に減って以降、激減した。また、高宗の講読は不振で高官からしばしば諫言
を受けた。
 しかし、高宗は勉学に精進しなければならないという発言をしており、講筵において、
民生の安定や地方統治のあり方に深い関心を示した。そのことを示す事例を挙げつつ、高
宗の民生・地方統治への関心は、国の根本が民であるという民本思想に基づいたものであ
ると、筆者は論ずる。また、高宗は講筵において、君臣関係の正しいあり方、諫言を積極
的に受け容れる姿勢を示したとも指摘している。
 最後の「まとめ」において、親政後には講筵回数が激減しているので、在位前期、とく
に大院君政権期の講筵が高宗の聖学において占める比重は多大であり、講筵を通じた高宗
の統治観と統治者としての資質の形成は、主にこの時期の行われていたと判断しても間違
いないと、筆者は論じている。
 第2節では、1864年から1875年までの講筵官の構成を多角的に分析している。ここで
の「講筵官」は広義の「講官」(本来の講官に、議政・日講官・経筵官・特進官などを加
えたもの)と「参賛官」とからなるが、著者は各年度の「講官」と主要「参賛官」の名簿
を調査し、その姓氏別・党派別の構成を示している〔「党派別」とは、朝鮮王朝の支配者
である両班官僚の間に当時存在した四つの党派(老論・少論・南人・北人)のいずれに所
属しているかということである〕。その上で、「講官」の姓氏別・党派別構成について詳
細に分析して、その特徴を次のように指摘している。
(1)48の姓氏から107名の講官が講筵に参加したが、長期にわたって参加した姓氏と
人物は上位20%以内に過ぎない。高い関与度を示している人物は、安東金氏の金炳学・金
世均、南陽洪氏の洪鍾序・洪淳穆、清風金氏の金学性、潘南朴氏の朴珪壽、林川趙氏の趙
基応(以上、老論)、昌寧曹氏の曹錫雨、東萊鄭氏の鄭基世、慶州李氏の李裕元(以上、
少論)、漢陽趙氏の趙性教、全州李氏の李承輔(以上、南人)、晋州姜氏の姜ロウ〔さんず
いに老〕(北人)の13名である。彼ら13名が全講筵回数に占める比重は54.4%であり、
平均講筵参加年数は約8年である。13名のうちの5名が議政〔大臣〕歴任者であり、その
他の者も六曹判書〔吏曹・兵曹・戸曹・礼曹・刑曹・工曹の長官〕を経た高官であった。
要するに、高宗の教育は少数の高官によって主導されており、彼らは君主の聖学と政治活
動を輔導しながら、高宗の統治者としての資質と力量の形成に大いに貢献していたと言え
る。
 (2)高官の構成の推移からは、大院君の権力基盤の変化様相を察することができる。
老論が当初70%以上を占めていたが、1869年以降には40%台に減少したのは、老論勢力
の弱体化の反映であった。南人が徐々に増加し、1870年以降には少論を上回るようになっ
たことは、大きな変化であった。
 (3)安東金氏は講官の構成において優位を占め続け、高宗在位前期においても最大の
権力家門としての面目を維持していたと言える。
第3章では、大院君政権期における大院君の権力基盤の形成・拡大過程、大院君政権の
内政面での主要政策を検討している。
 第1節では、大院君の権力基盤の形成・拡大過程を検討している。
 「1 大院君の政治参与過程と高宗の支持」では、大院君の政権掌握とその強化の過程
が次のように論じられている。大院君は哲宗の国葬への関与、高宗の宗廟拝謁への同席、
大院君邸(雲峴宮)への高宗・大王大妃の訪問、王陵行幸への随行、王妃の決定・婚礼へ
の関与、大王大妃の委任による景福宮再建工事の担当などを通じて、政治的な地位と役割
を拡大していったが、それは高宗の支持があってこそ可能であった。1866年2月に大王大
妃の垂簾同聴政が終了すると、高宗が行政体制の改革への大院君の関与を命じていること
などに示されるように、大院君の統治権力は高宗の支援によって強化された。1870年頃に
は、大院君の権力は政界を主導する水準に達し、大院君の統治権の行使は、高宗のそれを
上回る状況に至った。このことは高宗に深刻な危機感を引き起こし、高宗が大院君の政界
引退と勢力基盤の解体を試みる原因となった。
 「2 大院君の権力基盤勢力の形成と実態」では、大院君の権力基盤勢力の形成・拡大
の過程を、大院君政権の時期区分を提示した上で、権力基盤の形成・拡大政策の特徴を明
らかにしている。
 筆者は、大院君政権期を次のように時期区分している。第1期は、高宗の即位から神貞
王后の垂簾同聴政の終了までである(1863年12月~66年2月)。この時期は宗親府の権
限を拡大して璿派勢力を統治権力の基盤として形成していた時期であり、急進的な政策の
推進や政界改編よりは自らが権力を行使できる基盤の力を注いだ時期である。第2期は神
貞王后の垂簾同聴政終了から金炳学が母の喪のために領議政を辞職するまでである(1866
年2月~72年9月)。この時期は大院君が国政懸案を担当・処理するようになったうえに、
安東金氏勢力、とくに金炳学・炳国兄弟と提携して議政府・六曹を掌握するとともに、宗
親・璿派の政界進出と多様で新たな勢力の登用を図った時期であり、大院君の主要政策は
この時期に本格的に推進された。第3期は議政府の三議政をすべて親大院君政権勢力で構
成してから高宗の実質的な親政の宣布までである(1872年10月~73年10月)。大院君
政権の安定期であるとともに、その独断的な国政運営に不満が強まっていた時期である。
 ついで、権力基盤の形成・拡大政策の特徴を、次のように論じている。
 (1)大院君が自己の権力基盤としてまず注目したのは、宗親〔王族〕・璿派勢力である。
このため、1864~65年における宗親府の機構の強化(宗正卿の新設と宗親・璿派のそれへ
の就任)、宗親・璿派を対象とする特別試験、1871年以降における宗親・璿派の会合(大
宗会・小宗会)の開催、後の絶えた宗親・璿派の後嗣を定めることなどが行われた。
 (2)勢道政治期に国政を主導していた備辺司を、1865年には議政府に統合して廃止し、
代わって君主と議政府中心の政治運営体制を確立した。大院君は1872年10月には側近を
議政府大臣にまで配置して議政府を掌握するようになった。
 (3)大院君の権力基盤となった勢力は、金正喜系の勢力、南人・北人の勢力などの親大
院君勢力の他には、宗親・璿派の全州李氏、金炳学・金炳国兄弟の安東金氏、外戚の豊壌
趙氏(神貞王后の一族)・驪興閔氏(王妃閔氏の一族)の三つの勢力であった。これら三
つの勢力は大院君政権の安定に寄与していたが、1870年前後から大院君が南人・北人、武
将勢力の政界進出を拡大すると、これと競争するようになった。
 第2節では、大院君政権期の内政面における三つの主要政策が検討される。
 その第1は、景福宮の再建と政府庁舎の再建・増築である。これらの工事は、王室と中
央政府への権力集中と権威確立のために行われたものであったが、経費の調達と労働動員
による民間負担の増加は、反対論を強め、大院君の退陣をもたらす要因となった。
 第2は、書院撤廃と土豪抑圧策である。書院〔儒教教育施設〕は、在地両班勢力の拠点
であるとともに、免税地や軍役を逃れる所属民を抱えていたので、大院君政権は地方勢力
の抑制と国家財政拡充のために書院の整理・廃止を強力に推進した。また、在地両班の中
には不法な脱税や住民からの私的な収奪を行う「土豪」があったため、大院君政権はこれ
を摘発・処罰することによって、やはり地方勢力の抑制と国家財政の拡充を図った。
 第3は、武臣の勢力拡大と軍備拡充の政策である。これは、武力をもって通商を迫る西
欧勢力を退けるために軍事力の強化を図るとともに、武臣の地位向上の機会を提供して武
臣勢力を大院君の権力基盤に据えることをねらったものであった。筆者は、この政策を①
武臣の待遇改善政策、②最高軍事機関としての三軍府の設置と三軍府堂上となった将臣
(軍営の大将)の地位向上、③江華島防備のために鎮撫営強化政策の推進の三点を中心に
検討している。
第4章では、高宗が親政を準備し、宣布するまでの過程と親政開始後における統治構造
と政策の変化を検討している。
第1節では、高宗が親政を準備し、宣布するまでの過程を跡づけている。まず第1に、
「聖学」を通じて儒教的民本観を重視し、民の生活に配慮する措置の実施をしばしば命じ
ていた事例を示し、高宗が大院君政権期に君主としての役割の自覚を強め、統治力量を身
につけていったとしたうえで、この民生重視の姿勢は民衆に弊害を及ぼす大院君の財政経
済政策に対する批判をもたらし、親政を開始することを正当化する名分となったと論じて
いる。第2に、高宗は、1872年4月・12月に清へ派遣した使臣から、清皇帝(同治帝)
の親政準備の報を聞き、73年4月に帰国した使臣からは皇帝親政開始を聞き、皇帝親政開
始に強い関心を示したことを指摘し、このことが高宗の親政の意志を高め、親政への心構
えを持つのに重要な役割を果たしたと論じている。第3に、1873年10月25日・11月3
日の崔益鉉の大院君政権批判上疏を機として展開された、崔益鉉の厳罰を要求する3大臣
ら(領敦寧府事で前領議政の洪淳穆、左議政姜ロウ、右議政韓啓源)と崔益鉉を庇護する高
宗との対立が克明に分析され、高宗による親政宣布、3大臣の罷免、李裕元の領議政への
任命と続く政変が詳しく述べられる。
 第2節では、高宗の親政開始後における権力構造の改編と政策の実態を検討している。
 権力構造の改編については、まだ自分を支持する政治的基盤を持っていなかった高宗は
大院君の権力基盤を親君主勢力に再編して、権力基盤を構築しようとしたとし、主要な権
力基盤は、(1)外戚勢力(驪興閔氏の閔升鎬・閔奎鎬・閔致庠、豊壌趙氏の趙寧夏・趙成
夏)、(2)宗親・璿派勢力(すでに自分と親密な関係を持っている者のみを起用したこと
が特徴)、(3)安東金氏・光山金氏を中心とした老論勢力であり、南人・北人は排除され
ていったと論じている。このような権力基盤分析の根拠として、1874~76年における六曹
判書就任者名簿、1873年10月・同12月・75年1月・76年1月・77年1月の議政府堂上
名簿が提示され、その党派別・姓氏別構成の分析が示されている。
 権力構造の改編に関しては、さらに、武臣の地位の引き下げ、三軍府の弱体化、高宗の
親衛隊である武衛所の新設(1874年7月)、鎮撫営の縮小などの改編によって、大院君政
権の基盤であった三軍府の地位が低下させられ、武衛所を中心にした親政を支える軍制が
つくられたことが詳しく述べられている。そして、この軍政改編は、李裕元らの反対を受
け入れずに、独断で決定・推進されたことが指摘される。
 親政初期の政策に関しては、次対・召見〔王と大臣・高官らの会見。定例が次対、随時
のものが召見)や講筵における問答の内容を調査して表に示し、どのような政策が重視さ
れていたかを検討している。その最後に、高宗の政策の特徴として、次のような点を指摘
している。
 (1)高宗の政策は、財政の確保と軍事改編を通じた統治権の強化・確立の実現に、その
目的があった。清銭通用の撤廃、武臣の地位・役割の旧制への復帰、鎮撫営の格下げ・縮
小などは、大院君の権力基盤の解体を図るものであった。
 (2)高宗の統治政策は先決定・後対策(先に決定して、後で対策を講ずる)の形態で行
われていた。
 (3)高宗は権力基盤が弱く、その追究する政策の推進が容易ではない状況でも、自己の
意志を貫徹し続けた。
 (4)深刻な財政難を打開する最善の方法が君主の節約と倹素であると繰り返し強調され
たにもかかわらず、高宗は自分の統治権強化に必要なところには無理な財政支出を強行し
ていた。
 (5)高宗が民生安定対策として頻繁に実施していた税の廃止と減免は、更なる財政悪化
と民生への弊害をもたらしていた。
 このような政策全般の検討の後に、とくに「民生の安定を掲げた財政経済政策の推進」
という項が起こされ、そこでは清銭の廃止に伴う財政難・民生負担の増加がとくに詳しく
跡づけられている。
 終章では、以上の各章が要約した後に、本論文の限界として、(1)外交問題と国際情勢が
高宗に与えた影響、高宗の対外政策が考察されていないこと、(2)対象を在位前期に限定し
たために高宗の在位期全体の推移に関する理解が欠けていることを挙げ、これらの点は今
後の課題としたいと述べている。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第1の成果は、1863年から76年までの高宗の活動を詳細に調査し、高宗が君
主として能動的で主体的な役割を果たしていたことを明らかにしたことである。とくに、
大院君政権期における大院君の政治活動は高宗の支持のもとに可能であった、大院君の政
治活動を身近に見ていたことが高宗の統治力量の形成に寄与した、高宗は大院君の権力基
盤を引き継いで自己の権力基盤に改編した、などの指摘は、高宗と大院君の関係を時期別
に精確に理解する必要を提起したものとして、貴重な成果である。従来、高宗と大院君と
の間の対立関係が強調されてきたが、本論文は初期における共通性・類似性に着目した両
者の関係の見直しを促す役割を果たすことになり、高宗時代政治史研究の前進に寄与する
ものであると言える。
 第2の成果は、大院君政権の権力基盤に関して、3期に分けて詳しく検討することによ
って、大院君の権力基盤は親大院君勢力の他に、宗親・璿派、安東金氏、外戚の豊壌趙氏・
驪興閔氏であるとし、さまざまな勢力を基盤に組み込み、勢力均衡を図りつつ、権力基盤
の拡大・安定化を図ったという理解を提示したことである。従来、大院君政権に関しては、
安東金氏をはじめとする老論勢力を抑えたと理解されてきたが、金炳学・炳国兄弟らの役
割に注目して、安東金氏も重要な権力基盤であったとしたのは、大院君政権期の権力構造
の理解に再考を迫るものであり、大院君政権研究の前進に寄与するものである。
 第3の成果は、在位前期、とくに大院君政権期における高宗に対する君主教育の内容と、
その高宗への影響を本格的に検討したことである。高宗自身がいだいた君主像・君主観を
検討していく作業の基礎となる貴重な成果である。
 第4の成果は、1874~76年を親政初期として括り、この時期の高宗の権力基盤改編策、
清銭通用廃止・軍制改編などの諸政策を詳細に検討したことである。このことは、高宗の
君主としての統治能力・資質を具体的な事例に即して検討していく作業を進めたものであ
り、基礎的で貴重な成果である。
 第5の成果は、王の公的活動を詳細に記録した『承政院日記』を初めとする王朝史料を
丹念に調査・検討して結論を導き出しており、実証の精度を高めようと最大限の努力をな
していることであり、その点でも大院君政権期・高宗親政初期(従来の呼称では閔氏政権
初期)の政治史研究の進展に寄与できる成果と言える。
 本論文の問題点は、第1に、権力基盤の分析が精密なのに比較すると、大院君政権期・
高宗親政初期の主要政策はいかなるものであるのか、それらの諸政策をどう体系的に理解
したらよいのかについての検討が必ずしも充分ではないことではある。これは、とくに軍
事制度、税制・財政制度の実態が史料用語の難解なこともあって分かりにくく、したがっ
て制度改革、政策の意義も分かりにくいためであるが、史料の収集・検討をさらに進める
ことによって、理解を深めていく必要がある。
 第2に、主要政策の検討が内政面に限定されており、対日・対清・対欧米などの対外政
策の検討、高宗の国際情勢認識についての検討が省かれていることである。
 第3に、高宗の君主像・君主観については、主として在位前期の発言の検討に留まって
いることである。今後、それらの発言と親政開始以降における高宗の政策や行動とどのよ
うに対応しているのか、食い違っていないのかについて掘り下げて検討していく必要があ
り、また、在位期間全体に当たって段階的に検討していく必要がある。
 第4に、長文であるために推敲には多大な労力が必要な事情を考慮しなくてはいけない
にせよ、引用した漢文史料の現代語訳などに、日本語表現としてはこなれていない箇所が
見受けられることである。
 しかし、以上の点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待で
きる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果を挙げたものと判
断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2008年7月9日

 2008年6月20日、学位論文提出者金成憓氏の論文についての最終試験をおこなった。
試験においては、提出論文「朝鮮高宗の在位前期における統治に関する研究(1864~1876)」
に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、金成憓氏はいずれも適
切な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は金成憓氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を
有することを認定し、合格と判定した。

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