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博士論文審査要旨

論文題目:日本で働く男性長期非正規滞在者
著者:鈴木 江理子 (SUZUKI, Eriko)
論文審査委員:倉田 良樹、小井土 彰宏、伊藤 るり、猪飼 周平

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Ⅰ.本論文の構成
 鈴木江理子氏の学位請求論文『日本で働く男性長期非正規滞在者』は、正規の在留資格を持たず長期にわたって日本に滞在してきた外国人男性を対象に、彼らの就労状況の経時的な変化を聞き取り調査の手法によって明らかにした本格的な実証研究の成果である。300頁を越す大著である本論文は以下の諸章より構成されている。

序 章 
1.研究対象の設定
2.非正規滞在者に対する日本社会の反応
3.非正規滞在者に関する実態調査
4.非正規滞在者に関する社会科学的な分析
5.本研究の問題関心と研究の進め方
6. 分析のための概念枠組み
第1章 外国人政策における非正規滞在者
第1節 1980年代後半、「不法」就労の社会問題化
第2節 1990年代、放置された「不法」就労者・「不法」滞在者
第3節 2001年以降、「不法」滞在者の取締り強化
第2章 非正規滞在者を取り巻く社会経済環境
第1節 バブル景気の人手不足のなかでの非正規滞在者
第2節 バブル崩壊後の景気後退のなかでの非正規滞在者
第3節 体感治安の悪化と非正規滞在者
第3章 日本社会で働く非正規滞在者
第1節 統計データにみる非正規滞在者
第2節 聞き取り調査の概要
第3節 調査対象者28人の就労実態
第4章 男性長期非正規滞在者の就労の通時的変化と社会構造
第1節 分析のための概念枠組みの再確認
第2節 男性長期非正規滞在者の就労の通時的変化
第3節 社会構造から捉える男性長期非正規滞在者の就労行動
むすびにかえて


Ⅱ.本論文の概要
 本論文は、日本の外国人労働者問題の研究において、これまで高い関心を集めながらもその実態が正確に理解されることなく議論されてきた非正規滞在外国人の就労状況の解明を目的として行われた本格的な実証研究の成果である。8カ国28名の男性長期非正規滞在者に関する事例研究を通じて、彼らが非正規滞在というステイタスから課せられる構造的な制約を引き受けつつも、決して労働市場の最底辺に滞留し続けてきたわけではなく、能動的な行為主体として労働市場における地位の上昇を達成し、さらには、周囲の状況に積極的な働きかけて自らを取り巻く社会構造を変容させることにも一定程度の成功を収めてきたことが明らかにされている。男性非正規滞在者の就労行動に関する経時的な変化を記述するにあたっては、「社会活動の転態モデル」と呼ばれる社会学的な概念枠組みが活用されている。
 
 序章では、まず非正規滞在者を「領土を所有する主権国家の承認をえることなく、領土内に滞在している外国人」と定義する。続いて日本で働く非正規滞在外国人の就労状況に関する先行研究のレビューが行われ、既存研究の限界として、①ほとんどの研究が一時点の状況だけを写し出した静態分析に止まっていること、②少数ながら存在する経時的な分析はいずれも特定エスニックグループのみを対象としたものに限定されていて普遍性に乏しいこと、③分析の枠組みに関しては、「不法」という制約要因に規定されて労働市場の底辺への滞留を強いられている、という決定論的な枠組みに囚われたものばかりであることが指摘されている。
こうした先行研究の成果に対して筆者は総じて懐疑的であり、少なくとも入管法改正以前に入国し、その後長期にわたって日本に滞在している男性外国人に関する限りは、どの国籍の者についても、「労働市場の底辺への滞留を強いられている」という先行研究の指摘は事実に反している、との反論を行っている。筆者はこの様な問題関心をより具体的に展開するために、彼らが不法という地位によって強いられている幾多の制約条件にもかかわらず、自由な行為主体としての能動的なふるまい通じて労働市場における地位向上を達成しているのではないか、そしてそうした就労上の地位に関する通時的変化は、彼らの国籍とは無関係にほぼ共通する傾向として生じているのではないか、という二つの仮説を提示している。
聞き取り調査を中心にして長期にわたり日本に滞在する男性非正規滞在者の生活と就労の実態を通時的に観察し、その観察結果を「社会活動の転態モデル」と呼ばれる概念枠組みに従って分析することを通じて、上記の二つの仮説を検定していくことが本論文で設定されている基本的な研究課題である。

 第1章「外国人政策における非正規滞在者」では、男性長期非正規滞在者の労働市場における就労行動を規定する重要な要因と考えられる日本政府の外国人政策を取り上げ、その時系列的な変遷が分析されている。分析にあたっては、①人手不足が引き寄せた外国人不法就労者が初めて社会問題として意識されるようになった1980年代後半、②89年改定入管法施行によって法律上、不法就労に関する取り締まりが強化された1990年代、③人口減少社会に向けた外国人受入れ議論の本格化と9.11事件を契機とするテロ対策・治安対策の強化とがあいまって、非正規滞在者に対する徹底的な排除が遂行される2001年以後、という3つの時期区分が設定されている。
外国人の就労をめぐる日本政府の政策に関しては、第6次雇用対策基本計画(1988年閣議決定)によってその基本方針が示され、その方針は現在に至るまで堅持されている。周知のようにこの基本方針によれば、いわゆる「単純労働」の分野における外国人の受け入れは行わない、とされている。だが、政府は、単純労働とは何かということについて、「特段の技術、技能や知識を必要としない労働」という同義反復的な説明しか行っておらず、それがいかなる職種の労働を指しているのかを示す明確な定義は示されていない。筆者の観察によれば、非正規滞在者が現実に就労している職種に関して、高度な熟練を要する技能職への進出がすでに相当程度進んでいる、という現実がある。だが、単純労働の範囲に関する明確な規定を欠いたまま上記方針が堅持され続けている現状においては、非正規滞在者がどれだけ高度熟練職種で就労したとしても、彼らの就労が日本社会にとって好ましいものとして評価される可能性はあらかじめ塞がれている。そして筆者はこの点が現在の日本の外国人労働者政策の重要な問題点であると指摘する。

第2章「非正規滞在者を取り巻く社会経済環境」では、非正規滞在者を取り巻く社会経済環境として、景気動向や労働需給、メディア報道やホスト住民の意識や態度、非正規滞在者を支えるNPO/NGOの活動が取り上げられ、時系列で整理・分析されている。筆者はとりわけ、これまでの先行研究のなかで取り上げられることの少なかったメディア報道、ホスト住民の意識や態度、NPO/NGOの活動という3つの要素に注目し、それらが非正規滞在者による人的資本や社会関係資本の形成を左右する重要な影響要因となることを指摘している。本章では、非正規滞在者のライフチャンスを拡充したり阻害したりするするこれらの影響要因に着目しながら、彼らを取り巻く社会経済環境が分析されている。このなかで筆者は、非正規滞在外国人が急速に増大する80年台後半から90年代初頭までの時期において、日本社会が、その当時の深刻な労働力不足の解消に貢献する貴重な存在として、彼らの存在を事実上「黙認」していたことに着目し、本研究の対象である早期に来日した男性長期非正規滞在者が、この時代の経験を通じて、日本社会での地位向上を目指して能動的・戦略的にふるまっていく意欲や能力を伸張させることになったのではないか、ということを示唆している。筆者はさらに、社会からの黙認をもはや期待できなくなる90年代半ば以降の時期においても、それまでの経験を通じて能動的・戦略的な行為主体としての自覚を高めた彼らが、職場における自助努力を通じて人的資本を蓄積したり、職場外のエスニックネットワークや支援団体の社会関係資本を積極的にアクセスすることにも成功してきたことを明らかにしている。

第3章「日本で働く非正規滞在者」では、入管統計その他の各種データを駆使して日本における非正規滞在者の就労に関する全体状況を概観したのち、筆者が実施した聞き取り調査の結果に基づいて、彼らの生活と就労がどのように変化していったのかを詳述している。聞き取り調査の対象者は、バングラデッシュ(10人)、フィリピン(7人)、韓国(5人)、パキスタン(2人)、イラン、中国、ビルマ、ネパール(各1人)から来日して、10年以上の滞在経験を有する28名の男性外国人である。調査対象となった28名のうち25名は改正入管法が施行される1990年までに来日している。残りの3名も1993年までに来日している。平均年齢(調査実施時点)は44.9歳である。調査結果の分析にあたっては、28名の事例調査と並行して実施された使用者(6人)からの聞き取りと外国人支援団体の活動家(12人)からの聞き取りの結果も援用されている。
非正規滞在者からの聞き取り調査の主要項目は、入職経路、労働条件、転職行動、担当職種、事業所規模、物的労働環境、日本人従業員との処遇の違い、昇給・昇進、技能形成、職場内外での日本人との対人関係などであり、これらの項目に関して初来日から現在まで(または帰国時まで)の経時的な変化が対象者全員について詳述されている。

第4章「男性長期非正規滞在者の就労の通時的変化と社会構造」では、第1章から第3章までの分析結果を踏まえて、序章で示された仮説に即して、本論文全体の結論が述べられている。すなわち、第一には、男性長期非正規滞在者は、たとえ来日当初は特段の技能や技術を必要としない労働に従事する安価な労働者であっても、国籍にかかわらず、長期にわたる日本での就労や生活のなかで、職場や労働市場における評価を高めることに成功していること、第二には、男性長期非正規滞在者は、日本社会という同じ社会構造のもとにおかれ、かつ社会構造の通時的な変動を同様に経験しており、彼らの就労行動に関しては、日本社会の社会構造の変動に応じて国籍による偏差のない共通の変動傾向を観察することができること、以上二点が本論文の結論である。
 以上の結論を導くための通時的変化の分析においては、行為主体としての非正規滞在者が、制約要因でもあり可能性付与要因でもある日本社会の社会構造を引き受けながら行為を繰り返しており、そうした行為の繰り返しが社会構造を再生産させたり変容させたりしている、という行為と構造の再帰的な関係を軸にした「社会構造の転態モデル」に基づいて一貫した説明を与えることが試みられている。

 「むすびにかえて」では、この論文の延長上に今後取り組まれるべき課題として、諸外国の非正規滞在者との比較、女性非正規滞在者との比較、来日時期を異にする非正規滞在者との比較、在留特別許可により合法化された元非正規滞在者との比較、などのテーマが例示され、これらの研究を進めることで、本研究の問題関心をさらに深耕することが可能になることが述べられている。


Ⅲ.本論文の成果と問題点
 本論文が達成した学術的な成果として、以下の3点を指摘することができるだろう。
 本論文は、日本の外国人労働者に関する研究のなかで、これまで実態が充分に明らかにされることなく議論が行われてきた非正規滞在者の就労状況に関して、前例のない本格的な実証研究による解明を行った最初の業績であり、まず第1にその先駆性を高く評価することができるだろう。日本で働く非正規滞在の外国人は、減少傾向にあるとはいえ、現在でも日本の外国人労働者の約2割を占めている。にもかかわらず、調査対象としてのアクセスがきわめて困難であることから、日系人や研修生・技能実習生に関する研究に比してその研究蓄積はきわめて乏しい状況にとどまっている。本論文は、本格的な実証研究を通じて、少なくとも男性長期非正規滞在者に関する限りは、日本の労働市場において底辺部分に滞留し続けてきたわけではないことを明らかにし、これまで議論されてきた根拠の乏しい通説に一定の修正を加えることに成功している。
本研究の成果は、研究上の空隙部分を新たな事実発見によって穴埋めした、というレベルに止まるものではない。本研究の事実発見からは、以下のような政策論的に重要なインプリケーションを引き出すことが可能であり、その点を本論文の第二の成果として指摘することができる。本研究が明らかにしたところによれば、不法という地位のゆえに労働市場において最も脆弱な位置にあると考えられがちな非正規滞在者が現実には自由な行為主体として、適切なニッチを模索しつつ、安定的で良好な地位を確保することに一定程度成功している。違法な存在として法的な保護を期待しにくい立場にある非正規滞在者が、そうした自らのリスク状況に能動的に向き合うなかで自由な行為主体としての自覚を高め、人的資源や社会関係資本を積極的に活用する戦略的な行為を繰り返しつつ、労働市場における地位を向上させていく、という事態が生まれているのである。日本政府の外国人労働者政策は、法的な保護のもとから外れて単純労働分野で就労する非正規滞在者という存在は、自らを窮迫販売による搾取状況に追い込む結果をもたらすという点で本人にとっても好ましいものではない、という立場をとっているが、本論文が明らかにしたのは、日本の外国人労働者政策が全く予想してこなかった逆説的な事態である。本論文が示した結論は、今後の日本の外国人労働者政策の方向に関しても、幾多の示唆を与えるものであると考えられる。
本研究の第3の成果として、非正規滞在者の主要な就労分野である製造系、現場系、飲食系の小規模零細事業所を舞台とする互酬的な雇用関係の実情に関する豊富な情報を提供することに成功している点を挙げることができる。法的なルールや明文化された労働契約に基づいて権利を主張しにくい立場にある非正規滞在者にとっては、家父長的にふるまう経営者との間で形成される互酬的な雇用関係を良好な形で維持することが、安定的な就労上の地位を確保するほとんど唯一の経路である。本研究は両者の間で形成される互酬的な雇用関係の動態を生き生きと描き出すことに成功している。だが、ここで描き出された労働世界は、非正規滞在の外国人のみが経験する特殊な世界ではない。本研究は日本において多くの業態の小規模・零細事業所で共通してみられるであろう互酬的な雇用関係を非正規滞在者の目を通じて描き出し、このことによって、これまであまり注目されることのなかった日本の小規模零細事業所の労働世界の一断面を明らかにしたのである。

 他方、本論文に残されている問題点について、審査委員会として以下の点を指摘しておかなければならない。
 第1には、日本の社会構造の通時的変化を説明する記述内容に重複する部分が多く、分析枠組みの整備という点で不充分な点が残されていることを指摘しなければならない。社会構造という概念を説明するために「市場空間」「公的空間」「生活空間」という3つのサブ概念が提出されているが、それらの概念に関して精密な定義が与えられていない。このことが1章から3章までの記述内容において重複が生まれる原因となっているようだ。「社会活動の転態モデル」による通時的分析という意欲的な試みについても、「市場空間」「公的空間」「生活空間」という概念に曖昧さが残されているために、その説明力が充分に活かされていないことは残念な点であった。
第2には、非正規滞在者が日本の労働市場においてニッチを模索することを通じてそれなりの地位を確保することに成功してきたとする本論文の主張に関しては、ニッチを模索した結果、彼らが日本の労働市場のどのような部分にどのようにして入り込んできたのかという点について精密な記述が展開されていない点を指摘しなければならない。論文の中では、この点に関する個別事例を紹介した記述は存在するものの、全体の傾向が充分に分析されていないことは残念な点であった。
 第3には、非正規滞在者の日本での生活と就労に研究の焦点を絞っているために、彼らが母国で形成してきた社会関係についての言及がほとんど行われておらず、結果としてトランスナショナルな労働力の再生産構造という重要な論点を欠落させてしまった点も残念な点であった。
 もとより、以上の諸点はいずれも、日本社会の社会構造と非正規滞在者の行為との間の再帰的な関係を軸に通時的分析を行う、という高度に抽象的な理論モデルに従ってスケールの大きな考察を試みた結果として積み残されてしまった課題である。筆者自身もこれらの点をさらに解決していく必要があることを明確に自覚しており、審査委員会が指摘した以上のような問題点は、本研究の学問上の意義を損なうほど決定的な欠陥とはいえない。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に充分に寄与していると判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2008年7月9日

 2008年5月20日、学位論文提出者鈴木江理子氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査委員が、提出論文「日本で働く男性長期非正規滞在者」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、鈴木江理子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、鈴木江理子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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