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博士論文審査要旨

論文題目:妊娠をめぐる葛藤 ――ドイツにおける妊娠中絶に関する法、社会実践と生命環境倫理
著者:小椋 宗一郎 (OGURA, Soichiro)
論文審査委員:嶋崎 隆、岩佐 茂、古茂田 宏、佐藤 文香

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1.本論文の構成
 本論文は、まさに人間の生命の存否に直接関わる、複雑かつ深刻な問題を取り扱っている。それ
は、「妊娠葛藤 Schwangerschaftskonflikt 」(望まない妊娠に関連して生まれる葛藤のこと)の
問題であり、単に妊娠をした女性の心の内部の葛藤のみではなく、それは広く社会的問題であり、
またパートナー関係などの問題を含み、そこにはまた、妊娠した女性と「未出生の生命」の、権利
上の衝突の問題が根底にある。この意味で、本論文は、ドイツにおける妊娠問題に関する法的・社
会的な制度と実践(第一部)、さらに生命倫理的な思想史的かつ論争的なテーマ(第二部)を学際
的に幅広く紹介・検討する。
 本論文の構成は、以下の通りである。
 
はじめに
第一部 法と社会実践――「妊娠葛藤」と「妊娠葛藤相談」
第一章 「妊娠葛藤」とは何か――妊娠中絶に関するドイツの法律
第一節 旧東西と統一ドイツ――妊娠中絶に関する新制度の成立
第二節 権利の衝突と妊娠葛藤──1993年連邦憲法裁判所判決
第三節 女性の「最終責任」と刑法の予防的効果
第四節 反対意見における女性の「人間の尊厳」
第五節 男性および共同体の義務と女性の「自己決定権」
第二章 ドイツにおける「妊娠葛藤相談」について
第一節 妊娠葛藤相談に関するドイツの法制度
第二節 妊娠葛藤相談における困難――『強制された相談』
第三節 中絶と心のケア
第四節 妊娠葛藤相談の意義
第三章 妊娠中絶とドイツ社会
第一節 妊娠葛藤相談の内容と各相談所の特色
第二節 離婚、養育費不払いと子供を育てる女性たちの経済状況
第三節 ドイツ統一と旧東独地域における出産抑制
第四節 中絶の要因――連邦健康啓発センターによる調査より
第五節 妊娠中絶における経済的要因――現代における子供をもつことの困難
補論  ドイツにおける育児休暇制度と家族政策
第二部 倫理――人格の倫理学と中絶論争
第四章 〈人格〉の概念史とドイツの生命環境倫理学(ビオ・エーティク)
第一節「なぜわれわれは『人格』について語るのか?」
第二節「なぜわれわれはもろもろの人格を『人格』と呼ぶのか?」
第三節「全ての人間は人格であるか?」
第四節 人格概念と人類史
第五章 ドイツにおける中絶論争
第一節 生命保護派の主張と議論の混迷
第二節 70年代ドイツの女性運動と「責任」の倫理
第三節 「生命イデオロギー」批判――バーバラ・ドゥーデン「身体の歴史」
第四節 中絶論争とドイツ生命環境倫理学
おわりに
資料編
文献目録
初出一覧

2.本論文の概要
 第一章は、妊娠葛藤、さらにまた中絶に関する細かな法律的議論を解読し、その複雑な経緯を扱
う。さて、旧東独では、「期限規定」(妊娠12週まで)のみが存在し、女性の自己決定が重んじら
れたのにたいし、旧西独では、ドイツ刑法218 条a 項にもとづく「適応規定」(医師による適応
(Indikation)の確認)が求められた。そこには医学的適応、緊急事態適応などが区別され、さら
に「妊娠葛藤相談」を受けることが義務づけられた。外国への堕胎旅行も盛んであり、旧西独(1990
年)では年20-25 万人が中絶をおこなったという。1990年のドイツ統合後、92年末に、「相談規定」
による合法化の趣旨をもつ刑法改正と妊娠葛藤法が議決されたが、CDU 議員らが反対し、93年に
この議決に違憲判決がなされた。そして、95年にあらたな法改正がおこなわれた。以上の経緯をた
どったのちに、著者は現行法の概観をおこなう。中絶が違法であることを大前提にして、その例外
として、医師による「適応」や「相談規定」がある(第一節)。その根拠として、93年の判決内容
にしたがい、ドイツ基本法が「未出生の人間の生命」の保護を国家に義務づけていることが挙げら
れる。著者は他方、妊娠初期では、「未出生の生命」の保護は「母親とともに(mit )だけ可能で
あり、母親に対抗しては(gegen )不可能である」という判決の文言に注目する(第二節)。この
点から、母親の自主的な「相談」が強調され、「未出生の生命」にたいする母親の最終責任も同様
に強調される。こうして、「母親と協力するとき、国家は生命保護のためにより良いチャンスをも
つ」(判決要旨)といわれる(第三節)。以上の判決にいくつかの少数意見が付されるが、さらに
そこで注目されるべきは、多数意見が「国家-女性-胎児」という三項関係で事態をとらえるのに
たいし、少数意見が「国家-(女性-胎児)」という二項関係(「二つが一つ Zweiheit in Einheit」
の強調)でとらえることであるという(第四節)。さらに著者は、「孕ませる性」である男性パー
トナーが中絶を強要した場合の厳罰に言及する。また、中絶は女性側の単なる自己決定に属するも
のではないことが指摘される。こうした錯綜した状況のなかで、そもそも中絶が違法か否かという
問いにたいして、「評価を差し控える」という第三の可能性を指摘する刑法学者の意見も付加され
る。以上の議論で明らかになることは、妊娠葛藤と中絶という微妙な問題ないし制度にたいして、
原則を重視しつつも、議論を重ねつつ何とか柔軟に対応しようとする、ドイツの公共的議論の活発
さである(第五節)。
 第二章は、現行法の鍵となる「妊娠葛藤相談」がいかに実践されるかを取り扱う。この件は、ド
イツ刑法219 条および妊娠葛藤法で詳細に定められる。まず妊娠、出産、その他多くの家族に関す
る問題を扱うための中央組織として「連邦健康開発センター」(ケルン)が定められ、そのもとで
自治体やNGO による相談事業がおこなわれる。ここでは、「相談」は基本的に胎児の生命保護を
目的とするが、だが他方、その「結果は問わない ergebnisoffen」という法律上の文言がある。そも
そも「相談」は自発的な対話でなければならない(第一節)。この意味で、ここには一定の困難な
いし矛盾がある。著者は、ケットナー『強制された相談』などを取り上げ、現場のカウンセラーた
ちが来談者と率直で友好的な対話をおこなうことによって、この「矛盾」を和らげる努力をしてい
ることを高く評価する(第二節)。さらに著者は、クノプフによるインタヴュー(巻末資料1を参
照)などを参照して、当該女性たちの心の問題に触れ、彼女らの一様でない心のあり方やパートナ
ーとの関係などについて言及する(第三節)。本章の最後に、胎児の生命保護、女性たちの精神保
護、児童虐待の防止など、カウンセラーによる「妊娠葛藤相談」の意義がまとめられ、そこにキリ
スト教の伝統やフェミニストの活動が関わっていることが指摘される(第四節)。
第三章では、より広く、「妊娠葛藤相談」および妊娠中絶に関する社会的・経済的文脈が考察さ
れ、データを引用して中絶を引き起こす多様な原因に目が向けられる。まず相談所(1999年に1686
箇所とされる)の構成が述べられ(保健所、両キリスト教会関係、労働者福祉団体、「プロファミ
リア」など)、社会学者ヴィッテンベルクによる中絶理由の記録の調査(ニュルンベルク)が詳し
く紹介される。そこでは、身心の重圧の存在は当然だが、経済問題(借金を含む)の大きさに注目
される(第一節)。さらに続いて、中絶のみならず、離婚、養育費の支払いの問題と絡んで、子育
てをする女性たちの苦境にも触れられる(第二節)。著者は旧東西両ドイツの差に意図的に注意を
払っており、旧東独地域で、失業問題、社会不安、中絶への不安から出生率が低下したことが、お
もに不妊手術の多さとなって現れたことを明らかにしている(第三節)。連邦健康開発センター編
『女性たち、生きる』(2002年、巻末資料2を参照)の調査から、「望まない妊娠」の問題に関し
て、当該女性の職業や就学の状況、パートナー関係が大きな影響を及ぼすと著者は述べ、旧東西ド
イツ地域の違いにも言及する(第四節)。ベック=ゲルンスハイムによれば、競争社会、個人化、
女性の貧困化など、現代社会の子育ての困難さは、中絶へと向かう大きな動因であり、この点で著
者は、旧東独では、仕事と家庭の両立の困難を抱えつつも、子育てにたいする保障が存在したこと
に触れる(第五節)。さらに「補論」では、ドイツにおける育児休暇制度、家庭にたいする雇用者
側の態度のデータが挙げられる。
 第二部では、生命倫理に関する論争や思想史的・原理的考察が取り扱われる。そこで著者は、ド
イツで「妊娠葛藤相談」をはじめとした社会的取り組みが可能であるのは、法的議論の積み重ねと
広範な学問的知識が基礎にあるからだと述べる。
 第四章は、中絶問題に関して発言をしてきた、ドイツの代表的倫理学者であるシュペーマンの『人
格 Personen 』を中心に取り扱うが、さらに著者自身も哲学史にそって豊富な文献を同時に検討す
る。ここで著者は、いままで議論してきたテーマに関して、周到に迂回作戦をとる。「人格」とい
う表現は一方で抽象的な意味で人数を指すが、他方で具体的な「だれか」を示す。それとともに、
「人格」は他者からの承認を要請する(第一節)。シュペーマンは「人格」概念の淵源を古代ギリ
シャの理性的自律の思想(プラトン)とキリスト教の「心」の概念に見る。著者もまた詳細に人格
史をたどり、「人格」に、①抽象的人格、②個別的実在としての人格、③共同体における倫理的人
格という三契機が見られると総括する(第二節)。これにたいして、英米系の倫理学者のシンガー
は、「人格(パーソン)」を、端的に、合理的で自己意識的な存在と解釈する。だがシュペーマン
は、すべての人間を「人格」と規定するための六つの理由を列挙する。彼によれば、重度の知的障
害者も、外部のペルソナからは直接窺い知れない「だれか」なのであり、さらに子どもも他者から
の人格的配慮のなかで成長するものである。この点からすると、彼の人格規定は、「相談規定」と
妊娠中絶を許容しないこととなる(第三節)。著者は、シュペーマンの人格概念がキリスト教思想
の神の「位格」と結合しているとはいえ、彼の考えがドイツでおおむね標準的であることを確認す
る。だが、人間の尊厳と基本的人権の確立を目指す人類史を配慮すると、後述するように、彼の生
命保護の原則は実践的な意味で批判されざるをえない(第四節)。
第五章では、ドイツの中絶論争が扱われるが、その一方の主役は、人間である胎児の生命を保護
するという原則主義的正義論を唱えるシュペーマンである。著者によれば、シュペーマンやその他
の生命保護派の主張は理論レベルではドイツで広く受け入れられたが、実践レベルでは根拠の薄弱
な対応を示してきたという。シュペーマンは『限界』で、女性解放と中絶擁護を目ざす運動にたい
して六つの批判をおこなうが、著者はその論拠に関して、データ上の不十分さに加えて、女性の人
格権や貧困問題を軽視する、現場の声に無理解であるなど、逐一細かく反批判を加える(第一節)。
次に著者は70年代に隆盛を究めた女性解放運動の側を取り上げる。この運動は性別役割批判、男性
からの「解放」を掲げ、その脈絡で中絶の権利要求を主張したが、中絶反対団体やカトリックの反
対運動、さらに法学者の批判に出会う。だが、ここで問題となるのは、胎児にたいする「所有権」
などではなく、女性の人格権であり、さらに、コンテクストに敏感で、人間関係における思いやり
と責任を重視する「ケアの倫理」(ギリガン、ハカーら、巻末資料3を参照)であるとして、一定
の展望が示される(第二節)。生命保護派への批判は、さらにバーバラ・ドゥーデンらにそって描
かれ、そこで胎児の写真が「聖体」として描かれるなど、著者は、生命保護派による一種の生命イ
デオロギーが浸透したことに批判的に注目し、一律にイメージが押しつけられるべきでないという
(第三節)。さらに、カトリックの側にも一種の生命イデオロギーがあり、受精卵のなかに生命の
始まりがある以上そこで「霊魂」が宿るという主張もここで問題視される。というのも、ここで受
精卵は、「人格」と同一視されることとなってしまうからである。だが、「法と倫理」審議会(答
申2002年)は、こうした多様な議論を受けて、受精卵を「人格」とは見ずに、「人間の生命の始ま
り」とみなす。著者によれば、審議会は、以上の対立状況を巧みに回避して、検討を将来に委ねた
が、そのさい、胎児にたいして「人間の尊厳」にもとづく保護要請が原則的に承認されているので
ある(第四節)。本論文は衝突しあう多様な立場についてどれが正しくどれが間違っているかを軽々
しく断定することを避け、その置かれている文脈を丁寧に解きほぐそうとする。「妊娠葛藤」につ
いては、中絶が正当化されるべきか否かは当の女性にしか本当はわからないので、だからこそ、自
発性にもとづく相談規定が求められる。「人間の生命」の問題については、「法と倫理」審議会の
「懐疑論的アプローチ」に見られたように、世界観の複数性を前提としつつ、「未出生の生命」と
母親双方の「未来への次元」(リッポルトの提案)が展望されるべきだと、著者は述べる(おわり
に)。

3.本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、「妊娠葛藤」を中心とするきわめて複雑かつ深刻な問題を、ドイツを中
心対象に、法制度・法的議論、社会制度・社会実践、生命倫理や思想史的根拠づけなど、きわめて
幅広い視野から、データや図表を交えて把握しようとした点にある。これらの分野ないし視点のう
ちどれが欠落しても、この問題は十分にはとらえられないだろう。もちろんそこには、当該女性や
カウンセラーの意見の考察なども含まれるのであり、法や制度から宗教的議論まで、意図的に網羅
した意欲的著作といえよう。そこには、このように周到に展開されなければ、問題は正確にとらえ
られないという、著者の意欲と自負が感じられる。
 さてもちろん、日本でも同様な問題があり、ドイツやその他の国々の現状は日本でも紹介されて
いないわけではないが、本論文の第二の成果は、旧東独、旧西独の状況から始めて、法制度や社会
組織の問題に至るまで、当該問題に関して、現在までの複雑な歴史的経緯や論争と合意形成の過程
を丁寧にたどり再構成していることである。こうして、ドイツの現状と到達点が歴史的由来から十
分に把握され、翻って、日本の状況における議論、制度などの貧困さが鮮やかに浮かび出るといえ
よう。とくに、「人間の生命」に関する「法と倫理」審議会の微妙な結論(「懐疑論的アプローチ」
といわれるもの)は、それまでの経緯を踏まえなければ了解不可能であろう。
 本論文の第三の成果は、従来の生命倫理学をはじめとする哲学的倫理学がともすると概念史の枠
組みのなかだけで自己完結的に遂行されがちであったのにたいし、妊娠葛藤相談というきわめて
生々しく微妙な倫理的「現場」に徹底的にこだわり、そこで語られるさまざまな生の声を注意深く
聴きとることによって問題を定立しようとする姿勢を自覚的に貫いていることである。これは、普
遍的「正義論」をめぐって功利主義と義務論との間で争われている現代倫理学の地平全体を、「も
うひとつの声」に耳を澄ませることによって相対化しようとする「ケアの倫理学」(ギリガン)の
具体化であり、また近年さまざまなかたちで提起されている「臨床倫理学」の挑戦的な試みである
ともいえよう。
 本論文の第四の成果は、細部にこだわる著者の微細な視線から生ずるものであり、それは、まず
語学的にも、ドイツ語の繊細かつ慎重な解釈と結びついて、議論の奥行きを深めている。また、判
例など、法律的議論もドイツ語に即して慎重に読み解かれる。さらに、第三の成果ともつながって、
著者の微細な視線は、妊娠葛藤に巻き込まれた当該女性の立場に寄り添う繊細さも生み出している。
 以上に付け加えれば、著者はドイツに二年間留学したが、語学的こだわりや、必要な資料の収集
にたいして、この経験がおおいに役立っていると見られるだろう。なお、本論文の第二章に該当す
る部分は、生命倫理学会において「若手論文奨励賞」を受賞した。
 もちろん複雑多岐にわたるテーマを扱った本論文には、問題点もなくはない。法律的結論、女性
運動の問題、さらに保守派やカトリックと「法と倫理」審議会との対立の問題など、本論文は派生
する多様な論争点を丁寧にフォローし、意味づけや解釈をするものの、そのなかで最終的に、大き
く批判的に総括することはあえてなされない(「おわりに」参照)。さらに、「人間の生命」を著
者はキーワードとして強調するが、それと「人格」との関連の問題も、明快な結論が出されていな
い。著者の慎重な態度はわからないわけではないが、結論部分においていささか物足りなさを感ず
る。以上、理論的総括の不十分さが、問題点の第一である。
問題点の第二は、第三章の社会学的考察や第五章のフェミニズムの考察などに関して、分野ごと
の実証的または理論的堀り下げの点で、いくぶんか不十分さを感ずる点である。また、第四章の人
格論の思想史はとくに著者が蘊蓄を傾けた箇所であるが、カルケドン公会議、ヒュポスタシス概念
への言及など、それらの箇所にもやや論理的明快さに欠ける展開が見られる。
 とはいえ、国家的政策を実践的かつ総合的に決定するという段階では、結論的な展望がそうすっ
きりと展開できるわけではないであろう。この問題は、まさに著者のこれからの課題であるという
のがふさわしい。著者も自らの不十分性をよく自覚している。著者の理論的な発展と成熟に、さら
に期待したい。
 以上によって、審査委員会は、本論文が当該分野の発展に十分に寄与する成果を上げたものと判
断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2008年7月9日

 2008年6月11日、学位論文提出者・小椋宗一郎氏についての最終試験をおこなった。試験
においては、提出論文「妊娠をめぐる葛藤――ドイツにおける妊娠中絶に関する法、社会実践と生
命環境倫理」に関する疑問点について、審査委員が逐一説明を求めたことにたいし、小椋宗一郎氏
はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、小椋宗一郎氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研
究業績および学力を有することを認定した。

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