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博士論文審査要旨

論文題目:一九世紀の豪農・名望家と地域社会
著者:福澤 徹三 (FUKUZAWA, Tetsuzo)
論文審査委員:渡辺 尚志、若尾 政希、田﨑 宣義、森 武麿

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1.本論文の構成
 本論文は、19世紀の豪農・名望家に焦点を当てて、それと村・地域社会・上位権力(領主・議会など)・都市との関係を分析することを通じて、近世・近代移行期の特質を解明するとともに、新たな地域社会研究の方法を提起した意欲的な論考である。
 本論文の構成は、以下のとおりである。

序 章 本論文の構成と課題
  第一節 問題の所在(研究史整理)
  第二節 積み残されている現在の課題
  第三節 本論文の構成

第一部 一九世紀の畿内における豪農金融の展開と地域

第一章 畿内における豪農金融の展開と地域
  はじめに
  第一節 享和~天保期の金融活動
  第二節 天保から幕末の展開
  おわりに
第二章 近代における岡田家の金融活動―畿内の無担保貸付への私的所有権確立の影響―
  はじめに
  第一節 近世との比較と概観
  第二節 明治三年から一四年までの変化(発展期)
  第三節 明治一五年から明治二六年の変化(衰退期・低迷期)
  第四節 岡田銀行の経営と貸付状況の分析
  おわりに
第三章 河内国丹南郡伊賀村西山家の金融活動
  はじめに
  第一節 伊賀村と西山家の経営概観
  第二節 西山家の経営をとりまく環境
  第三節 小作地経営の編成過程
  第四節 貸付相手と所持高・小作人との関係
  第五節 岡村岡田家と西山家との金融関係
  おわりに

第二部 信州における近世後期の金融活動

第四章 近世後期の信濃国・越後国における広域金融活動―更級郡今里村更級家を事例に
    ―
  はじめに
  第一節 今里村と更級家の状況
  第二節 広域金融活動の概観と更級家の意識
  第三節 松代藩領への貸付の展開と文化一四年五月の状況
  第四節 証文内容の問題点と文政四~一三年の江戸評定所への出訴
  第五節 天保・弘化期の回収過程
  第六節 地域における質地金融の展開との比較
  おわりに
第五章 文化・文政期の松代藩と代官所役人の関係
  はじめに
  第一節 松代藩と代官所役人のやりとりの検討
  第二節 上徳間村用水普請における「正式」と「内々」
  第三節 今里村更級左門質地作徳滞出入における「内々」
  おわりに

第三部 関東における明治期の地域社会

第六章 農業雑誌の受容と実践―南多摩郡平尾村 鈴木静蔵の事例を中心に―
  はじめに
  第一節 『農業雑誌』の発刊・展開とそのスタイル
  第二節 農業雑誌による農事改良と達成
  第三節 農事改良による平尾地区の変容
  おわりに
第七章 吹上隧道開通運動と川口昌蔵―積極主義下の地域状況と名望家の要件―
  はじめに
  第一節 昌蔵の経歴と彼を取り巻く状況
  第二節 五か年継続予算獲得までの過程
  第三節 隧道工事と前後道路工事の実施過程
  おわりに

終 章 本論文の総括と今後の課題
  第一節 各章の内容の整理
  第二節 研究史上の意義
  第三節 まとめと今後の課題

2.本論文の要旨
 序章では、佐々木潤之介氏の世直し状況論をはじめとする、近世・近代移行期村落論に関する先行研究を整理したうえで、近世・近代という時代枠にとらわれず、19世紀を通観して近世・近代移行期の意味を考える必要があるという課題意識が述べられる。
 第一部では、19世紀を通じて、生産力面での先進地域であった河内国における豪農の金融活動が分析される。
 第一章では、河内国丹南郡岡村(現大阪府藤井寺市)の豪農・地方名望家であった岡田家を対象として、同家が享和~慶応年間(1801~1868)に村内外で行なった金融活動を分析している。岡田家は、所持石高が100石を超す、当該地域における「中核的豪農」であり、近隣の中小豪農層を主要な相手として、広域にわたる金融活動を展開していた。同家の金融活動は、性急に貸金の返済を迫るのではなく、返済猶予や利子減免を行ないつつ、気長に返済を待つところに特徴があった。これは、同家が豪農や村・地域の成り立ちに配慮していたことを示しているとともに、返済不能の相手から担保の土地を獲得しても、その土地のある村の抵抗・反発によって土地の経営がうまくいかないという事情も背景にあった。そのため、岡田家は、金融を通じた土地集積よりも、元利返済による貨幣増殖を目指したのであった。
 第二章では、第一章でみた岡田家の金融活動が、近代に入っていかなる変化を遂げたかが検討される。近代に入ると、明治国家は、民間における金銭貸借が契約どおり履行されるように法・裁判制度を整備していった。その結果、近世における、借り手の状況を斟酌した柔軟な貸借慣行は変容し、期限どおりの厳格な返済が求められるようになった。これは、一見貸し手である岡田家にとって有利な変化のようにみえたが、実際には、滞納による処分を恐れる借り手側の自己防衛的対応によって、岡田家の金融規模は縮小し金融活動は停滞した。こうした状況を打開すべく、同家は、明治27年(1894)に岡田銀行という個人銀行を開業するが、状況は好転せず、明治34年には銀行を廃業するにいたった。
 第三章では、岡村の近隣村である河内国丹南郡伊賀村(現大阪府羽曳野市)の豪農西山家の近世後期における金融活動が分析されている。伊賀村は岡村の近隣にあり、西山家は所持石高50石程度の中小規模の豪農(一般豪農)で、岡田家から金を借りていた。両家の金融活動を比較すると、岡田家は、他村の豪農層を主要な取引相手とし、広範囲にわたる金融圏をもち、領主貸を行ない、大坂・堺の両替商との金融関係ももっていた。これに対して、西山家は、自村の小作人・小前層を主要な貸付相手とし、領主や都市両替商との関係はもっていなかった。このように、中核的豪農と一般豪農では金融活動に質的な差が存在するとともに、中核的豪農の資金が一般豪農を通じて地域の小前・小作層に融通され、間接的に地域住民の成り立ちを支えているという関係が存在していた。
 第二部では、第一部との比較のため、信濃国における近世後期の金融状況を分析し、さらにそれに幕府や藩の動向をからめて論じている。
 第四章では、信濃国更級郡今里村(幕府領、現長野県長野市)の豪農更級家の金融活動が分析されている。経済的には中間地帯とされる信濃国においても、近世後期になると、村々に広範な資金需要が生まれており、その点では畿内と共通していた。しかし、畿内では各地に多数存在した中核的豪農や一般豪農がこうした需要に応えて資金を融通していたのに対して、信濃国では豪農が資金需要に充分応えきれないという状況があった。そうしたなかで、更級家は、文化~天保期(1804~1844)を中心に、信濃・越後両国にわたって広域金融活動を展開していた。しかし、畿内のように、地域における金融慣行が充分成熟していなかったために、更級家は貸金の回収にあたって、幕府・大名への訴訟に頼らざるをえず、元利の回収には大きな困難がともなった。こうした状況は、幕末には変化し、信濃国でも各地の豪農が村・地域の資金需要に応えられるようになっていったのである。
 第五章では、第四章で分析した更級家が、松代藩領村々に貸した金の返済を求めて松代藩に出訴した事例などから、幕府代官所領と大名領との関係のあり方を検討している。代官所役人と松代藩役人とは、相手方からしかるべき手順を踏んで申し入れがあり、かつそれが正当な理由のあることであれば、互いに便宜を図りあっていた。こうして幕府領と大名領との関係は、現地における担当役人同士の交渉によって基本的には円滑に保たれていたのである。一方、こうした領主同士の交渉の背後には、生活の成り立ちを求める村や地域の動向があり、村人たちは領主を頼るとともに、自主的に内々の交渉を進めるなど優れた問題解決能力を獲得していたことも重視する必要がある。
 第三部では、明治期の関東地方における豪農・名望家と、それと連携した地域住民の活動を跡づけている。
 第六章では、東京府南多摩郡平尾村(現東京都稲城市)の小豪農鈴木静蔵を取り上げて、彼が『農業雑誌』から得た農業知識を生かして農事改良に努めるさまと、それが部分的ではあれ、他の村人たちにも影響を与えていくようすが描かれ、農業技術の発展にとって雑誌の果たした役割の大きさが示されている。
 第七章では、東京府(明治26年までは神奈川県)西多摩郡成木村(現東京都青梅市)の川口昌蔵を主人公にして、彼が村内を通る道路の改修に尽力した様子を描いている。山間に位置する成木村にとっては、道路整備の可否は、山林資源の商品化の可能性を左右する重大問題であった。川口昌蔵は村内では経済的に下層に属し、名望家ではなかったが、名望家層の信任も得つつ改修の実現に奔走した。改修実現には、東京府の官僚や府議会議員を説得して府の予算を獲得するとともに、関係町村の合意も取り付ける必要があったが、昌蔵はこうしたさまざまな難関をクリアしていった。明治期には、彼のような、名望家に代わって、同様の役割を果たす存在が各地に生まれてきたのであり、こうした存在への着目が重要になってくる。
 終章では、以上の成果をまとめたうえで、近世・近代の枠を越えて19世紀を全体として捉えることが重要であること、河内国と信濃国など地域間の比較を行なうことで豪農・名望家の金融活動の地域的特質が見えてくること、中核的豪農・一般豪農・小前層3者の関係を総体として分析することで厚みのある地域像を描きうること、などの方法論に関わる主張がなされている。


3.本論文の成果と問題点
 本論文の成果として、以下の諸点があげられる。
 第一に、19世紀を通して分析することにより、近世・近代移行期の地域社会について、連続と変化の両面から、多くの新知見が得られたということである。たとえば、河内国においては、近世後期には、豪農間の金融ネットワークが成立しており、地域の需要に応えうるだけの潤沢な資金が豪農のもとに蓄積されていた。こうした状況は近代においても継続しており、これは近世・近代の連続面といえる。他方、近世においては、小前層や村の成り立ちを支える融通的性格を色濃くもっており、かつ村落共同体に強く規定されていた豪農金融が、近代に入ると、明治政府の法整備の影響もあって、借り手の事情への配慮を弱め、契約の厳格な履行を優先するものへと変質していく。その延長線上に、銀行の開業が位置づくのである。これは、近世・近代の断絶面を表している。このように、河内国のような経済的先進地帯においても、金融面における近世・近代移行期の変化は小さくないのであり、こうした点を具体的に明らかにした意義は大きい。
 第二に、畿内・信濃・関東という各地の事例の相互比較により、比較地域論の有効性を示したということがある。従来から、近世の河内国は先進地帯、信濃国は中間地帯と位置づけられてきたが、それはもっぱら農業生産力の比較から得られた地域区分であった。しかし、本論文では、金融面においても、近世後期から無担保・高額の金融が広く展開していた畿内と、更級家のような少数の突出した豪農が高額金融を一手に担っていた信濃という地域差が見られたことを明らかにした。多様な指標による比較地域論の豊かな可能性を示したことが、本論文の第二の成果である。
 第三の意義として、豪農・名望家の経済活動にとどまらない多様なファクターを考慮に入れて、豊かな地域社会像を描き出したことがあげられる。たとえば、本論文では、領主や明治国家の政策や政治・司法判断が豪農・名望家の経済活動に与えた影響や、村落共同体の豪農に対する規定性について検討され、中核的豪農・一般豪農・小前層の相互関係も分析されている。さらに、都市商業資本の役割、豪農の読書がもった意味、名望家の役割を代替するような存在への着目など、多角的な分析がなされている。こうした分析を通じて、豪農・名望家の性格と機能を多面的に捉えると同時に、それを広く社会のなかに位置づけることにより、豊かな地域社会像を提示しえている。
 他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不充分な点がないわけではない。
 第一部では、河内国について近世・近代を通じた金融構造の分析がなされているが、第二部の信濃国についての分析は近世のみにとどまっており、第三部の関東地方の分析においては名望家層を中心とした金融構造の追究が不充分である。このように、対象地域ごとに分析に若干のばらつきが認められる。また、第七章で提示された、名望家の役割を代替するような存在についても、その性格やこうした存在がどこまで一般化できるかについては、さらなる事例収集が必要であろう。もちろん、こうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、福澤徹三氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2008年6月11日

 2008年5月14日、学位論文提出者福澤徹三氏の論文についての最終試験を行なった。試験においては、提出論文「一九世紀の豪農・名望家と地域社会」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、福澤徹三氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査委員一同は、福澤徹三氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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