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博士論文審査要旨

論文題目:Community in Crisis: Language and Action among African-American Muslims in Harlem
著者:中村 寛 (NAKAMURA, Yutaka)
論文審査委員:落合 一泰、足羽 與志子、岡崎 彰、貴堂 嘉之

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本論文の構成
 本論文は、ニューヨーク市ハーレム地区のアフリカ系アメリカ人ムスリムの民族誌である。2002年から2004年にいたる2年間のフィールドワークに基づき、ムスリム諸個人の日常的経験を描き、(1)彼らの「リアリティ」に対する感覚、(2)その感覚を認識し伝達するために用いられる言語、(3)言語活動を通じて彼らが構築するコミュニティや文化、の3項関係を分析し、言語と行為の関係およびその間にみられる「ズレ」を明らかにしようとする。本論文で検討される「リアリティ」とは暴力に関わる事柄だが、「暴力的」に見えることがらが必ずしも「暴力的」な行為へと結実せず、「非暴力的」に見えることがらが「暴力」へと結びつくプロセスが検討され明らかにされる。
 本論文では、アフリカ系アメリカ人ムスリムの口から数多くの不満や批判が語られる。彼らの発言には、ハーレム、アフリカ系アメリカ人、ムスリム等の現状に対する怒り、不満、痛み、危機感覚などが見て取れる。自らの過去や現在を語る際に、彼らがそうした感覚を持つことは、彼ら自身にとり、何を意味するのか。彼らの語りはどのように解釈し得るか。彼らの感覚に対し解釈・説明を与えるとは、どのような行為であるのか。
 これらの問題意識のもと、本論文は、歴史、ストリート・ライフ、コミュニ(ティ/ケーション)をそれぞれ中心テーマとする3部から構成されている。第1部「現‐在の歴史/歴史の現‐在―アフリカ系アメリカ人ムスリム・コミュニティの形成とアーカイヴの位置」では、アフリカ系アメリカ人ムスリムの歴史が発想され、発話されるその仕方、そうした発話によって暗示される暴力の位置が検証される。第1章「歴史のアーカイヴ化」では、歴史や個人の生活史の問題、そしてそれらとアーカイヴとの関係が検討され、第2章「挫かれた過去」では、歴史の問題がさらに追求され、「語りの文化」と「アーカイヴの文化」との関係が検討される。
 第2部「116丁目にて―ストリート・ライフの民族誌的素描」では、暴力と言語との間の複雑に絡み合う複数の関係を捉えるために、対立や衝突が顕在化するいくつかの場面が描写される。第3章「差異化のダイナミズム」では、アフリカ系アメリカ人ムスリムやニューカマーのアフリカ系移民が多く暮らす116丁目で起こる出来事が具体的に描写・分析され、第4章「いくつもの境界、いくつものコンテクスト」では、「ハーレム」と「非ハーレム」との間に生じる複数の境界の存在が理論的に考察されていく。
 第3部「延期されるコミュニティ―諸個人(間)とコミュニティ(間)におけるコミュニケーションとディスコミュニケーション」の検討対象はハーレムのムスリムによる社会運動であり、彼らの言語とコミュニティとの関係が考察される。第5章「イスラーム組織の構成と解体」では、比較的新しく小さなイスラーム運動が組織され、解体していくプロセスが分析される。
 本論文の目次構成は、以下のとおりである。

Acknowledgements
Introduction
Part I Histories of the Present/the Presence of Histories: Formation of the African-American Muslim Communities and the Position of Archive
Chapter 1 Archivization of Histories
Chapter 2 Frustrated Past
Part II Across 116th Street: Ethnographic Sketches of the Street Life
Chapter 3 Dynamism of Differentiation
Chapter 4 Different Boundaries, Different Contexts
Part III Community Deferred: Communication and Dis-communication among Individuals and Communities
Chapter 5 Constitution and Deconstitution of an Islamic Organization
Epilogue Bonds and Different Paths
Bibliography

本論文の要旨
 第1章「歴史のアーカイヴ化」では、歴史と個人の生活史をめぐる諸問題、それらとアーカイヴ(archive)との関係が考察される。近代のネーションがある特殊な仕方で発想される、いわゆる大文字の歴史(History)抜きには成立し得ないことは、近年の歴史研究を通じてますます明らかになってきている。また、いわゆる小文字の歴史(histories)も含め、歴史が単に過去において観察され、記録されてアーカイヴ化されてきた事実の連続ではなく、客観的に現在に呼び出し得るものでない点も、近年の多くの研究において共有された理論的前提になっている。本章もまた、そうした歴史の捉え方の前提の上に展開される。とりわけ本章では、ウォルター・ベンヤミンの「歴史哲学テーゼ」に理論的に依拠しつつ、アフリカ系アメリカ人ムスリムの歴史が捉え直されている。 
 具体的には、無実の罪で告訴され、公平な裁判を受けられずに23年間を刑務所で過ごしたアフリカ系アメリカ人ムスリムの男性の語りが記述される。彼自身が語る歴史を、アフリカ系アメリカ人イスラームのより一般的な歴史と対比させて描写するなかで、彼らの歴史のなかに連邦捜査局(FBI)の影が繰り返し登場してくる点が明らかにされる。FBIはこの男性が逮捕される以前から相当数の秘密捜査員をアフリカ系アメリカ人ムスリムの間に潜伏させており、ムスリムに関する情報を常時収集し、アーカイヴ化していた。このようなFBIの存在に言及することなしには、この男性の歴史、そしてアフリカ系アメリカ人ムスリムの歴史を語ることができないことを、本章は明らかにする。その意味で、FBIが残した膨大なファイル(アーカイヴ)は、アフリカ系アメリカ人ムスリムの活動に対するFBIの暴力的な介入を思い出させる徴となっており、ニューヨーク公立図書館におさめられているアフリカ系アメリカ人ムスリムの歴史に関する書物(アーカイヴ)はFBIの影の記録と言える。
 第2章「挫かれた過去」では、歴史をめぐる問題、とりわけ語り(narrative)とアーカイヴとの関係が、さらに追求されていく。第1章に登場した男性とは別のアフリカ系アメリカ人ムスリム男性に焦点を当て、怒りや不満を頻繁に伴う彼の語りを、アフリカ系アメリカ人ムスリムのより一般的な語りと対比させつつ、再構築していく。その意味で本章は、表面的には歴史に関連して表出する、アフリカ系アメリカ人ムスリムの怒りや不満に関する報告となっている。その男性は、「白人の国アメリカ」のみならず、自らもその範疇の成員であるはずの「ハーレムの住民」や「アフリカ系アメリカ人」、そして「ムスリム」に対しても、強い不満を口にする。「暴力的」とも聞こえるその「強い」言語は、確かに、「白人」や「アフリカ系アメリカ人ムスリム」など特定の集団に向けられたものである。だが、それは必ずしも「暴力的な行為」に結果(materialize)しない。彼と不満の対象の間には、単純で一様な敵対関係があるわけではないからである。不満を個人的な性格や心理・精神的要素に還元しないのであれば、こうした数々の強い不満、それを他者に向けて発話するという行為、語られた内容と実際の行為の「ズレ」、それらの背後にある「過去」に対する態度は、どのように捉え、解釈することが可能か。彼(彼ら)が何(誰)に対する不満をどのように語るのか、その語りの内容はどのようなものとして捉えることができるのか、それは何を教示するのかを描き出し分析することが、第2章における中村氏の第一の課題である。
 同時に本章は、アフリカ系アメリカ人ムスリムの歴史においてアーカイヴという存在が占めている位置に関する報告にもなっている。ムスリム男性の語りには、(1)アーカイヴを通じての「過去」への接触、(2)「語り」を通じての「過去」への接触、という相異なるふたつの「過去」への接触法が潜んでいる。それらは、ひとりの個人、ひとつの集団内に、時には齟齬をきたしながらも混在し並存している。その詳細な分析の結果として、語りの文化(narrative culture)を生きてきた人々へのアーカイヴの普及と浸透、その結果としての意識変化が、ムスリム男性の不満や怒りの表出と深く関わることが示されていくのである。
 第3章「差異化のダイナミズム」では、アフリカ系アメリカ人ムスリムとニューカマーのアフリカ系移民ムスリムが集住するハーレムの116丁目での具体的な出来事が、描写され分析されていく。出来事は、アフリカ系アメリカ人ムスリムとアフリカ系移民ムスリムとの間に、敵意(resentment)や憎悪(animosity)、ときには強い対立が存在することを示している。それは、コミュニティ外の観察者には、「文化」間あるいは「エスニック集団」間に衝突が生じているかのように見えるかもしれない。しかし中村氏は、長期間に渡る観察にもとづき、現象がそれほど単純ではないことを本章で明らかにする。
 ハーレム(Harlem)は、とりわけハーレム・ルネッサンス以降、「白人主流社会」とは対置される形で、単一の「『黒人』居住区(black neighborhood)」・「コミュニティ」としてメディアを通じて語られ、流通し、想像されてきた。一方で同地区の「貧困・麻薬・差別の蔓延」が、数々の統計資料やデータとともに実証的に語られ、他方で「栄光・再生・創造力」が、しばしば過去形で讃えられてきた。しかし、実際にその場所に生活する住民は、決して一枚岩ではない。たとえば、1990年代以降のセネガルを中心とした西アフリカ諸国からの移民の急増は、ハーレム居住者の人種・民族構成に大きな変化をもたらし、その変化は、統計上の数値の推移以上に、日常的感覚のレベルでそれ以前から住んでいるアフリカ系アメリカ人に意識されている。英語を話し、アメリカ文化を身につけたアフリカ系アメリカ人が、フランス語やウォロフ語(Wolof)等を話しアフリカの「民族衣装」を身に着けるアフリカ系移民との差異を強調し、時に相手に対する敵意を口にし、また相手からの敵意を指摘することも、珍しくないと中村氏は報告する。また、集団としてのアフリカ系アメリカ人ムスリムに焦点を当てた場合、その構成員自体も一枚岩ではなく、クリスチャンの家族を持ちながらムスリムに「改宗」する者や、ネイション・オブ・イスラーム(the Nation of Islam 以下NOI)等のイスラーム運動に参加し支持しつつも、ムスリムの祈りには参加しない者等、極めて多様である。このような差異は、どのような範疇として、いかなる文脈で、どのような条件と結びつき、顕在化するのか。観察者は、いかなる形でそのダイナミズムを分析し素描することができるのか。ある特定の時間と場所において、人種・民族・階級・宗教などの範疇は、いかに構築され、対立し、再交渉されていくのか。これらの問題点を具象レベルで描写し、行為者と範疇との多種多様な対立や衝突(conflict)のあり方を検討することで、中村氏は諸々の範疇が持つ拘束力と逆に拡散させる力との関係性を考察する。
 第4章「いくつもの境界、いくつものコンテクスト」において中村氏は、ハーレムを構成する複数の境界線を、ハーレム内部における多様性という観点からではなく、外部との関係性において考察する。すなわち、本章において中村氏は、「ハーレム」と「ハーレムでない場所」とを隔てる境界線(boundaries)がさまざまな形で立ち現れる瞬間・契機(moments)を報告する。「ハーレム」という場所の特殊性を明らかにするために、「ハーレム」と「非ハーレム」との間に引かれる複数の境界のあり方を描写し、分析することが、本章の第一課題である。境界線は、ひとつの文化、ひとつのコミュニティと呼ばれるものに輪郭を与える。その意味で、境界線の引かれ方の検討は、文化やコミュニティの構築のされ方に関わるものといえる。「ハーレムでない場所」、すなわち「非ハーレム」として具体的に扱うのは、ハーレムに隣接するコロンビア大学である。ハーレムを行政的観点から「コミュニティ・ディストリクト(Community District) 9、10、1」として捉えるのであれば、コロンビア大学はハーレムの中に存在する。しかし、コロンビア大学とその周辺地区をハーレムの一部と考える人は少なく、コロンビア大学自身、ハーレムにキャンパスが存在するとは表現せず、モーニングサイド・ハイツ(Morningside Heights)にあると位置づけてきた。
 中村氏は、場所を取り巻く境界の存在を具体的かつ詳細に解読し、境界、差異、差別、卓越など一連の言葉が形成する現象を説明する。このような複数のレベルでのプロセスを明らかにすることが、本章の第二の課題、すなわち理論的な課題である。「さまざまな境界」というのは、単に複数のカテゴリーによる差異が存在し、それらの複数のカテゴリー間に複数の境界が存在するということではない。ときには人種的カテゴリーによって把握される境界が地理的なカテゴリーに置き換わり、またある時には言語的な差異によって認識されるというように、カテゴリーの境界領域では、さまざまな接触による並立的状況が生ずると中村氏は主張する。それはときには、身体の動き、振る舞い、雰囲気など、可視化されず曖昧なレベルで顕在化することもある。このように、境界は、物理的な場所と場所との間に存在し、さらにそこから、空間、言語、振る舞いなど抽象的なレベルにおいて存在し潜在する現象である。このように本章は、境界がより抽象的なレベルで発現するとき、それは具体的な場所が持つ境界という現実に何をもたらすかを解明する。
 第5章「イスラーム組織の構成と解体」は、比較的新しく規模の小さいイスラーム運動が組織され解体していくプロセスに焦点を当て、運動を構成するメンバー間のコミュニケーションの問題を考察する。様々な目的や意図を持つ組織のメンバーであったが、地元コミュニティの改善のために尽力したいという一点において一致していた。その意味で、このイスラーム運動は、コミュニティ・ビルディングのプロセスでもあった。だが、このイスラーム運動は、同じ目的を共有していたかに見えたメンバーたちの間のディスコミュニケーションによって、表面的には弱体化し解体していくことになる。中村氏は、組織内のディスコミュニケーションが顕在化したいくつかの場面を描写し、コミュニティにおけるディスコミュニケーションの意義と役割を明らかにする。
 中村氏自身が運営に深く関わったこの組織の活動の描写・分析を通じ、本章の結論部ではハーレムのアフリカ系アメリカ人ムスリムにおけるふたつの相異なるコミュニケーションの様態が析出していく。一方には、『他者の記号学——アメリカ大陸の征服』(法政大学出版局、1986年)においてツヴェタン・トドロフが「人間とのコミュニケーション」と呼んだコミュニケーションの様態があり、他方には、「世界とのコミュニケーション」と呼んだ様態がある。この視点を導入することで、アフリカ系アメリカ人ムスリムの間のディスコミュニケーションを、単なる同一言語上の論争ではなく、コミュニケーションの様態のレベルにおける「ズレ」として認識することが可能になる。そして、言語上のやり取りが失敗に終わり、ひとつの組織が解体し、コミュニティ構築が頓挫したかに見えたまさにその瞬間に、「繋がり(bond)」の存在が明らかになったことが示される。

本論文の成果と問題点
 本論文の成果は、第一に、長期間に渡るフィールドワークを通じ、ハーレムという一つの地域におけるアフリカ系アメリカ人ムスリムたちの多様な生のあり方を実証的に明らかにした点にある。とりわけ彼らの日常会話や日常的な活動が、生き生きとした描写を通じて再構成され、彼らの多様なイスラーム実践を明らかにすることに成功している。この点こそ、本論文の最も優れた成果のひとつである。
 従来のアフリカ系アメリカ人ムスリム研究は、ネイション・オブ・イスラーム(NOI)のような全国規模のイスラーム組織に焦点を当て、組織のリーダーたちの発言や組織の歴史的変化を社会的文脈のなかに位置づけるものが多かった。それらの社会学的研究は、イスラーム組織の活動の概要、組織の主な理念や主張、アメリカ国内でのアフリカ系アメリカ人ムスリムの歴史的・社会的位置づけを把握するうえでは優れている。しかし、いずれの研究においても、NOIのようある特定の組織に属さないアフリカ系アメリカ人ムスリムへの言及が少ない。また、比較的注目を集めやすいイマームや組織のリーダーたちの言動には言及がなされるものの、いわゆる「普通の」アフリカ系アメリカ人ムスリム諸個人の日常が取り上げられることはない。このような傾向のなかでは、「アフリカ系アメリカ人ムスリム」は一枚岩的集団として想像される傾向が強い。この点において、中村氏の研究は、ハーレムというフィールドにおけるアフリカ系アメリカ人ムスリムの言語や行為を、ジェスチャーや微細な表情の動きにいたるまで詳細に観察し描写しており、実証性に富む優れた民族誌になっている。とりわけ、ムスリムが一枚岩の宗教集団として想像される傾向の強い今日的政治的情勢のなかで、アメリカ国内のイスラーム実践を具象レベルで分析したことは、高く評価されるべきであろう。
 本論文の第二の成果は、アフリカ系アメリカ人ムスリムを取り巻く状況の具体的な記述を通じ、言語と行為の関係(ズレ)に着目し、暴力をめぐる理論的考察に挑んでいる点である。人文社会科学の領域における多くの文化研究は、言語活動と行為との間に決定論的な因果関係を前提としてきた。とりわけ構造主義的な思考様式の影響を受ける諸研究は、個人主体による思惟、自制、自省、選択、反逆等を認めず、行為は文化構造により規定されると前提する傾向がある。むろん、こうした思想の潮流は、近代的自我の自由意志を前提とするそれまでの多くの研究に対する批判から出発している。しかし、中村氏の民族誌は、対象に関する詳細な描写と分析を通じ、理論的一貫性の過度の強調に潜む決定論を退け、かといって主体の自由意志という幻想に立ち返ることもなく、文化の構造を視野に収めつつも、「例外的」要素をも見逃さない。それは言語と行為の「ズレ」に着目することを可能にし、また言語の内に潜む「ズレ」への注視おも可能にした。
 具体的には、中村氏は、言語活動に潜む二つの異なる様態(語りとアーカイヴ)を析出する。その上で、それらの様態に付随する認識のあり方や歴史意識のあり方を明らかにし、歴史意識と暴力との関係の考察に向かう。また中村氏は、暴力的であるとされる言語が暴力的行為に直結するとは限らず、逆に非暴力的であるとされる言語が暴力的行為へと結びつく過程を、具体的事例を通じて明示する。さらに、コミュニケーションという概念の名のもとに集約されがちな言語交換活動に焦点を当て、フィールドデータにもとづきふたつの相異なるコミュニケーション形式を提示した上で、その形式の間に起こるディスコミュニケーションの問題を論じる。ウォルター・ベンヤミンやハンナ・アーレントなどの暴力研究から大きな示唆を得ながらも、中村氏の理論的考察は、民族誌的描写によって言語と行為の「ズレ」を繰り返し明示することを通じ暴力研究に新たな視座を見出そうと試みる。この点において、理論と実証の優れた組み合わせを達成していると評価できる。
 本論文の第三の成果として、都市エスノグラフィーを中心とした研究蓄積への貢献をあげたい。近年、アメリカ国内の様々なコミュニティにおいて、民族誌的研究が蓄積されてきている。そこでは、ともすればイメージが先行しがちな諸集団がより厳密な方法で研究され、様々な分析と叙述のスタイルが試みられている。イライジャ・アンダーソンの『ストリートワイズ』、ミッチェル・ドゥニアの『サイド・ウォーク』、フィリップ・ブルジョアの『イン・サーチ・オブ・リスペクト』等が、その代表例である。本論文もまたそうした新しい民族誌の流れをくむ。同時に、中村氏による民族誌は、ある特定のコミュニティに焦点を当てた民族誌につきまとう、ひとつの問題に取り組んでいる点で評価できる。それは、特定の人々についての報告が、厳密な方法によってなされればなされるほど、研究対象となる人々の文化の固定化が進むという民族誌学的問題である。この問題に意識的な中村氏は、本論文の目的がハーレムのアフリカ系アメリカ人ムスリムに関する客観的、全体的、包括的なデータの提示にあるわけではないことを、事前に明言している。そのうえで、本論文が、たまたま「アフリカ系アメリカ人ムスリム」や「ハーレムの住民」というカテゴリーに入れられる諸個人の民族誌になり得ることを主張する。その意味で、優れた民族誌である本論文には、ある集団の常態を固定化してしまう傾向性を持つ民族誌を超えようとする認識論的かつ方法論的な試行が意識的に展開されており、その知的貢献は高く評価されるべきであろう。
 もちろん本論文に関し、問題点が指摘できないわけではない。
 第一に、民族誌的描写の重視と暴力、言語、文化の連関の解明という目的との間で、個々の描写と理論的考察との結び付きが必ずしも明示的でなくなる場合があることである。理論的に展開する必要のあるいくつかの概念も、描写のなかに埋め込まれ、あるいは脚注において言及されるにとどまっている。暗示的にその重要性がほのめかされてはいるものの、さらなる説明によって展開されずに投げ置かれている箇所が少なくない。その意味では、各章の理論的課題を説明する際に、先行研究の領域をより限定した上で、具体的に批評すべきであった。先行研究として前提とされている研究領域があまりに広いため、本論文の「仮想敵」の所在がぼやけた印象も拭えない。これは、典型的な論文叙述のスタイルから離れ、個別の出来事をエピソードとして描き出した上で分析するという記述法を採用していることと無関係ではない。しかしその結果、個別的に言及される理論的考察が十分に深められておらず、問題の焦点が明確に提示されていない印象が残る。理論的展開が十分に明示的かつ説得的になされれば、スタイルの如何を問わず、論文全体の説得力は格段に増したであろう。中村氏が批判するFBIによる資料作成や流布と中村氏の記述スタイルが、じつはかけ離れたものではないという指摘も可能である。また、記述された会話再構築がフィールドノートだけで可能かという疑問が差し挟まれる余地も残る。これらの方法論的問題が解決されていない結果、新たな記述法を目指したにもかかわらず、ある種の中産階級的まとまりが先行し、現場のザラつきやささくれが感じられない人類学研究になった感も否めない。記述と理論的展開をどのように組み合わせ、全体を表出させるかが民族誌の質の主たる決定要因であるとするならば、人類学への視座、叙述スタイルという観点からも、さらなる改善が望まれるところである。
 第二に、言語と暴力の関係の考察にあたり、本研究では「暴力」と判断される言語が「暴力的」行為に結びつくとは限らず、反対に「非暴力」と判断される言語が「暴力的」行為へと結果する仕掛けが明らかにされるが、この点を強調するあまり、言語が持つ暴力的側面が考察の対象から抜け落ちているようにも思える。これは分析対象を限定した結果、不可避的に生じた問題であるが、なぜ本研究がそのような限定を設けたのか、理論的な言及があってもよかったかもしれない。また、これも同様に対象限定に関わることだが、ハーレムの住人のなかでとくにアフリカ系アメリカ人ムスリムにのみ焦点を当てたことの限界に関し、自覚的な言及が必要だったのではないかと思われる。たとえ短くてもニューカマーであるアフリカ系移民、アフリカ系アメリカ人キリスト教徒の生のあり方などへの言及があったならば、ムスリムの生がより立体感をもって具体的に立ち現われたかもしれない。
 もっとも、これらの問題点は、本論文の研究成果を損なうものではない。本論文において提示された構想が、今後のさらなる研究により精緻化されていくなかで解決されていく課題であると論文審査委員会は考えている。

最終試験の結果の要旨

2008年6月11日

 2008年5月21日、学位論文提出者中村寛氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文 Community in Crisis: Language and Action among African-American Muslims in Harlem (「危機にあるコミュニティ―ハーレムのアフリカ系アメリカ人ムスリムにおける言語と行為」)に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、中村寛氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって、審査員一同は、中村寛氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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