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博士論文審査要旨

論文題目:天皇制国家における国家構想の歴史的展開
著者:山本 公徳 (YAMAMOTO, Koutoku)
論文審査委員:渡辺 治、吉田 裕、加藤 哲郎、高津 勝

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一 本論文の構成

 山本公徳氏の学位請求論文「天皇制国家における国家構想の歴史的展開」は、近代天皇制国家の特殊な相貌を、講座派以来根強く存続してきた国家の前近代性から解く視角を再検討し後発近代国家が有した特殊な構造という視角から全面的に再構成することを試みた意欲的作品である。序章、終章を含め、三部、七章からなる本論文の構成は以下の通りである。

目次

序章 課題と視角
 1 問題の所在
 2 講座派マルクス主義の天皇制国家論の検討と本論文の課題
 3 「講座派以後」の天皇制国家論
 4 本論文の視角
 5 理論的諸前提
 6 時期区分

【第1部 確立期天皇制国家の支配構造】
はじめに
 1 確立期天皇制国家の政治支配をめぐる二つのイメージ
 2 課題
第1章 天皇制国家秩序の特殊な領導主体の形成-自立的国家派-
 1 明治憲法制定をめぐる政治的対抗の形成
 2 自立的国家派によるヘゲモニー掌握と二重の後発性
第2章 国民統合システムのカナメとしての地方制度の形成
 1 確立期天皇制国家の統合問題
 2 二つの地方制度構想
 3 地方制度の形成過程
第3章 寡頭制的国家意思決定メカニズムの完成-明治憲法体制の確立-
 1 天皇制国家の帝国主義化と新たな問題の発生
 2 伊藤博文と立憲政友会
 3 衆議院議員選挙法改正
 4 府県制・郡制改正
 5 元老制度の形成

【第2部 帝国主義的秩序の変容と政党政治】
第4章 帝国主義的世界秩序の変容と原内閣期の支配構造
 問題の所在
 1 原敬政友会内閣の成立過程
 2 原内閣による国民統合構造の再編
 小括
第5章 寡頭制政治の崩壊と保守二大政党制の形成
 問題の所在
 1 新たな危機の発生と政党政治の成立条件
 2 自立的国家派における国家的危機の克服構想
 3 保守二大政党制の形成

【第3部 帝国主義国間対抗の激化と秩序の権威的再編】
はじめに -問題の所在-
第6章 満州事変と挙国一致内閣の成立
 1 政党政治終焉の背景
 2 斉藤内閣の国家構想
第7章 国家総力戦と明治憲法をめぐる対抗
 1 総力戦の要請と政治的対抗の変化
 2 2つの国家構想
 3 両派の対抗とその帰結
終章

二 本論文の概要

 序章においては、本論文の問題関心が述べられたあと、研究史の詳細な整理がなされ、それを踏まえて、本論文の仮説が提示されている。
 まず著者は、近代日本の国家について講座派以来の支配的な理論は、その専制性をはじめとした特殊性が天皇制国家の前近代的性質に由来するものであるという仮説に立っており、この視角は、以後の批判にかかわらず根強く存続し、戦後日本社会の問題もかかる日本社会の前近代性の残存にあるとみる近代主義的視角として受け継がれてきたとし、その再検討を通じて日本の社会科学では比較的手薄だった近代批判の視座を構築することを試みると、その問題関心を述べる。
 その上で著者は、近代天皇制国家についての前近代性仮説の問題点を三点にわたり指摘している。第一に、講座派は国家の専制的性格を強調し、その根拠を国家の絶対主義的性格に求めたが、それでは天皇制国家が近代国家建設に向けて合理的意思決定を行っていたことをとらえられないし、裏返せば、近代国家が持つ専制性の過小評価にもつながるという問題である。第二は、講座派的視角では天皇制国家の政治支配が権力の強権性と共同体的規制に支えられていることがもっぱら強調され、天皇制国家が構築した統合の近代的性格が過小評価されているのではないかという問題である。第三は、対外関係について、講座派以来の絶対主義論は天皇制国家の対外侵略志向の強さという帝国主義国家としての凶暴性を強調してきたが、そこでは天皇制国家が列強諸国との関係ではむしろ協調主義外交を追求したという点が見過ごされているという問題である。
 以上の講座派的仮説の問題点の検討を踏まえて、著者は、天皇制国家の特殊な相貌を、その国家意思決定の独特の専制性、国民統合の特殊な構造、国家政策における対外関係上の要請の強さという点に着目して解明するという三つの課題を設定する。
 続いて、著者は講座派以後の天皇制国家の研究史について詳細な検討を加え、講座派批判の力点が天皇制国家と他の近代国家との共通性を指摘することによって絶対主義国家論を批判することにおかれており、講座派が問題にした専制性についての独自の解明や講座派に代わる新たな天皇制国家像を構築するには至っていないと指摘する。
 以上の研究史の検討を踏まえ、著者は、先の三つの課題の解明のために本論文の二つの視角を提示している。第一の視角は、天皇制国家を段階区分する際に〈近代-現代〉の二段階区分を用いることである。この視角は、近代国家と現代国家の国民統合構造の違いに着目し、その変化に焦点を当てて資本主義国家の時期区分を行おうとするものであり、天皇制国家における支配の段階変化を他国との共時性に留意しつつつかまえようというものである。第二の視角は、〈先発近代国家-後発近代国家〉という近代国家の二類型論を用いることである。この視角は、国家意思決定メカニズムの専制性や、協調主義外交の根拠を解明するために採用される視角である。
 かかる視角の設定したうえで、著者は、続いて、著者の採用する後発近代国家に対比される先発近代国家の一般的形態を、階級支配と国家の公共性の関係という点に焦点をあわせて解明している。この部分は、著者独自の理論的な作業として極めて注目される点である。
 まず著者は、近代国家が持つ支配の一般的特質として、次の三点を指摘する。第一は近代国家の公共性がその中立性の原則に置かれる点である。近代国家においては、公法領域と私法領域が明確に分離され、公権力は市場秩序を維持することを通じて総体としての階級支配の存立条件の確保にあたる。第二は、先発近代国家においては、その国家の正当性が多数国民の合意に基づいているという擬制に求められる点である。そのために、議会が国家意思決定メカニズムの中心に据えられた。第三は、先発近代国家においては資本制システムが生む矛盾に対処する機構として、地方自治制が整備されたことである。資本主義発展により均質的労働市場が全国的に形成される以前において、矛盾の発現は地域的な偏りがあった。それ故に矛盾を地方における特殊問題ととらえ、その解決をコスト負担も含めて地方政府に委ねることが可能となったのである。ここで、著者は先発近代国家における地方制度に、名望家自治と政党主導型自治という二つの類型が存在したという指摘を行っている。これは、のちに本論において近代天皇制国家の地方制度構想を検討する視角としても使われている注目すべき指摘である。
 続いて、著者は、かかる構造を持つ近代国家が第一次世界大戦以降、現代国家に転換していく契機と現代国家の構造的特質を検討している。これまた、本論において天皇制国家の近代から現代への転換の特殊な相貌を析出するための前提作業として重要な位置を占めている。
 すなわち、近代国家の支配構造は、第一次世界大戦前後の時期に大規模な再編を余儀なくされ、現代国家的な支配構造へと転換を遂げた。その契機として、著者は三つをあげている。第一は、大衆運動の高揚により社会的支配の構造が動揺したこと、第二に、重化学工業化に伴い産業構造の一国主義化・経済政策の保護主義化が起こり、各国政府が産業平和を重視せざるを得なくなったこと、第三に、国家総力戦の要請により、産業構造を国家の介入によって強権的に高度化していく必要が生じたこと、である。それら三つの契機によって再編を余儀なくされた現代国家は、次の三つの特質を持つに至ったとする。第一は、社会的支配の構造を立て直すため、国家が生産過程へ直接介入するようになり、労資関係を一定の枠にはめたこと、即ち労資関係の制度化をおこなったことである。第二は、選挙権の拡充によって、被支配階級の意思が国家意思に反映されるルートが確立したことである。その結果、議会において労働者政党が台頭し、保革対抗を基軸とする政党配置が実現する。第三は、国家による再分配政策が行われるようになったことである。国家総力戦が、より深い国民の支配に対する同意を要請し、その調達のために国家が直接に国民生活の保障に乗り出すことになったのである。さて、国家総力戦の要請が本格化する1930年代には、現代国家の支配構造はさらなる再編を遂げファシズム型の支配構造が成立するが、著者は、ここでファシズム型支配の契機と特質を検討している。すなわち、ファシズムとは、国家総力戦の求める柔軟な生産体制を実現するために、産業民主主義が縮小を余儀なくされ、海外勢力圏の拡充を通じた生活向上が展望されるようになった結果もたらされた体制である。産業民主主義への抑圧は、アメリカやイギリスでも生じており、ファシズム化は先発国家と後発国家の区分にかかわらず、国家総力戦の時代には普遍的に見られた現象ということができるが、ファシズム体制とは自発的結社の活動の抑圧を徹底させ国家と国民を直結させた統合体制であると、著者は指摘する。
 以上の理論的準備作業を踏まえて、著者は序章の最後で天皇制国家の時期区分を、主として、国家意思決定のあり方、国民統合のあり方に着目して行っている。その際、著者は、天皇制国家の国家構想をめぐる諸政治勢力の対抗を重視し、天皇制国家の確立期に相異なる国家構想をもつ三つの政治勢力が台頭したとする。本論文の時期区分は、こうした三政治勢力の対抗、消長関係を一つの軸として展開されるというのである。その政治勢力の第一は、政党政治派である。この派はイギリス流の統治機構の必要性を提唱し、民意に支えられた強力な政府こそが近代化を強力に推し進め、政治的独立を確保していくのに最適だと論じた。第二の勢力は天皇親政派である。この派は天皇中心の国家運営を目指したが、天皇個人が日本の「伝統」を重んじる姿勢を見せていたため、急進的近代化に批判的な勢力の受け皿となっていった。三つ目が、天皇制国家においてほぼ一貫してヘゲモニーを握った自立的国家派である。自立的国家派にとっての最優先事項は急進的近代化の実行であり、そのために執行権力の自由な行使を最大限追求した。政党勢力による掣肘を排除するため、議会権限を極小化していった。自立的国家派は、日本では政党による組織化が不十分であるため政党主導の国家運営が政治を不安定化させること、社会的上層が政治的に未成熟で政党政治が強者による弱者への抑圧を生みかねないことなどを懸念し、政党政治派と違って国家運営の主体として政党や民意に信を置いていなかった。自立的国家派は、議会権限の極小化をイデオロギー的に正当化すべく天皇主権原理を採用した。
 この三勢力の抗争、なかんずく自立的国家派の主導性に、天皇制国家の特殊性の実体的根拠を見いだす点に、本論文のもっとも大きな特徴がある。
 著者が設定する第一期は、天皇制国家の確立期(1868−1918)である。この時期は、本論分第1部で考察される。第二期は天皇制国家の再編期(1918−1932)である。この時期は、本論文第2部で検討される。そして第三期は、天皇制国家の再再編期(1932−1945)である。この時期は、本論文第3部で検討される。
 [第1部 確立期天皇制国家の支配構造]は、第1、2、3章からなる。
まず「はじめに」において、著者は、確立期天皇制国家における政治支配について、講座派の天皇制論を批判、修正する二つの相異なる研究を検討している。一つは、講座派が専ら天皇制国家の政治支配を物理的暴力による強制から説明してきたのを批判した、立憲政友会による利益政治統合論ともいうべき議論である。著者は、この議論では、確立期に政治勢力の激しい対立の焦点となった条約改正問題が捨象されている点を批判する。第二の研究動向は、天皇制国家を東アジアの資本主義発展に共通する特質を持った国家として検討しようという視角である。この議論は、専制的政治体制と資本主義発展が両立することを主張している点で講座派批判となっているが、この議論は、天皇制国家の国民統合の近代性を過小評価していると著者は批判する。以上を踏まえ、第1部の課題として、著者は次の二つを提示する。第一は、地租増徴以外の先鋭な政治的争点を議会で討論することを許容しないような、専制的国家意思決定メカニズムの成立プロセスを解明することである。第二は、そうした国家意思決定メカニズムのあり方を前提として、そのもとでいかなる国民統合構造が形成されたかを解明することである。
 「第1章 天皇制国家秩序の特殊な領導主体の形成-自立的国家派-」において、まず著者は天皇制国家の専制性を担った自立的国家派が台頭してくるさまを他の二つの政治勢力とともに描いている。自立的国家派が、この時代にヘゲモニー掌握に成功した理由として、著者は、二つの点を指摘している。第一に、資本主義発展に伴う矛盾が社会に蓄積されておらず、社会の内部に近代化の是非を問うような声が未だなかったこと、第二に、列強帝国主義諸国がアジアに進出してきたことを受けて、日本の政治的独立を確保すべく近代化を急速に進めることが必要という点で支配層各派の間に合意が成立していたことである。
 この第二の点にからんで、著者は、天皇制国家の後発性の中には、「二重の後発性」が含まれていると指摘している。この点も著者の提起する重要な仮説である。すなわち、天皇制国家の場合、国内における資本主義的社会関係の形成の遅れという、ドイツなどヨーロッパ諸国の後発性の他に、ヨーロッパ市場圏への参入の遅れという意味での後発性を抱えており、この二重の後発性の存在が、天皇制国家を後発近代国家の中でも特殊な位置に置き、とくに後者の後発性は日本の資本主義発展が遂げられた後にも絶えず近代化志向が衰えることなく持続され、それを担う自立的国家派が一貫して国家運営のヘゲモニーを握り続ける根拠となったと、著者は指摘する。
 「第2章 国民統合システムのカナメとしての地方制度の形成」で、著者は、確立期天皇制国家において、自立的国家派が、国民を統合していく機構として構築をはかった地方制度をめぐる自立的国家派内部の二つの構想の対抗を検討している。本論文の注目すべき分析の一つである。著者は、地方制度の設計をめぐり、山県有朋と井上毅が提示していた構想が、相異なる構想であったという。まず山県の地方制度構想の特質は、有産者自治構想にあったという。寄生地主を地方政治を担う名望家として育成し、その支配下にある農民大衆を間接的に支配しようとしたのである。広域経済圏の形成による寄生地主の経済的基盤の安定化、町村長の公選制による寄生地主層の政治的ヘゲモニーの確保、等級選挙制と複選制などがその特徴である。それに対し、井上の構想は耕作地主層や自小作上層を地域秩序の社会的基盤にしようとしていた。それは、地域秩序の安定のためには、部落共同体レベルの相互扶助機能を活用するのが有用であるという判断に基づいていた。井上にとって見れば、地主小作関係の現状は、支配階級として陶冶されていない上層による下層の抑圧を示すものであり、これを防ぐ観点から町村長官選が主張されていた。井上は町村合併にも消極的であった。明治政権の地方制度をみると、1878年に制定されたいわゆる三新法は、制限選挙制を採用していたことから、従来の研究では有産者自治思想に立脚するものという評価を受けてきたが、等級選挙制を持たなかったこと、府知事・県令に大きな権限が付与され中央政府によるコントロールが重視されていたことなどから見て、むしろ井上構想の系譜に属するものだったとされ、それが、1888年から1890年にかけて制定された市制町村制・府県制郡制において山県的有産者自治構想に転換すると、著者は指摘する。
 「第3章 寡頭制的国家意思決定メカニズムの完成-明治憲法体制の確立-」において、著者は、明治憲法と地方制度の制定によりさしあたりの形を整えた天皇制国家の支配構造が、日清戦争後には早くも手直しを余儀なくされ、その中で天皇制国家の専制的国家意思形成装置である元老制度が確立していく過程を検討する。
 天皇制国家手直しの要因として著者は二点をあげる。第一は、日本の植民地領有とその防衛のため、ナショナリズムの涵養と組織化が急務となり、寄生地主による社会的支配を利用した間接統合が不十分になったことであり、第二に、その後の国力増強策として植民地の積極的拡充を行うか否かが支配層の中で大きな争点となり、明治憲法制定過程では必ずしも想定されていなかった閣内不一致が生じるようになったことである。
 そうした事態への対処に取り組んだ伊藤博文を中心に、三つの改革が試みられた。第一は、伊藤自ら立憲政友会の総裁に就任することによって新興ブルジョアジー層を支持基盤に組織し元老としての自らの政治力を強化し、閣内不一致を自らの手で収拾しようとしたことである。第二に、伊藤は、1900年の衆議院議員選挙法改正に結実する選挙制度改革をおこない、有権者の拡大を図ることにより、議員が狭い地方的利益から脱却し、国家的視野を持つことを狙った。第三は、伊藤が直接手がけたものではないが、1899年の府県制郡制改正である。これは、有産者自治思想に基づいて名望家を当選しやすくしていた仕組みを改めたものである。この改正によって、地域秩序の基盤を農村の自作農下層・自小作上層あたりまで拡充しようとしたのであった。
 しかし、これら改革は必ずしも成功せず、それに代わる仕組みとして、天皇制国家独特の国家意思形成装置である元老制度が登場したと、著者は指摘する。「維新の元勲」を集めたインフォーマルな仕組みを作って、これを内閣に代わる事実上の国家意思の最終決定者に据えたのである。その特徴は、執行権者と国家意思の最終決定者とを分離させたことにあった。元老は、党派的利害が激突するようになった内閣から引き上げ、何らかの紛争が政府内で生じた場合に、それを調整する調停権力として君臨することで国家意思の最終決定者として地位を確保するようになった。著者は、第四次伊藤内閣退陣後に形成された桂園体制がその完成型であったと指摘する。
 [第2部 帝国主義的秩序の変容と政党政治]は第4、5章の二つの章からなる。
 「第4章 帝国主義的世界秩序の変容と原内閣期の支配構造」において、著者は、原内閣成立以降の政治過程を分析することにより、天皇制国家の国家意思決定メカニズム、国民統合のあり方の現代国家的変容のありさまを検討することを試みた。
まず著者は、原内閣成立についての研究史を検討し、既存研究の主流的見解は、原内閣成立の要因を国内社会構造の変動に見いだすものであるが、むしろ対外関係の影響を重視することが重要であるとする。その上で著者は、第一次大戦期における外交戦略をめぐる対抗の激化が社会における利害の多様化と相俟って既存の国家意思決定メカニズムを機能不全に陥らせ、それを修正する試みの中から政党内閣としての原内閣が成立してくるという仮説を提示する。
 すなわち著者は、確立期天皇制国家の国家意思決定メカニズムに変容を迫り、政党内閣をもたらすに至った初発の契機は、第一次世界大戦期にアメリカが急速に台頭しイギリスと並ぶ二大強国として登場したことにあったという。この事態を受けて、日本の支配層内には外交戦略をめぐる三つの対抗構想が形成された。その第一は、山県閥を主たる担い手とする協調主義的権益追求派であり、第二は陸軍中堅層を中心とするアジア覇権派であり、第三は政友会に代表される自由貿易派であった。この対抗の激化とりわけ第一グループと第二グループのそれが、元老制度の機能麻痺を生んだというのである。すなわち、第二次大隈内閣は、都市部を中心に高揚していた対外硬的世論の支持を受けて、対華二十一箇条要求に象徴されるアジア覇権派としての外交政策を展開し、伝統的な協調主義外交に対抗したが、それによって、従来は元老内部の調整によって処理されていた外交をめぐる政策対抗が、元老の枠を飛び越えて、元老と内閣の間で展開されることになったからである。
 著者は、こうした元老制度の危機に対し、寡頭制的国家意思決定メカニズムの修正によって事態を打開しようとしたのが原敬であったという。原は政党内閣制の成立を前提に、内閣を組織しうる有力政党の党首と元老集団によって新たに最高指導部を構成し、元老と内閣の対立を再び一握りのトップエリート集団の中に閉じこめようとしたのである。これは現実の政治過程において臨時外交調査委員会に結実し、原はこの委員会で見せた調整能力を買われて首相の座を射止めた。原内閣は、対外硬的外交への支持が大きな潮流となることを防ぐべく、国民統合構造の再編にも取り組んだという。著者は、その際、原内閣が採用したのは、地域主義的な国民統合様式であったとする。同じ時期にヨーロッパ各国では福祉国家的階級統合が追求され始めていたが、それは国家意思決定メカニズムの民主化を伴うものであったため、寡頭制システムに立脚して政権についた原内閣はこれを導入することができなかったのである。ここに天皇制国家の現代国家化の一つの特徴が現われていると著者は指摘する。
 「第5章 寡頭制政治の崩壊と保守二大政党制の形成」において、著者は、原敬没後における再編寡頭制の行き詰まりと解体過程を分析する。ここで著者は、第二次護憲運動による寡頭制の崩壊が、ヨーロッパ諸国の現代国家化と同様の、天皇制国家の現代的転換の一環だったことを示していたにもかかわらず、おなじ後発近代国家であるドイツの現代化プロセスとも大きく異なっていたことに注目する。第一に、普通選挙制は実現したものの、元老による内閣首班指名の慣行が存続し、また議会権限に対する憲法上の制限もそのままにされるなど、国家意思決定メカニズムの民主化が不十分なものにとどまったこと、第二に、社会的基本権の法認が実現しないなど自発的結社に対する規制が十分に取り払われず、その結果現代国家の多くで定着する保革二大政党制ではなく、保守二大政党制が形成されたことがそれである。著者はこうした天皇制国家の特殊性の要因を本章で解明する。
 著者はまず、天皇制国家のもとでの政党政治は、三つの条件が重なり合うことでもたらされたと指摘する。第一の条件は、階級的大衆運動の高揚と、その背景にある社会における利害対立の激化・顕在化である。階級集団の顕在化により諸利害間の非和解性が強まり、寡頭制システム下のごとき一握りのトップエリートによる上からの調整が機能し得なくなったのである。第二は、元老の相次ぐ死去で寡頭制システムを担う人材が枯渇したことである。このことにより、原敬が試みたような寡頭制システムの修正も機能し得なくなったことである。第三は、国際関係が相対的安定期に入ったため対外硬世論が沈静化し、いずれの政党が政権を取っても協調外交が踏襲される見通しの立ったことが、自立的国家派がひとまず政党政治派に国家運営を委ねても良いと判断する条件となったことである。
 続いて、著者は、この時期の天皇制国家の現代的再編構想の担い手として、自立的国家派内部で政治的比重を高めていた内務官僚に着目し、内務官僚の独特の普通選挙制構想を検討する。そして内務官僚内に普選構想を軸とした二つの異なる国民統合構想が台頭したことを指摘している。一つは、社会局官僚の提示した階級統合論である。その制度的なカナメは、普通選挙制と比例代表制であった。普選は国家の全成員の利害を議会に反映させるために、そして比例代表制は分岐した諸階級の利害を正確に把握するために必要とされていた。労働者階級を政治に参加させることにより「国民」として統合しようという構想である。それに対して、もう一つの国民統合構想は、地方局が提唱した地域統合論であった。ここでは国民を地域ごとに〈地域利益〉を軸として束ねていくことが構想されており、普選はそうした〈地域利益〉を政治的に顕在化させるために必要と考えられていた。〈地域利益〉の設定は、階級統合の展開が新興の階級勢力の政治的進出を促すことを懸念してのことでもあった。この懸念は支配層内の保守的部分に共有されており、結果として天皇制国家は地域統合を導入していくことになる。
 続いて、著者は、天皇制国家の現代化の大きな特徴である、独特の脆弱な政党政治の構造をも指摘する。政党政治派は第二次護憲運動を経て政党内閣制を定着させたが、議会を国家意思の最終決定者とするような国家意思決定メカニズムの構築には成功しなかった。ここで国家意思の最終決定者となったのは政権政党であった。政党政治派においても、近代化の推進のためには執行権の自由裁量が最大限保障されるべきと考えられており、政権党となったときに議会において反対党から掣肘を受けることがないように、議会それ自体の権限強化は問題とされなかったのである。その結果、依然として政党と国家諸機関は同じ土俵で政治的ヘゲモニーを争う関係を続けることになった。政党内閣は、諸勢力間のときどきの力関係において政党が優位に立った場合にのみ存続しうる慣行にとどまったのである。
 著者は、そうした政党政治を象徴するのが、元老による後継内閣首班指名の存続であったとする。自立的国家派は、このシステムを足がかりに政党に働きかけ、政党内閣期にも政治的に大きな影響力を行使した。その最も典型的な例として著者が指摘するのが、憲政会の協調主義外交への転換、労働組合法制定論にみられる階級統合的な統合構想の放棄と地域統合構想への転換であったというのである。
 [第3部 帝国主義国間対抗の激化と秩序の権威的再編]は6、7章の二つの章からなる。
 第3部の課題は、1932年に終焉した政党内閣制に代わって成立した支配構造がいかなるものであったかを解明することである。著者は、本論文が新たに解明した点として二点をあげている。第一は、30年代の支配構造再編を主導した主体について、先行研究では政党から軍部へのヘゲモニーの移行が生じたというのが通説であるのに対し、本論文では五・一五事件後に成立した斉藤内閣が軍部主導の内閣とはいえなかったことを重視し、ヘゲモニーの所在を自立的国家派に求めた点である。第二は、30年代の支配層内の対抗関係について、この期にはこれまで自立的国家派と対抗してきた政党政治派に代わり新たにファッショ的改革派が台頭し、自立的国家派と主要な対抗関係を形成している点を明らかにしたことである。本論文では、日本のファシズム化のプロセスを、ファッショ的改革派ではなく自立的国家派が主導したととらえている点も注目すべき点である。
 「第6章 満州事変と挙国一致内閣の成立」において、著者はまず政党政治体制の終焉の原因を二つの点に求めている。第一は、政党内閣が経済恐慌からの脱出策を提示できなかったことである。浜口内閣が金解禁を断行したのは、日本経済の再建を、保護主義政策をおさえて世界経済との連繋を強めることによって達成しようとしたからであったが、それは失敗に終わり、自立的な経済ブロック=円経済圏構想を掲げる外務省や軍部に対して政策上の優位を失いつつあったことである。第二は、軍部により満州事変が引き起こされたことである。満州事変以後も、支配層の主流は列強帝国主義を敵に回してはアジア経済圏を維持・拡大するのは困難と考えていたが、軍部は統帥大権を背景にしていたため、政党内閣がこれをおさえるのは困難と判断されたのであった。
 続いて著者は、斉藤内閣の分析に入り、その課題は、まずは軍部統制であったとする。そこでは、後継内閣首班指名に、元老西園寺だけでなく内大臣や重臣たちを関与させ、さらに「陛下の御希望」を聞くようにするなどして、天皇の権威による内閣の強化が図られたことが注目される。斎藤内閣期の国民統合に関しては、著者は、農山漁村経済更正計画が立てられ、救農土木事業が開始されていることに注目している。これらは農家経営の強化によって耕作農民層を救済することや、土木事業によって零細な小作農に現金収入をもたらすことなどを意図したものであり、農村下層に対する国家財政による直接救済が開始されたという意味で、国民統合上の意義が注目されている。
 「第7章 国家総力戦と明治憲法をめぐる対抗」において、著者は、30年代半ば以降、総力戦の遂行可能な国家体制づくりという課題が政治日程にのぼった時代に、企画院官僚と軍部内に「ファッショ的改革派」が登場したと指摘する。30年代半ば以降の国家構想をめぐっては、このファッショ的改革派と自立的国家派の間で主要な政治的対抗が展開されることになるというのである。
 著者は、ファッショ的改革派が台頭してくる初発の契機は帝国主義間競争の激化という対外関係にあったとする。その上で著者はファッショ的改革派による国家構想を検討する。改革派は、列強諸国のアジア侵出を阻止するための軍事力整備を重視し、その観点から「自給自足」的な重工業部門の育成を提唱する。そのための経済計画は、私企業の利潤追求が否定され、労務の強制配置計画が立てられるなど、相当に統制色の強いものであったから、そうした強力な経済体制を行うため、無任所大臣制などの内閣権限強化が提唱された。また国民統合においても、職能代表議会制が提起され、政党を排除した統制的な方式が目指されたとする。
 続いて著者は、改革派に対峙した自立的国家派のこの時期の構想を検討する。自立的国家派は、世界恐慌の影響を深刻ならしめた国内経済システムの再建を重視した。そのポイントは、部落の活用を通じた地方制度の役割の強化という点にあった。この点は、天皇制国家の地方制度構想の転換であったと著者は指摘する。すなわち天皇制国家は、維新変革以来、町村合併を通じて部落共同体を解体し、寄生地主の活動範囲に合致するような広域自治体を中心とする地方制度を形成してきたが、30年代後半になってその転換が図られたというのである。その目的は、斎藤内閣期に萌芽的に見られた耕作農民層を地域秩序の担い手とする構想を具体化することであった。また、著者は、自立的国家派が、国内の矛盾として、階級矛盾よりも都市と農村の格差を重視し、地方財政調整制度による地域間再分配を計ったことにも注目している。
 国家意思決定メカニズムについては、自立的国家派も内閣権限の強化は必要と考えていたものの、ファッショ的改革派の主張する首相独裁制的な構想には反対であった。独裁は、長期的に政策の合理性・一貫性を確保するのを困難にすると考えられたためであるとする。
 以上の両派の構想を明らかにしたうえで、著者は、企画院、大政翼賛会設置をめぐる攻防を検討する中で、自立的国家派の優位を検証していく。ファッショ的改革派は、企画院設置により首相権限の強化を実現させようと画策したが、海軍省、大蔵省、商工省を中心に既存の省庁からの強い反対に遭い、企画院の各省庁に対する優位性は否定されてしまう。企画院設置による首相権限の強化という試みが挫折した後、ファッショ的改革派と自立的国家派の対抗の舞台は大政翼賛会に移った。ファッショ的改革派は、大政翼賛会を「同志的結合」の組織とし、国民の戦争への能動的同意を調達する機構とすることを主張した。これに対し、「同志的結合」の組織体がファッショ的改革派の強力な支持基盤となることを恐れた自立的国家派は、大政翼賛会の地方支部は新たに立ち上げるのではなく部落共同体を基礎とする地方自治体を転用しようとはかった。この対抗は、ファッショ的改革派が、首相独裁派と統帥大権を手放すことを恐れる軍部独裁派に分裂しつつあったこともあり、自立的国家派の構想が貫徹する形で決着した。また、著者は、国家意思決定メカニズムをめぐっても、軍部独裁派と自立的国家派が明治憲法堅持で手を組んだため、首相独裁派はここでも挫折を強いられたとする。
 以上の過程を経て、日本では自立的国家派のヘゲモニーによって既存の国家システムの再編を通じてファシズム化が進行したとするのである。
 終章では、以上に検討した天皇制国家の特殊な構造の一貫性を、その主たる担い手であった「自立的国家派」の推移として改めて総括している。

三 本論文の評価

 以上にその概要を要約した山本公徳氏の論文は、以下の諸点で高く評価できる。
 本論文の第一の意義は、日本の近代国家の性格と特徴を、講座派以来の研究史の詳細な検討を通じて見直し、再構成したことである。講座派以来の日本近代史の研究にはぶ厚い蓄積があり、それを検討するだけでも容易ならぬ作業となるが、著者は、それをていねいに検討する中から、近代天皇制国家が持った特質を、広く、近代国家から現代国家への流れの中で捉え直すとともに、それが持つ特殊な相貌を後発近代化国家の特殊性という視角からみごとに再構成した。著者も指摘するように、近年の日本近現代史研究の実証の蓄積は極めて膨大な量に達しているが、それが必ずしも日本の近代国家像に新たな知見をもたらし、その再構成を促すという具合には結びついておらず、かえって近代史像の拡散さえ生じている。そうしたとき、本論文が、膨大な研究業績を渉猟し検討、整理を加えたうえで、改めて日本の近代国家についての大きな仮説的像を提示したことは、今後の近代史研究にも大きな役割を果すことは間違いない。この点は、極めて高く評価できる。
 第二に、本論文は、近代天皇制国家像を見直すうえで後発近代国家という大きな視点を打ちだしたのみならず、それが日本の近代国家においていかなる形で貫徹されたかについて、より具体的な中規模な仮説を提示し、近代天皇制国家像を見直すうえで、大きな示唆を与えている点でも大きな意義がある。とくに、その点で注目される仮説の一つは、本論文が、天皇制国家の専制性を担保する政治勢力として「自立的国家派」とでも称すべき潮流を析出し、その勢力が一貫して政治の担い手として存続した点を明らかにし、自立的国家派の構想の一貫性という点に日本近代史の連続性の根拠があることを示した点である。また、本論文が、日本の近代国家の「後発性」には二重性があり、それが、成立期のみならず天皇制国家の全生涯を通じて国家意思決定システムの専制性を必要ならしめた大きな原因となった点を指摘している点も、日本近代史の再検討の上で注目すべき視座を提供していると評価できる。
 第三に、本論文は、以上のような理論的な意義に止まらず、新たな視点からの近代天皇制国家、政治史の実証的研究にも裨益する斬新な視角と仮説を提示している点も評価できる。一例を挙げれば、本論文が、天皇制国家確立期の地方制度構想を検討し、そこに、近代天皇制国家の国民統合をいかなる形で実現するかという共通の問題意識にもとづきながら、寄生地主層に統合基盤を求める有産者的自治構想というべき山県有朋の構想と、より下層の自小作農層に統合基盤を求める井上毅の構想が対立したことを明らかにした点がある。また第一次世界大戦後の天皇制国家の現代化の過程で、内務官僚層の中から、男子普選を実行して国民統合基盤を拡充しようという共通の問題意識にたちながら、階級的統合構想と、地方利益統合を目指す構想が対立して登場したということを明らかにした点なども、1920年代日本政治史の研究に新しい視点を提示しているといえる。
 しかし、同時に本論文は、それが意欲的な試みであるだけに、問題点も残されている。
 第一に、第3部で検討されたファシズム国家期の分析に、実証的な面での不十分さが目につく点である。著者は、1930年代天皇制国家の構想をめぐる政治的勢力として、ファッショ的改革派と自立的国家派を析出し、その対抗を通じて日本型のファシズムが形成されたとしているが、これら両派は実際の歴史過程では具体的にはいかなる勢力であったのか、果して当時の対抗はかかる対立としてくくれるのか、についてはなお疑問が残る。
 第二に、近代国家の国民統合、国家意思決定という点で、議会の果した役割があまりに過小評価されているのではないかという不満である。本論文が天皇制国家の特殊な専制性の根拠の解明という講座派以来の問題関心を受け継いでいることからやむを得ない面がないわけではないが、1900年代の桂園体制期、あるいは1920年代の政党政治期の国家意思決定や国民統合上の意義は、本論文の視角からは、既存の研究に代わり、どう捉えられるのかを積極的に示して欲しかった。また、無い物ねだりの感はあるが、近代天皇制国家下の社会運動やイデオロギーの特殊な相貌が本論文で分析された構造といかに連動しているかという点についても、仮説的にせよ提示できれば、論文になお一層の厚味が出たと思われる。
 しかし、これらの問題点の多くは、著者の行なった膨大な検討の成果を減ずるものではない。またこれら問題点は、著者も十分自覚するところであり、その研究能力や着実に研究成果を積み重ねてきた従来の実績からみても、将来これらの点についても著者が実証的な研究により明らかにしてくれる可能性は強く、今後の研究に期待したい。
 以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2008年2月13日

 2008年1月16日、学位論文提出者山本公徳氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査委員が、提出論文「天皇制国家における国家構想の歴史的展開」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、山本公徳氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、山本公徳氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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