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博士論文審査要旨

論文題目:インドネシア・ブトン社会における歴史語りの社会人類学的研究
著者:山口 裕子 (YAMAGUCHI, Hiroko)
論文審査委員:大杉 高司、岡崎 彰、中野 聡、石井 美保

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一.本論文の構成
本論文は、インドネシア共和国のスラウェシ島東南島嶼部に位置するブトン(BUTON)社会の、位階の異なる二つの村落社会――ウォリオ(WOLIO)とワブラ(WABULA)――における、歴史語りをめぐる社会人類学的な記述と分析を試みたものである。論文全体の構成は以下の通り。

序章
 第1節 調査地の概要と問題の所在
  1-1 ブトンというところ
  1-2 ウォリオとワブラ:二つの対象社会
  1-3 目的
 第2節 課題と方法
  2-1 生活の時空間に埋め込まれた「歴史」
  2-2 語られた「過去」と語り手の「現在」:人類学的歴史研究の視点から
  2-3 「歴史語り」の人類学へ
 第3節 本論文の構成
第1章 ウォリオ社会
 第1節 今日のウォリオ城塞:歴史を生きさせる時空間
  1-1 はじめに
  1-2 生活空間の中の「歴史の標し」
  1-3 時間の「空間化」と「系譜化・年代化」
 第2節 ウォリオ社会の歴史語りの諸特徴
  2-1 ウォリオ城塞の「歴史の標し」
  2-2 反復と冗長
  2-3 「異説」と集団間関係
  2-4 ヒロイックな王のヒロイックな時代
第2章 ウォリオ人が語る初期ブトン王国史
 第1節 ブトン王国時代
  1-1 起源と初代女王ワ・カ・カの時代
  1-2 第2代王から最後の王ムルフムまで
 第2節 ブトン・スルタン国時代
  2-1 最後の王から初代スルタンへ、語られないスルタンたち
  2-2 第4代スルタン・ラ・エランギの時代
  2-3 第5代スルタン・ラ・バラヴォと第6代スルタン・ラ・ブケの時代
 第3節 小括
第3章 文字資料にみる初期ブトン王国
 第1節 はじめに
 第2節 ビクサガラ神話と16世紀のブトン:「マルク世界」の「周 辺」/テルナテ・ティドレの「子」
 第3節 VOCとマカッサルの台頭:1602-34年
  3-1 ブトン王国とイギリス人とのコンタクト
  3-2 VOC-ブトン関係:条約締結、スルタンとの接見
  3-3 マカッサルの台頭と、ブトン、VOC、テルナテ間の諸関係
 第4節 「オランダ船乗組員殺害事件」と諸国間関係:1635-53年
  4-1 「オランダ船乗組員殺害事件」によるVOCとの関係悪化と修復
  4-2 マカッサルの強大化とVOC、テルナテ、ブトンとの緊張関係
 第5節 マカッサル戦争とその後:1653-69年
  5-1 マカッサルによるブトン攻撃
  5-2 ボネ王をめぐるマカッサル-VOCの抗争、ブトン沖での戦闘
  5-3 マカッサル対VOC連合の戦いとボンガヤ条約
 第6節 小括
第4章 ワブラ社会
 第1節 はじめに
 第2節 ワブラ社会の概観
  2-1 ワブラ社会の位置づけ
  2-2 ワブラの生活世界と人・モノ・情報の流れ
  2-3 慣習的村落評議会:サラノ・ワブラ
 第3節 農事暦儀礼とワブラ社会の「一年」
  3-1 バンテ(Bante)儀礼
  3-2 ピンカリ・ンカリ(Pingkari-ngkari)儀礼
  3-3 マタアノ・ガランパ(Mataano Galampa)儀礼
  3-4 ピドアアノ・カンプルシ(Pidoaano Kampurusi)儀礼
  3-5 ピドアアノ・クリ(Pidoaano Kuri)儀礼
 第4節 考察と小括:ワブラの「一年」と「真実の歴史」
第5章「真実の歴史」:ワブラ人が語るブトン史
 第1節 はじめに
 第2節 語りのコンテクスト
 第3節 フィールド・ワーク
  3-1 ワブラ村との出会い
  3-2 フィールド・ワーク前半:「ワブラ‐ニホン」関係と調査の形態
  3-3 「完全なヴァージョン」の「真実の歴史」
  3-4 フィールド・ワーク後半
  3-5 長期調査終了後:三度目の「完全なヴァージョン」
  3-6 第3節の小括
 第4節 「真実の歴史」:ワブラ人が語る初期ブトン王国史
  4-1 ブトン民族の起源とトウェケ(ワ・カ・カ)の到来
  4-2 ワ・カ・カの結婚、勢力の拡大、新都ウォリオの制定
  4-3 ワ・カ・カのウォリオ王への就任、第二波の住民の到来
  4-4 ワ・カ・カの子供達、シバタラとの離婚
  4-5 第2代ウォリオ王・ブラワンボナと第2代コンチュ王・プラマスニ
  4-6 第3代コンチュ王、ワブラ・ブラ
  4-7 第4代コンチュ王・クマハの時代、「クマハ-ムルフム条約」、「地位陥落」
  4-8 条約破棄、ワブラ第二の都市・リウへの移住、イスラーム化
 第5節 考察とまとめ
第6章 歴史語りの対話:考察
 第1節 過去へ:「ブトンの歴史」への接近
  1-1 はじめに
  1-2 過去へ
  1-3 小括と展望
 第2節 現在および近過去
  2-1 スハルト期の文化政策と「地方文化」の定位
  2-2 地方社会の経験:中央政府への応答と「伝承の力」
  2-3 現代を規定する「過去」:近現代の歩みと民族間関係
  2-4 小括
 第3節 歴史の「対話」と非双方向的な関係性
  3-1 はじめに
  3-2 歴史の対話、対話する歴史
  3-3 小括と展望
第7章  歴史の真実、生きられる歴史語り:結論
 1. これまでの議論と残された問い
 2. 「歴史の真実」の外的な要因
 3. 「過去/現在の表象としての歴史」からの解放
 4. 歴史を生きる、生きられる歴史語り
 5. おわりに:継続する対話

参考文献

二.論文の概要
 序章第1節では、インドネシア共和国スラウェシ島東南島嶼部に位置するブトン社会の、位階の異なる2つの村落社会、ウォリオ社会とワブラ社会の概要が紹介される。王族貴族の末裔であるウォリオ人と平民のワブラ人は、ブトン社会の起源的人物の到来からイスラーム化が完了する16世紀から17世紀前半までの出来事を、日常の様々な場面で語る点で共通している。しかし、ウォリオ人もワブラ人も自らを物語の中心に位置付けながらブトン社会の歴史を語るため、それぞれの歴史語りは重要な点で対立し、それが分析者に多元的な視点を要請しているという。つづく第2節では、人類学における歴史の取り扱いや、歴史学や口承史研究における実証性をめぐる論争を批判的に検討しながら、本論で筆者が採用する立場を明らかにする。筆者は、19世紀的な素朴実証主義にも相対主義の極論にも与せずに、多様な資料群をギンズブルグのいう「歪んだガラス」と見なしながら過去の歴史過程を探究する「より洗練された実証主義」を立場にたちつつ、同時に、ウォリオ人とワブラ人に歴史語りを動機づける現在や近過去の社会・政治状況に充分に目を配りながら、語られる過去と語り手の現在との間を相互反照的に検討する道を模索することを表明する。
 第1章では、ウォリオ人社会において歴史が語られる空間の特徴が具体的に検討される。ウォリオ人は、ウォリオ城塞に今も残る、王国時代のさまざまな出来事にまつわる、岩、墓、城壁などといった「歴史の標し」と日常的に接しており、それが人々に過去の出来事を日常的に想起させ、語らせる契機となっているという。この意味で城塞は、「時間の空間化」といえる。しかし、「標し」として残る過去には、個々人が直接経験したより近い過去は含まれない。「標し」は、ブトン王国の建設からウォリオ要塞が完成するまでの遠い過去に属しており、それがかえって老若男女が個人的な経験にかかわらず、ひとしく歴史語りに参加する要因になっている。彼らが歴史を語るとき、時系列にそって「標し」を訪れていくこともあるが、より頻繁にみられるのは、ある「標し」から出発して、その近くにある別の「標し」にまつわる別の出来事や、人物の系譜関係へと話題を展開していくやり方である。筆者は、具体的な語りをふんだんに紹介しつつ、結果的に立ち現われる語りが、反復と冗長さに満ちていること、そして異説の存在がとくに矛盾を露呈させることなく許容されている様を描き出す。
 第2章では、ウォリオ人の歴史語りを、彼ら自身が出来事の前後関係を特定するのに用いる複数の「ものさし」-西暦による年代、インドネシア史や世界史的人物や出来事との接点、登場人物の系譜-と照らし合わせながら再構成し、彼らが語る初期ブトン王国史を編年体で提示している。それは、フビライ汗の血をひくとされることもある初代女王ワ・カ・カから、近隣諸王国と姻戚関係を結んだ歴代王の系譜、イスラム教の伝来以降の歴代スルタンの時代、とくに第四代スルタンによる自治村や防衛拠点、衛星国の設置、選挙制度や三権分立などの整備が進んだ時代をへて、第六代スルタンによる「難攻不落」のウォリオ城塞の建設に至る歴史である。とくに、第四代と第六代スルタンは英雄的なスルタンとして語られ、彼らの時代は「400年も前に、今日のインドネシアの国是“多様性の統一”と、民主主義を達成した」栄光の時代として,ユートピア的に想起されるという。さらに筆者は、ウォリオ城塞を中心にした東西南北の防衛拠点と衛星国の設置に、東南アジアの政治体系を特徴づける「銀河政体」的宇宙観が反映していることを示唆する。
 第3章では、欧文とインドネシア語の文字資料にもとづき、16世紀から17世紀初頭頃までのブトン王国をとりまく諸状況が再構成される。ヨーロッパの大航海時代の到来とともに、東南アジアが「交易の時代」を迎えた当時、インドネシア東部の香料交易の権益を巡って、オランダ東インド会社、マカッサル、マルク諸島が激しく競争していた。その中でブトン王国は、時にオランダ東インド会社に対する従属的な条約の締結を迫られ、時に戦場となるなど、激しく干渉されつつも、オランダ東インド会社やテルナテ王国などのより強大な勢力と与することで、マカッサルの脅威に対して、なんとか王国としての存続を保ったことが明らかにされる。文字資料が浮かびあげるこのようなブトン王国の姿は、ウォリオ人の語りが浮かびあげる王国像、すなわち「難攻不落の要塞に守られ、海賊以外の外敵はおらず、すぐれた政治制度と広大な領土をもつ永久不変のブトン王国」とは、明らかに異なっている。この齟齬は、「洗練された実証主義」の観点からは、ウォリオ人の語りに「実証性が低い」と見なしうる内容が含まれることを示す一方で、「語り手の現在」を探究する手がかりを示唆していると、筆者は指摘する。
 第4章では、ウォリオとは異なるもう一つのブトン王国史を語る、平民ワブラ人の社会の概要が紹介される。とくに詳細にわたって記述されるのは、一年を通じておこなわれる農事暦儀礼の様子である。そこでおこなわれる儀礼的開墾、供物の作成、交換、舞踊、巡礼、共食といった実践は、ワブラ社会が起源以来の歴史的歩みのなかで確立してきた秩序、慣習、宗教を再生させ、再確認させているという。とりわけ一月の二四夜月に行われる、もっとも大規模なマタアノ・ガランパ儀礼では、「起源の村コンチェ」、「始祖の墓」、「旧村落リウ」、「祖先たちが乗ってきた船と錨の場所」をめぐる巡礼が行われ、とくに若者たちはそこでの体験を通じて、ワブラ村の構造的模範、諸儀礼の起源、祖先たちの歴史的歩みについての「真実の歴史」を学ぶという。そして筆者は、ワブラ人が、ウォリオ人の語りと対抗させて提示する「真実の歴史」が、歴史の証拠となる場所やモノとして生活空間に埋め込まれ、同時に儀礼実践として生活時間にも埋め込まれている点を強調する。
 第5章では、「真実の歴史」の具体的内容と、それが提示される儀礼以外の文脈について、より踏み込んだ議論が展開される。彼らの語りの中核を占めるのは、ブトンの初代女王のワ・カ・カが実はトゥケと呼ばれるワブラの女王だったこと、そのことに集約的にしめされるワブラのブトン社会における本来的な中心性、そして、結果的にワブラ社会をブトンの防衛拠点の一つの地位に陥落させることになった、狡猾なウォリオ王の計略をめぐる歴史である。彼らは、こうした「真実の歴史」を、現在自分たちが置かれている周辺的地位に目を向けるときに想起し、そもそもの不正の発端として語るのだという。彼らは、ワブラ社会外部へこの「真実の歴史」を発信しようとすることにも熱心で、日本からワブラ社会の歴史を調査しに来た筆者には、特別の期待がかけられることになった。また、彼らが、ウォリオの歴史では語られないワ・カ・カの息子のひとりが日本に渡って王になったと考えてきたことも、日本人研究者の来訪に特別な意味を読み込ませる一因になったともいう。こうした事情を背景として、筆者に対して、普段は断片的にしか語られない「真実の歴史」の「完全なヴァージョン」が何度か語って聞かされ、「書かれる必要がない」とされてきた歴史の書かれたヴァージョンが『原稿集』としてやや躊躇しつつも提示されることにもなった。筆者は、そこに、儀礼のなかに埋め込まれることで記憶され経験されてきた歴史と、正当なものとして受け入れられやすい歴史の外形を整えることの間で揺れる、ワブラ人たちの葛藤を読み込んでいる。また、ワブラの語る「真実の歴史」は、その抗ウォリオ的性質にもかかわらず、ウォリオが語り、編纂するブトン社会の歴史と共通する部分が多い。筆者は、他の平民社会の歴史語りとも比較しながら、ワブラの歴史語りがウォリオの歴史枠組みに則りながら、それを壊すことなく、登場人物を入れ替えたり、語られない隙間にワブラ独自の人物や出来事を参入させたものであることを明らかにする。
 第6章では、ウォリオとワブラを歴史語りへと向かわせる、二者関係をこえた現在と近過去の社会的背景や、彼らの語りの「第三の聞き手」についての考察が進められる。現在の社会背景としては、民主化や地方分権化が進む現代インドネシアにおける「慣習復興」や地方自治体の再編の動向が挙げられる。すなわち、インドネシア中央政府からのお仕着せではない、地方独自の行政機構や社会のあり方を模索する動きのなかで、その範型を自らの過去の中に探り、歴史を語るという側面があることが指摘される。現在から近過去に視野を広げると、語りの「第三の聞き手」として、20世紀初頭にオランダと与して、東南スラウェシ地方における中心的地位をブトンから奪取したトラキ人や、ブトンをその従属的立場においた南スラウェシのブキス人などが浮かび上がる。ブトンの代表としてのウォリオの歴史語りは、失われた「中心性や誇り」の回復しようとする試みとして、これら他者にも向けられていると理解できるという。より最近では、スハルト中央集権体制下にウォリオ社会が、インドネシアの一地方・東南スラウェシの亜民族ブトンの中心/代表として、中央政府の政策的呼びかけの対象となってきたという背景が挙げられる。ウォリオの歴史言説が、公式な「ブトン王国史」としてインドネシアのナショナル・ヒストリーの周辺的な一部に参入を果たしたのは、ウォリオの「外向き」の語りがインドネシア中央という聞き手に届いた結果、中央から得られた「反応」のひとつの形だったと、筆者は分析する。このようにウォリオが、対外的な対話空間を作り上げるのに成功してきたのに対し、ウォリオに対抗意識をもつワブラは、同様の社会的、時代的背景のなかにありながらも、ワブラ社会の外に自らの歴史語りの聞き手を獲得することに失敗してきた。この点が、7章の考察の出発点となる。
 最終章の第7章で問われるのは、ワブラの抗ウォリオ的性質はいかに説明できるのか、そして、ワブラの歴史語りの「真実さ」はワブラにとってなぜ揺らぐことがないのか、という問いである。筆者は、この二つの問いの答えを、「真実の歴史」の外側に求めることはできないという。それは、ワブラを他の平民たちから際立って抗ウォリオ的にさせるに至った経験や要因を、近現代の歴史に探し出すことができないし、「真実の歴史」が「本当に起こったこと」であることを判断する実証的証拠を、ウォリオの語りにも文字資料にも見出すことができないからである。筆者は、この点を、歴史の語りを何かの「表象」としてとらえることの限界を示しているのだとも言い換える。すなわち、ワブラの「真実の歴史」を揺るぎないものにしているのは、それが過去の出来事の「表象」であるという事実でも、語り手の政治的なメッセージの「表象」となっているという事実でもない。その揺るぎなさや「真実性」は、歴史語りの内側こそにその根拠を求められなければならないという。この点を確認したうえで筆者は、あらためて「真実の歴史」が「真実」として語られ、生きられることを可能にする生の枠組みがどのようなものであるのかを問う。とくに四章、五章を振り返りながら筆者が答えとして浮かび上がらせるのは、次の二つの枠組みである。ひとつは、ワブラ人がエリート防衛拠点としてブトン社会を構成しながら、ブトンという「銀河政体」的枠組みを生きてきたということ、いまひとつには、「初代女王の墓」を始めとするさまざまな「証拠」を内在させるワブラ村という時空間で生活し、農事儀礼を通じて起源以来のワブラの歴史的歩みの追体験をくりかえしてきたことである。筆者は、同様の観点からウォリオの歴史語りをも振り返り、それが「歴史の標し」からなるウォリオ城塞で彼らの生活の時空間に根ざした語りであることに、再び私たちの注意をむける。ワブラ社会と同様にウォリオ社会においても、歴史語りは生活の時空間の中に埋め込まれることによって生きられているのだという点を強調し、筆者は本論を結んでいる。

三.成果と問題点
 本論文の第一の成果として、何よりも、これまで未開拓であったインドネシア共和国のスラウェシ島東南島嶼部のブトン社会の歴史を、地道な史料考証とフィールドワークの成果に基づいて、再構成したことが挙げられる。これまでブトン社会に関する歴史情報は、断片的な形で多様な史料に散見されるにすぎなかった。それらを網羅的に収集し、相互に比較検討したうえで、現時点でもっとも信頼しうる初期ブトン王国像を再構成した意義は計り知れない(3章)。また、王族貴族の末裔であるウォリオの歴史語りと、平民であるワブラの歴史語りを、語られる具体的文脈に充分に配慮しながら収集し、結果的として大変厚みのある民族誌的データを提出した意義も大きい(1章、2章、4章、5章)。これらの歴史語りは、たえず史資料によって再構成された歴史と照らし合わされ、またその語りの解釈にあたっては、より近い過去の歴史的文脈にしっかりと位置付けれている(6章)。このように、歴史学の方法と社会人類学の方法をバランスよく組み合わせた成果は珍しく、その点で出色といえる。
 第二の成果として、歴史学における実証主義と相対主義の対立を乗り越える視点を提出した点があげられる。歴史記述を過去に実際に起こったことの再現とみる実証主義と、歴史記述を同時代のレトリックや記述者の政治的意図に還元できるものとみる相対主義の間の二項対立図式は、「仮想敵」を構成し批判する理論的な論争そのものが再生産してきた面がたぶんにある。しかし、筆者自身認識しているように、この対立について抽象的な議論をすることに意義があった時代はすでに過去のものとなり、今日ではこれらの対立を、ある人間社会の過去や現在を探究する具体的実践のなかに昇華させようとする段階に入っている。本論文で筆者は、「より洗練された実証主義」の立場にたちながらブトン社会の過去を探究しつつ、同時にウォリオやワブラの語り手たちをインドネシア近現代の政治的文脈に位置付けて、語りに込められている政治的なメッセージを読み取ろうとし、なおかつ、これらの作業を限界まで進めたうえで、実証主義によっても相対主義によっても手の届かない残余を析出しようとしている(第四の成果)。このような地道な作業は、実証主義と相対主義の対立をめぐる抽象的な議論の最終決着を目指すのではなく、あくまで議論を個別事例の具体に差し戻しながら、その具体の地平で得られる成果を積み重ねていくことの意義と可能性を示しているといえるだろう。
 第三の成果として、歴史の語りがおかれた文脈を、空間的にも時間的にも多元的なものとしてとらえうることを、具体的な事例に基づいて示したことを挙げることができる。ある歴史語りを語られる文脈に照らして解釈する作業において、多くの場合忘れられてしまうのは、語りがおかれる文脈そのものが歴史的深度をもっていること、そして、語りが向けられる対象、すなわち聞き手が、多様でありえることである。筆者が6章の考察部で具体的に示したのは、ウォリオの歴史語りが、現代インドネシアの慣習復興の文脈、スハルト時代の国民統合の文脈、20世紀初頭の歴史的文脈では、それぞれちがった意味を帯びること、さらにインドネシア中央政府の役人、トラキ人やブキス人、そしてワブラ人それぞれに、違ったものとして聞きとられることだった。この多元性は、実証主義(過去中心主義)と相対主義(現在中心主義)の二項対立においては見逃されてしまう多元性であり、それを具体的な事例にもとづいて指摘した意義は大変大きい。
 第四の、そして本論文最大の成果として、「より洗練された実証主義」にもとづく史料考証と、歴史の語りを文脈化し相対化する作業を極限まで推し進めた先に、それらの作業では的確に把握することも評価することもできない、「生活の時空間で生きられる歴史語り」の在り様をウォリオとワブラの実践のなかに探りあてた点を挙げることができる(第7章)。それは、ウォリオにとっては生活空間に埋め込まれた「標し」との関わりのなかで語られる歴史であり、ワブラにとっては農事儀礼の巡礼で具体的なものとして体験され、語られる歴史だった。以下の問題点でも述べるように、この「生きられる歴史語り」については、理論的に未だ充分に練り上げられていない点が多いといえるものの、筆者が実証主義の要請と相対主義の要請の双方を満たしたうえで、その限界地点でこの概念を提出している点は極めて重要である。「生きられる歴史語り」の観点から歴史学の論争を顧みれば、歴史学で対立する実証主義と相対主義が、ともに「表象」概念にとらわれて、歴史記述(歴史の語り)の外部-つまり「史実」、レトリック、政治-に、歴史記述の「真実性」や存在の根拠を求めようとする点で共通していることが見えてくるからである。筆者がいう「生きられる歴史語り」は、歴史学が想定するのとは違った仕方で人間とかかわる「歴史」の存在可能性を示唆しており、今後の研究展開が期待されるところである。
 次に、本論文の若干の問題点に触れておきたい。すでに示唆したように、本論文の成果は同時に問題点をも浮かび上がらせている。実証主義の要請と、相対主義の要請を同時に満たそうとする試みは野心的であるものの、その地道な作業の先に、どのような理論的成果を見込むことができるかについて、もうすこし整理された議論があってしかるべきだっただろう。とくに、筆者が第一章で表明した「より洗練された実証主義」の立場と、最終章で到達した「生きられる歴史語り」への注目が、どのような理論的な関係を取り結ぶのかについて、より踏み込んだ議論がなかったのは惜しまれることころである。歴史学における実証主義が問題にしているのは、過去に起こったとされることをめぐる実証性であり、それは「生きられる歴史語り」の概念が浮かび上がらせようとする、今ここの「生」と「歴史語り」との間のいわば内在的関係の問題とは、明らかに位相を異にしている。筆者が、「より洗練された実証主義」の立場を放棄せず、なおかつ「生きられる歴史語り」に注目するというのならば、「実証」概念を歴史学の領域から解き放ち、「人間にとって歴史(を語る)とはいかなることか」というより広い見地とのかかわりから「実証」概念を再定位する必要があるだろう。
 もっとも以上の弱点は、論文全体の価値をいささかも貶めるものではないし、また筆者も問題点を強く自覚し、今後の研究の課題としているところである。さらなる研究の進展を期待したい。

四、結論

 審査員一同は、上記のような評価にもとづき、本論文が当該分野の研究に寄与するところ大なるものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2008年2月13日

 2008年1月9日、学位請求論文提出者山口裕子氏の論文についての最終試験を行なった。
試験においては審査委員が、提出論文「インドネシア・ブトン社会における歴史語りの社会人類学的研究」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、山口裕子氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は、山口裕子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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