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博士論文審査要旨

論文題目:定時制高校の授業実践の特質に関する基礎的研究 ― B. バーンスティンの教育理論を手がかりに ―
著者:水野 進 (MIZUNO, Susumu)
論文審査委員:久冨 善之・木村 元・町村 敬志・中田 康彦

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1、論文の構成

 本論文は、首都圏の3つの定時制高校を対象に、それぞれの学校で行われている授業実践とそこに形成されている学校知識の実際の姿について、観察とインタビューを通じて実証的なデータ収集を行うとともに、英国教育社会学者B. バーンスティンのペダゴジー論を理論枠組みとして、そうした姿が生み出されてくる文脈と、それぞれの実践・知識に特有の性格とについて構造的分析を行い、それらが高校教育実践にとって持つ意味を考察した論文であり、その構成は以下の通りである。

序 論
    1節  本研究の目的と理論的枠組み
   2節  本研究の課題と対象の属性
1 章 教科の知識の構築過程における教師のジレンマ
1節  S先生の授業実践の特徴
2節 S先生の 200y年度の授業実践の特徴
(1)「見えたままを書いてごらん」
(2)「見えるもの」から「見るもの」へ
(3)観察授業に対する評価ルールと学校の配分ルール
小括
2 章  教科の知識の存立構造とその構築過程 
1節  学校知識に関する先行研究
2節  授業外指導における教育コード 
3節  授業指導における教育コード
(1)授業における生徒指導
(2)授業における教科指導
4節  教科の知識の構築過程
(1)授業の基本型
(2)授業の基本型と教科の知識の構築
小括
3 章  教育実践を支えるもの
1節  本章の課題
2節  本章の分析対象と先行研究
    3節  B高校の社会的文脈と集団パースペクティブ構築のための資源
4節 B高校での規制言説の特徴とあるべき生徒像の構築
  (1)非日常的場面での規制言説の特徴とあるべき生徒像の構築
(2)日常的場面での規制言説の特徴とあるべき生徒像の構築
5節 A、C高校での規制言説・教育評価の特徴とあるべき生徒像の構築
4 章 生徒にとっての教育実践
1節  生徒にとっての授業の意味
2節  操作的な主体の成立
小括
5 章  対象校の授業実践の特徴と「見なしの構造」の成立 
1節  知識形態と操作的な主体の成立との関連  
2節  授業実践の構造と社会的機能に関する理論的枠組み
3節  儀礼としての授業実践と操作的な主体の成立
4節  「見なしの構造」の成立
小括
結 論

2、論文の概要

 序論では、高校ランクの事実上「最底辺」という位置を与えられている定時制高校を対象に、そこでの教育実践の特質に関する理論・実証モデルを構築するという、日本の教育社会学の先行研究を越えようとする本論文の目的が提示される。
 続いて、その目的を達成する上での理論枠組みとして、1980~90年代に展開されたB. バーンスティンの「ペダゴジー(論文中では<教育>と表記)」の理論、とりわけその「<教育>コード」論・<教育>言説論の読解と本論文での引き取りが展開される。そこでは、難解なことで知られる同理論について、「分類(C: Classification)、各カテゴリー間がどの程度強く(+)ないし弱く(-)分類されているか」と「枠づけ(F: Framing)、<教育>的コミュニケーションにおいて教師指示・ペースの主導(+)か、学習者側が参与してその意向が反映する(-)か」という<教育>の基本要素とそのコード上の値が「+」方向・「-」方向を取ることで、<教育>コードの様々の様態が生じ得る点が平易に説明される。また、教科教育の言説秩序を示す「教授言説(ID)」が、生徒指導の社会関係秩序を示す「規制言説(RD)」に埋め込まれ、一体化する形で<教育>言説が成立し作用していること、そのことの学校教育実践の性格分析上の重要性が説明される。
 そして、A、B、Cという首都圏の3つの定時制高校(A校は商業科、B・C校は普通科)という実証研究対象について、共通に見られる「低学力」や「学習意欲低下」、また「授業料滞納率の高さ」などの特徴と、2000年代という時期における筆者による参与観察の方法が説明されている。
 1章では、教科知識の構築過程における教師のジレンマについて、B高校に全日制高校から赴任してきたある理科教師に注目し、その教師にとって生徒たちとつくる「教室文化」が一つのカルチャーショックであること、そして授業の「失敗」を通じてそのペダゴジーが変化して行く過程が記述分析される。たとえば顕微鏡を使った細胞観察という課題で、動物の軟骨細胞や血球細胞の構造を、倍率600倍で「見えたまま」にスケッチすることを課題とするが、どこを捉えればいいのかわからない生徒たち、そして「最近はプレパラート作れて、ピントあわせられて、ああ、見えたという感動でいいんだと思うようになって」と述懐する教師。そこでは、顕微鏡を通じて観察すべきものが「見える」ことから、何らかの操作をし何かを拡大して「見る」ことへの移行がある、と記述される。それは、規制言説の値が「-」の状況(授業秩序に関して、授業中の教室出入りや私語が生徒の思うままであるなど)の中で、教科知識が「原理を実際で確認する」ことから、「手続き的操作」へと変化することだと分析される。そこには、バーンスティンの言う「知識配分ルール」の作用を通じて、定時制高校でそういう手続き的知識が、教科知識として構築される過程が描かれ、同時に赴任した一人の教師がその実践を通じて、その実践に働く教育言説を、RD・IDともに「-」方向に変化させる姿が浮かび上がっている。
 2章では、まず日本の教育社会学における学校知識研究が、それが構築される個々の教科実践に踏み込んでいないことと、授業外の指導との関連を明らかにできてないこととの2点を踏まえた上で、A・B・C3校における「土足指導」「喫煙指導」「巡回指導」を細かく見ることを通して、A校が「C/F」ともに値が「+」(厳しい)、B校で「-」(やや緩やか)、C校で「--」(とても緩やか)であることが特徴づけられる。授業指導では、「座席指定」「出欠規定と運用」「検定による動機づけ」「補習」などの点が比較検討され、その値(+/-)は授業外指導と同様の特徴を示すとされている。そのような文脈の中で構築される定時制高校の教科知識は、A校が「教師の指示通りの手続き的知識」、B校では「手続き的知識」と「単純書写作業」とへの生徒内の層分化、C校ではおおむね「単純書写作業」といった性格を持つことが記述される。このように、各学校の規制言説の値は、そこで構築される学校知識を規定するという構図が浮かび上がっている。
 3章は、ジレンマを抱える教師たちが、その学校教師集団としてパースペクティブを持ち、そこから指導の目標となる「生徒像」を構築する過程を分析している。たとえば、B校において、それは問題行動への処分とその解除、欠席日数オーバーと進級・卒業/落第という場面で典型的に示され、「従順性」と「やる気を見せる」ということが前向きな姿勢として評価される様子が描かれている。また日常の授業実践でも同様の生徒像が集団的に共有されている事例が記述されている。A校では「規定順守」がやや厳しく(「枠づけ(C)」の値が「+」:「やる気」や「従順」を何らか「可視化」する諸装置の動員)、C校では生徒の個別事情への配慮と温情により傾いている(「枠づけ(C)」の値が「--」: 「やる気」や「従順」をむしろ「不可視化」することで救済する)という差はあるが、いずれにしろ「入学生徒が卒業まで到達すること」は、生徒たちにとって共通の最重要課題であるだけでなく、学校と教師集団にとっても「低学力でも、出席状況が悪くても、何とか卒業させる」という点が、今日の社会的文脈では強く期待されている。したがって、「やる気」や「従順」を何らか確認する過程を各学校が工夫し、ある場合は規制的に、ある場合は温情的に運用することを通じて、それぞれの学校らしいペダゴジーを実現していると分析されている。
 4章では授業に関して一転して、生徒へのインタビュー調査(3校とも各10人前後)の結果が使われ、そこに「暗記強要」や「生徒を無視した、教師のペース配分」への嫌悪感が強く見出されていると同時に、意外にも3校共通に「数学」の授業に「わかって楽しい」という回答や意見が多いことが示される。「公式を適用する仕方」をつかめると、「自分で解けた」という快感があり、それは原理理解に必ずしもつながらず、応用性のない操作的手続き知識ではあるが、そこには生徒たちの「できる」「わかる」という自己有能感があり、一定の「能動性」発揮があると観察されている。「手続き的知識を能動的に行使して、パターン化された問題を解く」という「操作的な主体」が成立すると分析されている。
 5章では、A・B・Cという3定時制高校における教科知識の構築を通じて、そしてまた4章で見たような教科による違いを通じて、どのような主体が形成されているかが分析される。筆者の観察と分析では、数学の授業は「教室内の一定の秩序確保」と「プリントや黒板を通じた教師主導の授業展開」という形で、「C/F」ともに「+」の値の<教育>実践になっており、そこでの「公式」(演算規則を含む)は、「教師の指示通りに数値を代入して処理すれば正解が出せる」生徒たちにとって有用な装置となっている。これはある意味で「儀礼としての授業実践」であり、そこでは生徒の懐疑を挟まぬ「手続きへの集中」が生み出される。それは<能動的操作主体>の形成であると分析されている。同時期に観察されたA高校(商業科)の「簿記」など検定に関連する一部科目にも同様の関連構図が見出されている。
 一方、B高校の国語(漢文)の「漢詩」の授業において、プリント教材を使った「漢詩の読み方」に焦点化した授業展開などについては、「手続き的な知識」はあっても、数学の「公式」のような装置が存在しないまま、教師の明確な指示に生徒を組織しているような「生徒にとってのアリバイづくりとしての授業実践」については、<能動的な作業主体>が形成されると分析されている。さらにまた、B高校の一部とC高校に見られたような「単純書写作業」の教科実践の場合、そこには「能動性」はなく、最低限の「従順」と「やる気」提示に止まる<受動的作業主体>の形成とされ、それは「教師にとってのアリバイづくりとしての授業実践」となっている。
 これら3つの類型が、定時制高校における授業様態の三層構造をなしており、それは各学校に特徴的な<教育>コードに対応して配分されているだけでなく、教科の特性によっても、また教師個人の取り組みにも左右される面があり、したがってまた、その学校の教師集団に支配的なパースペクティブからやや距離のある教師も存在するとされる。しかし三層構造のいずれにおいても、「本来の学校知識の伝達=獲得の授業実践を展開することが難しい」という、定時制高校の教師たちのジレンマは存在しており、「これで、教科知識を伝達したとみなそう」というややアリバイ的な「みなしの構造」がそこには共通に働いていると分析されている。
 結論では、定時制高校の授業実践について、次の点を指摘してまとめとしている。
 まず、社会的文脈の規定の中で、卒業・進級の評価資源としては、教科の内容よりも、教師の指示した手続きを重視するなど、ある「みなしの構造」が成立している。この構造を基礎に、各校の教師集団による授業・評価の集団的パースペクティブのあり方が成立する。その下で、個々の教師の教育評価も、おおむね「みなしの構造」の枠内で行われ、それによって、生徒の進級・卒業の確保、学校の社会的存立もなされている。
 また、そのような教育評価では、各学校の「枠づけ」の値が「+」か「-」に、「従順・やる気」の可視化と不可視化とに分化があり、また学校の<教育>コードの値の分化傾向は、各学校の規制言説のそれに規定され連動する。そこでは、教師個人が集団的パースペクティブから離れて、たとえば評価問題でその間に軋轢が生まれる可能性もある。
 さらにそのような<教育コード>の値の強(+)・弱(-)は、そこに実現する「授業実践」「教科知識」「生徒主体」の性格と重なって、5章で述べたような三層構造の様態を生み出している。そこで第一層をなしている「操作的主体」は、「儀礼的授業実践」の枠内で「自己有能感」を生み出し、そういう授業構造を再生産もしている。
 筆者は、こうした論点を「定時制高校を対象に、分析を授業実践まで降りて立ち上げた、学校知識構築に関する仮説的モデル」としており、これを社会的文脈の異なる高校を含めて、社会の文化的再生産につながる形で展開することを、今後の課題としている。

3、成果と問題点

 本論文の主たる成果は、以下の諸点として整理することができよう。
(1)教育実践の構造と性格とを社会学的に解明する理論として、期待の大きいB.バーンスティンのペダゴジー論であるが、難解であるだけでなく、概念・用語の学校現場への引き取りが難しく、日本では、団体活動や雑誌発行などに見られるペダゴジー現象研究で成果をあげているが、学校授業実践研究に本格的に適応したものはほとんどない。その意味では、この定時制高校授業実践分析をペダゴジー論で、という野心的な試みは、筆者が「結論」で言うように、授業の社会学的分析の一つの「仮説的モデル」を提供する試みになっている。
(2)定時制高校の授業実践が文脈的に背負う性格から、バーンスティンの言う「知識の配分ルール」が、学校間に、あるいは学校内部・教室内部にも作用して、「操作的な手続き知識」や「単純書写作業」が定時制高校のそういう授業を通じて事実上構築されてくることを、教師たちの授業の系統的観察とインタビューを通じて具体的に浮かび上がらせた点は、本論文のハイライトとも言える成果である。
(3)定時制高校3校間の比較を通じて、生活指導領域での生徒像や評価が、教科指導領域の生徒像・授業観・評価を規定し連動する、というバーンスティンのいう「規制言説と教授言説の関係性」について、3校それぞれに諸領域の具体的姿で分析した点は、日本における学校知識研究の新たなる試みとして評価される。
(4)同じ定時制高校内でも、数学というような教科の授業において、生徒が「達成感」「能動性」「自己有能感」を持つ側面がある点を、授業展開観察と、生徒へのインタビューなどを通じて明らかにし、そこでは何が起こっているのかについて、一つの分析的説明を与えた点も、本研究のメリットとされるだろう。
(5)授業実践の様態と、それが構築する教科知識と、そこで生み出される生徒の「主体性」の性格について、学校や教科の違いに基盤を置いた3類型が、定時制高校教育の3層をなしているという現象について、バーンスティン理論を引きながら一つの分析的枠組みを提示した点も、本研究の成果として特筆される点である。
 しかし、このように多くの成果をあげたものの、なお今後に残された課題として次の諸点をあげることができる。
 まず、第一に、個々の教師の授業実践について、3類型に帰着する印象を与えるが、そこでじっさいどの生徒がどのように「能動的」かをめぐっては、類型的説明につきない多様な側面や教師側の工夫があり、そのような点も考慮に入れたバーンスティン学派の海外での実証研究なども今後参照して、分析を深める必要があるだろうという点である。
 第二に、対象の各学校の「ペダゴジー」の性格について、諸領域間の連関・重なりに着目したのは評価されるが、一つの学校はどの領域もどの面も結局同じ値だという行論は、それらが関連しながらも相互に独立の値が取れる、というバーンスティン理論からしても、説明としてやや一枚岩的な単純化を感じさせる。一つの試みとしては評価されるが、今後社会的文脈の異なる他の高校の実証研究を行うことも通して、そういう具体的説明力を向上させる分析モデルへの前進が課題となるだろう。
 また第三に、上の「一枚岩的」とも関連して、やや各学校のペダゴジー型が、授業様態も教科知識性格も生徒主体類型も、いずれにも規定的という「ペダゴジー型決定論」とでも言うべき傾向が見られる。「改革時代のペダゴジーとアイデンティティ」という議論も英国では展開されているので、そこでペダゴジー論が「社会的な外部文脈」とどのように関連するかについての分析方向などにも学んで、その点での視野をより社会的に広げる必要がある。
 しかし、これらの課題は著者も自覚するところであり、今後これらの問題についても持続的に追究を続けて一層の解明と改善の努力が払われることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2008年2月13日

2008年1月29日、学位論文提出者水野進氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「定時制高校の授業実践の特質に関する基礎的研究      ― B. バーンスティンの教育理論を手がかりに ―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、水野氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は水野進氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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