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博士論文審査要旨

論文題目:藩政改革の展開と「改革主体」の形成
著者:小関 悠一郎 (KOSEKI, Yuichiro)
論文審査委員:若尾 政希、渡辺 尚志、池 享、田﨑 宣義

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1.本論文の構成
 本論文は、日本近世の藩の政治改革(藩政改革)について、政策の立案から実施に至る過程に関与した様々な人びとの意識・思想と活動のありように焦点をあわせて考察したものである。18世紀半ば~19世紀初頭(宝暦~天明・寛政)にかけての時期に、ひろく全国にわたって数多くの藩で、藩財政の窮乏、社会構造・経済情勢の変化への対応的側面を持ちつつ、年貢収取体系の再建、殖産興業、藩校設置を中心とするイデオロギー政策などを主要な政策として、藩政改革―研究史上、「中期藩政改革」と呼ばれる―が行われた。本論文では、この時期の藩政改革のうち、最も著名なものの一つである上杉はるのり治憲(ようざん鷹山)のよねざわ米沢藩を素材にして、領主から民衆に至る社会各層の意識・思想と、政治・政策をめぐる相互の関係性・葛藤の実像に迫りうる新たな藩政改革論の提起を目指そうとした意欲的な論考である。
 本論文の構成は以下の通りである。

序章 中期藩政改革研究の成果と課題
  第一節 中期藩政改革論の展開
  第二節 近世史研究の現状と藩政改革論
  第三節 方法と課題
  第四節 論文の構成
第一章 米沢藩明和・安永改革における「仁政」論の再編過程 
     ─竹俣当綱の「地利」「国産」理念を中心に─ 
  はじめに
  第一節 明和初年における竹俣当綱の改革構想
  第二節 改革構想の転換と諸政策の展開
  第三節 竹俣当綱における「国産」理念確立の過程
  おわりに
第二章 竹俣当綱の「徂徠学」受容と藩政改革
  はじめに
  第一節 竹俣当綱の思想と『産語』の受容
  第二節 竹俣における「徂徠学」受容の契機
  おわりに
第三章 藩政改革と地方役人 ─米沢藩における郷村出役制度─
  はじめに
  第一節 竹俣当綱による郷村出役の設置
  第二節 郷村出役の活動実態
  第三節 郷村出役の資質・学問
  第四節 郷村出役の廃止と再設置
  おわりに
第四章 地域リーダーと学問・藩政改革
     ─金子伝五郎の平洲学受容と民衆教化活動を中心に─
  はじめに
  第一節 金子伝五郎の文化活動
  第二節 竹俣当綱の民衆教化論と教化政策の展開
  第三節 金子伝五郎の思想・活動と平洲学
  おわりに
補論一 宝暦期松代藩における学問奨励 ─菊池南陽と小松成章を中心に─
  はじめに
  第一節 松代藩と菊池南陽の招聘
  第二節 小松成章と『春雨草紙』
  第三節 南陽の思想傾向
  おわりに
第五章 「明君録」の作成と明君像の伝播・受容 ─『米沢侯賢行録』を中心に─
  はじめに
  第一節 『米沢侯賢行録』の成立と明君像の形成
  第二節 明君像の形成と細井平洲
  第三節 「米沢侯賢行録」の内容的特色
  おわりに
第六章 近世中期における「明君録」の形成過程 ─莅戸善政著『翹楚篇』の事例─
  はじめに
  第一節 『翹楚篇』流布の過程と背景
  第二節 『翹楚篇』の成立・内容と莅戸善政の思想
  第三節 藩政の動向と莅戸善政
  おわりに
補論二 真田家の系譜・事蹟編纂と鎌原桐山の思想
  はじめに
  第一節 近世後期の系譜・事蹟編纂と鎌原桐山
  第二節 鎌原桐山の思想
  第三節 文政期藩政の展開
  おわりに
終章 中期藩政改革と「改革主体」
  第一節 「改革主体」論
  第二節 展望と課題

2.本論文の要旨
 序章では、いまなぜ中期藩政改革を問題にするのか、研究史を整理しつつ著者の問題意識を述べる。くわえて新たな(作業仮説として)「改革主体」論を提起している。改革主体とは、もともとは1970年代の研究において、この時期の藩政改革を主導した強力なリーダーシップをもった領主層(藩主・家老ら執政)を指して、研究者が呼んだ言葉である。しかるに著者は、たとえば民衆の上層にも藩政改革に関与した人物がいたという事実を掘り起こした。すなわち、改革がたんに領主層の独断・強権によって実施されたのではなく、社会各層にそれに呼応する人々がいたことを明らかにした。これを踏まえて著者は、政策の立案から実施に至る過程に関与した様々な人びと―領主層・家臣団から民間社会に至るまでの―を一旦「改革主体」として捉え、その活動の意味を考察しようというのである。
 第一章は、強力な「改革主体」を形成して米沢藩の明和・安永改革を主導した家老たけのまたまさつな竹俣当綱の思想形成過程を明らかにし、同改革に表現された領主・民の関係性を追究したものである。中期藩政改革を「仁政」論の再編の場と捉え、そこに表現される領主・民の関係を両者の「合意」・「約定」履行への模索という観点から捉え直した。
 第二章は、竹俣当綱における『さんご産語』(「徂徠学派」の儒者太宰春台の著とされる)受容を分析の中心として、米沢藩明和・安永改革における改革理念・政策の立案過程を解明し、あわせて「徂徠学」受容の契機として、領主層における軍学への関心を指摘した。
 第三章では、地方支配機構の再編が進められるなかで安永元年(1772)に創設された郷村出役の役割を、郷村出役渡部浅右衛門の意識・活動に即して検討した。「改革主体」としての地方役人層が、領主側の支配意図の貫徹というだけでなく、村方による意図的利用によって、改革政策の内実を村方にとってより有利な形に変容させていく役割を果たしたことなどを明らかにしている。
 第四章は、米沢藩領中小松村の百姓金子伝五郎を事例に、「地域リーダー」の思想・活動を分析し、それを思想家や領主層との相互の関係性の中で総体的に捉えようとしたものである。「地域リーダー」が、地域社会の抱える問題をいかに認識して村立て直しに向けた実践活動を行ったのかを解明するとともに、その活動に儒学(儒者細井平洲の学問)受容がいかなる意味を持ったのかを明らかにしている。
 補論一は、宝暦期(1751~64)の松代藩における学問奨励に関する動向を考察の対象としている。これまでほとんど明らかにされてこなかった儒者きくちなんよう菊池南陽の経歴や松代での活動実態を解明し、南陽門人の松代藩士こまつとしあきら小松成章の政治的な意識・思想を南陽の思想の特質と比較検討した。18世紀後半の各藩における儒学受容の多様性が窺われ、米沢藩における儒学受容のあり方を相対化する視点ともなるものである。
 第五章は、『よねざわこうけんこうろく米沢侯賢行録』を取り上げ、上杉はるのり治憲の明君像がその存命中、安永・天明期(1772~88)から成立していたことを指摘し、その明君像の全国的な流布の様相を解明したものである。本章では、個別の「明君録」の流布の実態を、諸写本の全国的調査により解明し、「明君録」・明君像の形成に儒者や全国の藩士が関わっていたことや、18世紀後半における明君像の内容的特色を明らかにした。
 第六章は、近世後期、全国に広く流布した上杉治憲の「明君録」=『ぎようそへん翹楚篇』(寛政元年成立)を取り上げる。この書物の著者である莅戸善政は、竹俣当綱が失脚し一時頓挫した改革政策を実施した人物である。ここでは、『翹楚篇』と莅戸善政の政治思想を分析の素材として、18世紀後半における「明君録」の形成過程について考察している。『翹楚篇』成立の背景に、安永期における家臣団内部の深刻な対立や全国的な民衆運動高揚への危機意識が存在したこと、『翹楚篇』の内容に、米沢藩の寛政改革における政策課題や、上記の対立・葛藤の経験が反映されていることを明らかにしている。
 補論二は、文政・天保期の松代藩における真田家先祖の系譜・事蹟編纂の動向を、家老鎌原桐山の思想を軸に検討した。藩独自の歴史編纂の意義を、当該期に藩が直面した課題との関わりで論じた。
 終章では、以上の成果をまとめ、中期藩政改革を民衆の政治に対する規制力を反映した「仁政」論再編の場として捉えるべきであること、また改革正当化のために、「徳」をもつ藩主が率先的実践を行うことが期待され、上杉治憲はそのような実践を行った「明君」として喧伝されたことを明らかにした。

3.本論文の成果と問題点
 本論文では、米沢藩の藩政改革を主導した藩家老竹俣当綱の思想形成過程を明らかにしている。竹俣当綱は、藩政をリードした政治家であるとともに実に多くの著作を残した人物であり、竹俣の施策と思想を理解するには、こうした著作類を読みこなさなくてはならない。しかるに従来の研究では、活字化されている一部の著作のみを利用して竹俣の思想を語り、その施策の意味を語ってきた。著者は、そうした方法の問題点を指摘し、竹俣が執筆した著作類を可能な限り掘り起こし、膨大な史料を読み解くことによって、竹俣の思想形成の過程を丹念に明らかにした。これが本論文の第一の成果である。
 第二に、18世紀後半の米沢藩の藩政改革に関わる多くの史料を発掘・解読することによって、これまでその実態がほとんど分からなかった郷村出役の思想・活動をはじめて明るみにすることができた。さらにそうした郷村出役の動向に呼応していわば「地域リーダー」として活躍した百姓金子伝五郎を発見した。本論文は、米沢藩の藩政改革の実態に関する研究のレベルをいっきに高めたものと、高く評価できる。
 第三に、藩政改革の政策の立案から実施に至る過程にさまざまな人々が関与していたことを見いだした著者は、ここから社会各層に、問題意識を多少なりとも共有し改革を志向する「改革主体」が形成されたとして、あらたな「改革主体」概念を提示する。これによって、ともすれば領主層の動向だけで説明してきた従来の藩政史の研究・叙述を克服し、領主層・家臣団・民衆の関係意識、動向を組み込んだ藩政史を描こうとしている。これが本論文の第三の成果である。
さらに、著者は、18世紀半ば以降作成され流布するようになる「明君録」がどのような歴史的役割を担ったのか、この解明が当代の政治・社会を考える上で不可欠であると考え、日本各地に残る上杉鷹山の「明君録」の悉皆調査を開始した。本論文の第五、六章は、その成果を踏まえて「明君録」の歴史的位置を模索した論考であり、研究史上画期的な仕事である。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。著者が提起する「改革主体」概念は、領主層から民衆までの広範な人々の思想・動向を捉えることができるという点で、従来の通念を覆す大きな魅力をもつものであるが、本論文では全体として「改革主体」概念の提示に留まっている。さらに彼らの間に介在するであろう矛盾や葛藤を明らかにできれば、身分制社会である近世という時代を身分制社会に固有の複雑さやダイナミズムに溢れた時代として把握することができるであろう。もちろんそうした問題点は著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、小関悠一郎氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2008年2月13日

 2008年1月9日、学位論文提出者小関悠一郎氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「藩政改革の展開と「改革主体」の形成」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、小関悠一郎氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は小関悠一郎氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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