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博士論文審査要旨

論文題目:近代上海における公衆衛生事業の展開―伝染病対策を中心に―
著者:福士 由紀 (FUKUSHI, Yuki)
論文審査委員:三谷 孝、糟谷 憲一、田崎 宣義、上野 卓郎

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   一、論文の構成
 本論文は、19世紀後半から中国共産党による「解放」直後の1950年前後までの時期の上海の公衆衛生事業の展開に関して、コレラをはじめとする伝染病への対応を中心的な対象として、華界・租界・国際社会の関係機関・団体の相互関連、及びこの間の上海地域における国家・社会・個人の関係の変化、に焦点をあてて実証的に解明した論文であり、以下の各章節から構成されている。

序章 問題設定と本稿の視角
 1 問題設定
 2 先行研究
 3 方法と視角
 4 本稿の構成
第一章 上海共同租界における公衆衛生行政機関の設立とその活動
はじめに
 1 近代中国への西洋医学の導入
 2 共同租界の公衆衛生行政機関とその活動
 3 共同租界の公衆衛生行政と中国社会
 おわりに
第二章 20世紀初頭上海華界における公衆衛生事業の展開
 はじめに
1 20世紀初頭の公衆衛生事業の制度化
 2 上海華界における公衆衛生事業
 3 諸外国から見た上海華界の公衆衛生事業
 4 上海市公所衛生処による華界の公衆衛生行政の整備
 おわりに
第三章 1920年代前半東アジアの衛生をめぐる国際環境と上海の公衆衛生事業の制度化
はじめに
 1 「国際衛生条約(1912)」改正までの経緯と国際連盟保健委員会会議
 2 ノーマン・ホワイトによる東アジア重要港調査と国際衛生条約案
 3 ホワイト案の上海への衝撃
 4 淞滬商埠衛生局の設立
 5 淞滬商埠衛生局と共同租界
 おわりに
第四章 上海特別市衛生局の設立とその活動
はじめに
 1 上海特別市衛生局の設立経緯
 2 上海特別市衛生局の組織機構
 3 中央衛生行政の整備と地方衛生行政
 4 海港検疫問題と上海
 5 検疫権の回収
 おわりに
第五章 1930年代のコレラ撲滅運動-国際連盟による対華協力と華租両界の公衆衛生事業
はじめに
 1 上海におけるコレラ流行状況
 2 中外聯席会議と中央コレラ局の設置
 3 共同租界のコレラ撲滅運動に対する反応
4 コレラ撲滅運動の実態
 おわりに
第六章 日中戦争期上海の公衆衛生行政-コレラ予防運動を例として-
はじめに
 1 日中戦争期上海におけるコレラ流行状況
 2 上海防疫委員会の設立
 3 日本の医学機関の上海への進出と占領行政への関与
4 コレラ予防運動の具体的施策
 5 コレラ予防運動の深化と保甲制度
 おわりに
第七章 戦後上海における公衆衛生行政の再編
はじめに
 1 戦後上海市政府の設立と衛生局の機構
 2 1945年コレラの流行と防疫施設の接収管理問題
 3 1946年コレラと防疫行政
 おわりに
終章 成果と課題
はじめに
 1 整理
 2 成果
 3 今後の課題
 おわりに

関連事項年表
資料・文献一覧
 
  二、論文の概要

 序章では、本論文の問題設定の意義と方法及び研究史が説明される。近代上海における公衆衛生事業の展開をコレラ等伝染病への対応を中心的な対象として検討する際の課題は、第一に、近代上海における公衆衛生の制度化・行政化の経緯と展開のあり方の解明、すなわち19世紀以降近代ヨーロッパ社会において確立された公衆衛生制度が、近代上海にどのように導入され、受容されていったかを明らかにすることであり、第二は、そうした公衆衛生事業の制度化・行政化が都市社会にどのような影響をもたらしたのかについて、その実態の究明を通して、上海という都市社会における国家―社会―個人関係の歴史的展開に照明をあてることにあるとされる。
 続いて研究対象としての近代上海の特徴と研究史が概括的に説明される。開港以後の上海は、イギリス租界(後の共同租界)・フランス租界及び、中国政府管轄下の華界、の3部分に行政区域が分割されたことに由来して、当該時期の上海の公衆衛生事業・行政は各地域における多様な機関・集団によって担われることとなったが、従来の研究ではこれら多様な担い手間の相互関係が検討されることはほとんどなかった。しかし、開港以後アジアの重要な貿易港・国内外にわたる交通の要衝として発展する上海では、ヒトやモノの流出入の激化・都市化・居住環境問題などの様々な原因から各種の伝染病がしばしば流行して、上海市の運営・統治に携わる関係者や住民のみならず、上海と密接に関わる国内外の諸機関にとってもその対策が重要な問題として認識され、それぞれが対応に苦慮していた。本論文では、1860年代から1950年代初めという長期的なタイムスパンにおいて、上記の公衆衛生事業の多様な担い手間の協調・対立等の相互関係、制度上の連続と断絶、という側面に注目することにより、近代上海の公衆衛生事業の展開をより立体的・重層的な視点から分析することができるとする。
 第一章では、19世紀半ばから20世紀初頭に至る時期の共同租界における公衆衛生行政の展開について検討される。1842年の南京条約による開港以後、上海には医療宣教師による病院・診療所の開設によって急速に近代医学がもたらされた。公衆衛生行政機関も租界の設置とともに設立され、租界の拡大・発展に従ってその組織と活動も拡大・整備されていった。共同租界では、1897年に工部局の中に専門的公衆衛生行政機関である衛生処が設けられ、その活動内容・予算・組織を審議する衛生委員会も設置された。こうして20世紀初頭には、租界の公衆衛生行政はより組織的に実施されるようになったが、それは時として強制力を伴うものであったために、四明公所事件や1910年前後のペスト騒動に見られるように、中国人社会や華界との間での摩擦・衝突が引き起こされることもあった。こうした経験を踏まえることで、租界・華界双方のその後の公衆衛生行政にも変化が見られるようになる。
 第二章では、20世紀初めから1920年代前半までの上海華界における公衆衛生事業の制度化の過程が検討される。20世紀初頭、清朝政府は義和団事件・日露戦争の際の占領地での公衆衛生行政に刺激を受けて公衆衛生事業の制度化に着手したが、その際日本をモデルとした警察行政の一環として衛生行政を行う衛生警察制度を採用した。辛亥革命後に中華民国が樹立されると、中華民国北京政府もこの衛生警察制度を継承することとなる。上海においても1905年に巡警が設立されて、警察行政の一環として衛生行政が実施されたが、同時期に設立された地方自治機構も衛生行政の一翼を担っていた。この両者の関係は対立的なものではなく、伝染病の流行等の際には協力もなされていた。そして、この関係は中華民国期に入ってからも継続されていた。民国初頭の市政機関による公衆衛生行政は環境衛生を主としたものであり、租界の存在や外国人からの視線を意識して行われたものであった。また公的な医療サービスは民間の医院や慈善団体によって担われていたが、これらの医院・団体には、華界市政に関わっていた上海の商紳が関与していた。1920年代前半になると、地方自治再開に伴って設立された市政機関である上海市公所の下、地域・機構によって個々に行われてきた公衆衛生行政を連携させるための模索や、深刻化する都市の衛生問題に対応するための衛生試験所等の建設が着手されたが、華界の公衆衛生行政の本格的な統一は、1926年に軍閥孫伝芳による淞滬商埠督弁公署の設置を待つこととなる。
 第三章では、1920年代前半の中国の公衆衛生をめぐる国際環境と上海華界での公衆衛生事業の制度化の進展との関連が検討される。1920年代前半、第一次世界大戦の経験および戦後の社会的変化から、従来ヨーロッパ諸国間で締結されていた「国際衛生条約(1912年)」の改正が喫緊の課題となり、国際衛生会議と国際連盟を中心として、その準備が行われた。この「国際衛生条約」は、東から西への伝染病の伝播を防ぐことを目的に制定されたものであって、東アジア諸国が直面する検疫等の問題に対応するものではなかったため、日本は国際連盟において、アジアにも適応可能な「国際衛生条約」案の作成と東アジアの衛生状態の調査を提案し、その結果調査が実現の運びとなった。調査実施者のノーマン・ホワイトは、その調査後に東アジア諸国にも適応可能な「国際衛生条約」案(ホワイト案)を提出したが、その特徴は東アジアの各港をその防疫施設の整備程度によって等級づけるというものであった。ホワイトによるこの提案は、1926年に調印された「国際衛生条約(1926年)」に反映されるにとどまったが、開港都市上海の衛生事業に重要な影響を与えることとなった。すなわち、ホワイト案が実施された場合に、上海が最下級港に位置づけられるのではないかという危機感が租界衛生当局や中国人有力者の間に広まり、これを避けるために租界・華界・海関が協力して衛生調査と情報収集を行おうとする機運が高まったのである。この動きは、中華民国という国家を介在させずに地域社会が直接国際的要請に応えようとした点に特徴があった。このような1920年代前半の公衆衛生をめぐる国際環境の変化・中国人有力者間での問題意識の共有は、華界における公衆衛生事業の制度化の重要な一因となった。軍閥孫伝芳の支配下に置かれた上海では、1926年8月に華界全体の衛生行政を統括する機関として淞滬商埠衛生局が設立された。同衛生局は租界との協力の下に、アメリカで公衆衛生の学位を取得した胡鴻基等専門知識を持つ人材を招聘して衛生行政の展開を目指したが、その活動期間はわずか7か月に終わった。
 第四章では、南京国民政府治下の上海特別市政府における公衆衛生行政の整備状況と公衆衛生行政の実態が検討される。1927年南京国民政府の樹立にともなって設立された上海特別市衛生局は、淞滬商埠衛生局副局長であった胡鴻基が局長のポストについたことに示されるように、組織機構面では淞滬商埠衛生局との類似性・連続性が確認できるが、民間の地域有力者や専門家の協力を得るための衛生委員会制度は、上海特別市衛生局においては縮小されていた。また、淞滬衛生局時代は衛生行政と警察行政とが未分離であったものが、上海特別市衛生局では一定程度分離したものとして構成された。国民政府は、1920年代前半の上海その他諸都市での衛生行政の制度化の進展を踏まえて全国的な地方衛生行政制度を施行した。それは、衛生行政を整備することで中国の国際的地位の向上を図ろうとする「衛生救国」論と、個々人の健康・衛生が中国の強国化に結びつくという「衛生強国」論とを基礎としたものであった。「衛生救国」の実現のために、国民政府は1920年代に形成された公衆衛生の国際基準に対応する形で自らの衛生行政を構想・実現することで、従来受けていた列強の干渉を排除しようとした。このように公衆衛生行政の整備はナショナリズム宣揚の動きに結合して展開された。また、上海特別市政府は、個人の健康・衛生が中国の強国化につながるとする「衛生強国」論を基礎として公衆衛生行政を施行し、行政側の民衆に対する教育・啓発と強制という形でそれが実現された。上海特別市衛生局の行う公衆衛生行政は、それ以前の衛生行政と比較してより広範なものであり、民衆生活への行政の関与はより強力なものとなった。その背景には個々人とその集合体である社会が、強力な国家の建設のための基本要素だという共通認識があった。
 第五章では、1930年代の上海で展開されたコレラ撲滅運動が検討される。1930年代、国際連盟は国民政府の衛生行政に対する協力援助の一環として、ライヒマンを代表とする調査団を中国に派遣するとともに上海におけるコレラ撲滅運動を支援した。コレラ撲滅運動は、上海特別市政府・共同租界・フランス租界の三衛生当局の連携の下に行われたという意味で上海史上前例のないものであった。それが実現された要因としては、国際連盟のアジアへの関心の高まり・ライヒマンによる中国政府への働きかけ・国際連盟と国民政府との関係の密接化という国際的要因、五三〇運動以来の反英反租界運動の高揚・中国側公衆衛生事業機関の設立とそのナショナリスティックな性格等という国内的要因をあげることができる。中国側の批判とライヒマンによる協調性に欠ける「頑固な保守主義」という批判にさらされていた共同租界側が、実質的に譲歩した「連携」であった。このコレラ撲滅運動の中心機関として中央コレラ局が設立されたが、同局は国民政府と上海特別市・共同租界・フランス租界の共同出資によるものであり、その所属は曖昧であったが、潜在的に対立関係にある租界と国民政府とが、国際連盟という一見中立的な組織を媒介として「連携」するために必要であったとも考えられる。国際連盟を間に挟んで「連携」するという戦略は、国民国家建設途上にあった国民政府の外交と内政の間に存在する租界問題への対応の一つであったともいえる。運動の中心項目であるコレラ予防注射の実施においては、共同租界と上海特別市政府とではそのスタンスに大きな相違が見られた。上海特別市政府にとってコレラ予防注射の実施は、公衆衛生行政による市民個人の身体の管理の強化という側面を持つと同時に、上海市民に公衆衛生観念・疾病予防意識を注入して行政による伝染病対策に対する信頼性を増大させるという側面をも有するものであった。このように上海特別市においては、公衆衛生は市民個人と社会・国家とを接合させるものとして認識され、行政による比較的強い個人への関わり方が示されたのに対し、共同租界では中国人社会・住民への強い介入の傾向は見られなかった。
 第六章では、日中戦争期の上海における公衆衛生行政の展開が検討される。1937年11月の上海での日中両軍の交戦終結以後、日本軍占領下で統治機構は頻繁に変更された。大道市政府(1937年12月)・督弁上海市公署(1938年4月)・上海特別市政府(1938年10月)という一連の対日協力政権が占領地域に樹立された。大道政府時期には医療衛生施設の管理は社会局が、それ以外の公衆衛生事業は警察局衛生科が担い、上海特別市時期には警察局が、1941年3月以降は新たに設けられた衛生局が衛生行政を担当するものとされた。日中戦争期の上海における防疫行政は、占領地域の秩序維持と支配の正統性に関わることから、日本軍によって重要視されたが、1937年のコレラ流行を契機として上海防疫委員会が組織され、大規模なコレラ予防運動が展開されることとなった。上海防疫委員会には、日本の医療組織である同仁会が、防疫に関する政策立案・人材供給・物資供給等に重要な役割を果たした。上海防疫委員会が打ち出したコレラ予防運動の中心は、予防注射証明書の発行・検査をともなうコレラ予防注射の大規模な実施であった。しかし、占領下の上海では証明書の偽造や密売などが横行したが、これは強権的な政策に対する民衆による消極的抵抗と見ることもできる。1942年以後には、連帯責任制に基づく保甲制度・食糧配給制度とコレラ予防注射とが関連づけられて、市民の大部分に予防注射が実施されていった。保甲制度は、コレラ予防注射・防疫スタッフの供給・日常の環境衛生など広範な公衆衛生事業に利用された。
 第七章では、戦後上海市政府による公衆衛生行政の再編と建国初期の共産党上海市人民政府の公衆衛生行政が検討される。1945年秋のコレラ流行の中で戦後上海の公衆衛生行政の再編が進められたが、上海市衛生局は租界の消滅による行政範囲の拡大・疎開していた市民の帰還にともなう人口増加のために、より大規模な伝染病対策を行う必要に迫られ、同仁会が設立した華中中央防疫処を接収して大量のワクチンを製造して市民に供給しようとした。しかし、国民政府は、華中中央防疫処を中央行政機関である衛生署の所管とし、ワクチンの製造供給も中央が管理するものとした。中央集権的な全国衛生行政体系を再編しようとする中央の意向と、伝染病の流行に現実的に対処しようとする地方の要望との間に齟齬があったことをここに見て取ることができる。また、上海市衛生局が各種の伝染病への対策協議機関として組織した上海市防疫委員会は、衛生局と市内の医療機関および経済界からメンバーで構成されていたが、経済界の参入は、経済的困窮に苦慮する衛生行政・財政の実情を反映したものであり、経済的支援が期待されていた。また、戦後上海社会でも、保甲制度が継続的に利用されたが、公衆衛生の面では、日中戦争時期に比べて保甲長の指導的役割が強調されていたのが特徴的であった。このように戦後上海では、防疫の際の対応ルートの制度としては進展していたものの、行政側がデザインした防疫の諸施策に市民が呼応しないという問題が生じ、衛生インフラや衛生施設・物資の整備面における不十分さから、市民の間には上海市政府による衛生行政への不信感が醸成されていたとされる。
 1949年5月に樹立された共産党指導下の上海市人民政府は、国民党上海市政府を接収・再編したが、その特徴の一つは医療衛生人員の大規模な増員であり、中国医学の医師も衛生行政の体系に組み込まれることとなった。建国初期には、民衆を動員した大規模な衛生運動が行われ、その過程で衛生行政の受け皿となる組織の編成が行われ、これを通して社会の隅々まで衛生行政を普及することが目指されおり、全中国を統括する新政権として、社会の隅々まで統治を貫徹させようとする共産党の政策目的を示すものであった。
 終章では、各章の内容が概括されるとともに、今後の課題としてイギリスや日本の本国及び植民地での衛生行政との比較検討の必要性、上海民衆の衛生意識のあり方の実情の解明等があげられている。

  三、成果と問題点

 近現代中国における公衆衛生及び疾病に関する研究は、西欧における社会史研究の影響と「改革・開放」以後の中国近現代史研究の新しい潮流の中で、1980年代以降に拓かれてきた新しい研究分野であり、研究史の蓄積もそれほど多くはない。日本における先行研究の成果としては、19世紀末から20世紀初頭における中国の公衆衛生事業の展開をコレラ・ペスト等の伝染病の流行とそれへの対応を対象として制度史的に検討した飯島渉氏による研究があるにすぎない。また、中国や欧米においても、南京国民政府時期の公衆衛生事業についての制度史的研究や都市史・地域史研究の一環として天津・広東・北京・上海等の諸都市における特定時期の事例を実証的に検討した研究が見られるにとどまる。
 本論文の著者は、①1860年代から中華人民共和国建国初期までの長期的展開過程として上海の公衆衛生事業を連続的に把握する、②その過程で上海における公衆衛生事業に関わる多様な要素の相互関係・相互作用を解明する、③これら多様な要素による公衆衛生事業・行政の展開としての伝染病対策の実態を解明する、ことを課題として本論文の作成に取り組んできた。
 本論文の作成に利用されている主要な資料は、①上海市档案館所蔵の共同租界工部局衛生処档案及び上海特別市警察局・衛生局档案、②外務省外交史料館所蔵の外務省記録、③国際連盟保健委員会及び保健機関の会議録、④上海図書館所蔵の各時期の上海の政府機構、すなわち上海市政庁・上海市公所・上海特別市政府・上海市政府の公報及び各種報告書・機関誌、⑤『申報』、North China Herald等上海で発行されていた新聞、等である。これらの史料のうちの①④の主要部分は、2年間の上海留学中に著者が収集した一次史料である。
 本論文の最大の成果は、このように関係各地(上海・南京・北京・台北等)で収集した広範な史料に基づいて近現代上海における公衆衛生事業の展開過程を実証的に明らかにしたことにあるが、その成果として具体的に次の3つをあげることができる。
 第一に、1860年代から1950年前後までの期間における上海の公衆衛生事業の展開について実証的に捉えたこと。この期間に上海の統治者は、清朝政府から北京民国政府・地方軍閥・南京国民政府・日本軍及び汪精衛政権・戦後国民政府そして中華人民共和国と頻繁に交替したが、著者はその間のおよそ90年間にわたる公衆衛生事業の展開過程をその連続面に注目してその実態を解明している。従来当該テーマについてある一時期に限定された研究は存在したものの、長期的な検討・解明がなされたのは初めてであり、本論文の重要な成果といえる。
 第二に、近代の上海は、中国政府の管轄下にある地域の華界と共同租界・フランス租界の3部分から構成されていた。また、19世紀末からは上海商紳層といわれる新興の商人・資本家団体が自治的な活動を担っていた。本論文のテーマである公衆衛生事業についても、それぞれの機関・団体が独自あるいは相互に対立して対応してきた状況が、次第に協調・協力の関係へと変化していくという全体の流れを捉えたこと。それは、租界側の史料と中国政府側の史料の双方を参照するとともに、新聞・雑誌記事からも関連する記事を広く収集・分析した著者の資料収集の努力に基づく成果といえる。とくに、華界の公衆衛生事業については本論文で初めて明らかにされている。
 第三に、上海の公衆衛生事業を国際的な環境及び中国の中央政府との関係において捉えたこと。とくに後半部分(第三章~第五章)では、上海という国際都市の同事業が国際連盟主導の調査(ライヒマン調査団)や提案(ホワイト案)等に影響を受けて展開したことを明らかにしたのは本論文の重要な成果である。また、中国中央政府と上海の地方行政機関・地方諸団体との関係が、時には共鳴しあって順調に展開し時には対立して齟齬を来した状況を具体的に解明している。
 しかし、このように多くの問題について具体的な実情を明らかにした著者の努力は評価できるものの、今後に残された問題も少なくない。
 まず、第一に、著者も述べているように中心的に利用した史料が行政的文書であったことから、公衆衛生事業の現場にあたる地域社会・民衆の側の実情の解明が手薄になっていること。著者は新聞記事等を活用することでその不足を補おうと努めているが、たとえば衛生局の係員が反発する住民に包囲された20世紀初頭から70%以上の住民が予防接種を受け入れたという1940年代に至る期間に、民衆の側にどのような意識の変化があったのか、というような問題は明らかにされてはいない。
 第二に、開港以前にも、上海は中継交易港として実績を有していたのであるが、その時期の伝統的な医療や、慈善事業との関連の究明がほとんど行われていない。また、第五章で論じられている中央コレラ局はその「曖昧性」に特徴があったとされるが、この機関は欧米側文献にのみ登場して、国民政府関係の文書には見られないとのことで多分に著者の推測で論を進めているが、国民政府・租界当局・国際連盟の関係を裏付ける重要な箇所であるので一層の解明の努力が求められねばならない。
 しかし、これらの問題点の多くは著者も自覚するところであり、今後一層の研鑽を重ねることによって将来これらの課題についてもより説得的な研究成果が達成されることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2007年11月14日

2007年10月24日、学位論文提出者福士由紀氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「近代上海における公衆衛生事業の展開―伝染病対策を中心に―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、福士氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は福士由紀氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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