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博士論文審査要旨

論文題目:公教育における宗教の多様性と対話―オランダとベルギーのイスラーム教育をめぐる比較研究―
著者:見原 礼子 (MIHARA, Reiko)
論文審査委員:関 啓子、内藤 正典、中田 康彦、伊豫谷 登士翁

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一 本論文の構成

公教育にイスラーム教育を導入したオランダとベルギーを比較対象地域に選び、イスラーム教育の実態を精査し、その共通点と相違点の析出によって、両国のイスラーム教育の特徴を浮上させるとともに、異なる宗教間の対話の構築という観点から学校教育における異文化間教育の課題を考察した論文である。それぞれの国家においてイスラーム教育が取り入れられる基盤となった教育と宗教との関係史を丹念に掘り起こし、現代のヨーロッパにおけるイスラーム教育のかかえる困難を歴史的文脈に置きなおしたうえで、異なる宗教間の対話の可能性を追究した意欲作である。
目次は以下の通りである。

序章
第1節 問題提起
第2節 イスラーム教育の諸相
第3節 本課題をめぐる動向と研究方法
第一部 公教育における宗教性の位置取り
第1章 公教育の成立と非宗教化
第1節 教会による教育とフランス革命の余波
第2節 フランス公教育における非宗教性(ライシテ)原理の確立
第2章 オランダの公教育と宗教
第1節 教育の非宗教化と学校闘争
第2節 憲法改定と公教育の柱状化
第3節 現代の公教育構造と宗教
第3章 ベルギーの公教育と宗教
第1節 教育の非宗教化と学校闘争
第2節 学校憲章の制定と宗教教育の位置取り
第3節 現代の公教育構造と宗教
第二部 イスラーム教育の参入
第4章 オランダのイスラーム教育
第1節 イスラーム学校の設立運動
第2節 イスラーム学校の教育内容と特徴
第3節 学校間分離問題と<教育の自由>のゆらぎ
第5章 ベルギーのイスラーム教育
第1節 公立学校におけるイスラーム教育導入の経緯
第2節 イスラーム教育の教育内容と特徴
第3節 宗教シンボル禁止議論と宗教教育
第6章 公教育におけるイスラーム
第1節 宗教的多元性の異なる展開
第2節 「分離」か「混合」か
第3節 反イスラームと排除の論理
終章
第1節 イスラーム教育が及ぼす諸作用
第2節 今後の課題と展望
参考文献
略称一覧


二 本論文の概要

現在、オランダとベルギーは、西欧諸国のなかでイスラーム教育を最も組織化されたかたちで公的教育機関に導入している。本論文で言う「イスラーム教育」とは、原則として①信仰的な性質をもったイスラームに関する教育、②ムスリムによって教授される教育のことを指している。イスラームという信仰にかかわる教育や規範が、公的財源に支えられて公教育に導入されるという、いわばフランスとは対照的な措置が設けられることは、いかなる意味をもつのだろうか。このような問いを立て、筆者はこの意味を、一つには、公教育へのイスラーム教育の導入が、ムスリム自身にどのような影響を及ぼすことになるのかを分析することによって、二つには、イスラーム教育の導入に際して発生する論点を析出することによって解明しようとする。
論文は二部構成である。公教育における宗教の位置づけをめぐる諸相を近代教育の成立期までさかのぼって概観するのが、第一部である。第二部では、オランダとベルギーにおけるイスラーム教育の参入過程と実態をめぐる比較考察が試みられる。
オランダとベルギーにおけるイスラーム教育やそれにかかわる規範が公教育に付け加えられることに対して、最も共鳴してきたのはキリスト教政治勢力の後継政党であった。このことは先行研究も指摘しているが、見原氏は、この政治勢力がどのような背景からイスラーム教育の意義をどのように理解していたのかを明らかにしようとする。
第1章では、フランスの公教育制度における宗教(教育)の位置づけの歴史的変遷が考察される。オランダとベルギーとは対照的な経緯を経験したケースを参照しておくことによって、両国の公教育制度に宗教(教育)が位置づけられることになった経緯が、明瞭になるからである。この章で筆者はまず、教育の究極目的がキリスト者に向けられたものから、人間という個の確立を目指すものへと変容していった過程を叙述し、この流れが最も急進的に推し進められるきっかけとなったのが、フランス革命と人民主権の確立であったことを確認する。これらの基本的な事項を踏まえたうえで、フランスにおける教育の非宗教化プロセスの大筋を概観する。
第2章で見原氏は、オランダの公教育史において宗教がどのように位置づけられるようになるかを詳しく論じている。オランダでは、1850年代から1870年代までは自由主義勢力の全盛時代が続くことになるが、そのもとで進められた教育の非宗教化に対して、二つのグループが危機意識を募らせた。グループの一つは、厳格なカルヴィニストであった復興派とそれに連なるARP(反革命党)からなり、もう一つは長い間不利な社会的地位に置かれていたカトリックグループであった。カトリックグループは当初、自由主義勢力を支持することによって、信仰の自由を確保することを希望していた。しかし、自由主義勢力の進める非宗教化は、次第にカトリックグループが求めていた信仰の自由のありかたとは異なることが明らかになった。こうしてカトリックの信徒らは、カルヴィニストとの連携を組むという歴史的な選択を取り、両陣営は自由主義勢力に対抗する有力な勢力へと成長していった。このように、見原氏は、オランダにおける学校闘争の背景を論じている。
続いて、筆者は、闘争の終結によってオランダの公教育がどのように制度化されたのかを、関連法規などから検討している。その根幹にあるのは現在の憲法第23条にある規定である、と見原氏は指摘し、この条項の存在によってオランダでは、公立学校と私立学校が同等の公的財源を受ける公教育構造が設けられていると論じている。さらに、20世紀初頭に構築されたこの構造が、世俗化の進行によってどのような機能変容を遂げているのかについて考察が加えられる。それは一方で、キリスト教系の学校のみならず、ヒンドゥー教やユダヤ教といった少数派の学校も設立されるにいたった結果、学校が宗教的に多元化したことが挙げられる。イスラーム学校は、それを象徴する最も大きな出来事であったが、しかし他方において、キリスト教徒の人口比率は軒並み減少傾向にあり、学校選択の基準においても、宗教はもはや大きな意味をなさなくなっているという傾向が見られると指摘される。
第3章では、ベルギーの公教育史において宗教がどのように位置づけられたのかを論述する。ベルギーにおいても、オランダと同時期に、類似したアクターによって学校闘争が繰り広げられた。またこの国で展開された闘争もオランダと同様、結果的に宗教勢力が「勝利」した。ここで、筆者はオランダとの相違点を指摘する。第一に、宗教陣営の構成員が異なっていた。オランダの宗教陣営がカルヴァン派とカトリックの連立によって構成されていたのに対して、ベルギーのそれはカトリック単独によるものであった。第二に、闘争の終結時期の相違である。オランダの学校闘争は1917年の憲法改定をもって終止符が打たれたとされているが、ベルギーのそれは第二次世界大戦後に再び展開され、1958年に「学校憲章」という合意文書が交わされたことによってようやく終結したのであった。
この章では、こうしたオランダとの類似点や相違点も意識しながら、ベルギーにおける学校闘争の争点とその経緯が明らかにされる。そのうえで、闘争を終結させた学校憲章で合意されていた内容を具体的に検証している。この内容の一部は、のちに憲法の条項にも加えられた。具体的には、現在のベルギー憲法第24条に、公立学校において「義務教育の終了まで公認宗教の教育および非宗派的モラル教育の選択を提供する」ことが明記されている。公認宗教とは19世紀以来、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教とされ、それに非宗派的モラル教育が並列されていた。現代におけるベルギーの公立学校では、イスラームと正教会が20世紀後半になって公認宗教に加わったことで、宗教の多元化がさらに進んだという点と、他方それに対して、ベルギーでもまた教会離れが進み、世俗化が顕著に進んでいる点とが指摘される。
第二部では、イスラーム教育の参入をめぐる比較考察が行われる。ここでは、以下の研究方法が取られている。まず、イスラーム教育をめぐる多様な論争を読み解き、イスラーム教育やムスリムの学びのありかたにかかわる諸課題が社会でどのように意識化されてきたのかを明らかにするために、両国の新聞や雑誌あるいはテレビ特集などのマスメディアを継続的に参照するという方法である。
メディアにおける表象のありようを探る一方で、当事者の意識を直接問う教育調査も実施されている。この調査とは具体的に、学校ならびに教育関連機関への訪問調査、宗教教育教員研修への参加、教師・子ども・親・政治家へのインタビューおよび質問票の提示などを含む。調査で入手したスクールガイド、教科書、カリキュラム、学校運営方針、教員研修で使われたレジュメなどが資料として用いられている。
第4章ではオランダにおけるイスラーム学校の設立運動の過程が考察される。イスラーム学校の設立に向けた取り組みが始まったのは、ムスリム移民コミュニティの間で1970年代から持ち上がっていた学校教育にかかわる問題意識がきっかけであった。ムスリム女生徒の着用するスカーフに対するいじめや無理解は、ムスリムの親が抱えていた不安や不満の一つであった。こうした感覚は、ムスリム移民が暮らす地区のモスクなどで交わされた会話によって共有され、徐々に自らが主体となった学校の設立を目指す運動体としてまとまりを見せ始める。運動体を誘導する重要な役割を果たしたのが、それぞれのモスクが基盤としているイスラーム組織であった。イスラーム組織は移民の出身国や民族などによって多様であり、組織間の相互交流は必ずしも活発ではなかったため、当初は異なる運動体が並存した状況にあった。だが単独の民族や国籍で構成されていた運動体は、イスラームという宗教を基盤としていないと見なされ、学校の設立が認可されないという問題にぶつかった。そこで運動体は次第に国籍や民族の枠を越えた協力関係を密にしていき、いよいよ1988年に初のイスラーム学校が設立されるにいたったのであった。それ以降、設立運動はオランダ全国に広がっていった。
続いて、設立運動にかかわった人びとの声を交えながら、この運動の背景とプロセスを追う。次いで、13校のイスラーム学校において実施した調査とそこで得た資料を中心にして、イスラーム学校における教育内容の特徴が詳しく分析される。また、親の学校参画を支える制度も着目されている。
さらに、オランダの政界や社会全体が、イスラーム学校をどのようなまなざしで捉えてきたのかを検証する。そこから明らかになったのは、イスラーム学校が設立されてから今現在にいたるまで、「分離」した教育空間でムスリムの子どもたちが学ぶことに対する問題点が指摘され続けてきたという事実である。これに加えて、9・11後、イスラーム学校におけるイスラーム教育の性質をめぐる問い直しの声が高まった。こうした状況の変化にともない、オランダでは近年、憲法第23条の再検討あるいは改定の是非をめぐる議論が巻き起こっている。基本的には現在の公教育構造が保持される方向性が打ち出されてはいる。しかし、学校の基盤となる思想を次第に宗教から教育哲学へと移行するといった案なども示されている。この案の説得性は、社会の世俗化によって、既存のキリスト教教育やキリスト教系の学校の存在意義が問われているという事実にも支えられている。
第5章では、ベルギーの公立学校に導入されたイスラーム教育が考察される。まず、イスラーム教育がムスリム移民の帰国を想定したものから、1980年代半ば以降、諸状況や政府の認識が変容するなかで、ベルギーの公教育としての性質を次第にともなうようになるプロセスが明らかにされる。具体的には、宗教教育の実施にかかわる業務を担当するイスラーム代表組織が、どのような経緯から設立されたのかをふりかえる。オランダと同様、ベルギーにおいてもイスラーム組織間の交流は当初それほど積極的に展開されていたわけではなかった。しかし、イスラーム教育の制度化という共通の目的に向かって進められた代表組織の創設は、結果的に各イスラーム組織を一つのまとまりへと集結させることになったのである。
続いて、ベルギーの公立学校におけるイスラーム教育の内容と特徴を掘り下げて分析する。具体的にはベルギーの公立学校における宗教教育をめぐって近年提起されてきた意見と、それを契機として生まれてきた試みを取り上げている。提起された意見とは、世俗化と宗教の多様化が進んでいるという近況を受けて、教室の壁を隔てた宗教教育ではなく、宗教事象を扱う統一的な教育へと徐々に移行すべきというものである。ただしこれを進めていくにあたっては、憲法第24条ならびに関連法規に抵触する恐れがある。また、既存の宗教教育関係者たちが、この意見に対して反対の意を表し、あくまでも各々の信仰をもとにしたカリキュラムを保持しつつ、授業における宗教間対話を進めていくためのガイドラインを作成したことが指摘される。一連の分析から、見原氏は、イスラーム的規範が、一方ではイスラーム教育の実施というかたちで保持され、他方ではスカーフ着用の禁止によって排除されているという矛盾を衝いている。
以上の各国別の分析を踏まえて、第6章では比較考察に取り組む。まず、両国で発展した強力なキリスト教民主主義勢力の理念に注目し、この政治勢力が公教育において守ってきた信仰に基づく教育とその特徴を確認する。キリスト教の政治勢力によって導かれた公教育制度が確立したという事実は、すなわち、国民教育の場としての学校に宗教的な要素が入り込むことを意味する。これは、宗教的アイデンティティが、オランダあるいはベルギーの国民像の一要素として構成されうるということでもある。こうした両国の公教育における共通点を確認したのち、今度は両国のイスラーム教育が異なる実施条件において用意されたことの制度的理由が解明される。つまるところ、オランダでイスラーム学校が発展したのは、学校の開設が承認された場合に必要となる校舎や設備などが提供されるという、学校設置に対して広く開かれた制度が、憲法第23条と関連法規に支えられて存在していたからである。他方、ベルギーでイスラーム教育が体系的に実施されるにいたった理由は、1959年の教育憲章での合意事項およびそれが憲法第24条に加えられたことで、公認された宗教・非宗派的モラル教育が選択必修科目として設定されているためである。
オランダのイスラーム学校には、信仰のためのイスラーム教育を支える要素が豊富に盛り込まれている。礼拝の時間やスペースの設置、イスラームの性的倫理性の意味や役割の共有などを備えた空間を創造し、安定した教育空間を確保することによって、イスラーム学校は子どもたちの自己形成のための支援機能を果たしている。他方、多様性を包括する公立学校という場で実施されるベルギーのイスラーム教育は、他の宗教・思想グループと場を共有する機会が日常的に設けられるという特質を有している。このように特質が析出される。
さらに、こうしたそれぞれの特質のちがいからは、次のような論点が導きだされる。イスラーム教育が公的教育機関のどのような場で、またいかなる性質をもって展開されるべきであるのか。本章で筆者は、この問いをめぐってさらに比較分析を進め、近年の議論では両国とも、宗教の多様性に対して、「分離」ではなく「混合」した学びの空間を創出することをますます目指す傾向にあることを確認する。こうして試みられている試験的な「混合」プログラムについての検討がなされ、宗教の多元的な状況を最も有意義に発揮しうる/していくべきであるのが、倫理と道徳という領域であることを明らかにする。また、それが展開される場としては、完全な「混合」でもなく、かといって完全な「分離」でもない、そのいずれの特質をも併せもった空間の構築が求められるという結論が提示される。換言すれば、宗教的なアイデンティティの構築を含む安定的な自己形成が助成される場であるとともに、他の宗教グループと共に学び育つ環境としても充実した教育空間(宗教の時間以外は共に学ぶ、さらには宗教の時間の教室の壁も取り払った統一的な宗教教育の構築を実現する教育空間)の開発が重要な課題なのである。
最後に、近年、反イスラーム的な政策を最大のスローガンの一つとして展開し、結果的に支持を高めている極右政党の主張内容を解読することによって、イスラーム教育の廃止論やムスリムを直接的に排除しようとする見解を支える論理を引きあげ、イスラームフォビア言説の構成要素を考察する。
結論部分では、両国の国民/市民像がムスリムを包摂したかたちで多様化・多元化されるという、イスラーム教育の導入がもたらす社会的作用や、公的領域としての学校でのイスラーム教育が人間形成に果たす機能(ムスリムとしてのアイデンティティ形成など)が確認される。また、現在、オランダとベルギーでは、公的領域や公的教育機関における宗教的な多元性を保持し、そこに参入したイスラームを排除することなく、宗教間の対話を試みようとしているが、楽観はできないとされる。なぜなら、信仰に基づく教育やそれによって発達させうる宗教アイデンティティを保持することが広く認められてきたはずの両国においても、スカーフの着用がしばしば問題となるという事実があるからであり、宗教間対話という試みの考察のためにも、西欧諸国におけるイスラームフォビアという宗教差別をさらに掘り下げて検証することが必要であると、課題が提示される。

三 本論文の成果と問題点

本論文の第一の成果は、異なる宗教間の対話の可能性と課題を明らかにしたことである。
筆者は、オランダとベルギーにおける宗教間対話の可能性を検討し、宗教が混合された教育環境の構築を両国がいずれも目指していることを突き止めた。さらにアムステルダムの「開かれた広域学校」と呼ばれる実験的な事例を探し出し、宗教間の対話を目指す異文化間教育の実験としてその可能性と課題を分析している。同一地区の小規模校が学校空間を共有するこの試みは、イスラーム学校と非イスラーム学校とが運営基盤やカリキュラムを独自に保持しつつ、一つの校舎で学校空間を共有するというものである。本論文は、異なる宗教間の対話の構築という観点から、異なる宗教の共存をめぐる研究の国際的な進展に貢献するものである。
 第二の成果は、比較教育研究によって、オランダとベルギーの公教育におけるイスラーム教育の特徴を解明し、イスラーム教育の二つのモデルを析出することに成功したことである。比較教育学研究は、外国教育(学)研究を含み、ある外国の教育学や教育状況をめぐるものが多い。だが、教育政策や改革さらには教育問題をめぐる国家間などの比較により、教育の政策や改革の底流を析出する研究や教育問題の解決に貢献する研究、さらには、対象地域における人の育ちの特質を抽出し、当該地域社会の解明に貢献する研究が、少ないながらも存在する。見原氏の論文はこの後者に属するもので、オランダとベルギーの公教育におけるイスラーム教育の実態を詳細に解明し、共通点と相違点を洗い出した上で、さらに、相違点がなぜ生じたかを問うことによって、両国の公教育構造の基底をなす教育と宗教との関係の特徴を浮上させることができた。本論文は、ヨーロッパのイスラーム教育に関する国内の研究の発展に大いに貢献するばかりでなく、教育と宗教との関係をめぐる研究の論点と歴史的文脈を整理し、内外における当該分野の研究の進展に資するものである。
 第二の成果をあげることができたのは、比較研究に歴史的アプローチを組み込んだことによる。そうすることによって本論文は、公教育における宗教の位置づけが多様な政治勢力のせめぎあいによるものであることを解き明かした。オランダとベルギーを事例に、政治勢力がどのような背景からイスラーム教育の意義を理解していたのかを明らかにしたことは、イスラーム教育の公教育における位置づけをめぐる問題の深い解読を可能にした。
 以上を踏まえれば、見原論文は比較教育研究の成功事例であるといえよう。上記の第一の成果も、比較を織り込んだ研究枠組みによるものである。
第三の成果は、論文の準備過程において実施した多くの多様なインタビューと資料収集にかかわっている。見原氏は、政治や宗教の多数の指導者にインタビューを実施し、その発言を論文において採録している。メディアの資料も丹念に収集した。これらは、見原氏の高い語学力と入念な準備のなせる業であり、公教育における宗教の位置づけ、特にイスラーム教育について、政治家や宗教関係者、メディアによってどのように捉えられていたかの記録である。これらのインタビュー記録等は、宗教教育をめぐる歴史的・地域的文脈を踏まえた証言の蓄積として重要である。
しかし、問題がないわけではない。公教育に宗教教育を位置づけるアクターとその思想の解明には成功しているが、ヨーロッパ社会において人が生きるうえでの宗教の意味に、深く切り込んでいるわけではない。この点をめぐる理論的、実証的な研究の蓄積を十分に踏まえたならば、もっと重厚な作品になったであろう。人の育ちに対して宗教がどのような役割を担っていたかを、政治過程・政策課題として浮上させることは重要だが、そればかりでなく、人々の生活のいとなみのなかから読み取ることも必要である。筆者は、教育と宗教との関係を解読するために近代教育の成立期までさかのぼっており、こうした生活史的側面をも本格的に追ったならば、人間形成と宗教との関係をめぐる記述がいっそう厚みを増したであろう。筆者は、生活世界における人の育ちにとっての宗教の今日的な意味については考察しているので、上記の点は惜しまれる。
論文からは、宗教と教育との関係という切り口からの近代教育の再検討という意気込みが感じられ、宗教多元主義からみたライシテの評価にかかわる議論への踏み込みが期待される。筆者は、フランスとの比較を織り込みつつ、宗教を公教育に位置づけ、アイデンティティの揺らぎの問題の解決をはかるオランダとベルギーの戦略を論じている。しかし、同じヨーロッパにありながら宗教と教育との関係のあり方がオランダとベルギーとは対照的なフランスについての本格的な検討は、今後にゆだねられている。筆者はすでに近代教育の再検討のための研究基盤の整理にとりかかっているので、宗教多元主義のもとでの教育の世俗化の根本的な考察など、宗教と教育との関係を踏まえた近代教育の再検討についていま少し意識的に展開できたのではないかと思われ、やや物足りなさを感じてしまう。
だが、これらの問題点は、論文の成果を損なうものではない。また、筆者自身、これらの問題点を自覚しており、彼女の力量と問題関心から判断すれば、今後の研究においてそれらを克服してくれるものと思われる。
以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したことを認め、見原礼子氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2007年7月11日

2007年6月12日、学位論文提出者見原礼子氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「公教育における宗教の多様性と対話―オランダとベルギーのイスラーム教育をめぐる比較研究―」に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、見原礼子氏はいずれも十分な説明を与えた。
以上により、審査員一同は見原礼子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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