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博士論文審査要旨

論文題目:近世大名家における権力編成と「御家」意識
著者:佐藤 宏之 (SATO, Hiroyuki)
論文審査委員:若尾 政希、渡辺 尚志、田﨑 宣義

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1、本論文の構成

 本論文は、日本近世の大名家が、「御家」をいかに存続させ続けるかという課題に対して、どのように対処していったのかについて、一つの大名家、越後松平家(改易され、のち津山松平家として再興。以下、「越後松平家・津山松平家」と表記)を取り上げ、明治維新後まで二百数十年にわたり追跡したものである。
 本論文の構成は以下のとおりである。

序章―「藩」・大名研究の成果と課題―
 はじめに
 第一節 「藩」・大名研究の現状
 第二節 「藩」・大名研究の画期
 第三節 「藩」・大名研究の課題
 第四節 「藩」・大名研究の展望
 第五節 分析対象の概観
 第六節 研究の課題と構成
第一章 越後騒動とはなにか―分限帳の分析から―
 はじめに
 第一節 家臣団の構成の変化にみる越後騒動
 第二節 津山藩再興と幕府政治
 おわりに
第二章 近世「大名預」と「御家」・大名親族集団―越後騒動を事例に―
 はじめに
 第一節 越後騒動の第一審―「大名預」―
 第二節 越後騒動の第二審―「大名預」と遠島―
 おわりに
補論1 近世「預」考―『徳川実紀』における数量的考察―

第三章 大名改易における藩領処理―城引き渡し時の文書作成―
 はじめに
 第一節 家産の文書化
 第二節 城引き渡し時の文書作成
 おわりに
補論2 大名家文書の史料論―史料論における「公文書」研究の展望―

第四章 在番大名の支配構造―越後高田在番時代を素材に―
 第一節 在番時代の概要
 第二節 在番大名相馬家と秋田家
 おわりに
第五章 大名家家臣団の再編成とその構造
 はじめに
 第一節 家臣団の再編成過程とその特質
 第二節 家臣団編成の諸段階とその構造
 おわりに
第六章 近世大名の無嗣逝去と藩の対応―五万石の減知と山中一揆―
 はじめに
 第一節 二代藩主浅五郎の急逝と五万石の減知
 第二節 山中一揆の発生
 第三節 家臣数の削減と組織の改編
 おわりに
第七章 第一一代将軍徳川家斉の子女縁組と大名
 はじめに
 第一節 第一一代将軍徳川家斉の子・銀之助の婿養子決定
 第二節 将軍の血の恩恵
 第三節 旧領復帰願いと家門・越前家認識
 おわりに
補論3 大名家を継ぐ―松代藩の家中騒動と養子相続―

第八章 一九世紀の政権交代と武家官位
 はじめに
 第一節 近世の津山藩主と官位
 第二節 松平慶倫の正四位下昇進一件
 第三節 「御一新後、初而」の武家官位叙任
 おわりに
第九章 ふたたび、越後騒動とはなにか―「御代始」の改易から教訓へ―
 はじめに
 第一節 「越後騒動」の階層構造
 第二節 「越後騒動物」を読む人びと
 第三節 読み継がれる越後騒動
 おわりに
補論4 近世書物の史料論

終章
 1 御家断絶の危機への対応
 2 津山松平家の権力編成
 3 大名改易論の再構築
 4 「御家騒動物」を媒介として広まる「御家」意識
 5 今後の課題

2、本論文の概要

 冒頭の序章において、著者は従来の「藩」研究・大名家をめぐる研究史を整理した上で、大名家が御家存続の危機にいかに対応したのかを明らかにすることを、本論文の課題として掲げ、具体的には、越後松平家・津山松平家を分析対象とする。なお、越後松平家・津山松平家とは、徳川家康の次男結城秀康が越前北庄(六八万石)に立藩したことに始まる。二代目松平忠直が豊後萩原に配流となり、幼い光長が家督を継ぐと、寛永元年(1624)幼年を理由に越後高田(二五万石)に減転封となる。家中騒動(越後騒動)が起き、延宝 9年(1681)五代将軍徳川綱吉の裁定により越後松平家は改易となり、光長は伊予松山へ配流となる。こうしていったんは消滅した大名家が、元禄11年(1698)に、美作津山一〇万石をあてがわれ、津山松平家として再興される。だが、享保11年(1726)には、二代藩主の松平浅五郎が跡継ぎを決めることなく死去(無嗣逝去)したため、五万石に減封された。その後、文化14年(1817)一一代将軍徳川家斉の第一四子銀之助(のちの斉民)を養子に迎えたことにより、五万石の加増を受け、十万石に復している。このように越後松平家・津山松平家の歴史を振り返ってみると、家中騒動・再興・無嗣逝去……、と常に時代の変わり目に養子問題が浮上しており、家をいかに存続させるかという課題が常に存在していた。その際、大名家はどのように権力編成を行っていたのか、家臣団の編成面と、その過程で現れる御家意識を剔出しようというのである。
 第一章では、越後高田藩の九種の『分限帳』を史料として、家臣団の構成的展開(家臣の役職や石高の変化等)を追跡することによって、藩の支配体制および家臣団内部の性格の変化に着目し、越後騒動とは何だったのか、考察する。さらに、越後高田藩改易から美作津山藩再興にいたる過程を分析することを通して、綱吉政権の性格の変化を検討する。それによって、越後騒動が、藩主にとって血縁関係にとらわれない支配機構への転換を目指す「御一門払い」の要素を含んでいたこと、徳川綱吉による越後騒動の親裁と津山松平家としての創出が、大名の「家」の自律性を否定し、新たに国家経営を担う機関として創出したものと意義づけた。
 第二章では、幕府裁決によって決定した「大名預」を素材に、従来概説的にしか論じられてこなかった「大名預」の実態を解明するとともに、「大名預」に果たした大名親族集団の役割を検討した。その結果、「大名預」は、大名家の救済としての性格と、刑罰としての性格の両面を有するものと位置づけられる。また、「大名預」が、大名および大名親族集団のヨコのつながりによって形作られる秩序によって実現される行為であったことがあきらかとなった。
 補論1では、江戸時代を通じてみられる「預」という行為全体を、『徳川実紀』・『続徳川実紀』をもとに180の事例を検討した。これによって、親族に預けられた預け人の場合、のちに赦免され、役職を与えられる事例が多いことから、親族に預けられた家は、のちに御家復活の可能性を有していたとの仮説を提示した。
 第三章では、大名改易・転封に伴う大名家家産のありよう、大名改易にはどのような手順が必要とされるのか、引き渡し・請け取りの対象となる大名の「家産」はどのように扱われたのか、という三つの課題を検討した。分析の結果、越後高田城の引き渡しは幕府が主導し、大名親族集団が城内の物品目録を作成していたことがわかった。いわば、家産が文書に記載されること(家産の文書化)によって、家産の分散・分配が行われており、そこで作成された文書が「公文書」として機能していたことを明らかにした。
 補論2では、近年の史料学・アーカイブズ学の進展を踏まえて、大名(藩)を対象とした史料(論)に関する研究を、その作成者(作成場所)、目的、機能などから類型化を行うとともに、「公文書」という概念を用いた史料論の可能性を提起する。
 第四章では、大名改易後の藩領を、幕府はどのように処理していくのか、それにかかわった在番大名の機能を検討する。これは、あるひとつの事柄にかかわる大名家の動きに注目し、大名家がいわば近世国家の一組織として機能している側面をあきらかにするものである。
 第五章では、新規に創出された大名家が、どのように家臣団を整備・確立したのか、その編成原理・構造・特質等を検討する。他の越前松平系の一門大名に家臣の割愛を依願・実現させることで「御家」の救済が図られ、これによって徳川将軍家の権力を支える徳川一門の「御家」の維持が図られた。また、津山松平家は、家臣団を、譜代・古参・新参といった新たな「家」編成の論理によって編成する一方、配置転換ルートの形成・職の専門化・旧藩主の家臣の登用などによって、その再編を推し進め、在地支配を行っていたことをあきらかにした。
 第六章では、近世大名の無嗣逝去とそれに伴う藩の対応を、こうした藩権力の弱体化を突いて起こった山中一揆との関係性を重視して検討した。五万石の減封で存続した津山松平家が、家臣数の削減や組織の改編を行うことによって、そうした状況に対応したことを具体的にあきらかにした。また、山中一揆を起こした農民の意識に着目し、一揆記録などの社会的機能やそこからみえる社会的意識の検討の必要性を提起した。
 第七章では、徳川家斉の子女縁組先と縁組を認めた大名家の関係を検討する。この縁組みにより、藩財政が圧迫して窮乏する藩がある一方で、家格の上昇や所領高の増加を願い出て成功させる藩がいたり、縁組みは、その後の大名家のありかたや権力構造などに大きな影響を与える。津山松平家は、いわば将軍家の血の流入によって、幕府からの経済的援助、官位の優遇、五万石の加増といった恩恵を蒙ったが、これまで均衡を保ってきた大名間の秩序が崩れため、家門・越前家認識の確認などが行われた。
 補論3では、松代藩真田家における養子相続の実現過程を、幕末の政治状況と関連させつつ検討する。これは、養子の問題を切り口に、藩主・家臣の相互関係の特質とその変化、全国的な政治動向が藩政に与えた規定性などに迫ろうとしたものである。
 第八章では、武家官位をめぐる将軍と大名、天皇と大名の関係がもつ政治的な意味・機能を問い直すため、大政奉還前後の武家官位叙任を検討し、ひとつの大名家の時期的段階差をあきらかにした。
 第九章では、越後騒動を物語化した「越後騒動物」の書物が、当時の社会に広く受容され、読み継がれていったことの歴史的な意味を考察した。具体的には、書物の伝来事情と系統の書誌学的検討、書物の世界と読者の関係性を検討し、越後騒動の歴史的位置とはなにか、あきらかにした。「越後騒動物」は、娯楽読み物として読み継がれる一方で、「家」を永続させるための教訓書とても読まれ、それによって、越後騒動が、「御代始」の改易から、人びとにとって教訓とすべき騒動と認識されるようになった。
 補論4では、近年の史料論のなかで、奥行きの深化が見られる書物を史料とする歴史研究を概観し、書物が社会でいかに機能したのか、それを取り結ぶ社会構造と社会変動を解明することの重要性を提起した。
 終章では、以上九章にわたってあきらかにした成果を整理するとともに、今後の課題をあげて、論文を締めくくっている。

3.本論文の成果と問題点

 本論文で、著者は、日本近世の大名家(改易されたものも含めて五四〇家にのぼる)を研究するときの「普遍の視角」として、いずれの大名家も「家をいかに維持・存続させるか」という課題をもった(持たざるを得なかった)存在であると意義づける。この視角を設定した上で、著者は、越後松平家・津山松平家が二百数十年にわたっていかに家を維持してきたのかを、津山松平家および諸大名家に残る膨大な史料を博捜することによって、明らかにしている。このような一つの大名家を徹底的に追跡した研究はこれまでなされたことがなく、これが本論文の成果の第一である。
 くわえて、著者が「普遍の視角」と意義づけたように、家の存続という課題はすべての大名家に通有の課題であったから、著者による越後松平家・津山松平家に関する研究は、一つの家の事例研究にとどまらない大きな意味をもつようになってくる。同家が経験した家中騒動・再興・無嗣逝去……、というような状況は(これほどの頻度ではないにしても)、他大名家でも経験していることであり、家存続のために同家が取った対応は、他大名家にも通じるものとして一般化することも可能である。この視角を設定することによって、それぞれの大名家がいかに家を存続させるために腐心したのか、その具体相を解明することができ、比較史的研究も可能となるであろう。このように研究史上の新しい地平を切り開いたこと、これが本論文の第二の成果である。
 越後騒動を素材とした「越後騒動物」と総称される物語群を研究の俎上に載せたことも、高く評価することができる。いわゆる御家騒動物語は、物語(フィクション)であるとしてながらく研究の対象となってこなかったが、著者は、現存が確認される「越後騒動物」の悉皆調査により、諸本の伝来事情と系統の書誌学的検討を行った。そして、「越後騒動物」が、家を永続させるための教訓書としても読まれたと意義づけた。これが本論文の第三の成果である。
 第四に、著者は大名家(および藩)の文書を、たんに歴史を叙述する史料と捉えるのではなく、それがいかに形成され、いかに保存されてきたのか、といった点までを含めて解明しようという姿勢をとっている。このような著者の議論は、大名家の史料論としてその最先端の仕事として意義づけることができる。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。まず大名家の史料論のなかで、著者は公文書政策という概念を用い、それが実現されたと主張しているが、公文書政策とは何であり、いつ実現されたのかについて、本論文の中で必ずしも十分に展開しきれていない。また、著者が使用する史料はほとんどが一次史料なので本論文の結論を左右するものではないが、『水野記』『八丈実記』『美作一覧記』といった物語化された記録の史料批判に物足りなさが散見される。
 ただし以上の問題点に関しては、著者も十分に自覚しており、本論文の意義をいささかも減ずるものではない。よって審査員一同は、本論文を学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものと評価し、佐藤宏之氏に、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

2007年7月11日

 2007年6月21日、学位請求論文提出者佐藤宏之氏についての最終試験を行った。
 本試験においては、審査員が提出論文『近世大名家における権力編成と「御家」意識」』について、逐一疑問点について説明を求めたのに対し、佐藤宏之氏はいずれも十分な説明を与えた。以上により、審査委員一同は、佐藤宏之氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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