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博士論文審査要旨

論文題目:幕藩制社会と闇斎学:元禄・享保期仙台藩を素材として
著者:李 喜馥 (LEE, Hee Bok)
論文審査委員:安丸良夫、糟谷憲一、渡辺尚志、森村敏己

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・ 論文の構成
 本論文の構成はつぎの通りである。

序にかえて
第1章 儒学の変容と諸教一致
 はじめに
 第1節 幕藩体制の教学と日本的な儒学の成立
 第2節 幕藩体制の国制と文化の特質 ― 日本的社会の成立 ―
 第3節 思想発展の法則と普遍・特殊性
 第4節 日本儒教の成立と闇斎学
 第5節 諸教一致 ― 日本的儒学の限界 ―
 小括
第2章 仙台藩の政治思想と儒教
 はじめに ― 黒住真の研究を通じて ―
 第1節 綱村藩政における儒学
 第2節 綱村藩政と仏教
 第3節 『成宗遺書』と三教共用
 第4節 吉村の三教共用と儒学観
 小括
第3章 闇斎学と仙台藩
 第1節 闇斎学(派)研究の現在 ― 田尻祐一郎の研究を通じて ―
 第2節 排仏論から神儒一致へ ― 闇斎学を手がかりとして ―
 第3節 幕藩制と朱子学 ― 遊佐木斎と室鳩巣との書簡往来を通じて ―
 第4節 仙台の闇斎学派
 小括
結語


・ 本論文の概要

 本論文は、近世日本社会において朱子学はいかに受容されまた変容したか、またその社会的思想的役割はなんであったかを問うものである。著者は第1章でこの間題についての研究史を整理し、第2章では仙台藩に即して政治権力と学問・思想のかかわりを具体的に捉らえ、第3章では山崎闇斎とその学統に即して朱子学の役割を分析している。

 第1章第1節では、まず近世朱子学を身分制秩序擁護の体制教学と規定した丸山真男氏の見解をとりあげ、それに尾藤正英氏の批判が対置される。尾藤氏によれば、封建的思惟としての朱子学と幕藩制社会の現実とのあいだには大きな乖離があって、そのために正統的朱子学は受容されず、より現実適応的な古学派、とりわけ徂徠学が日本的儒学として形成され発展した。しかしそのように考えると、「日本的儒学」における「日本的」とはなにかが問われねばならず、それは結局近世社会の特質を問うことに帰着する。第2節では、この問題が水林彪氏の国制史研究によって概観され、集権的支配と集団原理の優越のもとで個人や小集団にも分節化された位置と役割を与えている徂徠学をもって「近世的思惟 」と規定する、水林氏の見解が紹介される。この水林説は、尾藤説をふまえて徂徠学と「日本的社会」の特殊性を結びつけて理解するものだが、著者は、この見解を、「日本的社会」と日本的思惟の特殊性に捉われていて、その普遍性の契機を見失ったものと考えているように思われる。

 「思想発展の法則と普遍・特殊性」という大袈裟な表題の第3節は、実際には、丸山氏と尾藤氏の朱子学の捉らえ方を、東アジアの比較思想史的文脈のなかで再検討し、著者が純正な朱子学と考える闇斎学を、道徳的普遍主義として積極的に評価するための伏線としようとするものである。丸山氏と尾藤氏は、その見解の対照的な相違にもかかわらず、近世日本の朱子学を克服の対象として捉らえる点ではかえって共通しており、「両氏は論駁の対象とした特殊な思想を、近世朱子学に仮託して論じた」、とされる。

 第4節では、研究史をさかのぼって、栗田元次『江戸時代史』(1927年)がとりあげられる。同書は、江戸時代を武断主義から文治主義へと進む発展段階論で捉らえて、近世中期を文治政治期とし、それがまた国民文化の展開期だったとする。儒学の日本化は後者の重要な内実で、それはより具体的には儒学と神道との結びつきの進展、国体思想の確立という動向をさしている。著者によれば、こうした見解は、丸山・尾藤氏とはまったく異なった見解のように見えながら、日本思想の特殊性を強調する点ではかえって一致するところがあり、「そこには、日本人のアイデンティティを求める知識人の格闘のみが大きく光」っているという。源了圓氏の「実学史観」も、近代化論の立場から日本思想史の「目的合理性」の系譜を辿った日本特殊性論だとされる。

 第5節では、栗田氏の同じ書物によりながら、近世日本の国民文化の確立期には、儒学よりも仏教のほうがずっと優勢だったことが、教育や出版の実情にも触れながら指摘される。この点は、尾藤氏の最近の見解などにもつらなるもので、これを換言すれば、近世社会においては儒学者の活躍する場がいちじるしく制限されたものであるほかなかったということを意味するのである。

 「小括」では、以上の論点を要約したうえで、近世社会における朱子学受容の困難さにもかかわらず、それでもなお「近世社会の歴史と共に朱子学は普及していったのはなぜか」と問い、儒学者たちの挫折とその背景、そうした過程における彼等の言説の変化の究明という第2章・第3章の課題を設定している。

 第2章「はじめに」では、黒住真氏の「近世日本社会と儒学」という論文が主要な検討対象とされる。著者によれば、この論文は、中国と朝鮮では儒学が科挙制度を通じて官僚制度と礼楽制度に結びついて体制的に再生産されていたのに対し、そうしたシステムの欠如していた近世日本では、儒学は体制化の点で未成熟なためにかえって多様な形で存在し、庶民層への普及もみられたとする。またこうした体制のもとにおいては、神儒仏三教にはそれぞれにイデオロギー上の役割と社会的位置があり、三教の「棲み分け」によって近世の思想体制が構築されている。しかし、黒住氏のいうように、近世朱子学が「体制の中心部に位置することができなかった」とすれば、それを批判することの意義はどこにあるのだろうか、むしろ、「政治思想は、政治家の政治方針によって、十分変形しうるものである」から、「三教の思想体制を維持する(政治的)主体」を明かにしなければならない。こうして、伊達綱村・吉村を藩主とした元禄・享保期の仙台藩を事例として、政治権力と諸思想とのかかわりを具体的に分析するという第2章の課題が設定される。

 第1節では、仙台藩第4代藩主伊達綱村の藩政が儒学とのかかわりで跡づけられる。綱村は、親政初期には儒学への関心がつよく、儒学者大島良設を登用して儒学に基づく藩政を展開しようとした。城内に儒礼による先祖祭祀のための施設である祠堂を建設したことに、この時期の綱村の儒学への傾斜が表現されている。綱村のこうした儒学受容は、岳父でもある老中稲葉正則から厳戒されることとなったが、しかし綱村自身、やがて仏教への尊信をつよめ、儒学者の活躍する舞台は失われていく。そこで第2節では、綱村と仏教・仏僧とのかかわりが跡づけられる。綱村の仏教への関心は、1723年を境として顕著になるもので、大年寺の建設と黄檗宗の著名な僧侶たちへの尊信として具体化されていく。そして、この仏教への態度は、その死にさいして五代吉村への遺言となり、この遺言が吉村時代の藩政思想をも決定的に規定することとなった。

 第3節では、『成宗遺書』の影響を軸に、綱村の「三教共用」の特徴が論じられる。『成宗遺書』は、15世紀に伊達家12世成宗が書き残したもので、1679年に京都で発見され、綱村のもとへもたらされた。同書では、神代の神に伊達家の系譜を求めるとともに、神儒仏三教共用の政治思想が展開されている。『成宗遺書』は、理や五倫五常などの概念においては朱子学に一致するが、君主が理想的な師範を求めるという実践的な立場からは、綱村は禅宗の僧侶にその役割を期待した。またその神道観は、仏教と神道とを習合させた中世以来の両部神道で、仙台藩の神道儀礼は黄檗宗の僧侶によって中世的な神仏習合の様式でおこなわれた。

 第4節の主題は、第5代藩主吉村の藩政と儒仏関係である。吉村は、積極的な内政改革をおこなった「中興の英主」として知られるが、彼はその藩政の一環として藩士たちに意見書の提出を求めた。遠藤守伸の意見書は、儒学的仁政観の立場から吉村の藩政を批判するとともに、学校建設による学問奨励を力説したものであった。だが吉村は、藩士が儒学を学ぶことで儒者たちの発言力が増大することを警戒しており、藩政における藩主の主体性を重んじた。1736年には、儒学者たちの建議を採用して学問所が設立されたが、学校内での身分的差別の除去を主張して学問所のあり方を批判した芦東山は流罪に処せられた。他方で吉村は、藩内寺院を序列化して、寺院に高い格式を与えた。儒学者の活動する場としての学問所が設けられたこと、新藩主宗村の師範として田辺希文が用いられたことなどに、儒学者の発言権の増大が認められるが、全体としてみれば、吉村の儒学評価は否定的なもので、仏教の社会的地位が大きく、「吉村の政治思想には三教共用という姿勢は見出すことができなかった」。

 第3章は、第2章の分析をふまえて、綱村・吉村時代の仙台藩における儒学、具体的には著者が純粋な朱子学と考える闇斎学派の動向を主題とする。第1節と第2節はその前提となる考察で、第1節では、闇斎学派研究で最近大きな成果をあげた田尻祐一郎氏の見解が紹介される。田尻氏によれば、闇斎門下第1世代の佐藤直方・浅見絅斎には、それぞれ内実を異にしながらも、朱子学を特徴づける「封建的自然法思想」の追及が見られるが、門下第2世代は神道へ大きく傾斜して神秘化し、神国論を主張するようになる。さらにこうした神国論への傾斜は、闇斎学派を越えて近世中期に一般的に見られるもので、そこにイエを中核とした「日本的社会」の成立にともなってなぜ神国論が展開されることになったのか、「その原因を近世日本社会から検出することが課題となる」とのべて、次節の主題を提示している。

 第2節の主題は、山崎闇斎の前期思想を分析して、闇斎がなぜ神道を取りいれて神儒一致の垂加神道を唱えるに至ったかを明らかにすることである。闇斎ははじめ『闢異』において綱常の道を明らかにした朱子学を正学とし、仏教を異端として批判し排斥したのだが、現実の幕藩制社会においては、仏教は本末制度や寺檀制度を通してその支配体制に組み込まれており、闇斎の廃仏論は社会的有効性を欠いていた。こうして、「仏教を排斥して朱子学を普及しようとする朱子学受容の担い手にとっては、新しい工夫を(が)余儀なくされ」たのであり、この立場から『大和小学』において神道説が体系的に取り入れられ、神儒一致思想が展開された。著者は、近世後期の思想家山片蟠桃の「如在」説を援用して、闇斎は当時の人びとの好尚に従う必要から神道を取り入れたのであり、彼自身が神の実在を信じたのではないと考えており、きわめて特異な主張となっている。

 第3節では、ともに1658年に生まれ1734年に死んだ2人の儒者室鳩巣と遊佐木斎の元禄期の往復書簡が分析される。元禄時代には多くの儒書が渡来して儒学がこれまでになり盛況に達したのだが、しかしそれだからといって儒学が当代の支配的政治思想として受容されたというわけではなかった。こうした事実認識において2人の儒者は一致するのだが、鳩巣が幕府や藩において儒者が「儒員」として登用されることに儒学の可能性を見ているのに対して、木斎は「儒員」という制度に限定された儒者の活動に学問と実践の限界を見ていた。こうした著者の分析は、仙台藩の現実政治のなかで苦闘を強いられている闇斎学の儒者木斎の立場の独自性を強調しようとするものだといえる。

 第4節では、遊佐木斎門下の人びとの動向が、主として吉村時代の藩政とのかかわりで論じられる。佐久間洞岩は、木斎より年長の門人で、『仙府秘録』で藩政を痛烈に批判した。『東奥儒生説』では、日本の儒学の系譜を展望しながら、朱子学をもって真の儒学とし、闇斎学をその継承、木斎は闇斎学の正統だとした。ところで仙台藩に学問所が設立されると、木斎門下が登用されることとなったのだが、革新的な立場の芦東山は斥けられて流罪に処せられた。東山配流をめぐる経緯のなかに、著者は藩主吉村の政治思想を読み取って、第2章第4節の結論を儒学と藩政とのかかわりのなかで再確認している。そして、仙台藩主の政治思想と闇斎学の理念との「乖離」、それにもかかわらず学問所の指南役を独占することとなった、「現実と理想をわきまえた闇斎学派の現実認識」という評価をもって、本章の結論としている。

 「結語」は、各章の簡単な要約であるが、本論文の主張と先行研究との関係の「再吟味」をもって、「今後の課題」としている。


・ 本論文の成果と問題点

 本論文の成果は、つぎのようにまとめることができよう。

 ・従来の儒学史の研究が理念史的研究に局限されやすかったのに対し、藩政史のなかで儒学の位置と役割を具体的に分析するという新しい方法論的立場に基づいて研究を進めたこと。こうした研究に先蹤がないわけではないが、仙台藩は藩主の政治思想や仏教とのかかわりのなかで儒学の位置と意味を考察する素材として、史料が豊富で適切な対象であり、著者の論述は詳細で、数多くの興味深い事実を提示しているといえよう。・・の具体的側面であるが、第2章においては、『成宗遺書』とのかかわりで仙台藩主綱村・吉村の思想の独自性が捉えられており、藩権力の立場からの神儒仏三教へのかかわりが具体的に分析されている。こうした分析は、幕藩制権力の政治思想史的研究として積極的に評価できよう。・著者の見解は、山崎闇斎とその学統を純正な朱子学として、その社会的思想的役割を積極的に評価し、こうした評価を垂加神道の評価へも及ぼそうとするユニークなものであるが、この点については異論がありえよう。しかし著者は、中国社会で生まれた朱子学が、近世日本社会の現実に触れて変容しながらもその立場を貫こうと努める過程を、前期闇斎の思想からはじめてさまざまの次元で跡づけており、芦東山や佐久間洞岩が固持した批判的精神のなかに、自説の確認を見ているといえよう。現実社会との葛藤のなかから取りだされた、こうしたいわば儒学者的主体性の検証を、本論文はある程度まで実現しているといえよう。

 だが、著者の努力と成果にもかかわらず、本論文には問題点が少なくはない。・研究史整理にあたる第1章と具体的分析にあたる第2章、第3章とは、論理次元が異なっていて適切に結びついていない。また、第2章と第3章にも研究史的検討が含まれていて、研究史についての錯雑した叙述が多すぎる。・研究史整理に多くの頁を割いているせいもあって、数多くの課題設定がなされているが、その解答が明確でないばいがある。この点にもかかわって、論文全体の論理構成をもってはっきりさせる必要がある。・元禄・享保期の仙台藩を事例研究の対象としたこと自体は首肯できるが、そのことの意義ないし位置づけをまとめて説得的にのべる必要があろう。他藩の事例や近世後期との対照なども欠けている。・自説の特徴を際立たせようとして、史料や研究文献について必ずしも適切でない読解に陥っているばあいがある。・文献目録が添えられていない。

 だが、こうした問題点にもかかわらず、審査委員会は、本論文が幕藩制社会における闇斎学派の歴史的な位置と意味を具体的に解明すべく努力した意欲作であることを評価して、李喜馥氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1998年7月15日

 1998年6月22日、学位論文提出者李喜馥氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、提出論文「幕藩制社会と闇斎学 ― 元禄・享保期仙台藩を素材として ― 」に基づき、疑問点について審査委員が逐一説明を求めたのに対して、李氏は、いずれも適切な説明を行った。
 よって審査委員会は李喜馥氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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