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博士論文審査要旨

論文題目:「満洲事変」以前の間島における朝鮮人の国籍問題の展開
著者:許 春花 (XU, Chun Hua)
論文審査委員:糟谷 憲一、吉田 裕、坂元 ひろ子、田﨑 宣義

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1.本論文の構成

 本論文は、1920年代から「満洲事変」までの時期(1910~1931)における間島(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州)居住の朝鮮人の国籍問題について、中国・日本両国の政策の推移及びその中における朝鮮人の対応を総合的に究明しようとしたものであり、本文・参考文献目録・年表を併せて、400字詰原稿用紙換算で約660枚に及ぶ意欲的な労作である。
 その構成は次のとおりである。
序 論
第1章 間島における朝鮮人の国籍問題の浮上
 第1節  間島における朝鮮人
 第2節  清朝の民族同化政策
 第3節  「間島協約」、「満蒙条約」の締結と朝鮮人の管轄裁判権問題
 第4節 中国側の帰化奨励政策と日本側の朝鮮人帰化問題に対する「基本方針」
 小 括
第2章 1920年代から「満洲事変」以前における間島居住朝鮮人の国籍問題
 第1節  朝鮮人の国籍問題に対する日本政府の「基本方針」の動揺
第2節 中国側の朝鮮人帰化制限、禁止政策
 第3節  間島の特殊性と朝鮮人の帰化問題
 第4節  日本側の対応
 小 括
第3章 国籍問題に対する朝鮮人側の対応
 第1節  朝鮮人帰化者と非帰化者の意向
 第2節  朝鮮人自治運動と中国への帰化
 第3節  中国側の朝鮮人帰化政策と朝鮮人側の入籍運動
 第4節  日本側の朝鮮人国籍離脱許可及び取消に対する朝鮮人の反応
 小 括
結 論
参考文献
附録:間島朝鮮人関係年表

2.本論文の概要

 序論では、まず間島居住朝鮮人の国籍問題を検討する意義を、次のように述べている。「間島問題」とは間島の領有権問題と間島における朝鮮人問題とから構成されていたが、領有権問題が1909年の「間島に関する日清協約」(間島協約)によって中国の領土として解決をみた後、問題は主として朝鮮人問題として現れた。1910年の「韓国併合」によって日本が間島の朝鮮人も「日本臣民」として取り扱うと、中国側は朝鮮人が日本の侵略の手先になることを警戒して、朝鮮人を帰化させる同化政策を取り、朝鮮人の国籍問題が注目されるに至った。本論文では、とくに1920年代から「満洲事変」前までの日本・中国双方の間島朝鮮人国籍問題に対する政策及び朝鮮人の対応を検討することによって、間島朝鮮人国籍問題の歴史的経緯とその意義を明らかにしたい。
 ついで、間島朝鮮人の国籍問題をめぐる研究史が検討される。水野直樹「国籍をめぐる東アジア関係―植民地期朝鮮人国籍問題の位相」(2001年)は、日本政府の政策を具体的に検討したもので、植民地期朝鮮人の国籍問題に関する先駆的研究であるが、中国側の帰化政策と朝鮮人側の対応については言及していない。李盛煥『近代東アジアの政治力学―間島問題をめぐる日朝中関係の史的展開』(1991年)は、日本が朝鮮人の国籍変更を認めなかった背景と中国側が朝鮮人の帰化奨励政策を取った要因を明らかにした意義はあるが、日中両国の政策の変化及びその中での朝鮮人側の対応についてはまだ明らかにされていない。白榮勛『東アジア政治・外交史研究―「間島協約」と裁判管轄権』(2005年)は、1927年以後における中国側の在満朝鮮人に対する駆逐・圧迫事件と朝鮮人国籍問題との関連を検討し、朝鮮人側の対応及び日本側の対策樹立の動きを論じたが、日本側の各関係機関の対応については充分に明らかにされていない。中国の研究では、姜龍範『近代中朝日三国対間島朝鮮人的政策研究』(2000年)は、中国政府の朝鮮人帰化政策を明らかにしたが、1915年の「満蒙条約」までに限られている。千寿山・洪景蓮「「九・一八」事変前東北三省朝鮮人的入籍状況」(1995年)は、清朝末から「満洲事変」前の東三省における朝鮮人の帰化問題を論じたが、中国側の政策の検討にのみ限られている。
 筆者は、以上の研究動向を、資料的制約もあって、中国側の研究においては日本側の政策実態が検討されず、また日本側の研究においては中国側の政策実態が明らかにされていない、間島朝鮮人の国籍問題についてまとまった研究は今までないと総括している。それゆえ、本論文において間島朝鮮人の国籍問題について統合的な研究を行なうのは意義あることであると述べている。
 さらに、研究の方法としては、(1)中国の対間島朝鮮人帰化政策、(2)日本側の間島朝鮮人帰化権付与問題に対する政策、(3)日中両国の間島居住朝鮮人政策紛争のなかでの朝鮮人の対応の三側面にわたって検討する方法を取ると述べている。
 最後に、利用した史料について触れている。
 第1章では、朝鮮人の間島移住の開始から説き起こし、1910年代に間島朝鮮人の国籍問題が本格的に展開するに至った過程を検討している。
 第1節では、まず、1860年代以降に朝鮮人の間島移住が進んだこと、間島居住朝鮮人人口の推移が説明される。ついで、間島における土地所有について、1920年代の統計資料を用いて、(1)1929年末には朝鮮人が12万町歩、全耕地面積の55%を占め、年々増加の趨勢であった、(2)全朝鮮人農家5万8千余戸のうち34%(約2万戸)は小作農であり、地主は7%であるのに対し、全中国人農家9938戸のうち地主が45%であり、小作農は14%であったことを指摘する。これをもって、筆者は「間島全体を見る場合は、中国人地主対朝鮮人小作人という関係が支配的なものであった」としている。
 第2節では、1881年の「入籍令」に始まり、1890年の「辮髪易服令」、1909年の「大清国籍条例」とそれに基づく1910年の「間島朝鮮人入籍規則」に至るまでの、朝鮮人の帰化を求める清朝の政策を跡づけている。とくに地方長官である吉林東南路兵備道が制定した「間島朝鮮人入籍規則」については、吉林省延辺档案館所蔵史料の中より紹介し、入籍条件のうち在住年限が「大清国籍条例」の10年から5年に引き下げるなどの緩和策が取られたことを指摘し、日本の間島進入に危機感を抱いて朝鮮人を帰化させて管轄権を行使しようとしたものであると分析しているのは、重要である。
 第3節では、「満蒙条約」締結後に起こされた、間島朝鮮人に対して「間島協約」と「満蒙条約」のいずれを適用するかをめぐっての日中両国間の紛争を検討している。「間島協約」によって間島の雑居地に居住する朝鮮人は清国の法権に服すると定められたが、1915年5月に「二十一カ条の要求」に基づいて締結された「南満州東部内蒙古に関する条約(満蒙条約)」は、南満州における「日本臣民」の領事裁判権を確定した。日本側は満蒙条約の締結によって間島協約は消滅し、「日本臣民」たる間島朝鮮人にも満蒙条約によって領事裁判権が及ぶと主張した。これに対して、中国側は、間島協約は特殊的地域、特定人(朝鮮人)に関する条約であり、間島は南満州に属さない特殊地域であるために満蒙条約は間島朝鮮人には適用しないなどの理由で、間島協約の有効性を主張した。筆者は1915年9月から11月にかけての満蒙条約の間島適用をめぐる日中両国の対立を跡づけるとともに、同年9月以来、日本の間島総領事館は商埠地外(すなわち雑居地)居住の朝鮮人に対して警察権・裁判権を行使しようとしたが、中国側の抵抗により10月には行使不可能となった経緯を明らかにしている。
 第4節では、1910年代の間島における中国側の帰化奨励政策とこれに対する日本側の対応を検討している。まず、中国側の帰化奨励策については、(1)1912年11月の「中華民国国籍法」で帰化要件(在住5年以上、本国国籍喪失など)を定めたが、1916年には間島の諸県では、帰化者の公職への任用を禁じた「国籍法」第9条の規定にかかわらず、地方自治職員への被選挙権、県立学校校長・教員及び県行政機関職員となる権利を認めたこと、(2)延吉道尹公署・各県公署が帰化奨励政策を積極的に展開したこと、(3)服装を中国風に変えさせることや中国語教育を重視することなどの同化政策に腐心したこと、(4)選挙権を付与し、末端行政機関である社の長に任命するなどの懐柔政策を取ったことを、延辺档案館所蔵史料も用いて、具体的に明らかにしている。
 ついで、日本側の対応については、(1)1910年7月8日の閣議決定「併合処理方案」に基づいて、朝鮮人を「日本臣民」とし、国籍法の朝鮮施行まではその国籍離脱を認めないことを「基本方針」としたこと、(2)これに基づいて、中国側の帰化奨励政策に抗議する一方、学校や病院の設置、金融機関(朝鮮人民会金融部)の設置、牛疫予防策や雹害救済資金の撒布、朝鮮視察団の組織など、さまざまな懐柔策を実施したことを明らかにしている。筆者は、朝鮮人の中国への帰化は日本勢力の伸展上非常に不利であるから、朝鮮人を日本側に引き寄せるため、懐柔策を採る必要があったのであると論じている。
 第2章では、1920年代から「満洲事変」以前において、間島朝鮮人の国籍問題に対する日中両国の政策がどのように推移したかを検討している。
 第1節では、1920年以降、満洲及び間島の朝鮮人の中国への帰化を認めないという日本の「基本方針」に動揺が生じたことを、以下のような事例を挙げて明らかにしている。
(1)「間島出兵」(1920年10月)後の1921年1月に陸軍省は「対間島政策」という意見書を作成し、「満洲移住鮮人ニ対スル根本問題ノ解決」という項目で、帰化した朝鮮人は中国人として認め、その「不逞行為」については中国を責め、未帰化日本人は「新附ノ日本人」として、その取締は満蒙条約によって日本が行なうという意見を示した。
(2)1921年5月に奉天総領事赤塚正助が作成した意見書「在満朝鮮人問題」は、朝鮮人の満洲移住は好ましいことであり、朝鮮人の中国への帰化を黙認することは、土地所有権の便宜を与え、その発展を自由にするには上策であるとした。
(3)1923年11月に、朝鮮総督府の主催で、総督府各部局、外務省、関東庁、朝鮮軍参謀長、朝鮮憲兵司令官、関東憲兵隊長、満鉄理事、在満各地領事館領事などが参加して、第1回の「在満洲関係領事官打合会議」が朝鮮総督府中枢院で開催された。総督府内務局長大塚常三郎は、朝鮮人の国籍離脱を認めないのは国際の通義に反するものであり、帰化を認めないことによって土地所有権の獲得が不可能となって生活が安定できないことを理由にして、朝鮮人の国籍離脱を認めるのはやむを得ないという考えを示した。奉天総領事の船津辰一郎は大塚の意見に賛成したが、間島総領事の鈴木要太郎は日本の国籍があるから「不逞行動」を取締り、間島における治安も維持できるとして、帰化の問題は「現状ノ如ク曖昧ニシテ置ク」のがよいとの意見を述べた。会議参加者の意見は、船津に賛成するものと鈴木に賛成するものとに分かれた。結局、同会議では、国籍離脱は「国際ノ通義」に反することは認識しつつも、「不逞鮮人」取締の観点から、また在満朝鮮人を日本の満洲権益の拡大に利用するために、帰化権付与問題は決定されなかった。
 第2節では、1920年代、とくに1920年代後半に入ると、中国側は帰化奨励政策から帰化制限政策と朝鮮人駆逐政策に転じたとして、その政策転換の背景を論じ、帰化制限政策・駆逐政策の展開過程を明らかにしている。
 まず、政策転換の背景を政治的背景、経済的背景、社会的背景に分けて論じている。
 政治的背景としては、要約すれば、次の点を指摘している。
(1)1919年の五・四運動を契機に、日本の満蒙侵略政策に反対する「国権回復、利権回収」運動が広がり、その中で在満朝鮮人を日本の侵略政策の先駆であると認識するようになった。日本の満蒙侵略政策に対する警戒は、1920年代後半にいっそう強まり、朝鮮人を先駆とする認識も強まった。
(2)「間島出兵」後、朝鮮の抗日運動は拠点を間島から東辺道(奉天省)に移した。日本側は、1925年6月の「三矢協定」に示されるように、満洲軍閥政権を利用して抗日朝鮮人の弾圧を図った。中国側(軍閥政権)は朝鮮人を「日中外交問題の禍根」とみなして、迫害と駆逐政策を取った。
(3)1920年代の間島における朝鮮人共産主義運動は、張作霖軍閥政権を脅かすものであった。そのため、中国側はこれら朝鮮人の帰化については禁止政策を取った。
 経済的背景としては、中国の「国権回復、利権回収」運動の中で、日本が満蒙条約によって得た「土地商租権」が実際には実行することができない状態になったので、中国国籍も持つ帰化朝鮮人を土地買収・土地所有の手段として利用したこと、このために中国人は朝鮮人を「日本人の走狗」となったと判定したことを挙げている。
 社会的背景としては、打ち続く内乱、軍閥・官憲の苛斂誅求、飢饉などのために中国関内から満洲への移住が増大したこと(1924年の34万人から1929年の100万人へ)を挙げ、朝鮮人の満洲移住と帰化による土地所有権の獲得は中国人の生存を脅かすとみなされたことを指摘している。
次に、1927年9月に国民政府は「国土盗売厳禁訓令」を公布し、これを受けて東北政務委員会や吉林省政府・奉天省政府などが朝鮮人の土地所有権を制限、禁止するために多くの訓令・規則を相次いで発布したことを指摘している。
 さらに、奉天省では、1927年頃から帰化の請願に際して日本国籍離脱書の添付を求めたり、財産5万元以下の者には帰化を認めないとするなど、帰化を制限する政策を取り、1927年1月には朝鮮人農民を駆逐する訓令を発し、安東・臨江・寛甸などの各県では駆逐が実行されたことを指摘している。
第3節では、1927年から1931年における中国の間島朝鮮人政策を検討し、間島では朝鮮人をできるだけ帰化させ、中国の法権下に置く政策が取られたことを明らかにしている。
 そのなかでも注目すべきものの一つは、1930年6月に吉林省韓民委員会が東北最高行政会議に提出した「吉省対待韓民具体辦法」である。この「辦法」は吉林省の朝鮮人を間島4県とそれ以外の地域の朝鮮人に分けて取扱方法を綿密に論じていた。間島の朝鮮人についてはできる限り入籍させる。その他の地域の朝鮮人については、新たな移住者は原則としてこれを拒絶し、すでに居住している者のうち帰化者は「剪髪易服」させ、その子弟には中国式教育を受けさせる。未帰化者のうち土地所有者には帰化を勧め、応じない場合は土地を没収する。土地を所有せず、無職の者は一律に駆逐する。
 もう一つ注目すべきものは、1931年4月に延吉県政府が公布した「小作墾民辦法」である。これは、地主と朝鮮人小作農の農作物分配率を、従来の折半ないし「四六制」(地主六割、小作農四割)の小作刊行を改善して、「六四制」(地主四割、小作農六割)としようとするものであった。中国人地主の反対で、「地主ノ所得ハ半分以上ナルヲ得ズ」と後退させられたが、朝鮮人小作農を優遇しようとする政策を取ったことは、いかに朝鮮人を懐柔して日本の勢力から引き離そうとしたかを窺うことができるのではないかと、筆者は論じている。
 第3節の最後に、間島と奉天省の対朝鮮人帰化政策の違いの背景を検討している。その要点は、間島においては朝鮮人が多数を占め、これを駆逐することが不可能なために、帰化を得策として奨励しているが、奉天省では朝鮮人は少数であり、移住朝鮮人を日中国交を紛糾させるものとして歓迎しなかったということである。
 第4節は、中国側の朝鮮人圧迫・駆逐政策に対して日本側が取った対応を、次のように跡づけている。
(1)1928年4月に朝鮮総督府、外務省、拓殖局、関東庁、陸軍省、参謀本部等の関係当局による在満朝鮮人問題調査委員会が設置された。同委員会に出された「基礎案」には、国籍法を朝鮮に施行し、朝鮮人の外国への帰化を認める条項が含まれていた。この案に対して、朝鮮総督府は賛成の態度を示した。総督府は在満朝鮮人に関して中国と協定を結び、中国に帰化した朝鮮人には日本の国籍を離脱させ、二重国籍による紛糾の発生を防止すること、帰化朝鮮人中の「不逞鮮人」に対しては中国側が誠意ヲ持テ」取締まるようにさせることを主張した。これに対して外務省・拓殖局は、朝鮮人取締と間島における権益保持のために、朝鮮人への帰化権付与に反対した。
(2)1930年5月に拓務省(1929年6月設置)が在満朝鮮人に帰化権を付与する方針を決定したが、7月に小坂順造拓務次官の朝鮮・満洲視察後に中止が決定された。
(3)1930年5月に朝鮮人民族主義者・共産主義者による武装蜂起「間島五・三〇蜂起」が起きたのを受けて、間島の治安対策について検討するために、11月に朝鮮総督府、外務省、拓務省による「間島問題協議会」が設置された。1931年4月に、同協議会小委員会は中国側と結ぶべき「間島ニ関スル特殊協定」の案を決定したが、その中には朝鮮人に対して制限的帰化権を付与することが含まれた。これに対応して朝鮮総督府は、朝鮮人が総督府の許可を得て日本国籍離脱をすることができるとする「朝鮮国籍令案(制令)」を準備した。しかし、会議では小坂拓務次官・有田八郎外務省亜細亜局長から帰化権付与に反対する意見を述べ、朝鮮総督府の森岡警務局長も、朝鮮人が「帝国」から見離されると反発すると予測され、朝鮮における影響が心配なので保留すると述べた。結局、帰化権付与問題は「決否留保」となった。
(4)1931年7月に「万宝山事件」が起きると、中国側は「日中紛争の禍根」を絶つために朝鮮人の中国帰化の許可を要求したが、日本側は在満朝鮮人圧迫問題には他の原因もあるとして、これを拒絶した。
 以上の動向を踏まえて、日本は独立運動を取締り朝鮮統治の安定を図るために、また間島における勢力を維持するために、在満朝鮮人に帰化権を最後まで認めなかったのだと、筆者は論じている。
第3章は、国籍問題をめぐる日中両国の政策のもとで、間島朝鮮人・在満朝鮮人が取った対応が検討されている。
 第1節では、中国への帰化者と非帰化者に分けてその意向が分析されている。
 帰化者については、まず、(1)土地所有権を獲得するために帰化した者、(2)民族主義者、(3)移住経過した年月が久しい者、(4)中国の官職に就きたい者、(5)中国官憲の圧迫から逃れるためにやむを得ず帰化した者に、分類されるとしている。ついで、筆者は帰化は方便に過ぎず、日中双方を利用して自己の利益を図ろうとした者、日本側の「朝鮮人民会」に帰化者も加入していたことなどに基づいて、帰化朝鮮人が「二重性」を持っていたと論じている。さらに在満朝鮮人の知識人の間には中国への帰化は生活上やむを得ないことであるという発言する者もあったこと、親中国的朝鮮人には朝鮮人の帰化をさせることは中国にとって有利であると建言する者のあったこと、間島における親中国的朝鮮人の帰化勧誘運動を、明らかにしている。
 非帰化者については、まず、(1)親日派、(2)無産階級からなることを述べ、また民族的アイデンティティから帰化を拒否する者が多数いて、入籍者は1928年現在で14%に過ぎなかったとしている。さらに、帰化した朝鮮人が少ないのに、間島総耕作地の約半分を朝鮮人が所有できたのは、「佃民制」(帰化朝鮮人の名義で土地を購入し、出資者が分割占有する慣行)や「帰化執照」(帰化証明書)の売買によるものであったことを、説明している。
 第2節では、1923年以降に展開した間島の朝鮮人自治運動を検討している。
 1923年2月に龍井村にて朝鮮人崔昌浩が中国軍兵士に射殺された事件をきっかけとして、間島住民大会が開かれ、朝鮮人自治機関である「朝鮮民団」の設置を決議した。朝鮮人側は朝鮮人に対する行政、租税徴収等を民団に委任するなどの広汎な自治権を求めたが、延吉道尹は「民団」設立を許可しなかった。この後、朝鮮人の一部では、中国に帰化した上で朝鮮人自治を行うことをめざす運動が展開することになったとして、延吉道内に自治議事会を設立する運動(1923年4月)、「東省帰化民自治籌備会」の運動(1923年4月設立)を例として挙げている。また、1925年8月に和龍県の朝鮮人が朝鮮人だけの農会設立を求めて許可された事例については、中国側の朝鮮人懐柔策の一つではないかとしている。1930年3月に局子街の朝鮮人が中国人と同等の公民権を得るために「新華民会」を組織したが、子弟に中国式教育を受けさせるとしていることに見られるように、完全な親中国的団体であったと述べている。
第3節では、1920年代後半以降の中国側の朝鮮人圧迫駆逐政策に対応して、一部の朝鮮人が展開した帰化運動を検討している。
 まず、1927年12月に結成された「東北三省帰化韓僑同郷会」が1928年以降に帰化入籍運動を展開し、1929年4月には国民政府に代表を派遣して入籍手数料の免除、日本国籍離脱証明書提出の取消、入籍朝鮮人の公民権制限撤廃、朝鮮人学校の増設、農業資金の融資などを求めたことを述べ、間島においても韓僑同郷会によって入籍勧誘が行われ、1928~29年に1万6263名が入籍したことを明らかにしている。
ついで、間島における帰化後の公民権獲得運動と自治獲得運動について、1929年1月、1930年1月・9月と重ねられた韓僑同郷会間島墾民代表の吉林省当局の請願活動を中心にして、その経緯を明らかにしている。
 第4節では、日本政府内での朝鮮人帰化権付与の動きに対する朝鮮人の反応を検討し、次のような事例を明らかにしている。
(1)1925年6月の下岡朝鮮総督府政務総監の帰化権を認める発言が報道されると、吉林において発行されていた反日的朝鮮人の雑誌『同友』は、下岡発言は朝鮮に日本人を移住させて、朝鮮人を朝鮮から駆逐する目的からであると批判した。
(2)1930年5月に拓務省が帰化権付与方針を決定したのに対して、親日派の朴春琴は、中国に帰化する民族独立運動家の取締に不利である、帰化したときに中国が中国人と同等の権利を認めるかどうか疑問がある、帰化権付与は「日韓併合詔勅」に「民衆は朕が綏撫の下に立ちて其の康福を増進すべく」と示された明治天皇の「大御心」に反するとの理由で反対した。
(3)1930年7月の朝鮮人国籍離脱許可の取消に対して、1931年5月に満鉄社員であった金三民は『在満朝鮮人の窮状とその解決策』を発表し、朝鮮人に帰化の自由を与えること、在満朝鮮人への中国官民の圧迫への対策としては帰化権付与が必要だと強調した。
結論では、以上の3章を要約した上で、間島における朝鮮人国籍問題の特徴として、次の点を指摘している。
(1)奉天省と間島における中国側の朝鮮人帰化政策に違いがあった。また、間島における朝鮮人に対しては、日中両国はともに懐柔政策を取った。
(2)間島における朝鮮人の国籍離脱について、日本政府各関係機関の見解の違いがあり、統一できなかった。
(3)日中両国の間島朝鮮人帰化政策の下での朝鮮人の対応は多様化していった。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第1の成果は、1910年以降における間島朝鮮人に対する中国の帰化奨励政策について具体的に明らかにしたことである。とくに現地の地方官庁は、中央政府の定めたものより入籍条件を緩和し、帰化を促進しようとする志向を持っていたことを明らかにしたことは、政策展開の特徴、中国にとっての間島問題の重要性を理解するのに資するものであり、その意義は大きい。
 第2の成果は、日本が朝鮮人の国籍離脱を認めないことを「基本方針」としながら、1920年代には陸軍省・朝鮮総督府・一部在満領事官の間に帰化権付与を認める意見が出現し、
1928年以降には、結果的には制定に至らないものの、帰化権付与の具体策が立案されるに至ったことを明らかにし、これを「基本方針」の動揺と位置づけたことである。
 第3の成果は、1920年代後半において奉天省を中心に在満朝鮮人に対する帰化制限・駆逐政策が取られたのに対して、間島においてはできるだけ帰化させる政策が取られるという違いが見られたことを指摘し、地域的差異・間島の特殊性に注目する必要があることを明らかにしたことである。
 第4の成果は、日中両国の対間島朝鮮人政策の下で、間島の朝鮮人がさまざまな対応をとったことを明らかにしたこと、とくに帰化朝鮮人の帰化奨励運動や自治運動についても具体的に明らかにしたことである。
 第5の成果は、外務省記録、朝鮮総督府や間島総領事館の調査資料、新聞『間島新報』などの日本史料とともに、吉林省延辺档案館史料を含む中国史料を広く収集して、検討を加えており、このことによって新しい知見を得た点が多いことである。とくに日本においては延辺档案館史料を本格的に利用した最初の研究であることの意義は大きい。
 本論文の問題点は、第1に、1920年代における日本の「基本方針」の動揺過程について、意見対立の担い手の性格や対立が生じた要因の分析をいっそう掘り下げることが、課題として残されていることである。
 第2に、1920年代後半以降に生じた、中国側の対朝鮮人政策の地域的相違について、奉天省、間島、間島以外の吉林省を区別して政権側、日本人、朝鮮人の動向をさらに精密に検討して、より具体的に論ずる課題が残されていることである。
 第3に、上記の成果の第1点は、これまでアクセスが困難であった中国東北地方の文書館での長期にわたる調査によるところが大であるが、対象時期の中国語文献の解読には相当な時間を要し、今回は時間的余裕もなく、粗い読み方に終わっている。上記問題点の第2を解決する上でも、中国語文献の正確な解読が今後の課題となる。
 しかし、以上の3点は、本人も自覚しており、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2007年3月14日

 2007年2月27日、学位論文提出者許春花氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「「満洲事変」以前の間島における朝鮮人の国籍問題の展開」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、許春花氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は許春花氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

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