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博士論文審査要旨

論文題目:17世紀初頭(1600-25)イギリス東インド会社のアジア進出
著者:野村 正 (NOMURA, Tadashi)
論文審査委員:阪西 紀子、土肥 恒之、加藤 哲郎、谷口 晋吉

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Ⅰ 本論文の構成
 本論文は17世紀の第1・四半世紀のアジアにおいて、イギリス、オランダ、ポルトガルという当時のヨーロッパの有力3カ国が繰り広げた角逐と勢力浸透の様相を、主にイギリス東インド会社資料に基づき、同社の動向を中心として俯瞰し、分析したものである。
 本論文の構成は以下のとおりである。

まえがき
目次
用語と略称
地図

序章:時代背景と史料・先行研究
第一節:イギリス毛織物業の発展と東インド会社
第二節:初期東インド会社の史料と先行研究

第一部
第一章:会社設立と国王特許状
第一節:会社設立まで
第二節:出資者の増加とその構成変化
第三節:特許状の内容
第二章:「個別航海」期(1601-13年)の航海運営
第一節:第1期(1601-07年、第1-3次船隊)
第二節:第2期(1608-10年、第4-6次船隊)
第三節:第3期(1611-13年、第7-11次船隊)
第三章:「ジョイント・ストック」期(1614-25年)の航海運営
第一節:中間期における政策修正
第二節:第4期(1614-19年)
第三節:第5期(1620-25年)

第二部
第四章:事業の運営と収益――初期東インド会社の場合
第一節:トマス・マンの商品モデル
第二節:マン・モデルと実像の齟齬
第三節:配当金支払動向
第五章:主要進出先の商館活動
第一節:平戸(日本)商館
第二節:バンタム(インドネシア)商館
第三節:スーラット(インド)商館

結びにかえて
文献目録
参考資料

Ⅱ 本論文の概要
 序章第一節では、イギリス毛織物業と毛織物商人の生成発展を、14世紀におけるハンザ商人との対立にまでさかのぼって論じている。羊毛・毛織物業は中世以来のイギリスの伝統産業であり、毛織物商人は国内市場での販売に加えてヨーロッパ全域への輸出も行なっていた。その輸出関税を重要な財源としていたイギリス王室も、輸出の促進に格別の配慮を払った。しかし16世紀半ば、イギリス産毛織物の輸出は停滞期に入る。ロンドン市場から外国人商人を排除することで当面の苦境は切り抜けたが、新たな市場の開拓を迫られ、ポルトガルによって開かれた喜望峰回りでのアジアへの航路を利用し、中国、日本へ毛織物を輸出することが有望視されるに至った。また、帰り荷として胡椒、香料、生糸、絹などを持ち帰れば多額の収益が期待できる。これらは当時、すでにこの地域に進出していたオランダが行なっていたことでもあった。こうして毛織物商人たちは東インド会社の設立を1599年にエリザベス女王に願い出て、1600年末日にその許可を得た。
 序章第二節では、17世紀初頭のイギリス東インド会社に関わる史料の残存状況が論じられる。17世紀の第1・四半世紀は、会社資料の中心となるべき会社役員会議事録の逸失が最も激しい時期である。会社設立後150年を経て18世紀半ばに史料の整理保存が始められた時、総月数300ヶ月のうち111ヵ月分の議事録が失われていた。その要約が公文書集の一部として公刊されたのはさらに150年後だった。当時の東インド会社は、在外商館の館員や航海中の船隊幹部に報告書もしくは航海日誌の作成を義務付けていた。それらの文書も主要部分が保存され、その要約が公文書集として公刊されるとともに、さらに一部の人物の日誌については全文が公刊されている。
 東インド会社研究史の特徴として、史料の公開・公刊が遅かったため、本格的な成果が出始めたのが第二次世界大戦後であったことがある。特に17世紀の会社史については、在英のインド人研究者K.N.チョードリーの著作が重要であるが、主たる関心は同社の経営体としての組織の特色に向けられ、アジアでの活動にはあまり関心が払われていない。
 第一章では、会社設立に際して商人グループ間で思惑が交錯した模様が論じられる。設立を願い出てから許可を得るまでの1年の間に出資者の顔ぶれは大幅に変わり、染色仕上げまでの工程を手がける組合の主導の下に、マーチャント・アドヴェンチャラーと呼ばれた白地織物輸出商組合が合流し、出資者の層は厚くなった。しかしそれにもかかわらず、イギリス東インド会社の資本力は、オランダのそれに較べて極めて貧弱だった。
 第二章では当該期間の前半、1613年までの航海の経緯が論じられる。この期間は「個別航海」期と呼ばれた試行錯誤の時期で、12回に及ぶ航海は原則として航海ごとに出資金が募られ、航海ごとに収益が計算されて配当が実施された。第1回の航海は、往復に2年半を費やしたが、ジャワ島のバンタムに商館を開設し、全4隻が積荷を満載して帰港した。航海の成否は自然条件に左右されるとともに、船隊を指揮する司令官の能力にも大きく依存した。キャプテンという敬称をつけて呼ばれた彼らは、航海中は船隊を指揮し、寄航地に着けば国王親書を現地の代表者に手渡し、会社を代表して交渉に当たる権限を有していた。多数のキャプテンが航海中に病で死に、また成果を挙げた幾人かのキャプテンは、帰国後私貿易を理由として会社から排除された。この期間には£485,000の出資金が投入され、28隻の船が送り出され、そのうち6隻が海難で失われた。
 第三章は当該期間の後半、1614-25年の航海運営を概観する。この期間は「ジョイント・ストック」期と呼ばれ、出資金の募集と利益計算が、1航海単位から数年通算へと変更された。あわせて会社組織も変革され、会社は積極経営策に転じた。まず海外の商館網が強化され、派遣船舶が増強された。インド西岸のスーラット、同東岸のマリナパタム、インドシナ周辺、さらには最終目的であった日本への進出が試みられた。しかしその一方で、在外商館が望む人材、商品、資金の充実はほとんど実現しなかった。海外商館の権限強化のため新設された総支配人に任命されたキャプテンは、夫人の同伴を会社が認めなかったことを不満として帰国してしまった。また、主力商品である毛織物は、当初はもの珍しさもあって売れたが、上層階級の購入が一巡すると需要が冷え込んだ。例えば当時の日本では、高級品としての絹と日常一般衣料としての綿織物が普及しており、毛織物は敷物、馬の鞍などに用いられ、即座に衣料用には使われなかった。本社では、毛織物が正貨に代わる支払い手段となることを期待したが、行く先々で毛織物との物々交換は拒否された。一方、当時のイギリスは重商主義政策と金銀の不足から正貨の持ち出しを厳重に制限していたため、商館でも船隊でも正貨が不足し、帰路につく船隊に充分な積荷が積み込めないありさまだった。
 当時のバンタム商館長はこのような状況を打開するため、モルッカ海峡にイギリス独自の拠点を築き、高収益商品である香料の入手ルートを確立することを試みた。1614-17年に3度にわたり航海を強行したが、その都度オランダの守備隊によって退けられ、3度目に派遣した2隻は捕獲される結果となった。この間、この抗争を本国同士の間で解決すべく行なわれていた交渉は、1619年に英蘭平和条約として結実した。協定は両国が平等な立場で運営されることになっていたが、実際はオランダ主導の下に運営され、イギリス船はオランダ船の海上略奪に加担し、その代償としてオランダから売り渡される香料の価格は割高だった。この平和条約の有効期間は10年とされていたが、実際には2年で打ち切られ、さらに1623年にはモルッカ海域のイギリス商館員20名がオランダ守備兵に殺傷される事件が起こった。両国の関係は再び悪化し、この時以降イギリスはバンタム以遠地域の商館を閉鎖した。
 第四章では、当該期間の会社の運営状況を計数を用いて分析している。しかしながら、17世紀初期については業務、会計に関する資料がまったく残っていないため、同時代の経済学者トマス・マンの著書と会社資料に散見される断片的な数値を用いて、会社事業を商品の面から捉えることが試みられる。マンは1615年以来この会社の役員に選任されており、1621年に発表された著書の中で東インド貿易の明るい将来展望を描いた。マンのこのモデルでは、その時点ではまだ充分に実現していなかった香料、絹など高収益商品の輸入を織り込んでいたが、商品の仕入れ価格、販売価格などは現実の数値以内に抑えられており、その意味では実現可能な堅実な計画であった。しかし、前提条件である英蘭条約が条件どおりに実行されず、ペルシャ貿易も期待どおりには進まない中で、これが実現することはなかった。また、「個別航海」期と「ジョイント・ストック」期からそれぞれ3隻ずつを選んで、帰港の際の積荷の商品構成が分析されている。それによると、チョウジ、ニクズクなどの香料が積荷の過半を占めたのは1610年頃までで、その後は胡椒が主役となった。後に最重要となるインド産綿織物は、当該期間にはまだスマトラに運ばれ胡椒との交換商品として用いられていた。
 次いで、会社の配当金支払動向が分析される。当時の配当は概して著しく高率であり、また1613-18年に会社は100-300%の現物配当か、あるいは50%以下の現金配当かを株主の選択に委ねるという変則的な配当を行なった。このような高率配当はかつて、東インド会社が初期の段階から暴利を得ていた証拠であると主張された。しかし高率配当の主要な理由は、出資促進であり、特に現物高配当は、胡椒の国内価格を維持するための輸出促進策であったと考えるべきである。この時期、出港船が順調に帰港した結果、国内需要をはるかに上回る胡椒が持ち帰られたため、国内価格を維持するためにはそれらを輸出することが必要だった。余剰分を輸出に回すため、その手段を持っている商人株主たちには現物で高率の配当を行なったが、そうでない一般株主には低い率での現金配当が行なわれたと推測される。
 第五章では、主要な商館として平戸、バンタム、スーラットの3商館を取り上げ、それぞれの特徴と問題点が考察される。平戸商館は開設からわずか10年で閉鎖された。従来その理由として、1616年以降幕府がとった鎖国政策が大きく取り上げられがちであったが、毛織物の商品としての価値を過大評価した会社の誤算が根本にあったと考えられる。また、バンタム商館が機能を低下させれば、平戸商館のみで存続することも不可能であった。それに対してスーラット商館は、ポルトガルの牽制とイギリス側の対処の誤りから開設は遅れたものの、ムガル皇帝からの呼びかけで貿易を開始した。比較的早い段階で藍という独自商品の仕入れルートを得、また綿織物をスマトラで胡椒と交換する3国間貿易の途を開いたことで、商館として着実な出発を果たした。
 バンタム商館の活動については、すでに第三章で論じられているので、ここではオランダとイギリスの本国間の3回に及ぶ交渉過程に焦点が当てられる。イギリス本国、特に国王の対オランダ政策の基本的立場と商館の切迫感には大きな隔たりがあった。間に立つべきロンドン本社自体、本社と商館の間に人事交流のあったオランダ社に較べ、現地の事情に疎く、商館との意思疎通が十分ではないという問題点を抱えていた。3回の交渉の末、1619年に英蘭平和条約が結ばれたものの、イギリス社は不利な立場に置かれ、間もなくこれを打ち切ったことは前述のとおりである。そしてアンボイナでの商館員殺傷事件を契機として、イギリスの貿易の主流はバンタムからスーラットへと移行した。

Ⅲ 本論文の成果と問題点
本論文の第一の成果は、250年に渡るイギリス東インド会社の歴史のうち、近代的株式会社の確立やイギリスのインド支配に対する関心から取り上げられることの多い後の時代ではなく、その初期に対象を絞り、試行錯誤を繰り返しつつ会社が存続発展していく過程を、きわめて具体的に描き出したことである。
第二に、イギリス史あるいはインド史という枠組みの中で捉えられがちな会社の創成期を、進出先であるアジア3国(インド、インドネシア、日本)および同時期に進出していた他のヨーロッパ2国(ポルトガル、オランダ)との関係の中で多面的に捉え、それらの相互関係の歴史的・相対的な評価を可能にしたことである。
成果の第三として、当該時代の東インド会社の役員会議事録をはじめとする膨大な会社資料や航海記その他の同時代資料を丹念に読み、可能な限りの再構成を行なったことが挙げられる。また本論文の問題関心と問題設定はもとより、史資料の読解にあたっても、会社会計の計数的把握、ヨーロッパ人とアジア人の遭遇、本社(イギリス)と商館(現地)の意識のギャップなどについて、おそらくは論文提出者自身の長年にわたる内外での実務経験が生かされ、説得力のあるものになっている。
 以上のように、本論文は、基本的にはその成果を積極的に評価すべきものであるが、限界や問題点もないわけではない。第一に、対象を17世紀の第1・四半世紀に限定しているとはいえ、その後のイギリス東インド会社の歴史における重要なファクターのうち、当該時代にもその萌芽があったのではないかと考えられること、例えば、アジア商人との取引やアジア内貿易の実施やインドに対する政治的な支配への志向などについての目配りが不充分なことである。第二に、論文提出者が主な史料として用いた公刊会社資料は要約・編集されたものであることである。一部について原史料との比較対照を行なった結果、省略されているのは単純な報告事項などで、重要な審議事項の記録は全文が収録されている場合が多いことを確認したとのことではあるが、多少の不満は残る。第三に、論述が史資料の多寡に引きずられ、時には無用とも思われる長文の引用がなされるため、論旨が追いにくい箇所があることである。妻の帯同許可を求めて会社側に拒否されたキャプテンの例などは、それ自体興味深い事例ではあるが、紹介のみにとどまっているのは残念である。さらに考察や分析が加えられていたならば、論文に社会史的な厚みが増したであろう。
 しかし、このような問題点は論文提出者も自覚するところであり、史料の制約が大きいことは理解できる。当該テーマにおけるユニークな視点からの貴重な貢献であると思われるので、今後の研究の進展に期待したい。
 以上、審査員一同は、本論文が17世紀初頭のイギリス東インド会社の創成期をさまざまな側面から明らかにした意欲作であることを積極的に認め、野村正氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2007年2月14日

 2007年1月10日、学位請求論文提出者野村正氏の論文についての最終試験を行なった。
 試験においては、提出論文「17世紀初頭(1600-25)イギリス東インド会社のアジア進出」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、野村正氏はいずれも適切な説明を行なった。
 よって審査委員一同は、野村正氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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