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博士論文審査要旨

論文題目:近世ハプスブルク君主国における諸身分と国家形成―下オーストリアの事例を中心に―
著者:岩﨑 周一 (IWASAKI, Shuichi)
論文審査委員:土肥 恒之、阪西 紀子、森村 敏己、平子 友長

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本論文の構成
 近世ヨーロッパの約三世紀を伝統的な「身分制社会」の崩壊と近代的な「主権国家」の形成が一体として進行した独自の時期とする理解が定着してすでに久しいが、その成果は決して多くはない。本論文は、近世後期つまり三十年戦争後の17世紀半ばからほぼ1世紀に及ぶオーストリア・ハプスブルク君主国の「国家形成」を領邦諸身分との関係において明らかにしようとする試みである。著者はこの課題を地域としてはウィーンを含む「中核」領邦である下オーストリアに即して、方法としては国制・社会史的アプローチによって進めている。特に「地域に根ざした中間的自立権力」であるだけでなく、「中央における国家運営の担い手」でもあった貴族層の具体的なあり方、彼らの自意識並びに国家観の解明によって通説の批判に及んだ意欲的な好論文である。
目次は以下の通りである。

序章
 第1節 問題の所在と課題の設定
第2節 研究史整理
第3節 研究方法
第4節 史料
第5節 構成
第1章 Das Land Niederosterreich
第1節 地誌
第2節 土地と支配(社会経済的支配構造)
第3節 沿革
第2章 社会構造
第1節 宮廷と中央行政
第2節 教会
第3節 貴族
第4節 都市
第5節 農村
第3章 「英雄の時代」(1683―1740年)における君主と諸身分
第1節 諸身分と領邦議会―その類型・成立・権能・構成―
補説「租税なくして国家なし」―近世ハプスブルク君主国における財政問題         
第2節 対立・相互接近・協働―領邦議会における折衝―
第3節 ヘレン身分の活動主体
第4章 オーストリア継承戦争期における君主と諸身分
第1節 オーストリア継承戦争―勃発から終戦まで―
第2節 1741年の状況
第3節 1742-1747年
第4節 国制改革と領邦諸身分―1748年の租税協定に関する協議をめぐって
第5章 結論
別表
史料・参考文献

Ⅰ 本論文の要旨
 序章では、本論文の課題の設定と研究史の整理がおこなわれる。近世ハプスブルク君主国の歴史は大きく17世紀半ばで二分されるが、後半期にあっては絶対主義的方向が強まるという理解が一般的である。つまり三十年戦争初期におきた1620年の「ビーラー・ホラの戦い」以後、諸身分、特にその中核を形成していた貴族層は王権によって徐々に「馴致」されていった。ハプスブルク家は中世以来の諸身分との間の「二元主義」的関係を徐々に打ち破り、時間をかけて中央集権的な「絶対主義的」体制を確立していったとする見解が主流をなしている。これは「我が世襲領諸地域の衰微」の「主たる原因」を「諸身分が享受する、不適切に濫用され、かつあまりにも広大な自由」に見た「女帝」マリア・テレジアの『政治遺訓』(1750)にみられる状況認識とも呼応する見解である。だが著者はこのような通説的な理解に疑問を呈している。本論で詳しく示されるように諸身分は君主と対立と協働をくり返しながら、国家運営に「引き続き大きく関与していた」。対オスマン帝国(トルコ)との戦争をはじめ絶え間ない戦争を余儀なくされた君主側にとって「諸身分の協力」は依然として不可欠であったのであり、王権はその根底に潜む「中央集権的・絶対主義的志向」を抑制した。こうした理解に立つ著者は、ハプスブルク君主国の諸身分について、具体的に下オーストリア領邦を国制・社会史的視点から分析することを中心的な課題として設定する。
 第1章では下オーストリア領邦をその地誌的特質、社会経済的支配構造、そして領邦の沿革という三点について考察する。領邦内に都市ウィーンを擁する下オーストリアは君主国の「中核」で、内部の4地区はそれぞれが独特の風土的特色を持っていた。近世後期にこの地域は人口の顕著な増加をみせ、ワイン産業は衰退に向かったものの林業は重要性を増していた。聖俗の領主たちは所領経営に「大いに心を砕き、王権に依存する必要をもたないほどの財をなした」。他方で13世紀末にオーストリア支配を手にいれたハプスブルク家は、15世紀にはいるとフス戦争やオスマン帝国の脅威のために諸身分の財政的な援助に依存しなければならなかった。こうして年一回の領邦議会の開催が通例とされ、君主と諸身分との間に「協働の必要」が生じたのである。
 16世紀になるとルターの宗教改革の浸透、そしてカトリックの巻き返しによってハプスブルク君主国も大きく揺れたが、プロテスタント貴族の改宗・追放によって「抵抗勢力」はほぼ消滅した。下オーストリアでも1647年の時点で家門数にして78、人数にして約200のプロテスタント貴族がいたが、18世紀に入るまでに移住もしくは断絶によってほとんど姿を消した。こうしてカトリックという絆で王権と結ばれた貴族層が残ったのである。
 第2章では宮廷と中央行政、教会、貴族、都市そして農村、という5つのカテゴリーに即して下オーストリアの社会構造が分析される。「領邦首都」ウィーンが17世紀後半からは「帝国首都」となることによって、下オーストリアには「中核」としての性格が付与され、王権及び君主国との独特な結びつきをもたらした。また教会巡察などによる「再カトリック化」を強く推進することによって、王権は信仰を国家統合の要として活用した。イエズス会による厳格な教育によって育まれた敬神の意識は、やがて「神に選ばれたる王家」という意識、「ピエータス・アウストリアカ」の理念となって結実したのである。
 貴族層については、著者は「新諸侯」「宮廷参与貴族」「領邦貴族」「低位貴族」「外来貴族」に分けて、それぞれのあり方について詳しく検討する。結論として「社会的安定と自立の両立を目標として、最良のバランスを追及する」貴族層に共通の姿勢を確認している。例として著者は「領邦では宮廷を代表し、宮廷では領邦を代表しつつ国家の重要な官職を独占する」「宮廷参与貴族」ハラッハ家など多くの家門を取り上げ、豊富な事例でもって分析している。「帝国首都」ウィーンはその急速な拡大と繁栄にもかかわらず、都市としての自立性を失った。市参事会メンバーから富裕な市民層が消え、領邦君主の官僚がとって代わった。下オーストリアにおいて人口1万人以上の「大都市」は5つにすぎず、人口5千人以下の都市・市場町が大半であった。町の手工業者の法的地位は近世に入ると低下して、富裕な商人たちが市参事会員を担った。下オーストリアの農村について、著者は東ヨーロッパに広範にみられたグーツヘルシャフト(農場領主制)ではなく、「基本的にグルントヘルシャフト(地代領主制)寄りの中間地域」と性格づけている。賦役労働の量的拡大、租税の増額、新税の導入、営業活動への領主の干渉などによる経済生活の悪化に対して、村の農民たちは「ヴァイスチューマー」に拠って闘った。つまり「古き慣習」の尊重を求め、最終的には領邦政庁へ上訴することでこれに抵抗したのである。
 第3章では1683年のオスマン帝国軍による第二次ウィーン包囲からオーストリア継承戦争の勃発までの半世紀余りを対象として、下オーストリアの領邦議会における租税提供をめぐる君主と諸身分の折衝が細かく分析される。当時、戦費が徴収されるのは戦時のみであり、それを担うのは諸身分であったからである。ウィーン包囲は甚大な人的物的被害を齎し、租税提供問題こそ議会の最大の議題であった。著者はこの時期の領邦議会を六期に分けて、それぞれについて「対立」「相互接近」「協働」という観点から細かく分析している。「平和なき近世」にあって王権の求める租税要求に対して諸身分は「自由意志に基づく提供」という原則を維持して、粘り強く交渉した。議会はすべての身分が一同に会する総会と聖職者、ヘレン、リッター、都市の4身分団体が身分別に審議する部会からなる。この間王権はたえず妥協を強いられたが、多少長いパースペクティヴでみると、17世紀末を頂点として1712年までの緊張に満ちた対決の時期を経て、その後融和的な時期へと移行した。1720年の著名な「国事詔書」認可に際してなされた諸身分の提案に、著者は「一種の王朝敬愛心」を読みとる。また領邦政庁などの建物の内装にハプスブルクの世界支配を称揚する内容の絵画が現れたとして、「協働」という自説を補強している。この動向は1733年のポーランド継承戦争とその後も変わらなかった。結論として著者は君主と諸身分との間でさまざまな形で相互依存が進み、利害の共通性が高まったこと、つまり諸身分は徐々に君主国の安寧と自身及び領邦のそれを重ね合わせる思考を君主と共有するようになったと指摘している。
 補説では下オーストリアを離れて、まず近世国家の核をなす租税をめぐる思想をオーストリアの官房学者たちの著作に即して検討する。次いでハプスブルク君主国の歳入と歳出の個々の項目について具体的な数字を挙げて分析するとともに、租税行政つまり徴収業務についての細部を明らかにしている。
 第4章では、オーストリア継承戦争(1740-48)の時期における君主と諸身分の関係を領邦議会での租税提供をめぐる審議と結果から明らかにする。分析の手法は第3章と同じであるが、ここでも通説を批判する。この戦争によってマリア・テレジアはシュレージエンを失ったが、著者によると当時のハプスブルク君主国は解体の危機に直面したのであり、シュレージエンの喪失だけで終戦とすることが出来たのは、なによりも王権と諸身分の「協働」にあった。つまり戦争の期間を通して、下オーストリアの諸身分はハプスブルク家を支持したことを領邦議会の議事録の分析から明らかにしている。更に戦後に立案された「10万8000人の常備軍」の設立とそのための租税改革は、著者によるとこれまで指摘されたような諸身分の意義を失わせる「革命的」なものではなかった。諸身分による受諾が示唆するように、それはプロイセンという新たな脅威によって、王権と諸身分の「相補的・相互依存的関係が持続的に不可欠となった時代」の産物と解釈しなければならない。この点について、著者は具体的に「守旧派」の筆頭フリードリヒ・ハラッハの「抵抗」と解釈されていた「対案」の分析から明らかにしている。
 結論として、著者は近世下オーストリアにおける王権と諸身分が中近世の間に衝突と妥協を繰り返しつつも徐々に対立的な関係から融和的な相互接近の時期を経て、おおよそ1710年頃から協働的な関係を築くに至ったこと、オーストリア継承戦争における国家解体の危機も、両者の利害の一致に基づくこの関係を深めることで乗り切ったこと、その意味で戦争はハプスブルク君主国における「全体国家」形成の流れを促進したことを改めて強調している。1748/49年の国政改革はこうした背景のもとに実現したのであり、ハプスブルク君主国はこれによって近世ヨーロッパの新たな政治状況に対応しようとしたと結んでいる。

Ⅱ 本論文の成果と問題点
 本論文はウィーンの各種の古文書館に眠っている数多くの一次史料を駆使してオーストリア・ハプスブルク君主国の「国家形成」を諸身分との関係のなかで明らかにした実証的な論文であり、その成果は大きなものがある。
 第一に、著者は対象の時期を「英雄の時代」(1683-1740)と「オーストリア継承戦争期」(1740-48)に限定して、この間における下オーストリアの領邦諸身分と王権の関係を議会史料の徹底した分析によって、具体的に明らかにした。この間両者は租税提供とその額をめぐってたえず対立したが、同時に「協働」という側面を無視することは出来ないこと、特に1710年代からは後者の方に傾いたことである。つまりオスマン帝国の脅威をはじめ、相次ぐ対外戦争という国家解体の危機にあって、下オーストリアの諸身分は国家の安寧と領邦のそれを重ね合わせる思考を育んでいった。そうした領邦の自立性に対する強い意識とともに、「王朝敬愛心」との共存のシンボリックな事例として、著者は領邦政庁をはじめとする下オーストリア各地の公共建築物や修道院に、バロック形式の世界支配を称揚する内容の内装が施されるようになった点を挙げている。このような理解に立つことで初めて、オーストリア継承戦争期の度重なる租税提供並びに戦後の国政改革における常備軍費用の負担という問題も理解することが出来る。こうした一連の過程についての著者の分析と主張はきわめて具体的かつ説得的で、本論文の最大の成果とみなすことが出来るだろう。
 第二に、著者による諸身分、特に下オーストリアの高位貴族の出自と縁戚関係、そして国家行政職という経歴についての徹底した調査と解明は「中央における国家運営の担い手」としての諸身分という主張を具体的に裏付けるものとして高く評価できる。「新諸侯」のリヒテンシュタイン家とランベルク家、「宮廷参与貴族」のハラッハ家とシュタルヘムベルク家、「領邦貴族」のホーエンフェルト家とペルゲン家、そして「低位貴族」のなかから『篤農訓―貴族の地方生活』で知られるホーベルク家など著者が具体的に解明している貴族は十指に余る。こうした作業は決して容易でないと推測されるが、著者が主張する王権との「協働」はこの作業によって更に説得的なものとなったのである。
 第三に、支配身分たる貴族にだけ対象を絞るのではなく、教会、都市民、そして農民のあり方まで踏み込んだ、いわば国制・社会史的アプローチを採用している点も評価されて然るべきだろう。というのも諸身分が受諾した租税の増強は、結果として都市民と農民に転嫁されたのであり、大幅な増強は彼らの生活を脅かし、反発を招きかねなかったからである。著者は個別的に貴族たちの所領経営と収益について分析するとともに、ヴァイスチューマー史料に拠る農民たちの抵抗についても議論を進めている。その成果は必ずしも十分とはいえないが、問題へのアプローチの重要な第一歩であり、評価に値するだろう。
 以上のように本論文の成果は疑いないが、もとより不十分な点がないわけではない。一つは対象とした時期の性格という点である。本論文では王権と諸身分との関係が「対立」から「協働」へと重心を移動させたことを明らかにしたが、その過程は対象の時期後も続いている。そうであるならば、この時期の固有の意義は何か、また例えばプロイセンのように王権が諸身分の下にある臣民の生活まで介入するのはいつ頃と見るべきなのだろうか。この点は絶対主義の本質的な理解とも係わる点であり、より明確な指摘が望まれたところである。
 次に本論文は領邦議会でたえず「援助金と兵站」について議論されていたことを明らかにしたが、後者の兵站あるいは軍制については纏まった記述がない。そのため例えば「10万8千人の常備軍」という議論がいささか唐突な印象を残す。諸身分は具体的にどのように軍制に係わっていたのかが不分明であり、概説的にでもこの点について一節が設けられたならば、より説得的となったであろう。もとより以上のような問題点については著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のように審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、岩崎周一氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2007年2月14日

平成19年1月23日、学位論文提出者岩崎周一氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文「近世ハプスブルク君主国における諸身分と国家形成―下オーストリアの事例を中心に―」に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対して、岩崎周一氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は岩崎周一氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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