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博士論文審査要旨

論文題目:「情報」の経路としてのネイション―カナダ西岸先住民サーニッチにおける民族誌的「情報」と「現実」―
著者:渥美 一弥 (ATSUMI, Kazuya)
論文審査委員:岡崎 彰、大杉 高司、落合 一泰、貴堂 嘉之

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Ⅰ 本論文の構成
 「文化」や「伝統」という概念の持つ問題点が指摘されようになって久しいが、本論文はカナダ西岸のバンクーバー島南部に居住する先住民サーニッチの間での長期にわたるフィールドワークに基づき、このような概念の限界を指摘し、そのかわりに「情報」という概念を用いて、サーニッチの「現実」がいかに構築されていくか描こうと試みた民族誌的論考である。
 本論文の構成は以下の通りである。

序論
第1節 本論文の周辺
第2節 本論の構成図
第1章 「アイデンティティ」「文化」そして「情報」について
第1節 本論におけるアイデンティティについて
第2節 「文化」「伝統」という用語の限界
第3節 「文化」の現在とアイデンティティ
第4節 「文化」から「情報」へ-情報と「情報」
第5節 本論における「情報」について―SOIとROI
第2章 サーニッチの「現実」
第1節 本章における考察のきっかけとなった会話
第2節 サーニッチの歴史という「現実」―長老デイブ・エリオットによる民族史的「情報」
第3節「夢」について:その①-子供たち
第4節 ブリティッシュ=コロンビア州の博物館から与えられた先住民の「現実」
第5節 「生き残る知恵」-ポトラッチという「情報」の今日的意味について
第6節 夢について:その②-「カッカラーセン」と「カッカレーワン」
第7節 「先住民としてのサーニッチ」はいつ生まれるのか
第8節 サーニッチの現状
第9節 Pの事件
第10節 スナパナク
第3章 サーニッチのヴァーチャルな「現実」を構築する民族誌的「情報」
第1節 サーニッチの「月」の名
第2節 サーニッチの地名
第3節 センチョッセンによる個人名
第4章 スィョクゥェアム(燃やすこと)と「死」に関する「情報」
第1節 スディウィアレ(祈り)とマクゥァイーネレ(葬儀)
第2節 スィョクゥェアム(燃やすこと)
第3節 死とスピリットと親族名称
第5章 「情報」を過去形で伝えること―「リーフネット漁」に関する民族史的「情報」
第1節 神話の語りと過去形
第2節 サーニッチの神話 (起源神話)
第3節 サケと親族名称
第4節 サケと月の名
第5節 神話とリーフネットの説明
第6章 異種混淆の場としてのサーニッチのスウェット・ロッジにおける「情報」
第1節 スウェット・ロッジに関する基本的な情報
第2節 スウェット・ロッジを「造った日」と「行った日」の日記
第3節 サーニッチのスウェット・ロッジにおける「情報」
第4節 カナダ内陸の都市における服役者更正システムとしてのスウェット・ロッジ
第5節 スウェット・ロッジに対するサーニッチの人々の反応
第7章 センチョッセン教育における「情報」
第1節 同化教育からセンチョッセンのホームページ作成まで
第2節 現在の様子
第3節 トライバル・スクールの様子
第4節 ホームページ作成
第8章 ROIの発信の場としての美術
第1節 北西沿岸地域の美術に関する基本的「情報」
第2節 カナダ西岸先住民の芸術とユーロカナディアン
第3節 サーニッチにおける二人の芸術家の事例
結論
第1節 ROIという「情報」のシステム
第2節 「現実」と「情報」
第3節 民族誌的「情報」と民族史的「情報」
第4節 予感
参照文献


Ⅱ 本論文の概要
 序論では、まず、先住民サーニッチの「民族的」アイデンティティの現在について検討するという本論文の目的にとって、従来の理論にはどのような限界があり、それをとどう乗り越えようとしているかが簡潔に提示される。次に、著者とサーニッチとの出会いと定期的に続いている交流が述べられ、調査対象の歴史・地理的概要の記述、他の北西海岸先住民研究のレビューが続く。最後に、今日、調査・研究で先住民の協力を得ることが極めて困難な状況にあることが指摘され、本論の立場が従来の研究と異なることが表明される。
第一章は、「アイデンティティ」「文化」「伝統」「情報」といった本論の重要な概念に関する理論的考察の部分である。まずアイデンティティに関する議論では、「同化政策」がもたらすもの、とくにカナダのマイノリティーの場合に陥りがちであった問題点が指摘され、ユーロカナディアン政府が掲げる「理想」とサーニッチのような先住民の「現実」との乖離が検討される。次に、その議論をふまえて、「文化」や「伝統」という語の限界について文化人類学における現状が検討され、「文化」ではなく「情報」(および民族誌的「情報」)という語を本論で用いる意味が提示される。そして「文化」を「情報」という視点から捉えるとアイデンティティの問題がどうなるか考察され、「情報」がある集団を作り出しその集団に社会的位置づけをあたえること、また「文化」や「アイデンティティ」という概念自体が西洋の制度の中にあるということが指摘される。つまりこれらの語にはもはや限界があり、多様なローカルな状況に対応しきれなくなっていることが問題だとされる。次に、この「文化」から「情報」へという議論をさらに進め、「知識」ではなく「情報」という語を用いる理由として、その「文化」の「まとまった内容、有機的なつながり」を問題にするよりも「断片的」でも転送経路や転送のされ方を問題にすることができるようになること、そして、さらに、現代はこのような「情報」があふれた時代であり、その「情報」は、発信者の手から離れたとたんに発信者のコントロールからもはなれ、その情報を手に入れた受信者が再び新たなかたちをつくりあげていくという一連のプロセスが存在することが指摘される。そして、「文化」がすでに構築済みの「結果」として自明視されていることが批判され、その動態性が指摘されて久しいにもかかわらず、それをどのように認識していくのかはっきり提示できずにいる現状に対して、本論文では「文化」を「結果」として固定的に捉えないために「情報」という語を用いてその現象の生成・流通の過程を把握しようと試みるのである、と主張される。最後に、この点を論じるうえで「情報」を2種類に分類することの重要性が指摘される。一つは、送り手の意図に基づく「情報」であり、それを本論では、SOI(Sender Oriented Information) と呼ぶ。もう一つは、受け取る側によって積極的に創造される「情報」であり、本論では、それをROI(Receiver Oriented Information) と呼ぶ。
 第二章は、サーニッチの「現実」として本論が提示するものの背景に関する記述が中心となる。まずサーニッチの「歴史」の概略をヨーロッパ人との接触以降に限定して、口頭伝承で提示し、次にサーニッチの人々の間に流通する博物館の「情報」やポトラッチという慣習に関する「情報」を提示する。また、現在のサーニッチの学校で学ぶ生徒たちが書いた「夢」と、現在の長老たちが同じように「夢」という語を用いる場合に示される範囲の違いについて議論し、歴史を経た人々の「夢」という語に対するイメージの変化を指摘する。次に、現在起こっている問題とそれぞれの人々が自分で結び合わせていこうとしている民族誌的「情報」について様々な具体例を挙げている。例えば、サーニッチの社会に存在した階層制度についての民族誌的「情報」、スナパナクという行動規範などの民族誌的「情報」、ユーロカナディアンから受けた差別という「情報」等が、サーニッチの今を創りだしていると指摘する。さらにその「情報」の集積が「ネイション」という概念に強い影響を与え、これらの「情報」をストックし、ネイションという「情報」の集合体が出来上がると論じる。それは、いわば、先住民にとっての故郷となる。故郷とは、移り住んだ場所が快適な場合、遠く懐かしく思い出し、戻ってくる場所ではなくなるが、移り住んだ場所から拒絶された場合、故郷はなくてはならない場所となる。この拒絶された経験こそ民族誌的「情報」であり、アイデンティティの構築に向けた材料として用いていくエネルギーとなりうると論ずる。本章の背景にあるのはそのような社会的状況の中でサーニッチが「情報」によって創り出しつつあるヴァーチャルな故郷であると結んでいる。
 第三章は、サーニッチのヴァーチャルな「現実」を構築する民族誌的「情報」とその流通についての記述である。その具体例として、センチョッセン(サーニッチの古語)による月の名、地名、個人名をサーニッチの学校の生徒が使うテキストを参考にして、それらの現在における意味について検討している。サーニッチは、カナダ政府の同化政策のなか「サーニッチ」という先住民性を生き抜いてきたが、先住民として生き抜くとは、英語の名前がつけられた彼らの土地の名前、彼らの時間単位としての月の名、そして名づけられる意味ある存在としての個人に、センチョッセンでの呼び方を残しておくことであった。それらは、彼らの生活の中で「情報」という形となって生き残ってきた。ここで最も重要なことは、これらの「情報」がもはや長老や年長の女性たちによって日常生活で伝えられているわけではないということである。これらは受信者である彼らが積極的に求めていくことによって得られる情報であり、ROIの「情報」なのであると論じている。
 第四章では、「死」に関する儀礼について議論されている。まず実際の葬儀の詳細な記述があり、「燃やすこと」や「祈ること」の意味が述べられる。その民族誌的「情報」が各個人、とくに若者の行動に影響を与えている様子が描かれる。筆者はここで、確かにそれらの民族誌的「情報」が彼ら独自の世界観を創り上げるようにも見えると認める。ただし、筆者のような部外者から見れば明らかにサーニッチの「民族的」アイデンティティの要素ともみえるが、それらの行為や心情についての説明もないし、それらがサーニッチの独自性だという主張もサーニッチ自身はしなという。そして筆者は、この「死」を扱う作法を若者たちに伝えていく実践を通して、この異種混淆した葬儀のなかからサーニッチは、民族誌的「情報」を獲得し、ユーロカナディアン支配の「現実」を超え、センチョッセンを通じて、ヴァーチャルな「現実」として、祖先と結びつき、過去と結びつこうとしていると論じている。
 第五章では、民族誌的「情報」に用いられる時制の問題をとりあげ、集団に対する「想い」が如何に形成されるか検討される。しかしながら、それらの想いというのは、やはり「情報」の流通の仕方によって形成されていくと主張されている。この点で、「情報」を伝える文の時制が問題となる。民族誌における時制の問題は、「民族誌的現在時制」を中心に多くの人類学者によって議論されてきたが、現地の人々が如何なる時制を使って自らの「ネイション」としての「情報」を伝える(従来の表現を使えば「文化」を「語る」)のかという点については、看過される傾向にあったと指摘し、本章では、部外者から見た場合に用いる用語である民族誌的「情報」がどのような「時制」により、どのような流通の経路をたどっていくのかを見ていき、現地の人々がそのような(部外者の立場で言うところの)民族誌的「情報」を伝える時に用いる時制の働きについて考察している。具体的には、サーニッチのサケに関する語りや祖先が行っていた「リーフネット」と呼ばれる漁法に関する説明の「時制」に焦点を当て、サーニッチの人々の集団内における語りと外部に対する語りの違いをふまえながら、民族誌的「情報」を「実体」として捉える状況、言い換えれば「情報」をある「感情」に結びつけるプロセスは、いかにして生まれるのか考察される。リーフネットに関する「情報」が「過去形」で伝達されるのは、この漁法がカナダ政府から禁じられているためで、若い世代はリーフネット漁を実際に体験することができず、サーニッチの歴史として学ばなくてはならない。従って、それは、彼らの想像上の世界(ヴァーチャルな民族史的世界)に構築されていく可能性を示しているとされる。本章以降はこのように流通する過去形によって伝えられる「情報」を民族史的「情報」と呼ぶ。筆者は最後に、リーフネット漁の「情報」を意識的に「過去形」で伝えることは政府によって禁止されている「現在」を語ることであり、同時に、リーフネット漁を行なっていた「過去」を強力な「思い」に変えることであると述べる。そして、この民族史的「情報」は、それを獲得したサーニッチのある個人に、同じ過去形で語られる神話という民族史的「情報」も架空の物語ではなく、「実体」としての過去なのだと主張する力を与えるのであると論じる。
 第六章では、サーニッチがスウェット・ロッジという北米先住民の慣習に関する民族誌的「情報」をどのように受容し、アレンジし、構成していくのかを見ていく。「情報」という視点から捉えなおすと、それまでの「地域固有の文化」と「他地域の文化」という意識が希薄になり様々な異種混交が始まるプロセスが見えてくる。現在サーニッチの間で行われているスウェット・ロッジは1970年代にカナダ内陸の先住民からサーニッチの二人の人物が「情報」として輸入してきたものである。しかし、それは現在、サーニッチを舞台として近隣に住む先住民やユーロカナディアンの人々の間に定着している。そこで筆者は実際に参加したスウェット・ロッジを中心に紹介し、サーニッチのアイデンティティとの関係で、その現在の意味を考察している。
 第七章は、サーニッチの人々がそのアイデンティティのよりどころとするセンチョッセンという彼らの母語を、インターネットを用いて学ぶことができるようにする意図で創られたホーム・ページの完成までの記述である。1999年以降、サーニッチでホーム・ページ作成の作業が進んでいる様子を具体的に紹介している。ホーム・ページ作成には、それを発案した若きリーダー達と彼らに協力するヨーロッパ系カナダ人のコンピューター教師たち、そしてホーム・ページにサーニッチの言語を残そうと協力する長老たちや年長の女性達の存在がある。現代の「情報」発信源であるホーム・ページの持つ意味、「情報」の送り手としてのホーム・ページ制作者達と、彼らの送り出す「情報」から母語を学ぶことが期待されているサーニッチの若者たち、そして、ホーム・ページを見ることになると考えられる多くのカナダ人たちにとって、サーニッチのホーム・ページから得られる「情報」とは、どのような意味を持っているのかが考察されている。最後に、コンピューターから取り出すことができるこれらの「情報」が明らかにROIであること、民族史的「情報」は一定の形になった時点で「文化」と言われるようにもなれば、一定の時間が経過すると「伝統」にも見えてくるが、民族史的「情報」からある個人がサーニッチの外部に向けた全体的「イメージ」を創造することもありうると指摘される。その「情報」は、送り手の手から離れたとたんに送り手のコントロールからも離れ、その「情報」を手に入れた別の個人が再び新たなかたちをつくりあげていくというプロセスが進行し、それが繰り返されるが、そのプロセスや経路を、我々は「文化」や「伝統」と呼んで来た概念に依拠することによって、暗黙のうちに隠蔽してきたのであると筆者は主張する。
 そして、最後の第八章ではサーニッチを含むコースト・セイリッシュの美術を北米大陸北西沿岸先住民の美術の特徴と比較しながら、ユーロカナディアン社会で交渉していく二人の芸術家の事例を通じて、サーニッチの人々と美術を媒介としたユーロカナディアン社会との関係を考察している。たとえば、サーニッチでトーテム・ポールの彫刻家Cは、ボランティアとして、毎年10名前後のサーニッチの若者に「伝統的」彫刻を教えている。なかには、トーテム・ポールを建てる「伝統」がない地域からの若者も学びに来る。彼らはヴィクトリア市内のみやげ物店に並べられるような作品を作ることもあるが、地元に戻り観光客向けのトーテム・ポールを製作する場合もある。そして、元来トーテム・ポールを作った地域でもない観光地にもトーテム・ポールが並べられることになる。Cは、今でもサーニッチの指定居留地に生活しながら先住民の彫刻家として「コースト・セイリッシュの美術」復興に努めている。Cの例は、一人の人間が自らの「伝統」を博物館の「情報」から独力で学び取ったものが、やがて人から人へと日常生活の中で伝えられて、それが「他の文化圏」へも広がっていくことがあることを教えてくれる。それに対し、もう一人のChの場合はその技法やテーマをより狭い範囲に求め、より深く素材を求めていった結果、それが普遍的な広がりを見せ、アメリカ合衆国にまでその作品が知られるようになってきた。最後に筆者は、「文化」を「情報」と捉えなおすことの意味を再確認している。「文化」を語ろうとするとまず集団の均質性が暗示され、個人はその説明を補完するための一例として付け加えられるだけなのに対して「情報」という視点から同じ風景を眺めると、このように「情報」をつなぎ合わせ、新たに創造していく作業から浮かび上がってくるのは「個人」である。そのときに個人が拠り所とするのが個々の民族誌的「情報」であり、このようなROIの時代の「情報」発信者としての芸術家の事例が示そうとしているのは、ダイナミックに変化を生きぬき、創造し続けるプロセスなのだと主張される。
結論部で、筆者は、ROIという「情報」のシステムについてさらに考察を加えている。とくにこの「情報」において、発信者は受信者に対して優位に立つこともなければ、受信者の受け取った「情報」を修正することもできない点を重視している。また、高度に産業化された社会の一つであるカナダにおける情報流通パターンの主流も本論が提示するところのROIであるとし、SOIのみに依存する時代ではなくなりつつあるのは世界的な事情であると指摘する。次に筆者はサーニッチではこのような「情報」の集積が「ネイション」という概念に強い影響を与えていること、それが創り出しつつある「ヴァーチャルな故郷」を「現実」と呼んだことについて改めて強調している。即ち、これはユーロカナディアンが政治的に支配する現代カナダ社会から入場を拒絶された場合に必要な場所であり、支配側が「情報」によって構築する「現実」に対して、サーニッチ側も民族誌的「情報」を用いてヴァーチャルな「現実」をつくりあげ、あらゆる束縛からの自由を希求していると指摘する。続いて、筆者は民族誌的「情報」と民族史的「情報」の問題に立ち返り、部外者が民族誌的「情報」と見なす「神話」はサーニッチにとっては「歴史」上の事実の物語であるという主張の含意を考察し、ここに、外部の人間が発する「真性性」や「虚偽性」などの判断は入り込む余地がないのは、それらの「情報」は厳然とサーニッチの日常に存在し、サーニッチの現在の「現実」を構築しているからであるとする。そして、この「信念」こそ、現在サーニッチが行うあらゆる創造的活動(美術、土地の名の復興という主張、教育活動等)の源泉になっていると主張する。この意味でサーニッチの理解において最も重要なことは、サーニッチにとって単に歴史とは過去にあるものではないということであると言う。従って本論で用いた民族史的「情報」という語はサーニッチの未来に対しても用いることができると述べる。最後に筆者は、サーニッチの間の「情報」回路とは別個の「情報」回路として、人類学の「情報」回路について言及する。そしてこの二つの「情報」回路を互いに分離したものではなく、両者の間に「情報」を交換する回路を開いておかなければならないこと、そしてこの二つに、どう折り合いをつけさせるかが筆者のこれからの最大の課題となると述べる。そして調査の過程でも、個別のテーマについてサーニッチの人々と対話を行っていたが、筆者の得た理解の全体は必ずしもまだサーニッチに開示しているわけではなく、そのような全体的な対話が今後の課題となると本論を結んでいる。


Ⅲ 本論文の成果と問題点
 本論文の第一の成果は、長期にわたるサーニッチの人々との関係なくしては得られない貴重な「情報」が集められていることである。人類学的調査は近年、様々な理由で困難に直面しているが、北米先住民地域というとりわけ困難な状況で、このように長期にわたる調査を続けてこられたのは筆者の熱意と誠意のたまものというほかない。そして人類学とサーニッチの二つの「情報」回路を分離せずに開いておくという最後で示された課題も、単に倫理の問題として提起されているだけでなく、本論の中心的議論をあわせて考えると、重要で興味深い提起となっている。
 第二に、これまでの人類学で議論されてきた大きな理論的問題に正面からチャレンジしたことである。とくに「文化」を「情報」として捉えなおし、また情報をSOIとROIとに分けて考察することで、民族誌の対象社会だけでなく、より広く、現代の情報社会をROIの時代と捉えなおせるという主張は重要な提起といえよう。
 第三の成果としては、美術に関して、ROI 的情報の発信と流通の場としてとらえることで、「芸術作品」がその生まれた場所や時代とは別のところでも吟味されたり評価されたりするという現象がよりよく理解できるようになるという議論である。この議論を扱った第8章にはカラー写真の事例がふんだんに使われていて、この章だけでも「芸術人類学」への重要な貢献とみなしうる。
以上のように、本論文は、基本的にはその成果を積極的に評価すべきものであるが、限界や問題点もないわけではない。
第一点は、理論的議論の部分で、議論が不十分と思われるところが多々あったこと、特にもっとも中心的な「文化」「知識」「情報」に関する議論に様々な混乱がみられたことである。意欲的な面は評価すべきところがあるが、例えば「文化」の概念を批判しながらも、それを温存させているように思われるところが散見された。また「文化culture」という語をサーニッチ自身が使用しているという事実(これは口頭試問で明らかにされた)と筆者がそれを使用しないということのあいだにある問題が言及されていない点にも議論の不十分さが認められる。
第二点は、「情報」を「自由に」あつかう「個人」という点にこだわるあまり、例えば第4章の葬儀の記述と分析のように、説得力に欠け、議論の混乱が生じているような面が見受けられたことである。つまり、個人の意志とは別に「文化」が「身体化」されていく過程のようなケースが充分に問題化されていない。フリーハンドではない「情報」の側面、「個人」が「自由に」選択できないような「情報」の側面に対する分析に甘さがあり、それは論文全体の説得力を弱めているといわざるを得ない。例えば、最近のエージェンシー論を批判的に検討して、議論を深めるという方法もとって欲しかった。
第三のそして重要な問題点は、基本的な視点をサーニッチの「回復運動」的側面にもっぱら置いていたため、かれらの日常的な社会状況の記述が手薄になったという点である。そのため、彼らが個々に抱えている様々な具体的な問題、例えば、就職やアルコール問題、そして家族・親族関係の詳細がほとんど語られていないので、民族誌としては厚みに欠けるものになってしまっているといわざるをえない。
また文章表現にやや曖昧なところがあったのも残念なところである。
しかし、このような問題点は論文提出者も強く自覚するところであり、当該テーマにおけるユニークな視点からの貴重な貢献であることは明らかと思われるので、今後の研究の進展に期待したい。
以上の審査結果から、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、また困難な調査状況にも関わらず、問題点をさまざまな側面から明らかにした意欲作であることを積極的に認め、渥美一弥氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2007年3月14日

 2007年1月22日、学位請求論文提出者渥美一弥氏の論文についての最終試験を行なった。
 試験においては、提出論文「『情報』の経路としてのネイション―カナダ西岸先住民サーニッチにおける民族誌的『情報』と『現実』」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、渥美一弥氏はいずれも適切な説明を行なった。
 よって審査委員一同は、渥美一弥氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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