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博士論文審査要旨

論文題目:周作人と日本文化
著者:趙 京華 (ZHAO, Jing Hua)
論文審査委員:木山英雄、落合一泰、菊田正信、田崎宣義

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一、論文の構成と概要
 本論文は、中国近代文学者きっての知日家と目される周作人の日本文化との広くかつ深い関わりを、彼の重大な思想転換過程における影響・共感関係に集約して、考察する。その構成と概要は以下のとおり。

 序章
 第一章 周作人と柳田国男 ― 周作人の民俗考察と柳田国男の民俗学思想
  一、柳田との結縁の初め
  二、中国民俗学の創始における周作人の役割
  三、民俗考察の展開と柳田学説の本格的摂取
  四、関係の深さと限界
 第二章 周作人と柳田国男(その二) ― 固有信仰を中心とする民俗学
  一、周作人の民俗理論における二つの外来要素
  二、周作人の「道教支配説」とその考察の展開
  三、固有信仰を中心とする民俗学
 第三章 周作人と柳田国男(その三) ― 東洋的思考様式と伝統の知恵
  一、固有信仰から民族主体への探究とその民衆観
  二、「無生老母的信息」と『先祖の話』
  三、歴史意識と「学問救世」の東洋的伝統
 第四章 周作人と永井荷風・谷崎潤一郎 ― 反俗的独立主義・文明批評・伝統回帰
  一、革命時代の非革命的知識人としての周作人
  二、反俗的独立主義・文明批評・伝統回帰
  三、国情と個人の境遇 ― 共通性の中の異質生
 第五章 日本文化観の形成 ― 汎アジア主義、大正時代の東洋学との関わり
  一、対日感情と明治末年の素朴なアジア主義
  二、日本文化観と大正時代における東洋学の系譜
 終章
 注釈・参考文献

 序章は、周作人の中国近代精神発達史上における傑出した地位とほとんど運命的な対日因縁を点出ののち、明治末年の日本留学当時から西洋の近・現代思潮と共にその源泉たる古典ギリシャにまで関心を遡らせていた彼が、やがて日本文化に関しても、大陸文明の影響下に形成された大化いらいの伝統、さらにはヤマト民族の土着的な基層にまで関心を深め、その上で、中国に対して独自性を維持しながらも「基本的な文化精神と究極の運命と」を共にするという「東洋性」を強調するに到った経緯を略説する。そしてこうした経緯の基礎をなす日本文化との多方面にわたる交渉のうち、特に同時代的な共感に富むものとして柳田国男の民俗学、永井荷風・谷崎潤一郎の文学、大正時代の東洋学の例に注目し、さらに、これらと親しみながら独自の日本文化観を形成していった過程が、同時に周その人の伝統と伝統批判を機軸とする思想上の大きな転換の過程と重なるところから、その間に深い影響関係を予想し、それを仮説的な課題に掲げる。

 第一章は、周作人の柳田国男との関わり全般について。第一節、周が長い読書生活の回想に、文学批評におけるブランデス、文化人類学におけるフレイザ-、性心理学におけるエリスと並べて、郷土研究におけるその名を特筆するほどに深かった柳田国男への傾倒に関し、留学時代の最後に『遠野物語』に出会っていらい柳田の著書の大部分を同時的に入手していた事実と、その少年時代に始まる「名物」の学への著しい傾向性や生地紹興の郷土体験の民俗学的意味とを併せ論じ、さらに留学中に学び始めた西洋の文化人類学・民俗学と柳田民俗学との対比に関して、周が学説の理論体系について前者に多くを負う一方、実際上の研究方法や思想・感情の面では後者の影響に決定的なものがあったという見通しに及ぶ。第二節、エッセイストとしての盛名の蔭に隠れがちな周の民俗学的活動の跡を丹念に辿って、「五四」新文化運動のさなかにおける歌謡徴集運動や北京大学歌謡研究会の発起以下一連の中国民俗学創始の活動の中で、タイラ-、フレイザ-、ラングなどのイギリス人類学派の理論的影響の下での神話、昔話、民間伝承の比較的研究が一般的であったところへ、方言調査を基礎とする柳田流の郷土研究の方法を周が意識的に導入した事実を明らかにし、さらに、三、四十年代にわたり、習俗や名物の探究を通じて「凡人」の精神、とくに信仰世界を理解しようとする民俗学的理念の本格的な自覚・提唱と作品上での実践をさまざまに例示する。第三節、こうした事実を柳田学の展開の道筋と照らし合わせて、1.一国主義的に「常民」の固有信仰の解明を目指す民俗学説の直接摂取、2.古い「学問済世」の意識に発して社会底層の庶民生活に深い関心を寄せ、そこに西洋的近代化の挑戦を迎えるための民族的な歴史主体を探ろうとする思想志向への共感、3.文学的な情感と文体美の愛好、といった知・情・意にわたる影響・共感関係を総括する。同時に、一生を民俗学の旅に費やし、「常民」との精神的一体化さえ夢見た柳田に比して、中国知識人としてはもっとも早くから平民意識を抱き、婦人と児童の運命には終生変わらぬ関心を維持ながらも、なお書斎の民俗学愛好家に終始した周の文人的な高踏性と趣味性を指摘して、影響の限界にも留意する。

 第二章は、前章で明らかにした柳田民俗学の受容が、周の思想的遍歴とどのように関わるのかを論ずる。第一節、まず周の接した民俗学における西洋と日本の二つの流れに関し、比較的方法、進化論的な歴史発展観、普遍主義的な思考様式などによって特徴づけられる前者に対する、柳田の「一国民俗学」の位置関係をさらう。第二節、「生活芸術」(1924)を画期とする思想的転換以前の周の進化論的な進歩主義の信仰がまさに前者と合致して、そこにフレイザ-の原始的な性のト-テミズム説等を武器とする、周の当時異色な因習批判の論理が編み出され、さらにそれが一層広範な文明批評のための理論的モデルの形で、中国思想道徳史における「道教支配」説にまで一般化された次第を述べる。第三節、シャマニスティックな民間道教に支配された国民的性格に関する周の観念が、やがて国民革命の失敗を契機とする沈潜・反省の中で、「批判」から「諒解」の対象へと変わっていき、伝統に対する激しい倫理的批判から歴史的な考察へのこうした転換が、初期いらい関心の視野に入っていた柳田民俗学がしだいに周の中で重きをなしていった過程と重なることに注目する。そして、柳田学における固有信仰重視の意味を参照することにより、近代化に関するその独自な思考から多くの啓示を得ながら、教条化以前の「原始儒家」の人本主義的思想の再認識ならびに固有文明の革命ならぬ再生・復興の道へ向かった周の思考転換が、これを政治的挫折による思想の後退とみなす通説に反して、むしろ伝統意識の成熟、ひいては思想的深化の過程ではなかったのかと考えなおす。

 第三章は、民俗学上の影響・共感といった直接的な関係からひとまず離れ、近代化という歴史的転換期を生きた東方知識人の代表としての周と柳田につき、その間のより深い共通性を探る。第一節、まず柳田の言説の中から、近代化を自民族の歴史と未来に結びついたあくまでも内発的な事として捉え、その萌芽は足利時代くらいまで遡るかもしれないと予想するような反西洋一元的な考えと、歴史の主体を正統史学の記録する「帝王」「賢哲」「偉人」よりも、「民衆」「常民」「無名者」の側に置き換えて、歴史を非一回的に見ようとする観点を取り出す。これに対し、周の歴史と近代化に関する思考には既述の大きな転換はあるものの、通観的に、西洋を近代と等置するよりも文明の類型を異にする別個の参照系として古代にまで遡って理解しようとする態度、単純かつ楽天的な西洋化論に対する懐疑、政治的社会的な力としての群衆に対する一貫した深い不信、歴史や文化を英雄や聖賢の事業よりもその根底をなす「平民」や「凡人」の生活・習俗・知恵に見ようとする傾向等を指摘しうるとして、これらの点から、両人によって代表される東方的な歴史と近代ならびに民衆に関する思想意識を特徴づける。その要点は、循環的で保守的ともいえるが、しかし歴史の伝承を重んじて、性急な改造よりも冷静な民族的自己省察を優先し、大衆的啓蒙による急進的変革よりも歴史を緩慢に左右する普通生活者の自然的な力を信じ、かつ伝統的な生活秩序とくに民間の習俗、信仰に深い眼差しを注ぐ、といったもの。第二節、両人の後期の代表作として「無生老母の便り」(周)と『先祖の話』(柳田)とを併せ読むことにより、上の論点をそれぞれに固有の背景から情動的な表現にまでわたって肉付ける。第三節、両人の共有する思考と感情の特徴を東方的な歴史主義と現世主義の伝統に系譜づけた上で、それを、両国の近代思潮に大きな力をふるった左翼的急進主義のロマン的な歴史意識と対比し、後者に対する両人それぞれの抵抗の跡を辿って、ともに儒家的な経世済民意識を受け継ぐ「実学」精神のすぐれた近代的実例とする。

 第四章は、理性的で寛博な思想を尊び、芸術上では平淡自然を理想とした周作人が、耽美主義の代表的作家たる永井荷風・谷崎潤一郎と中年にして深く親しむに到った理由を考える。第一節、いわゆる「五四」知識人が、伝統的知識人の強烈な政治参与意識を捨てきれず、独立思考や専業精神を基礎とする自由主義の文化伝統を確立しえなかった中にあって、革命時代の非革命的自由知識人の道を歩み続けた周の苦闘の跡を概観し、特に抗日戦争前夜の危機に際してなお「日本と中国の究極の運命はやはり一致している」と発言したような文化の立場に徹した日本及び日本問題観と対日感情の独自なあり方を、その延長において強調する。第二節、漱石、鴎外に次ぐ同世代作家としての永井・谷崎をそれぞれの華々しい文壇登場いらい同時的に読んでいた周の彼らへの言及を通観し、文学革命時代の日本文学啓蒙の中で、永井のゾライズム時期の作の日本自然主義一般に抜きんでた水準、耽美主義転向以後の時代文明への不満と消極的な享楽主義、谷崎の耽美主義の永井よりさらに濃厚な頽廃的色彩などを的確に評しながら、しかし個人的に格別な関心を示してはいなかったのを、その第一段階とする。第二の段階は、大逆事件以後の長期の創作沈滞を経て『日和下駄』『江戸芸術論』『荷風随筆』『冬の蠅』などで一夜漬けの文明開化を痛罵し、江戸の古い人情風俗や庶民芸術を哀惜した永井、ならびに永井のような挫折や憤懣を知らず昂然と耽美芸術の旗を掲げ続ける一方、関西移住を機縁に日本固有の精神、殊に東方的な美意識への傾斜を深め、創作の傍ら『饒舌録』『倚松庵随筆』『青春物語』『摂陽随筆』などに「伝統と芸術」をめぐる深い思考を展開した谷崎に関し、小説をあまり好まぬ周がこれらのエッセイを愛読し頻繁に言及した、三十年代以後。第二の段階で周自身は永井と谷崎に対する共感を思想上の「超俗性」なる一語に要約しているが、その内包するところを三者の間に立ち入って考え、1.「江戸っ子」的な気質を引き継ぐ反俗的個性的な独立精神、2.明治国家の外発的な開化がもたらした混乱と偽文明に対する批判・抵抗という意味での「反近代」傾向、3.「反俗」「反近代」の自然な帰趨または簡素な行為方式として、固有文化の再認識・再評価を含む「伝統回帰」、の三点を引き出す。そして、永井における江戸度庶民の周縁的俗文化、谷崎における関西風土から王朝文化に及ぶ「陰翳」、といった発見または傾倒対象の相違を越えてなお共通する、選択を許さぬ民族の伝統、歴史、地理によって形成されたものへの諦観・宿命観こそ、周が「東洋人の悲哀」の名で共感したところのものであった、とする。第三節、付帯して、周の置かれた国情や個人的資質に由来する共感中の相違点を論じ、1.近代化に抵抗する力が日本より遙かに強い中国にあって、周は思想の転換以後にも、永井・谷崎には比較的弱い伝統文明の堕落、腐敗に対する批判の態度を捨てたことがなく、彼らの「反近代」的な文明批評から学んだものも、近代化批判自体というよりは、その背後の反俗的な独立精神にあった、2.永井・谷崎の伝統回帰の主導的要因が芸術・審美という感性的な方面にあったのに対し、周の場合は冷静な理性的選択による伝統の再認識を主とした、3.女性観の上で、永井の根底にある封建的な女性蔑視や谷崎の耽美主義的な女性崇拝のいずれとも対照的に、周は西洋近代の性科学を基礎とする合理主義的なフェミニストだった、の三点に留意。ついで初めの設問に返り、周のひごろの理想により近いと見える島崎藤村に対し、周はたしかに深い尊敬を寄せたが、永井・谷崎の世俗中の抗争としての「超俗」に寄せた共感には、それを上回るものがあった、と結ぶ。

 第五章は、周作人の日本文化観と大正時代の東洋学の関係、ならびにその影響の思想的な意義について。第一節、周の対日感情を理性的に支えて、これを帝国主義時代の東方的な連帯の悲願にまで昇華させたものは、遙に明治末年の日本留学時代に経験した、反満州の種族革命運動中の復古思想にまで連なるが、日本における初期アジア主義の素朴な文化共同体志向がやがて帝国主義的な「東亜協同体論」や「大東亜共栄圏」のイデオロギイに変質していった過程との関連で、それがさまざまな屈折を余儀なくされた、として、周が「五四」時代に日本白樺派と共有した世界主義の理想を「五・三〇」事件(1925)前後には「撤回」し、中国大陸における日本の浪人、支那通、漢字紙の謬論を冷静にかつ激しく批判しながら両国間の正常な交流を目指す行動にも関与したが、全面開戦が近づき文化と理解の立場が絶望的に困難になるにつれて、自称「迂遠なる大アジア主義」が「真っ暗な宿命論」の色彩を深めざるを得なかった経緯を辿る。さらにこの経緯に照らし、前章に触れた「東洋人の悲哀」に落着する周の日本文化観と、日本文化内部の「反近代」的文学思潮との関係を歴史的に再論する。第二節、衣食住の生活レベルから芸術、宗教、哲学のレベルにわたる周の日本文化論の内容に関して、既述の柳田、永井、谷崎のほかに、芳賀矢一、津田左右吉、小泉八雲、内藤湖南、和辻哲郎、柳宗悦等の影響を指摘し、このうち特にいわゆる「東洋学の系譜」の影響を取り上げる。芳賀矢一について、周が早い時期に芳賀の『国民性十論』にしばしば言及し、その所論のうち、忠君愛国や武士道の日本主義的賛美を取らなかった代わりに、芸術的感受性、自然に対する感情、人生態度、衣食住から言語まで貫く嗜好、中国古来の君臣関係からは類推しきれぬ皇室崇拝の性格などの面で多くを取り入れていること。津田左右吉について、周が津田の『神代史の研究』を、天皇制的国家主義のタブ-を冒して「古典研究にほとんど一個の革命をもたらした」「立派な学術の進展」と評していること、また日本文学史に関して『文学に現れたる国民精神の研究』とまったく同じ時代区分に従っている事実やひごろの関心・素養の傾向からして、文学に現れる「思想」を単に思惟の所産ではなく民族の文化、心理、気分に関わるものとして、時代の国民生活全般に照らし考察する、かの文化史の大著から得たものも少なくはなかろうこと。和辻哲郎について、津田の『国民思想の研究』や神代史研究の刺激と和辻独自の懐古的、偶像再興的な心情のもとに書かれた『日本古代文化』が、『古事記』神話の「湿える心情」に関する記述を中心として、周の日本文化論の嚆矢をなす「日本の人情美」(1925)に直接影を落とし、さらに『古事記神代巻』漢訳の引き金ともなったこと、等々。こうした指摘に加え、日清・日露の戦争の勝利による国民的自信と全面的西洋化への反省を背景に、西洋の近代的諸学の方法を取り入れて発展した日本の「東洋学」から、周が近代化の成功後にあるべき古学復興の意義を示唆されると同時に、柳田民俗学ともども独善的ナショナリズムから区別された精華を選んで自己の日本文化観に吸収し、進んでは、芸術、文学等の審美の観点から伝統文化再評価の第一歩を踏み出す、復興または回帰の方式をもそこから学んだとして、西洋模倣の近代主義的芸術観を「原始儒家」の「礼」(Art)の復興による「生活の芸術」に換えるところから着手された、周の自覚的な方向転換の努力との深い関わりに及ぶ。

 終章。「四千年らいかつてない大変局」(梁啓超)とも「中国のルネッサンス」(胡適)とも言われる時代に輩出した多くの巨人的な知識人の中でも、伝統的な文化、学問はもとより、ギリシャ古典、英文学、日本文化、各国思潮から文化人類学、民俗学,宗教思想史、心理学、婦人と児童に関する理論などにまで際立った学識と趣味を示し、しかもこうした多面的な思想・知識を洗練された散文に溶け込ませて、近代中国文学を代表する作家の一人になった周作人。それほど多方面に開かれた知の持ち主の苦闘においてはじめて、本論に取り上げたような民俗学、文学、文化史学にわたる同時代の日本文化の吸収がありえた所以を強調。知のこうしたありようを本人は「雑学」と自称するが、しかしその意義を自ら最終的に「倫理の自然化」「道義の事功化」の二点にまとめ、「現代人類の知識に基づいて中国固有の思想を調整する」と敷衍した一言に、実は彼の生涯を貫く思想的な関心の焦点が集約されているのであって、日本からのさまざまな影響摂取もこのような志向と直接に関わっていた、として、以下この観点から本文の所論を要約し、周の二十年代後半いらいの思想転換を単に政治的な落伍とみなしてきた、本国の通説の訂正の必要に及ぶ。最後に、周の日本文化観に関し、その江戸庶民文化に対する関心や日中比較文化論としての側面の考察を次の課題とする。


二、評価と判定。

 日本文化の諸方面にわたる深い理解で知られる周作人が、そこからなにがしか本質的なものを吸収したであろう、とは日中双方の少なからぬ研究者が予想していながら、柳田国男や永井荷風に関わる若干の個別例のほかに、その総合的な考察が試みられたことはない。本論文が民俗学(柳田)文学・芸術(永井・谷崎)日本文化論(日本東洋学)という、周の代表的な三つの活動領域にわたって、そうした関係の基礎的な検証を行い、この方面の研究を一挙に本格化させた点をまず評価しなければならない。加えて、それらの事実を、周その人における急進的な西欧模倣主義の放棄、さらには固有性への回帰という、よく知られた思想・文学史的な事件との因果関係に集約して考える点にもう一つの眼目があり、論文は事実上、日本を媒介にして周作人を読みなおす試みにもなっている。筆者は本国で周作人研究の処女作(『尋zhao精神園地』人民大学出版社)を上梓したのち、残された宿題の解決を日本留学に託してこの研究に当たったのであったが、その過程で、件の方向転換の意味について、旧著もそれと無縁でなかった革命至上史観からは出てこない、積極的な解釈へと思考を導かれることになった。同じく日本留学の所産として一歩先んじた形の劉岸偉『東洋人の悲哀 ― 周作人と日本』(河出書房新社)は、支配的な史観の動揺に由来するこうした読みなおしの動きとは「そもそも無縁」(同書序章)と称する所に、周と荷風の関係を主とする比較文学的な空間を巧みに構成して、日本の読書界に迎えられた。それに対して言えば、これは本国の問題状況をいかにもまともに引きずっているが、「革命時代の非革命的知識人」(第四章一節)の苦衷と西洋モデルによる近代の夢の破綻とが一つになった場所での周独自の思想形成に、同時代の日本の知的動向がさまざまに関わるところをよく明らかにしえたのは、如上の着実な研究動機と切実な問題意識に相応した成果といえる。そうしたさまざまな関わりの中から、歴史意識と民衆観念、反俗的独立精神と諦観的な東方回帰、古学の復興と審美の観点よりする伝統再認識など、知・情・意にわたる多面的な論点を取り上げ考察を加えているのも、単に自由主義や個人主義の復権を言うだけの読みなおしとは選を異にするところである。但しこれらは差し当たり、一国文学史的な周作人研究の補足として日本関係に踏み込んだ格好であり、その限りでも興味深い内容に満ちているとはいえ、今後の課題にうたっているような文化の比較研究への展望からすれば、日本側の事象についても日本における平均的な理解の参照に止まらぬ積極的な介入を覚悟して、双方を互いに対象化する視点が望まれるだろう。例えば柳田の場合、論文が周と柳田を共通に括る「東洋的知恵」や「儒家的伝統」といったものの日中間における共通性ははたして自明の事であるか、同じ「固有信仰」への関心といっても、柳田のそれが家の祖霊に集中した事実は問題にならないか、柳田民俗学の一国主義には、西欧一元主義への異議のみならず、中国文化に対する国学的な自立の志向もあったとして、それに中国側の同時代の精英が共感した因縁を歴史的にどう読み解くか、また論文は、民俗の旅に明け暮れ「常民」との精神的な一体化さえ夢見た柳田に対し、書斎の民俗学愛好者に終始した周の高踏的な趣味性を適切にも指摘(第一章四節)するが、さらに視野を広げるためには、周が受け継ぐ文人的文化の特殊性とともに、柳田の民衆観念の文学性などをも論ずる用意が要るのではないか、等々。

 結論として、審査委員会は、本論文が日中文化交渉史上の意義深いトピックと誠実に取り組み、洗練と発展の余地を多く残しながらも、双方の学界を刺激するに足る成果を確実に挙げている点で、学位認定に値するものと判断した。

最終試験の結果の要旨

1998年5月1日

 本年5月1日、学位請求者趙京華氏に対し、論文『周作人と日本文化』に就いて最終試験を行った。
 試験において、審査委員の質疑に対し、趙氏はいずれも適切な説明を以て答えた。 よって審査委員会は、趙京華氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究実績および学力を有するものと認め、合格と判定した。

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