博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:雇用関係の社会理論
著者:倉田 良樹 (KURATA, Yoshiki)
論文審査委員:依光 正哲、林  大樹、梶田 孝道

→論文要旨へ

【本論文の構成】
今日の雇用関係は情報化・グローバル化・生活の脱標準化によって根本的な変容を経験している。ところが、20世紀初頭以来の雇用関係に関する諸学説は、この現実を理論的に解明することができず、従来の分析枠組を根本的に検討する気運も醸成されていない。
本論文は、このような理論研究面での停滞を超え、雇用関係の新しい動向を分析するために、既存理論の書き換えを試みた野心的労作である。
本論文の構成は以下の通りである。

序   本研究の課題と概要
第1章 雇用関係の社会理論:21世紀の課題
1.1 雇用関係の社会理論:20世紀までの回顧
1.2 雇用関係の社会理論:21世紀の課題
1.3 雇用関係研究のための主要な概念の規定
第2章 雇用関係の制度理論
はじめに
2.1 制度論的アプローチの源流
2.2 戦後体制と労使関係の研究:制度理論の隆盛
2.3 労働者の生活世界への関心:制度理論への挑戦?
2.4 制度理論から行為理論へ
 第3章 雇用関係の行為理論:先行研究の成果と課題
   はじめに
   3.1 雇用関係に関する社会理論のツリー
   3.2 基礎主義的な行為理論
   3.3 基礎主義理論から状況理論へ
   3.4 社会学的な機能主義理論の批判的検討
   3.5 ギデンズの構造化理論
 第4章 雇用関係の構造化理論:新しい労働研究の可能性
   4.1 雇用関係の構造化理論で活用される主要概念
4.2 構造化理論の可能性

補論1 70年代アメリカにおけるインダストリアリズムの閉塞と労働社会の危機:
Work and Quality of Life から日本の公共政策を学ぶ
補論2 日本における外国人IT技術者の現状


【本論文の内容要旨】
第1章「雇用関係の社会理論:21世紀の課題」
20世紀を通じて、社会科学の様々な分野から雇用関係が研究対象として取り上げられ、労使関係論のような総合的・学際的アプローチによる大きな成果も生み出されてきた。だが、今日の雇用関係に関する研究は理論面で分裂、停滞の状況にある。本研究はこうした分裂、停滞の原因を次の点に求めている。即ち、20世紀の雇用関係研究が前提としていた諸条件が根本的に変容し、この変容を理論的に解明する試みがなされてこなかったことにあると考える。
本研究が21世紀的な雇用関係の現実として注目することは、「脱工業化・情報化による労働市場の変容」、「グローバリゼーションによる国民国家を単位とする雇用保障体制の空洞化」、「労働者の生活様式の脱標準化・個別化」という3つの事象である。
第1章の後半では、以下に続く理論研究のレビューを行うための前提として、本論文で取り扱う雇用関係に関する主要概念の定義を示している。第1章で示されている概念規定は、過去の雇用関係研究の諸学説を整理し鳥瞰したものであるが、雇用関係の社会理論において共有されている概念枠組みを示し、職場、労働組織、市場空間、公共空間、生活空間などの基礎概念についての詳細な検討を行っている。本論文の最終章において、第1章で検討した諸学説を根元的に批判し、筆者が構想する雇用関係の社会理論に関する厳密な概念規定を提示することが試みられる。

第2章「雇用関係の制度理論」
 第2章および第3章では、雇用関係に関連して過去に蓄積されてきた既存研究の中から、20世紀後半において主流の位置を占めるようになった学説を抽出し、「制度理論」、「行為理論」という二つの系譜に区分して検討を行っている。第2章では雇用関係の制度理論を取り上げ、その理論に対する批判的な検討が行われている。
 制度論的アプローチの源流を筆者は、20世紀初頭に展開されたF.W.テイラーの科学的管理法、W.D.スコットの人事管理論、ウェブ夫妻の産業民主制論、J.R.コモンズの労働組合論などに求めている。これらの研究に共通する特徴は、20世紀初頭に登場した大量生産型の製造業企業で働く労働者を対象として、専ら男子労働者の就業管理や労働条件改善などを目指す現実的な関心に導かれて、合理的な制度を設計するための理論的・実践的な考察を行ったことにある。テイラーの「これまでは人が第一であった。これからは制度が第一でなければならない」という考え方が象徴的である。また、コモンズの労働組合研究は彼の「制度」経済学の応用という側面を含んでいる。
 制度を中心として雇用関係を研究する傾向は、第二次世界大戦後の高度工業化社会の出現によってさらに強化されることとなる。とりわけ1950年代および60年代前半の英国と米国では、大企業とそれに対抗する労働組合からなる労使関係「制度」をどのように運営していくかが社会政策や経済政策の優先的な関心事項となり、理論研究の領域でも、雇用関係を制度、機構、構造などの概念によって記述していくタイプの研究が中心的な位置を占めるようになった。
この時期に確立し、その後の雇用関係研究において主流派の位置を長く持続することになったのが、フランダースを中心とするオックスフォード学派による「職務規制の制度」の理論とダンロップの「労使関係システム」理論である。ダンロップの労使関係システム理論は、「経営者、労働者、政府の三者から構成されるシステムとしての労使関係が、技術、市場、権力に関する環境条件の影響を受けながら規則を出力している」という概念枠組みを提示したが、この概念枠組みは、今日でも雇用関係の研究において一定の影響力を保持している、と筆者は指摘する。
 だが、筆者は、ダンロップの労使関係システム理論は20世紀半ばのアメリカにおいて出現した高度工業化社会の現実を説明し、それを正当化するための論理に過ぎない、と批判する。さらに、今日の現状分析を行う上では、ダンロップ理論には次のような重大な欠陥があることを筆者は指摘している。第1に、ダンロップ理論は主な分析対象を製造業大企業で働く労働組合に所属する男子正規雇用労働者としたのであるが、その存在は、今日のアメリカの労働市場においてはその比重を大きく後退させている。第2に、ダンロップ理論には、雇用関係の存立条件に関する生活空間から入力される変数が考察されていないこと、第3に、社会学の概念を用いて制度理論を精緻化することを試みながらもそのことに失敗していることなど、である。脱工業化や勤労者の生活空間の変容などを伴う21世紀の雇用関係の現実を説明するためには、研究者はダンロップの概念枠組みを棄却していく必要がある、と筆者は主張する。
 本章の末尾においては、ダンロップ理論に代表されるような制度中心の雇用関係研究に内在する理論的な不完全性について、日本的雇用慣行に関する制度論的な通説である「内部労働市場論」を具体例として取り上げて、詳細な検討が行われている。制度理論では雇用関係に関して特定の慣行が成立するプロセスを因果関係として正確に定式化することができない。制度論的アプローチに固有のこうした欠陥を克服することを狙って、ダンロップ以後の労使関係研究者の中から、労使関係の「過程」を重視する研究や、労使関係におけるアクターの戦略的な行動に焦点を合わせる理論が出現するようになった。このような動向を筆者は、雇用関係研究における制度理論サイドからの行為理論サイドへの接近である、と指摘する。

第3章「雇用関係の行為理論:先行研究の成果と課題」
 第3章では、20世紀後半における雇用関係の社会理論において、制度理論と並ぶもうひとつの系譜を形成している行為論的な社会理論についての考察がなされている。雇用関係の行為理論の系譜は、ダンロップの労使関係システム理論に相当するような特定の学説を軸とする大きなパラダイムを形成したわけではなかった、と筆者は考える。そのため本章では、この系譜について厳密な意味での学説史的な検討を行うのではなく、この系譜に帰属させるのが適切であると考えられるいくつかの主要学説を筆者の問題関心に基づいて整序し、それに従って考察が進められている。
 第1節では雇用関係に関する社会理論のツリーが示されている。行為を軸にした雇用関係の諸理論の分岐点をツリー状に示すことで、この系列においてこれまでどのようなタイプの研究が行われてきたのかが極めて明快に整理されている。過去の学説の整理を通じて、21世紀の雇用関係研究にとって有効な社会理論を構想していくためには、行為理論の系譜をどのような方向で発展させていくことが望ましいのかについて、筆者の見解が述べられ、未開拓の領域への挑戦が試みられることになる。
 第2節では、雇用関係に関する行為理論における第一のタイプである行為の基礎主義理論をとりあげ、マクロ基礎主義理論とミクロ基礎主義理論に分けてその内容が検討されている。基礎主義理論の系譜の検討の結果、基礎主義理論は、「行為が構造を作りだしているのか、それとも構造が行為を導いているのか」という基本的な視角に関する二項対立図式から自由でいることができないと指摘し、論を現実問題に適用させることにより、どちらの立場とも両者の間の先後関係に決着をつけることはできない欠陥があることを論証している。
 第3節では、行為の基礎主義理論が陥りがちな隘路を回避できるオルターナティブである行為の状況理論が取り上げられている。行為の状況理論は、行為の偶発性=状況依存性という要素や行為を支える時空間の変容という要素を取り込んだ考察を展開することで、基礎主義理論では解明できない社会変動の分析において有効な視点を提供している。構造変動の渦中にある現代社会の雇用関係に対しては、行為の状況理論からの研究によって解明することが期待される課題が多く存在することを筆者は指摘している。
 第4節では、行為の状況理論の系譜におけるオーソドックスなアプローチとして、これまでの雇用関係研究において一定の成果を挙げてきた機能主義理論に注目し、その内容が検討されている。はじめにギデンズの論考に依拠しながら、社会学的機能主義の理論そのものに関する批判的な検討が行われ、社会理論としての機能主義理論の問題点が指摘されている。機能主義理論による雇用関係研究についてもいくつかの事例を取り上げて、その成果と限界を明らかにしている。
第5節においては、行為の状況理論の系譜において、機能主義の限界を克服する有効なオルターナティブとして筆者が着目するギデンズの構造化理論が取り上げられ、その内容が検討されている。筆者は、ギデンズが行う機能主義批判と、本研究で筆者がこれまで活用してきた諸概念を重ね合わせ、ギデンズの構造化理論の有効性の検討に着手する。

第4章「雇用関係の構造化理論:新しい労働研究の可能性」
本論文の終章である第4章において、筆者は、構造化理論の諸概念を再構成しつつ、現代社会にふさわしい雇用関係の社会理論を構築していくことを試みている。第1節では、構造化理論に基づいて「雇用関係」、「行為」、「行為者」、「法人」、「職場」、「社会空間」、「資源」、「規則」という8つの鍵概念について再定義し、筆者の構想が提示されている。また第2節では、第1章において雇用関係の社会理論が取り組まなければならない21世紀の課題として例示された3つの課題、即ち、「脱工業化・情報化による労働市場の変容」、「グローバリゼーションによる国民国家を単位とする雇用保障体制の空洞化」、「労働者の生活様式の脱標準化・個別化」という3つの事象を「市場空間の変容」、「公共空間の変容」、「生活空間の変容」と再整理し、構造化理論がこれらの課題に取り組む上で有効な視座を提供しうるものであることが主張されている。

【本論文の評価と問題点】
以上のような内容の本論文の特徴としては、第1に、雇用関係の社会理論について制度理論、行為理論という軸を立てて説得的な学説史の整理を行ったことである。ここで示された学説史の整理は、単なる先行研究の整理と研究上の空白部分の摘出に止まらず、雇用関係の社会理論を構築する上での有効なガイドとなっていることである。
第2に、雇用関係研究の通説として今日でも強い影響力を有しているダンロップの労使関係システム理論に対して根本的な批判を行うとともに、ダンロップモデルに固執することで理論研究面での停滞に陥っている今日の(とりわけ日本における)雇用関係研究の現状に強い警鐘を発し、研究の新たな方向性を示したことである。
第3に、行為理論的な雇用関係研究のレビューを通じて、機能主義的アプローチの理論的な欠陥を指摘するとともに、それ以後の社会学的な雇用関係研究が理論面で停滞状況に陥る淵源を指摘して、社会学的な雇用関係研究の現状に対しても一石を投じていることである。
第4に、情報化、グローバル化、生活の脱標準化という3つのコンセプトを活用しながら、今日の雇用関係が20世紀の産業社会とは根本的に異なる段階に入っていることを主張したことである。本研究における雇用関係の社会理論に関するパラダイムシフトの試みは、以上のような的確な現状認識を背景に展開されているため、説得力のあるものとなっている。
 しかし、本論文には次のような問題があることを指摘せねばならない。第1に、雇用関係の構造化理論について、本論文では骨組みが示されているものの、その内容の肉付けが十分になされているとは言い難い。また、本論文の補論において試みられているものの、構造化理論を現状分析に全面的に活用するには至っていない。第2に、本論文では、英国・米国・日本の研究者の間で形成されたパラダイムを取り上げており、雇用関係に関する国際的な学術会議、学術雑誌等を主導しているのは、アングロサクソン諸国とそれに追随する各国のビジネススクール的研究教育機関であることを勘案するとやむを得ない点もあるが、視野を広げて大陸ヨーロッパや日本以外のアジア諸国で行われている雇用関係研究についても取り上げていくことが必要かもしれない。第3に、雇用関係研究者が陥りがちな、近現代社会に過剰に適応した視野狭窄を回避する必要があることを指摘し、本論文の末尾において「脱・雇用」の可能性に言及し、新たな動向に注目したことは正鵠を得ているが、その具体的な論述が乏しく、今後の研究の展開に期待せざるを得ない。この点は、まさに望蜀の願いであろう。
 以上のような課題・問題点が残されているが、これらは本論文の重大な欠陥とは言い難く、これらの課題へのアプローチの筋道は最終試験の際に示されており、研究をさらに発展させることが期待される。

【結論】
 審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したものと認め、倉田良樹氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2006年5月17日

 平成18年3月30日、学位請求論文申請者倉田良樹氏の論文について一橋大学学位規則第5条第3項に基づき外国語および専攻学術に関する最終試験を実施した。試験においては、提出論文『雇用関係の社会理論』に関する疑問点について審査員から逐一説明を求めたのに対し、倉田良樹氏はいずれも十分な説明を与えた。
以上により、審査員一同は倉田良樹氏が学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

このページの一番上へ