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博士論文審査要旨

論文題目:近代ドイツ社会調査史研究―経験的社会学の生成と脈動―
著者:村上 文司 (MURAKAMI, Bunji)
論文審査委員:濱谷 正晴、渡辺 雅男、町村 敬志

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【本論文の構成】

 本論文(ミネルヴァ書房より2005年2月刊行)は、近代ドイツ(1848~1933年)においてアカデミズムの内外で実施された多種多様な社会調査のダイナミックな展開を、個々の調査やその周辺で生じた種々の「出来事」に関与した同時代人たちの「社会的営為」に即して叙述し、そこに生成してくる経験的社会学の軌跡をあとづけた社会調査史研究の成果である。論文の構成は以下の通りである。

 まえがき
 凡例
序 章  社会調査史研究の視点
          第1節 社会的営為としての社会調査
第2節 近代ドイツの社会調査史をめぐる主な研究
          第3節 近代ドイツ社会調査史研究の課題
          第4節 本書の構成
第1章  帝国統一以前の社会調査
          第1節 社会調査の源流
第2節 R.ウィルヒョーの流行病調査
         第3節 労働者状態に関する政府の調査
         第4節 W.H.v.リールの民族学的調査
         第5節 統計局の設立と官庁統計の整備
         第6節 社会調査の揺籃
第2章  ビスマルク時代の社会調査
          第1節 社会調査の組織化
第2節 帝室統計局の設立と全国規模の社会調査
         第3節 社会政策学会の設立と初期の社会調査
         第4節 大学ゼミナールと現地調査
         第5節 社会調査の展開
第3章  農業労働調査とM.ヴェーバー
        第1節 2つの農業労働調査
第2節 社会政策学会の農業労働調査
         第3節 福音社会会議の農業労働調査
         第4節 M.ヴェーバーの調査活動
第4章  実践的な社会調査の新展開
          第1節 実践的な社会調査の展開
第2節 社会改良的な社会調査
         第3節 社会心理学的な社会調査
         第4節 社会調査の新試行
第5章  学問的な社会調査の新展開
        第1節 学問的な社会調査の諸潮流
       第2節 統計を利用した社会研究
         第3節 反改良主義の出現と労働者家族の世代間比較
         第4節 進化論の流行とエリート研究
         第5節 精神医学分野の社会病理学的調査
         第6節 経験科学の台頭
第6章  A.レーフェンシュタインのアンケート
          第1節 社会心理学的アンケート
第2節 アンケートの経緯
         第3節 M.ヴェーバーの評価と助言
         第4節 A.レーフェンシュタインの分析
         第5節 学術雑誌での書評
         第6節 アンケートをめぐる交流
第7章  M.ヴェーバーの精神物理学研究
          第1節 精神物理学論文の構図
第2節 実験心理学の方法的な批判
         第3節 現地調査の課題と方法
         第4節 ヴェストファーレンの織物労働調査
         第5節 現地調査の副次的な成果
         第6節 工業労働調査への展望
第8章  社会政策学会の工業労働調査
          第1節 工業労働調査の学問的性格
第2節 ヴェーバー兄弟の活躍
         第3節 工業労働調査の目的、課題、方法
         第4節 共同研究者の現地調査
         第5節 調査の成果と異色モノグラフ
         第6節 学問的な工業労働調査の障壁
第9章  社会政策学会の討議
          第1節 工業労働調査をめぐる討議
第2節 調査の主催者、共同研究者の報告
         第3節 データ収集の方法をめぐる論議
         第4節 データ分析の方法に関する論議
         第5節 学問的な社会調査の障壁
第10章 社会学会の設立と新聞調査
          第1節 社会学会の誕生
第2節 M.ヴェーバーの新学会構想
         第3節 新聞調査の構想
          第4節 社会学会からの辞去
          第5節 「経験的社会学」の濫觴
第11章 ワイマール時代の社会調査
         第1節 社会変化と社会調査の動向
第2節 実践的な社会調査の潮流
          第3節 学問的な社会調査の潮流
          第4節 社会調査の多面的拡大
第12章 社会学と社会調査の交流
         第1節 社会学会の活動と社会調査
第2節 「社会学確立」運動
          第3節 F.テンニースの経験的研究と社会誌学
          第4節 ケルン大学社会科学研究所の設立と社会調査
          第5節 フランクフルト大学社会研究所の設立と社会調査
          第6節 経験的社会学の障害物
終 章  経験的社会学の脈動
         第1節 社会調査の多面的な展開
第2節 経験的社会学の生成
          第3節 経験的社会学の展開
          第4節 経験的社会学の脈動
 あとがき
 引用・参考文献
 事項索引
 人名索引


【本論文の概要】

 序章「社会調査史研究の視点」において、村上氏はまず、N.グレーザーやM.バルマー、A.オーバーシャルやS.シャド、そしてI.ゴルゲスなど、ドイツにおける社会調査の歴史に関する先行研究を批判的に検討し、近代ドイツにも―社会学者の関心の乏しさに反し―直接観察を含む多様な社会調査が行われてきた独自の歴史があることを確認する。
 そのうえで村上氏は、本論文の目的を、「実践的なものから学問的なものまで、この時代のドイツに多数たち現れてくる多様な社会調査の歴史的な展開過程をできるだけ広い視野から跡づけ、主としてアカデミズムの外側でなされた多様な社会調査が、同時代の社会的現実を認識する社会研究に有効な方法として徐々に当時のアカデミズムの世界に浸透し、そこで受容されていく様相、そして、形成期のドイツ社会学と社会調査の間にたち現れてくる両者が互いに交流する出来事を解明する」ことに定める。
 「近代ドイツの社会調査史」が対象とする歴史叙述の期間を、村上氏は、ドイツ帝国統一以前の「三月革命」(1848)前後からワイマール共和国が崩壊する1933年頃までに設定し、そのおよそ85年間を4つの時期に区分する。これら時期区分と章別構成との関連を示せば、(1)帝国統一以前(1848前後~1870):第1章、(2)ビスマルク時代(1870~1890):第2章、(3)ヴィルヘルム時代(1890~1918):第3章~第10章、(4)ワイマール時代(1918~1933):第11章・第12章となっている。この85年間のうち、第三の時期に多くのスペースが割かれているが、それは、「ヴィルヘルム時代」が、社会調査がアカデミズムの内外に広がり根づいていく躍動感あふれる時代であり、この躍動感を見失うことなく社会調査の諸潮流を広範囲に描き出すためであった。
 それでは、村上氏が、どのような「出来事」ならびに「社会的営為」に着目しながら、近代ドイツにおける社会調査のダイナミズムを把握していったのか、以下、章を順に追って紹介していくことにする。

 「社会調査」は、資本主義の発展や近代国家の形成が急速に進行する19世紀のヨーロッパに出現してきた社会改良家による「社会踏査の運動」や「統計家の運動」を淵源とする。このような観点からみれば、近代ドイツの社会調査の源流は、産業革命が開始され、統一国家の形成にむけた活発な運動が展開された19世紀の中葉、1848年の「三月革命」前後にまで遡ることができる。
 第1章「帝国統一以前の社会調査」において、村上氏は、近代ドイツ社会調査史の幕開けを告げる調査として、最初に、医師R.ウィルヒョーによる流行病調査をとりあげる。「医師は本質的に貧者の弁護人であり、社会問題の大部分は医師の権限内に属す」と宣言したウィルヒョーは、1848年上シュレジェン地方を視察旅行しその知見をもとに、当地で大流行していたチフスの原因を探求しこの地域の歴史・地理・気候・経済・文化的な背景を分析する報告者をまとめた。また、プロイセンの農学者(農場主でもある)A.レンゲルケが実施した農業労働者の状態に関する「アンケート」※をはじめ、1845年以降の大凶作と穀物価格の高騰による貧困問題の深刻化を把握しようとする農業労働者・工業労働者事情調査がドイツ各国政府の手で実施された。
 ※歴史的にみて、「アンケート」とは、各地域の労働者の実状に精通しているとみなされた人物(農  場主や土地所有者、有識者、官吏や法律家、牧師や教師等)が送られてきた質問紙に記入して回答  することを指す。
 一方、19世紀後半のヨーロッパは「統計学の熱狂時代」を迎えていた。ドイツ各国政府の「統計局」のあいつぐ設立は、近代ドイツの社会調査の起源をこの時期に求める、いまひとつの注目すべき出来事である。「統計の隆昌」はドイツにおいて、「1848年の事件」でその頂点に達した「活発な政治運動」に負っている。「急速に増大した新聞の力、議会によって代表される世論は、国家の状態に対する説明を要求」し、政府もまた「政治闘争にそなえるためにそれを必要とした」。この頃、官庁統計の整備に大きな役割を果たしたE..エンゲルは、統計の実務家と統計学者の養成にあたる「統計ゼミナール」を統計局に併設するなど、統計調査の「信頼性」と「生産性」を高めるべく行動を開始した。
 このように、ドイツ各国の官庁統計が整備されていった1850年代、「現地での直接観察による一次資料の収集」を提唱した人物に、ジャーナリストW.H.v.リールがあった。「数字的資料の相互関係の脈絡を発見するために統計学者は旅行すべきである」とする彼は、「家族意識の解体」等、同時代の社会変化を記録しようと試みた。「都市化の進展に対応する伝統的なものの衰退」というテーマは、神話学者で図書館員でもあったW.マンハルトの、民族の伝統に関する質問紙調査に引き継がれた。

 第2章「ビスマルク時代の社会調査」では、帝室統計局(1872)や社会政策学会(同)の設立など、社会調査の「組織化」の進展に焦点が当てられる。帝国の成立(1871)によるドイツの政治的統一は、社会立法の制定や社会改良に必要なデータの収集を目的とする社会調査の範囲を一挙にドイツ全土へと拡大した。そのような社会調査の例として、村上氏は、内閣官房による『徒弟、職人、工業労働者の状態に関する調査結果』(1875)と、T.v.d.ゴルツが実施した農業労働調査(1874-75)に着目する。前者は、官吏が500以上の地域で7000人の工場経営者・労働者を対象に口頭で質問する「聞き取り調査」であり、後者はドイツ全土の「土地所有者」に宛てた質問紙郵送調査※であった。
 ※ゴルツの調査は、労働者の物質的・経済的な状態のみならず、労働者の態度や社会的・文化的状態  にも関心を注いだものであったが、その質問紙は労働者には直接送付されず、土地所有者たちは労  働者の日常生活を熟知していなかった。
 「社会政策学会」の設立は、ビスマルク時代に社会調査が組織化されたことを示すいまひとつの出来事である。当初、工業労働者の労働条件の低下等、焦眉の社会問題を討議し、その解決策を提示して政府に働きかけることを目指した社会政策学会の活動は、ビスマルクが「社会主義者鎮圧法」を強行した1880年代からヴィルヘルム時代にかけて、政治的にもっとも深刻な工業労働者に関する問題を回避し、資料の収集=社会改良を目的に掲げた社会調査に関心が向かっていく。その一つに「農村高利貸し調査」(1886)があった。「農村における有害な高利貸しの出現とその拡大の阻止」を目的に行われたこの調査の質問紙もまた、ドイツ全土の有識者、地方の土地所有者やその団体、教師や法律家、その他の地方行政に携わる人々に向けて発送された。調査の目的をあくまで「立法もしくは行政上の決議の準備」におき、それに必要な「経済的・社会的な事実と因果関係を調べること」を課題とする学会アンケートは「目撃者や専門家の意見を聴取する手段」であるとする考え方(G.エンプデン)に対し、G.シュナッパー-アルントは『社会的アンケートの方法』(1888)を発表し、①調査に参加する観察者(回答記入者)は十分な注意をもって選ばれるべきであること、②望ましい方向を被調査者に押しつける問いを避けること、③被調査者が責任をもって事実に基づいて回答しうると予想しうるような問いをたずねること、④長い問いを一連の関連した単純な問いに分解すること、⑤多くの人々に直接意見をたずね、その回答を記録して表や数字の形で表現すべきである、ことなどを進言した。
 さらに村上氏は、大学に開設された「社会科学ゼミナール」に参加し経済学や統計学の訓練を受けた若手研究者たちが行った、都市や農村の下層階級の状態等、同時代の社会問題に関する「現地調査」に着目する。彼らは、特定地域に的を絞って集中的な踏査を実施し、中には「労働者自身が直接回答する質問紙調査」を試みる者も現れた。G.シュモラーの門下生で彼のゼミナールにおける地域踏査のモデルとなった、A.トゥーンの『ライン下流の産業と労働者』、ブレンターノのゼミナールで、労働者自身が直接回答する質問紙調査を試みアルザスの綿工業に関する学位論文を書いたH.ヘルクナーのほか、エンゲルの統計ゼミナールで学んだシュナッパー-アルントによる「タウナス丘の5つの村落社会に関する研究」は、丘陵耕地村落に一定期間滞在し「相当数の事例で狭く限定された対象を精確かつ十分に研究する」ものであった。

 ビスマルクの統治が終わりを告げた1890年、社会政策学会はシュモラー新会長の下、社会問題に対する討議資料の獲得を目的とする社会調査に着手した。しかるに、先の農村高利貸し調査のときと同様、H.ティール(プロイセン農業省枢密顧問官)が指導的な役割を演じた「農業労働調査」(1891~92)では、農業経営者や土地所有者だけに質問紙が送付され労働者自身に質問しなかったこと等、学会アンケートの方法をめぐって激しい論争が起こった。村上氏は、そうした方法論争の背景に、当の調査をつき動かした問題=「農業労働者問題」の認識をめぐる対立があることを読み解いていく。すなわち、雇用主のみを対象とするアンケートは、労働力不足という当時の農業雇用主の窮状を把握するという限りでそれに適した方法だったのであり、農業労働者問題を「雇用主の問題」として認識する調査の指導者の立場に由来する。
 全国各地から返送されてきた回答報告書の評価は当時の若手研究者6人が担当することとなり、東エルベ地域に関する報告書の執筆はM.ヴェーバー(1864生)に委託された。M.ヴェーバーにとって問題は、「かれら(農業労働者)のくらしが良いのか悪いのか、かれらを助けるにはどうすべきか」ということより、「歴史的に受け継がれてきた農業大経営下の農業労働制度の崩壊が進行するひとつの像」を手に入れること、すなわち、東部における労働者状態の発展方向を析出することに注がれていた。このようなヴェーバーの関心にとって雇用主の観察は、その像を構成する「物質的かつ経済的な部分」について明らかにするのに有効な(相互に点検可能な)資料であったが、「心理学的モーメント」と「変革の将来」をこの資料でつきとめることは不可能であった。
 労働者の「主観的見解」に関する信頼できる正確な資料を獲得するには、そこに立ちはだかる「困難」=アンケートに対する労働者の不信感を克服しなくてはならなかった。その仕事を「教区民から信頼された牧師たち」の観察に期待したM.ヴェーバーは、新たな農業労働調査(「農業労働者の状態に関する‘私的アンケート’」)の実施を福音社会会議に提案する。同会議事務局長P.ゲーレとの共同で起草され、管区牧師や国民経済学者らによって吟味されたこの質問紙は、調査の主題と当時の調査環境を考慮したさまざまな改善が施されていた。質問紙は大きく、Ⅰ概況(相続や土地移動、労働者の種類、経営規模等)、Ⅱ労働者の一般的状態(物質的状態、家庭生活)、Ⅲ収入状況の明細、Ⅳ倫理的および社会的諸関係(農業労働者の出身と家系、移住や移動、読書の要求、学校と教会の関係、経営者や領主・官僚との関係、労働者や経営者の団体、社会主義の宣伝状況に関する問い等)からなっており、回答記入者となった牧師たちは、単に「情報提供者」としてではなく、「公平な仲介者」として労働者に直接接触し、彼らから信頼できる正確な資料を獲得するよう求められた。発送された15,000の質問紙のうち返ってきたのは1000弱に止まったが(1892-93)、中には、記述の深さや詳細さの点で土地所有者の報告を凌駕するものがあり、ヴェーバーはこの資料を「文化的に永続的な価値をもつ」ものとして高く評価した。だがこのとき、「卓越した」資料を学問的に加工するだけの方法論をM.ヴェーバーはまだ持ち合わせていなかった。
 社会政策学会による農業労働調査は、農場主等を回答者とする古くからのアンケート法をめぐる方法論議の幕開けを告げるものであり、福音社会会議によるそれは、農場主から牧師へ、そして農業労働者が自身回答者となる形への転換点に立つものであった。
(以上、第3章「農業労働調査とM.ヴェーバー」)

 社会主義者鎮圧法の議会での否決、1890年3月のビスマルクの辞任といった急激な政治情勢の変化ではじまるヴィルヘルム時代は、労働問題や社会問題の解決に強い関心をもつ人々によって着手された実践的な社会調査がアカデミズムの外側で急速に拡大し、広範な人々が社会改良的な社会調査に参入する。
 まず(1)帝室統計局が組織した「労働統計委員会」は1892年、「パン製造業・菓子製造業、穀物製粉所、小売商・卸売商、ボーイ・女給仕人、旅館・酒場の料理場の雇人、国内旅行と既製服商」を対象とする労働時間調査を実施。また、『マンハイムの工場労働者の社会的状態』(1891)や『ベルリンの労働者階級の社会的状態』(1897)など、都市に関する公式統計に依拠した報告書(二次分析)が多数出版された。また、(2)この時期になって「社会改良協会」をはじめ各地に社会改良団体が組織され、「プロイセンの農業労働者住宅」(1897)「宿泊業のサービス料」(1901)「庶出子の食料状態」(1908)に関する調査が実施された。さらに(3)ドイツ木材工組合は定期的な実態調査に基づいて『木材工業労働者の状態』(1902)『木材工業労働者の労働時間と賃金』(1908)を公表し、ドイツ金属労働者団体連合も大規模な労働実態調査を実施した(1910)。(4)世紀転換期に多くの人々が関心を寄せた労働時間短縮問題について、1901年、実際に稼働する工場(ツァイス光学工場)で実験的研究を試み画期的な成果を挙げた人物にE.アッベがいた。このアッベの工場実験は、後のM.ヴェーバーによる織物労働調査に多大の影響を及ぼした(第7章参照)。
 一方、(5)「福音社会会議」(1890年に召集)に結集する青年派の神学徒や牧師たちも、率先して多彩な調査活動に着手した。P.ゲーレは、1890年、3カ月間、約500人の労働者を擁する機械工場で自らの身分を隠して工場労働者として過ごし、その観察ノートを基に『3カ月の工場労働者と手工業青年』を著した。直接観察を試みた彼の課題は、「労働者階級の心情、つまり物質的な希望や精神的、道徳的、宗教的性格」について固有の像をつくることであった。1893年には、婦人運動家M.ヴェトシュタイン-アーデルトの『3カ月半の工場婦人労働者』も現れる。参与観察の成果を出版した翌年、ゲーレは福音社会会議の事務局長に就任し、M.ヴェーバーと共に農業労働者アンケートを実施(前述)。労働者の「希望や精神的、道徳的、宗教的性格を明らかにしよう」というゲーレの情熱は、『ある労働者の回想と思い出』(K.フィッシャー)や『現代のある工場労働者の生活史』(M.W.ブローメ)など5篇の、労働者自身の手で書かれた自伝の出版(1904-11)に向かわせる。
 同じく福音派の牧師ワグナーらは、性道徳の現状、性道徳弛緩の原因、性道徳の改善という明確な論理構造をもつ質問紙調査を行い(ドイツ道徳協会全体会議『福音派地方住民男女の性道徳の状態』1895)、また、自由主義神学者M.ラーデは、数年間にわたって労働者と文通を重ねた後、12項目の短い質問紙を郵送し(1898)、工業労働者の宗教的道徳的知的世界観に関する独自の調査を実施している。
 労働者の社会心理的な状態に関心を抱いたのは牧師たちだけではなく、(6)ドレスデンの公立図書館員W.ホフマンは、図書館記録を基に労働者の読書習慣を調べ「プロレタリアートの心理学について」(1910)を書いた。
 アッベによる工場での実験、ゲーレの参与観察、ワーグナーの道徳状態に関する調査、ホフマンの図書館記録を利用した調査は、いずれも、この時代に入って新たに出現した社会調査の「新試行」である。内容的にも方法的にも独創的なこれらの社会調査は、当時の高揚する社会改良運動や労働運動を背景に、社会問題や労働問題の解明や解決に熱心にとりくんだ人々の社会的営為から生まれてきたのである。
(以上、第4章「実践的な社会調査の新展開」)
 P.ゲーレと同時代、『底辺から:労働者の手紙』や『労働者哲学者と労働者詩人』(1909)を編集した人物に独学の労働者A.レーフェンシュタインがいる。これらの作品は、彼が、仲間の労働者と往復文書をやりとりする過程で収集した労働者の追憶、信仰告白、道徳についての考察、詩、譜面等の資料を編集し、ゲーレやラーデの尽力を得て出版したものである。村上氏は、このレーフェンシュタインの社会的営みに着目、独自に一つの章を割り当てている(第6章)。
 自宅で毎週労働者の夕べを開いたレーフェンシュタイン(社会民主党員)は、「交替」仕事に従事する来客と「機械的な」仕事に従事する来客との間に独特の差異があることに気付く。「彼らの思考や希望、願望をもっと大きな範囲で分析する」ことを思いついた彼は、全部で26の問いからなら質問紙の開発に着手する。彼は広範囲な労働者が「彼ら自身の率直な言葉で」回答してくれることを期待して、質問紙に手紙を添え切手のいらない封筒と一緒に同封して知り合いの労働者に送付、それを受け取った労働者がさらに別の知り合いに郵送した。1907年約1000通から始まったこの質問紙調査は「雪だるま式」に8000通に達し、そのうち5200通が回収された。
 『労働者問題』(1912)と題するモノグラフにおいてレーフェンシュタインは、①26の質問を大きく、A:基本属性、B:職業と労働条件、C:経済的状態の改善、D:社会的連帯、E:文化並びに生活問題に関する態度や希望に区分し、②労働者の種類(鉱山労働者、繊維労働者、金属労働者)ごとに特徴的とみなされる典型的な回答を抜き出して属性(労働条件等)や地域別に分類集計したほか、③質問紙に対する労働者の回答の仕方に着目して4つの「心理的諸類型」―「大衆層」「精神的に歪んだ層」「瞑想層」「知識層(創造的・自発的諸個人)」―をひきだす類型的方法を試みた。
 レーフェンシュタインは、入手したアンケートの中で「最優良の回答を含んでいる」一部の資料(資料全体の12分の1)を学者たちに提示して助言を求めた。この資料の「直接性」と「信頼性」に高い価値を見いだしたM.ヴェーバーは同僚E.ヤッフェとともに、「学問的な目的のためにいかに利用できるか」という観点から詳しく吟味し、「絶対数を比例数に置き換える」ことなど技術的な助言のほか、「述べられた動機」を詳細に分析するようにすすめ、質的記述的データから「計算可能なもの」を取り出して暫定的な「類型」を構成し、それらをさらに組み合わせて「経験的な類型」に到達するという方法を提案した(「社会心理学的アンケート調査の方法と加工について」1909)。
 レーフェンシュタインはそうした助言を受け入れようとはしなかったが、彼のモノグラフは、調査の過程で当時のアカデミズムと接触を持ったという意味で特筆すべき調査であり、労働者問題に関心を寄せる学者たちにも大きな反響を及ぼした。

 第5章「学問的な社会調査の新展開」では、ヴィルヘルム時代のアカデミズムの世界に、社会政策学会とは別の、経験科学の確立へと向かうさらに広範囲な複数の潮流があったことが明らかにされる。その第1は、「ドイツの社会民主主義的選挙民の社会的構成」(R.ブランク、1904/05)等、投票行動に関する社会統計学的な研究や、「過去50年間のドイツの大学」(J.コンラード、1884)「創設時から現在までのドイツの大学への通学者」(F.オイレンブルク、1904)等、高等教育に関する文化史的な研究である。オイレンブルクはまた、「ドイツの大学の教授年齢」(1903)「アカデミズムの後継者」(1908)を著し、大学の後継者問題をめぐる世代間の軋轢を顕在化せしめた。これらはいずれも統計局が公表した統計資料に基づく分析であり、豊富な統計の蓄積―この時代、統計が「秘匿すべきもの」から「公表すべきもの」へと変化した(I.ハッキング)―が同時代の社会的現実に関する経験的研究を大いに促進したことを物語っている。
 第2に、反改良主義の立場からの、「精密」志向の社会調査も生まれた。事実調査に着手はするが精密思考をとらないと「講壇社会主義者」を批判したR.エーレンベルクは、助手H.ラシーネとともに、クルップで働く3世代の工場労働者を対象に職業的・社会的移動に関する調査に着手し、当時の工場労働者たちの間にかなりの職業的な上昇移動が存在することを明らかにした(「クルップの労働者家族」1912)。
 世紀転換直後のドイツにおいていわゆる「退化問題」を背景に高まった社会進化論の流行は、社会階層の形成因として「生得的・遺伝的素質・能力」に注目する見方をはぐくみ、第3の、天才やエリートの家系、職業の連続性に関する社会調査が出現する。R.シュタインメッツは大学や芸術界、専門職や行政、商工業界で著名な800人に対する質問紙調査を試み(「天才の後継者」1904)、M.ツィールメーアは6年間をかけてある村の15の家族の職業や運命を追跡した(「精神的特質の遺伝に関する家系研究」1908)。また、F.マースによる「精神的指導者の血統的条件について」(1915)は人名録から抽出した4421の著名人の職業的連続性を追跡し、O.モストは質問紙を用いて「プロイセン高級官僚」の職業の連続性の程度を測ろうと試みた(1915)。
 このように、天才やエリートの「衰退」から精神病やアルコール中毒、自殺や犯罪、同性愛などの増加を「退化問題」ととらえ、「遺伝」が知的才能の産出におよぼす影響や、「退化の仮説」(下層階級を保護する社会立法が教養市民層から成る「適者の退化」をもたらす)の証明に関心が注がれる一方、こうした「遺伝問題」に対して慎重な態度をとった人々もあった。
 すなわち第4に、この時代、精神医学の分野で、神経症や精神病、犯罪や飲酒、放任や非行といった社会病理学的現象に関する調査研究が蓄積された。村上氏は、H.W.グルーレの『少年犯罪および少年不良化の原因』(1912)に着目する。面接調査の難しさを熟知していたグルーレは、ある社会福祉施設に収容された14歳以上105人の非行少年を対象に、直接的な個人的質問を避け作業場での、また散歩しながらのインフォーマルな面接を心がけた。彼は「無回答」も、質問者が質問し直すか、別の角度から質問内容を引き出そうと試みることで解決しうることを指摘した。このような面接調査の技法を用いて正確な観察素材を獲得したグルーレはそのデータから、環境要因や遺伝要因と非行との因果関係を探求する70の変数をとりだした。こうしたグルーレの分析は後にK.ヤスパースによって、「数えることの基礎」が明確な多数の変数をとりだして「はるかに多くの関係」を調べ上げることにより「本当の深い所にある関連」を探求した調査として高く評価された。

 「第7章 M.ヴェーバーの精神物理学研究」は、社会調査家ヴェーバーの真骨頂をとらえた章である。M.ヴェーバーは1908-09年、従兄弟が経営するヴェストファーレンの織物工場に2度にわたって長期間滞在し、経営管理者の協力を得て賃金帳簿や生産記録に沈潜することにより、個々の労働者の作業曲線や賃金曲線を加工し、そうした能率曲線に影響をおよぼす要因(湿度や温度、労働時間や労働日の長さ、性、年齢、労働の種類、労働作業の特質や作業中の工場の状態など)について分析を試みた。また、労働者が操作する機械の技術的な特質や原料の質が求める性質、製品種類の転換などの諸条件を考慮して、個々の曲線がどのようにしてできあがったかを詳しく分析し、経験や養成過程の影響、熟練度のちがい、さらには「緩怠」の意味を探った。
 このモノグラフは「工業労働の精神物理学について」と題する論文の一部として執筆されたが、それは、E.クレペリンの「労働曲線」(精神作業の疲労と回復)に関する実験的研究や徴兵検査・身体測定によるデータ、工場労働と精神疾患に関する医学的研究等を参照しつつ、主として実験心理学がつくりあげた概念装置を社会科学的分析にとりいれる際の方法上の諸問題を検討した上でヴェーバー自身が着手した「現地調査」であった。自然諸科学と社会科学の「境界領域」に踏み込み、工業労働の特定諸条件の研究領域で両者の学際的な共同研究の可能性を追求した野心的な試みであった。
 M.ヴェーバーは、このモノグラフの随所で、教育、宗教、教会や農村でのしつけ、家族の経済状態、若い頃に両親を助けたときに従事した仕事、兵役など、労働者の過去の経験や経歴が介入する可能性についてくりかえし言及する。こうして、「労働者の能力の格差の源泉(個人差の意味)」を、労働者の「地理的、文化的、社会的、職業的な出自」や「経歴」のなかに探求するという課題がうかびあがる。この関心は、社会科学がその観察手段を用いて解きほぐすべき一群の問題として、精神物理学研究と同時進行した社会政策学会による工業労働調査の主題となっていく。

 1908年、社会政策学会は、「大工業諸部門の労働者の淘汰と適応(職業選択と職業運命)に関する調査」と題する大規模な社会調査を開始した。この調査は学会が従来すすめてきた社会改良的な調査とは一線を画する学問的な性格の調査であり、それにはこの調査の準備段階におけるヴェーバー兄弟の活躍によるところが大きかった。提案者である弟アルフレットは質問紙や作業計画の草案を起草し、兄マックスは、参加者(共同研究者)に向けて作業説明書を書いた。この調査で実際に現地調査に着手したのは社会科学ゼミナールの若手研究者たちであり、マックスが執筆した「方法序説」は、この調査を実現可能な方向へ導くために、調査の目的や課題、方法上の問題点を詳細に解説したものであった。
 1908年、グラッドバッハ紡績に糸巻き工として雇われたM.ベルナイス(A.ヴェーバーのゼミナールで学ぶ)は、「工員の一員」として受け入れられた頃合いをみて、工場の管理者に「素性と計画」を打ち明け、工場への自由な出入りを許可される。ベルナイスはこうした現地調査をもとに「織物工場の淘汰の要因としての労働者の出自と生活運命を提示し、労働者の文化水準の像を提供する」とともに、「出自、生活運命、文化水準と経営にとっての収益性との関係をつきとめる」報告書を提出した。後者の研究は新たな調査の企画を生み、ライン上部のある織物工場で数カ月を過ごしたベルナイスは、「女工達を管理するための能率」に関する資料を収集し、「労働者への質問によって必要な資料を集めること」に成功した。この試みはM.ヴェーバーがヴェストファーレンで試みた方法を忠実に再現したものであった。ベルナイスのこうした現地調査の方法は、R.ソレイル(ウィーンの機械工場で経営者ならびに労働組合の信頼を得てほぼ全員の労働者から正確な質問紙を回収)や、M.モルゲンシュタイン(オッフェンバッハの皮革製造工場で労働者との「私的会話」を試みた後、直接面接を組み合わせた質問紙調査により一人の拒否に出会うことなく工場の全労働者247人から質問紙を獲得)、K.ケック(バーデンの化学器具工場労働者を調査)など、他の共同研究者の模範となった。
 以上の例が示すように、この調査は、学会が労働者自身を直接質問の対象とした最初の調査であったが、ベルナイスのように労働者の中にうまく入り込めた者がいる一方、社会政策学会の調査に対する個々の労働者や左翼政党の根強い不信感が、実際に現地調査に着手した若手研究者の前に大きく立ちふさがった。
 学会のアンケートに着手した総勢14人の共同研究者による15のモノグラフは1910~15年『社会政策学会誌』に発表されたが、その中には、R.ケンプによるミュンヘンの若年女工調査(家庭を訪問し彼女らの食事の献立や衣類の目録を調べ工場や家庭での生活を詳細に記録)など異色の報告書や、「労働者の運命」や「淘汰と適応」は「労働者の心理学的特質の中にある何かではなく、組織と技術に関する出来事の中に探求すべきである」と主張し、M.ヴェーバーのテーゼに対する批判的な観点からエルフルトの製靴工場労働者を対象とする独自の調査に着手したR.ヴェッテロスのモノグラフも含まれていた。
 工業労働調査の前進を阻害した障壁は、この調査の方法と成果をめぐる討議においてさらに顕在化する。        
(以上、「第8章 社会政策学会の工業労働調査」)
 若手研究者たちの調査が続行中であった1911年10月、社会政策学会はニュールンベルクで「労働者心理学の諸問題」と題する討議を開催した。第9章「社会政策学会の討議」は、工業労働調査の方法をめぐる論議を再構成したものである。
 社会政策学会が工業労働調査で用いた質問紙は、「労働者の間に不満やペシミズムを呼び起こさざるを得ず、それによって工場労働者の苦痛に対する自覚がもたらされる」など、当時の新聞紙上で酷評が浴びせられていた。学会の討議においても、労働者が設問の意図するところを十分イメージできたかどうか、労働者がその職業に到達した客観的経過と職業選択の際の本人の動機を明確に区別してたずねる必要があるなど、「問い」の表現をめぐって率直な疑問や批判が交わされた。基調講演を行ったH.ヘルクナーは回収率に言及し、「質問紙は彼ら(労働者自身)によって回答されるべきではなく、個人的に親密な労働者の発言から獲得した事実を共同研究者が記入すべきであった」と述べた。
 学会討議の予定討論者に指名されたL.v.ボルトケビッツは、若手研究者たちが執筆したモノグラフについて「私的統計」が直面する危険(①一般化の危険②統計が把握しえない出来事を研究対象にしようと誘惑される危険③一般統計だけができる点に研究を拡張しようとする危険)という観点から吟味した。
 これに対し、M.ヴェーバーは、学会調査(「私的統計」)の目的は、「一般統計の結果」を確認することではないと反論するとともに、調査の過程で研究者自身が試みる「計算仕事」を「問題」発見につながる重要な仕事と位置づけ―「数の算出を個人的に持続的になしている間にだけ、その数字を解釈し新しい問題設定を発見するのに必要な思いつきが共同研究者に現れてくる」―、現地調査の方法を用いて仮説索出を重ねていく個別経営だけでなしうる新しい研究分野が切り開かれつつあることを力説した。M.ヴェーバーにとってこの調査は、まだ「端緒に立った」ばかりの「数十年かけて落ち着いて拡大」していくべき事柄に関する研究であった。
 このように、学会が催した討議は、「事実問題」の学問的な探求を目的とする社会政策学会の工業労働調査が、資料分析の技術的な方法を含めて、今後とりくまなければならない方法的な課題について、専門的かつ学問的な論議が展開された特筆すべき出来事だった。
だが、M.ヴェーバーはこの時点で、学問的な社会調査のそれ以上の進展を社会政策学会に期待できないと考えていた。ヴェーバーは学問的な社会調査を革新するための活発な活動を、新たに誕生した「ドイツ社会学会」を舞台に展開していこうとする。

 ドイツ社会学会の誕生(1909年3月7日設立総会)は、社会学がアカデミズムの世界で「市民権」を獲得し独立した地位を確立していく重要な第一歩であったが、社会調査史の文脈でみるならば、それは社会調査と社会学を架橋して同時代の社会的現実にアプローチする「経験社会学」の確立構想を内包する出来事であった。
 「ドイツ社会学会の会員となりうる方々への勧誘状」(1909)のなかで、M.ヴェーバーは、新学会を「純粋に客観的な学問的性格をもつべきはずのもの」と規定するとともに、学会の母胎である社会政策学会の活動から社会調査の伝統を継承することを説き、新学会が今後とりくむべき「諸問題」として次の4つを提示した。すなわち、1.新聞に関する調査、2.団体(社交的なクラブから政党に至る)に関する国際比較を視野においた研究、3.技術の発展と文化の関連に関する研究、並びに4.「心神の衰弱」問題である。これらのうち3と4は、心理学・工学の専門家や実務家団体との、あるいは神経学や精神病学との協力・共同を不可避とする課題であった。
 このうち、「第10章 社会学会の設立と新聞調査」では1に焦点が当てられる。新聞に関する調査は、新学会が最初に着手する調査企画としてM.ヴェーバーがその実現に向けて活発な活動をくりひろげたものであった。ヴェーバーは、当時すでに巨大な発展を遂げていた新聞事業が大衆の信念や希望、近代人の生活感情や態度、世論におよぼす影響に重大な関心を払っていた。M.ヴェーバーの新聞調査の構想は、①その内容において、新聞の存立諸条件の解明から出発して、新聞社の各種業務やそれに従事する人々の状態を多角的に把握するだけでなく、新聞の「質的な発展傾向の研究」(国際比較を含む)をも射程に入れており、また②そこで用いるべき方法について、商業登記簿をはじめ「正確な計数的な情報」を入手すること、新聞事業に従事する従業員の資質、彼らの適応と選択(社会的出自、予備教育、就職状況、給与の種類等)については可能な限り「質問紙調査」を行うこと、新聞そのものを対象とする内容分析を提唱し、③この調査に対する新聞業界の代表者、関係者、ジャーナリストの信頼と協力を得るため、総勢32人からなる「当事者参加型」の推進委員会を組織しようとする壮大なものであった。
 当初は順調なすべりだしをみせた新聞調査であったが、ある新聞記者の中傷記事をめぐって事件は訴訟にまで発展、M.ヴェーバーは学会の会計幹事を辞任する(1912)。経験的な検証が不可能な「国民」や「人種」概念をめぐって主観的な価値判断論議がとびかう状況に、「価値自由な仕事と討論の場とを」期して創設に加わったヴェーバーは、学会からも辞去していく。だがそれによりM.ヴェーバーの社会調査活動が途絶えたわけではない。第一次世界大戦中に志願して陸軍病院の設立と運営にかかわったヴェーバーは、そこでの経験をもとにしたモノグラフを書き(1915)、また1919年、招聘されたミュンヘン大学で社会学ゼミナールを開設し、社会調査を用いた学生指導に従事した。

 ヴィルヘルム時代の後半、社会学会が構想した新聞調査は具体化されることなく終わったが、ワイマール時代へ移行する前後の頃から、ドイツの各大学にあいついで新聞学講座や新聞研究所が開設された。ベルリン大学新聞研究所や心理学者W.メーデによる新聞記事に関する調査は、新聞が読者の内面的態度および世論形成におよぼす影響を探ろうとするものであり、新聞学は、時代の学問として普及していく。
 ワイマール時代(1918年11月ドイツ民主共和国が成立)は、社会政策学会の活動に特筆すべき社会調査が見当たらない。そのため一見すると社会調査が後退したように見えなくもないが、学会の外に視野を広げれば、新聞調査をはじめ活発な展開があった。
 H.d.マンの『働く婦人の闘争』(1928)は労働者の自伝の流れを継承し、ラーデの調査から強い影響を受けたP.ピーコウスキは聖書に対する労働者の態度や宗教問題に関する家族の会話、労働組合や政治的・宗教的組織への所属についてたずねる質問紙を用いた郵送調査を試みた(『プロレタリアの信仰』1927)。一方この時代には、ホワイトカラー問題に焦点をおいた社会調査も出現する(職員組合『ホワイトカラーの経済的・社会的状態』『今後のホワイトカラー世代-出身、労働状態、新人職業教育に関する社会統計学的研究』、いずれも1931)。第一次政界大戦後、深刻な経済的危機に直面した1920年代半ば、ワイマール政府は政府直属の調査委員会を組織し、全経済分野を対象とするアンケート調査と12の主要職種からなる家内工業の個別調査を実施した。
 またヴィルヘルム時代に隆盛した学問的な社会調査の諸潮流もこの時代に引き継がれる。「作業曲線」への関心は「労働生理学研究所」の設立(1916)以降、「労働科学」の名のもと経験的研究の蓄積をうながし、A.コッホの「社会科学的認識情報源としての労働者回顧録」、O.ズール『ホワイトカラーの生活態度』(1928)やW.ヘルパッハ『集団製造』(1922)など、社会心理学的な労働者調査も行われた。管理労働と工場労働の心理学的な比較を試みたヘルパッハの研究は、ホワイトカラーの待遇改善を目的に被雇用者の「客観的状態」のみを問題とした職員組合による実践的な調査には欠落しがちな、彼らの主観的な態度や行動様式への関心を補うものであった。
 エリートに関する経験的研究はこの時代にも若手研究者の学位論文のテーマであった。
『帝国議会の社会学的組織』(A.ボレル)『1871-1918年のドイツ帝国議会の政党の社会構造』(W.クレーマー)『ドイツ陸軍と将校』(K.デメータ)がそれである。エリートの職業的背景や社会的出自は、ナチズムの台頭と前後する形で活発に行われた。一方、精神医学分野では、A.ヴェツェルの『大量殺人者』(1920)やL.v.d.ハイデンの『登録売春婦の人格と生活運命』(1926)など、社会病理学的な調査が行われていくが、中でも村上氏は、A.フックス-カンプの『旧救護児童の生活軌跡とパーソナリティ』(1929)に注目。救護院を退院した非行少年たちのその後を追跡したこの研究は、フレイゲン救護院を舞台にした調査が第一次世界大戦をはさんで継続していたことを示すものであり、質的方法により収集された「原資料」を類型化やクロス集計といった量的方法を用いて加工していく試みであった。
 他方で、「無意識」あるいは「深層心理」への関心の高まりを背景に、ワイマール時代に入って社会調査の積極的な受容を推し進めた心理学や教育心理学の分野では、G.デンが1920-22年にかけて多くの学校を訪問し、「投影法」を用いた調査を試みた(『自己証明によるプロレタリア青年の宗教思想』1923)。また、カトリック系の労働者階級の青年クラブで文学班のリーダーを務めたH.ブッセは、青年達が文学作品について議論した際に交わした言明や集中的な面接を公立図書館の貸し出しデータとつきあわせながら、14歳から18歳までの青年労働者の文学理解の特質とその程度を測定し、環境的要因ならびに心理的要因が文学理解に影響を与えているかどうかを探り、時間的な経過を考慮に入れて、文学理解や文学の評価能力に発達段階があることを確認した(1923)。教育学者A.ブーゼマンは『独自の意見をもった青年達』(1926)で「青年の自画像ならびに青年が自分を描く際の方法」に読者の注意を促すとともに、「生活環境」という独自の概念を提唱して、複雑な社会現象にアプローチするための複合的(ケース・スタディーや実験、参与観察や面接、質的方法や統計的方法等を統合する)方法を開発する必要性を力説した。
(以上、「第11章 ワイマール時代の社会調査」)

 第12章は同じくワイマール時代における「社会学と社会調査の交流」に当てられている。ドイツ社会学会は、第一次大戦後の1922年に活動を再開したものの、学会の活動の焦点は「社会学確立」運動に据えられた。それは既存のアカデミズムにおいて社会学が地歩を固めていく重要な第一歩であったが、社会学会を舞台にした社会調査の活動はほとんどなされなかったのである。1930年の学会最後の大会で「社会誌学部会」がはじめて設けられたが、そこにはたったひとつの経験的論文も提出されなかった。しかし、このことは、この時代に社会学と社会調査の間に有力な交流がなかったことを意味するわけではない。その例として、村上氏は、F.テンニースの経験的研究と社会誌学、ケルン大学社会科学研究所ならびにフランクフルト大学社会研究所の調査活動をとりあげる。
 テンニースは、ヴィルヘルム時代の1897年、ハンブルクで起きた大きなストライキに関して、その出来事の目撃者としての経験と二次資料に基づいた報告書を書いた。以来およそ40年間、テンニースは、①現地観察に依拠した労働者問題に関するモノグラフ、そして②「自殺、犯罪、文盲と、ぎっしり詰め込まれた共同住宅の間に」ある相関関係を探り出すなど、犯罪統計や自殺統計に基づくモノグラフを執筆した。テンニースが経験的研究に没頭した背景には、「社会誌学」を確立するという強い決意があった。テンニースによる「道徳統計学」もしくは「社会誌学研究所」の構想には、社会学者、統計学者、医師、牧師、学校教師、教育を受けた特権階級の婦人たちなど多くの職業人や専門家が、ある期間、社会誌学的、統計学的訓練を受けた後、正確な測定から観察、評価に至るあらゆる経験的方法を利用して、犯罪や自殺、売春、少年非行等々の社会病理学的現象の領域で共同研究に専念することが予想されていたという。
結局テンニースの運動は政府からの財政援助が得られず成功しなかったが、社会調査に着手する研究所の設立に成功したのが、ケルンとフランクフルトの大学であった。ケルン大学社会科学研究所はC.エッケルトとK.アデナウアーによって、第一次世界大戦後の新しい民主主義社会の建設を助成する研究所として創設。社会学部門の代表に就任したL.v.ヴィーゼは、村やゲットー、小都市、サマーキャンプ、ハリゲン諸島といったテーマを研究するため多くの現地調査を行い、そこで指導を受けた学生たちの中から多数のモノグラフが生まれた。この研究所でもっとも大規模なアンケートを実施したのは社会立法部門であり、その代表者に就任したT.ブラウアーは、労働者、組合職員、失業者を対象とする精緻な質問紙調査をはじめ、専門職とその組織の体系、産業教育、賃金制度に関する調査研究を精力的に展開した。
市民の寄付と努力による唯一の寄付金大学として開学(1914)したフランクフルト大学は1924年、国家と社会を批判的に研究する研究者の育成をめざして社会研究所を創設する。社会研究所は、M.ホルクハイマーが所長に就任した1931年前後、3つの大規模な社会調査に着手した。そのひとつは、「肉体的労働者とホワイトカラーの心的構造への洞察を得る」ことを目的とする調査であり、2つ目は、第一次世界大戦後の性モラルの変化に関する調査、3つ目は家族内での権威(稼ぎ手としての男性の役割と家族内における権威との関係)についての調査であった。
 一つ目の調査を具体化するに当たり、E.フロムは、A.レーフェンシュタインによる社会心理学的な社会調査の試みを参照している(H.ヴァイスが両者の間を橋渡しした)。しかし、上記の3つの調査はいずれも、ナチの台頭と政権獲得(1933)により研究所自体が亡命を余儀なくされ、その過程で記入済みのアンケートを失うなど大きな打撃を受け一端途絶した。『権威主義的パーソナリティ』(T.W.アドルノ)など、これらの調査の成果がまとめられたのは第二次世界大戦後のことであり、フロムの調査が『第三帝国以前の労働者と職員』となって日の目を見たのは1980年のことであった。

 「終章」において村上氏は、近代ドイツにおける「社会調査の多面的な展開」を簡潔に
ふりかえり、社会調査と社会学の間に活発な交流があったことを示す主な出来事として、1.ヴィルヘルム時代の終盤に位置するドイツ社会学会の設立やそこに至るまでのM.ヴェーバーの社会調査の活動、2.ヴィルヘルム時代からワイマール時代にかけて持続したテンニースの調査活動、3.ワイマール時代のケルン大学におけるヴィーゼの現地調査を用いたゼミナールの指導、そして4.ワイマール時代の終盤に位置するフランクフルト学派の社会研究所を舞台にした社会調査を挙げる。ヴィルヘルム時代の躍動する社会調査の新展開から徐々にその姿を現した「経験社会学」の歩みは、学問的な社会調査がくりかえし直面した種々の困難や社会学の未熟な状態に翻弄されて紆余曲折しつつも、「脈動」しながらワイマール時代にも引き継がれていった。このことを指摘して、村上氏は、本論文をしめくくっている。


【本論文の評価】

 本論文の成果(特色)は、第1に、これまで内外の研究書に乏しく、社会学史研究において「考慮の外」におかれがちであった「近代ドイツにおける社会調査の歴史」の空白を埋め、近代ドイツには、直接観察を含む多様な社会調査がなされてきた独自の歴史があり、当時のアカデミズムの世界にも社会調査が広範囲に浸透していたばかりでなく、社会調査と社会学が相互に交流する数多くの出来事があったことを、綿密な資料の渉猟・発掘によって、いきいきと描き出したところにある。(村上氏が今回の研究に必要な原典やその解読に欠かすことのできない文献を入手するに当たっては、本学図書館とりわけ社会科学古典資料センター所蔵のメンガー文庫が一定の役割を果たした。)
 第2の成果は、社会調査史を叙述する方法的視点として、村上氏が、「社会調査家の社会的営為に焦点をおいた出来事史」という独自のスタイルを提示したことである。〈方法〉や〈制度化〉あるいは〈学問領域(社会学)〉といったような社会調査の「一断面」を切り口とするアプローチでは、社会調査の歴史的展開がもつダイナミックな性格を見失う危険を払拭できないとする村上氏は、「社会調査の歴史的展開がもつ躍動感を見失うことなくこれをいかにして叙述するか」について探求を怠ることなく、社会調査の歴史を「出来事」史として把握し、これに関与した人々の「社会的営為」に焦点をおいて叙述するという方法を発見し、その方法を見事に展開したのである。
 第3に、大学院時代、中野清一教授(当時)の下で学んだ村上氏は、M.ヴェーバーが試みた社会調査に関心を抱き、農業労働調査や織物工場での調査、工業労働調査等、M.ヴェーバーがとりくんだ一つ一つの調査の具体的な姿を再構成する研究を一貫して続けてきた。本論文において村上氏は、(1)新聞調査構想など、M.ヴェーバーの社会調査活動の再構成に新たな一章を付け加えただけでなく、(2)それぞれの調査を彼が生きた時代、また彼をとりまく人びととの交流(論争を含む)のなかに位置づけながら、時代が提起する諸課題に果敢に挑んでいった社会調査家M.ヴェーバーの苦闘(方法論争、構想と実証、成功と挫折)の軌跡を跡づけている。
 そうして第4の、本書のなによりもの特色は、登場する人物の一人一人、作品の1つ1つが、まるでそれらの息づかいが聞こえてきそうなほど活写されていることにある。ひとつひとつの社会調査活動はけっして突然変異のごとく生成してくるものではなく、同時代が提起する諸課題にせまられて、縦糸(継承)と横糸(交流)が織りなすところに生まれ出る知恵がぶつかり合い、あるいは相互に高め合いながら、発展してきたことがわかる。また、本論文では、「アンケート」の古典的形態が詳細に提示されていることなど、今日、我々が知っている様々な質的あるいは量的な方法がどのようなプロセスをたどって生成-展開してきたかを具体的に知ることができる。その意味において本書自体が第一級の歴史資料ともなっている。

 本論文の問題点をあげるとすれば、社会調査と社会学の接点のなかからドイツにおける「経験社会学」誕生のプロセスをさぐりだそうとする著者の意図(本論文の副題)が孕む問題性についてである。M.ヴェーバーの新聞調査のあまりに壮大すぎる構想や、テンニースとヴィーゼの調査活動がアカデミズムの世界に狭く制限されていたことなど、ドイツ社会学会形成以降における「経験社会学」の生成-展開は、社会学に収斂することにより却って、社会的現実との接点を失っていった感が否めない。むしろ、著者が本論文において描き出した、アカデミズムの内外における調査実践、ならびに社会科学と自然科学の、そして社会科学諸分野の垣根をこえた多様な学問分野が協働しあう姿をみるならば、近代ドイツにおいてその社会を生き抜いた人びとが遂行してきた社会調査という営みが、(他の国々におけるそれと比べて)どのような特徴を有していたのかを摘出してほしかったように思える。
 いまひとつ強いて問題点を挙げるとすれば、社会学会の設立に当たってM.ヴェーバーが挙げた4つの「諸問題」相互の関係についてである。そのうち村上氏は「新聞調査」に着目しもっぱらそれに焦点を当てたが(第10章)、その結果として、4つの諸問題とそれ以前におけるヴェーバーの社会調査活動との間のつながり具合がみえづらくなったように思われる。「団体」研究それ自体の射程や、「技術の発展と文化の関連」及び「心身の衰弱」問題をより掘り下げ、4つの問題をつらぬく課題意識を浮き彫りにすることができれば、M.ヴェーバーの社会調査像をより立体的に描き出せたのではないだろうか。
 しかしながら、これらの問題点は、村上氏がここまで深く近代ドイツの社会調査史研究を推し進めてきたがゆえに浮かび上がってきた課題である。

 本論文の最後に登場するフロムの精神分析学に依拠した解釈的質問紙も、ゲーレやラーデ、レーフェンシュタイン、さらにM.ヴェーバーやベルナイス等々の営みとつなげてみるなら、想像力豊かにその意味をとらえなおしていくことができる。「出来事」を、そうした連鎖の中でとらえるとき、広く長い歴史的視野において、ゆたかなまなざしで、社会調査という人間の社会的営為をとらえることが可能となっていく。本論文は、そうした可能性を切り開いた作品であり、広い裾野の上に社会諸科学の発展を見据えてきた本学大学院社会学研究科として学位を授与するにふさわしい作品である。
 よって、審査委員一同は、本論文が社会調査史研究という新しい分野を切り開くに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2006年4月12日


 2005年11月30日、学位請求論文提出者村上文司氏の論文について最終試験を行った。本試験においては、審査委員が、提出論文「近代ドイツ社会調査史研究―経験的社会学の生成と脈動―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、村上文司氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、村上文司氏は十分な学力をもつことを証明した。
 よって、審査委員一同は、村上文司氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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