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博士論文審査要旨

論文題目:環境学と平和学の関係についての一考察
著者:戸田 清 (TODA, Kiyoshi)
論文審査委員:矢澤修次郎、加藤哲郎、平子友長

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1. 本論文の構成

 本論文は、21世紀の人類社会の課題を解決するうえで重要な学問である環境学と平和学を架橋するための視角を提供するための壮大な試論である。環境学とは、「世界中の人々が平均的米国人のライフスタイルを採用すれば5個の地球が必要だ」と言われるような、先進国の資源エネルギー浪費構造と、発展途上国の貧困問題に同時に対処して、持続可能で公平な地球社会(有限な地球環境と共生し、世代内公平、世代間公平の確保された社会)を構築するための基礎的、応用的な研究を行う学際的分野である。平和学は、ガルトゥング学派によれば、直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力の少ない社会を構築するための研究を行う学際的分野である。現在の「持続不可能で不公平な社会」は、環境不正義(一人当たり資源消費や保健指標の巨大な格差、公害輸出など)の性格を帯びた石油文明を基盤としており、構造的暴力(先進国の資源・エネルギー浪費と発展途上国の貧困の構造化)を維持するために直接的暴力(たとえば石油資源支配のための軍事力行使)が発動されることが少なくない。また戦争は最大の資源浪費、環境破壊である。このような考察から、環境学と平和学を連携させる必要性は、学問的にも実践的にも重要であることが示唆されるが、本論文は、ガルトゥング学派の平和学やウォーラースティンらの世界システム論をベースにして、両学問の連携をはかるための基礎的な視角を具体例の分析を通じて提示することを目的としている。
本論文の構成は、以下のとおりである。なお本論文は、戸田清『環境学と平和学』(新泉社,2003年)から、死刑、冤罪、テロなどの章節を除き、新たな視点を加えて、再構成したものである。同書の図表すべてを本論文の末尾に資料として収録している。

第1章 はじめに
第2章 理論的前提
第3章 環境正義
第4章 環境社会学と平和
第5章 アメリカ的生活様式
第6章 直接的暴力・構造的暴力・文化的暴力
第7章 構造的暴力としての環境破壊・資源浪費
第8章 南北問題と資源環境問題
第9章 水俣病および石綿問題と構造的暴力
第10章 麻薬問題と煙草問題
第11章 遺伝子組み換え作物
第12章 ジェンダーと医療
第13章 国家・国際機関と構造的暴力
第14章 民間企業と構造的暴力
第15章 核(原子力)の軍事利用と民事利用
第16章 環境学と平和学
第17章 暴力の文化と平和の文化
第18章 民主主義と権威主義
第19章 「環境破壊と戦争の世紀」から「環境保全と平和の世紀」へ
第20章 おわりに
図表一覧
引用および参考文献
資料(『環境学と平和学』、「環境正義の思想」の図表)

2 本論文の概要

第1章では、本論文の問題意識について述べている。18世紀英国産業革命によって確立された石炭文明を発展的に継承して20世紀に米国で成立した石油文明は、やがて核文明を内包するに至った。この文明は、いわゆるアメリカ的生活様式が世界に普及すれば「5個の地球が必要」と言われるほど資源浪費的であり、地球環境危機を招いている。先進国の浪費を維持するために武力行使まで発動される。自然破壊的で不平等な社会を自然調和的で公平な社会へと変革するための諸条件を、環境学と平和学の連携の視点から探究することが本論文の問題意識であることを述べている。
第2章では、本論文の理論的な前提であるウォーラーステインの「世界システム論」とガルトゥングの「平和学」について説明している。
ガルトゥングは「直接的暴力」「構造的暴力」「文化的暴力」の概念を提示して平和学のパラダイム転換(戦争と平和の研究から、暴力と平和の研究へ)を行った。暴力とは、生命・健康などが人為的に制約されることである。戦争や殺人のような直接的暴力においては、加害の意思をもった行為によって生命や健康が侵害される。差別、不平等、飢餓、抑圧、環境破壊のような構造的暴力においては、必ずしも加害の意思がなくても、社会の構造によって生命や健康などが制約される。文化的暴力とは、直接的暴力や構造的暴力を正当化する言説などを言う。資源消費の南北格差や先進国独占資本の海外権益(構造的暴力)を維持するために、しばしば軍事力行使(直接的暴力)が発動される。植民地支配という構造的暴力を成立させたのは直接的暴力であり、今日の新植民地主義を維持するためにも要所において直接的暴力が発動される。「列強帝国主義」の時代には「帝国主義間戦争」に至ることも多かったが、新植民地主義の時代(第二次大戦以降)においては、「米国を盟主とする階層をなした集合的帝国主義」という特徴があり、世界銀行の権力的側面(もちろん公益的側面もある)や先進国サミットなどにもみられるように「帝国主義間協力」が支配的である。
世界システム論は近代世界システムを分析単位とするものであり、16世紀に始まる近代世界システムは、20世紀末からシステムの危機(次の史的システムへの移行の時期)に入ったと考えられる。次の史的システムが抑圧的なものとなるか、解放的なものとなるかは未決定であり、21世紀前半の人々の行動に大きく左右される。
第3章では、「グローバル正義」の重要な構成要素である「環境正義」について説明している。環境正義には実体的側面と手続き的側面がある。実体的側面は、goods(環境資源の利用による受益)とbads(環境汚染、自然破壊による受苦)の公平な分配をはかることである。受苦は生物的弱者、社会的弱者に集中する傾向がある。受益の不公平の典型は、「世界人口の2割を占める先進国が世界消費の8割を占める」といわれる南北格差の問題である。手続き的側面は、goodsとbadsの公平な分配をはかるための意思決定への市民参加、情報公開と説明責任、世界システムの民主化などである。
第4章では、環境社会学に平和学の視点を明示的に組み込む必要性について検討している。また、ギデンズの「近代社会の4つの制度特性」(資本主義、産業主義、暴力、監視)は、現代社会の認識として適切であるが、集合的帝国主義に対する歯止めにならなかったことを指摘している。
第5章では、近代世界システムにおける自然と人間の関係の危機をもたらした「アメリカ的生活様式」について述べている。20世紀後半には、石油文明の重要な構成要素として核文明が加わる。米欧日には「大量採取、大量生産、大量消費、大量廃棄」の社会が形成されており、これは「アメリカ的生活様式」を模範としている。あわせて、石油文明の黄昏を示唆する「石油ピーク」について言及している。
第6章では、ガルトゥングの直接的暴力・構造的暴力・文化的暴力の概念を再度整理している。あわせて、いわゆるデモクラティック・ピース論が長期的には妥当であるが、短期的には文化的暴力(「民主化のための戦争」の口実)として機能することを指摘した。さらに、構造的暴力としての二重基準について検討している。
第7章では、資源環境問題が構造的暴力として把握されることについて論じている。資源消費の南北格差にみられるような受益の不公平は、発展途上国の人々、特に最貧国の貧困層の福祉の実現可能性を妨げるものであるから、「構造的暴力」である。先進国の生活様式を地球全体に普及すれば、「エコロジカル・フットプリント分析」などが示唆するように「数個の地球」が必要になる。また「環境経済学」と「生態経済学」を比較し、「ベトナム枯葉作戦」について検討している。
第8章では、資本主義500年の歴史をふまえて、資源消費、環境負荷、保健指標などの面における南北格差について検討している。世界銀行・IMFは大口出資国である先進国の意向に左右され、累積債務国に勧告(事実上強制)される「構造調整プログラム(SAP)」は、発展途上国に失業率上昇、医療制度の衰退、乳幼児死亡率の上昇、一次産品の過剰輸出による環境破壊などをもたらしてきた。WTO体制のもとでは食品の安全基準はWHO・FAOの合同食品規格委員会の勧告が尊重される。米欧日の多国籍企業の意向が反映され、安全基準が緩和される。いわゆる「医薬品アパルトヘイト」も、構造的暴力の一例である。高価な医薬品に、購買力の乏しい途上国の患者はアクセスしにくい。
第9章では、水俣病および石綿問題を構造的暴力の視点から考察している。2004年の水俣病関西訴訟最高裁判決は事件史の流れからみて画期的なものであるが、1957年以降食品衛生法を適用せず汚染を放置した行政の行為が結果的に是認された。同判決で水俣病認定の昭和52年(1977年)判断条件が間接的に批判されたが、行政は同条件の見直しをしないとしている。これは被害者救済および予防原則を重視した環境政策を妨げる構造的暴力である。石綿が職業癌の原因であることは遅くとも1950年代以降明らかであり、職業病にとどまらず公害病でもあることは遅くとも1960年代以降明らかであった。にもかかわらず行政の対応が遅れたことは構造的暴力である。
第10章では、構造的暴力としての麻薬問題および煙草問題を論じている。煙草の販売は利益が目的であるが、消費者の生命・健康影響を承知のうえで行われる未必の故意であるから、構造的暴力と言える。喫煙関連疾患の生じる蓋然性が高いことを承知のうえで販売促進活動を行っているので、「未必の故意」であるといえる。また、アヘン戦争以来の英国、中国侵略を行った日本、麻薬により秘密工作資金の捻出などに走った米国に見られるような、国家の麻薬利用も構造的暴力である。日本財務省や米国通商代表部に見られるような国家による煙草産業支援も構造的暴力である。
第11章では、生命工学の商業化における構造的暴力の側面が重要であることについて論じている。遺伝子組み換え作物は、その有効性、必要性、安全性において、未解決の課題をかかえている。民間企業による遺伝子組み換え作物の利用は除草剤耐性作物および害虫抵抗性作物に著しく偏っている。除草剤耐性作物は、農薬の使用量は減るとしても、残留量は増えるものである。各国の行政が農薬残留基準を緩和したことも、残留量の増加をもたらした。また花粉が風や昆虫によって近隣の畑に飛散して非組み換え作物と自然交配したような「不可抗力」の場合まで、その農民を知的財産権侵害で提訴する方針を企業はとっており、企業の主張が法廷でも認められるなど、司法制度でも大企業に不当に有利となっている。
第12章では、ジェンダーにかかわる医療において構造的暴力の側面が重要であることについて論じている。17世紀に導入され現代医学で多数を占める「仰臥位方式」は、妊婦にとっても不便なものであり、医学的合理性についても一部の産科医から疑問の声があげられている。妊婦の都合ではなく病院側の都合によって、正月、クリスマス、夜間の分娩が回避される傾向が強く、そのために陣痛促進剤が濫用されることが多い。米国での避妊用ピルの認可に先立って、プエルトリコで大規模な人体実験が行われた。このような事例には、構造的暴力の要素が含まれている。
第13章では、国家や国際機関がもたらす構造的暴力について論じている。国連のイラク経済制裁では、医薬品・医療器具不足、栄養不良などにより100万人以上が死亡したと推定されており、その半分以上は子どもである。劣化ウラン汚染も健康悪化に寄与したと思われる。世界銀行・IMFの「構造調整プログラム(SAP)」は累積債務国への政策勧告である。勧告を受けた多くの国で、乳幼児死亡率の増加、感染症の増加、輸出促進による資源の乱開発や自然破壊などが見られており、健康、環境、福祉の面での悪影響が指摘されている。構造的暴力の要素が大きいといえる。
第14章では、軍需産業、煙草産業、農薬産業、インド・ボパール事件、医薬品産業、食品産業、水道民営化などを構造的暴力の事例あるいは、構造的暴力の要素を含む事例として検討している。
第15章では、核の軍事利用と民事利用の交錯的関係について論じている。核の軍事利用と民事利用の共通の出発点はウラン鉱山であるが、核開発の各段階のなかでウラン鉱山は放射線被曝がとくに多い労働現場のひとつである。世界で「プルトニウム大量利用政策」をとっているのは核兵器保有国と日本だけであり、危険性の問題だけでなく、日本は潜在的核武装能力保持の意図を海外では疑われている。
第16章では、環境学と平和学の連携について論じている。その連携の必要性は、次のようなことによって示唆される。
① 戦争は最大の環境破壊である。
② 先進国の大量浪費社会、南北格差という構造的暴力を維持するために軍事介入がなされる。
③ 先進国の大企業の投資や利益を守るために軍事介入がなされる。
④ 軍事占領によって資源の不公平分配がなされる。
⑤ 資源をめぐる武力紛争が発展途上国間や内戦という形でも起こる。
⑥ 戦争がないときでも軍事基地、軍用機などが環境汚染、資源浪費を加速する。
⑦ 有害物質規制などで軍事利用と民事利用の二重基準がある。
⑧ 軍事利用の民事転用(原子力潜水艦から原発へなど)や、民事利用の軍事転用(枯葉作戦での農薬使用など)が大きな役割を果たしている。
⑨ 科学者技術者、研究資金などが軍事に動員され、環境や福祉への資源配分が減少している。
第17章では、ギデンズの「近代社会の4つの制度特性」の観点から現代社会の特徴とあるべき変革の方向を整理している。あわせて、大量消費による豊かさを志向する「開発主義」から、自然生態系のなかでの人間社会の維持再生産を基本とする「サブシステンス志向(平和パラダイム)」への転換について考察した。さらに、「暴力についてのセビリヤ声明」を紹介している。 
第18章では、環境学と平和学の視点から反システム運動の要件を考えるうえでの論点のひとつとして、「民主主義と権威主義」について検討している。あわせて、「民主主義と権威主義」の二項対比よりもむしろ「デモクラシー、プルトクラシー、オートクラシー」の三項対比に改めて注目する必要性について論じている。
第19章では、史的システムの危機(次の史的システムへの転換)の時代において、新たなる「抑圧的システム」ではなく、「より公平なシステム」を求める「グローバル正義運動」について簡潔に論じている。
第20章では、今後の課題と展望について述べている。


3.本論文の成果と問題点

 本論文の第1の成果は、先進国の資源エネルギー浪費構造と発展途上国の貧困問題を通時的・共時的な連関で捉えるとともに、様々な形でふるわれている構造的暴力、直接的暴力、文化的暴力の諸相をきわめて広範囲にわたって具体的に把捉・分析・記述することに成功したことである。著者の分析は、一人当たり資源消費の不平等、医療、生命工学、軍事技術、核技術、化学技術、煙草問題、国際機関の新自由主義的政策や経済制裁など、多面的多分野に及んでいる。それを裏付ける各種実証的データは、国際機関・NGO等から広範囲に収集されており、有益である。
本論文の第2の成果は、これまでの研究が平和学に環境学を統合することを目指していたのに対して、平和学を環境学に統合することを目指しており、この点で極めてユニークな試みであるという点にある。それは、著者の広汎で深い自然科学的素養によるところが大きい。我が国における自然科学と社会科学・人文科学の統合の先駆的試みとみなすことができる。
本論文の第3の成果は、環境学と平和学の連携の視点が反システム運動の要件や「グローバル正義運動」の質に関する分析にまで貫徹されていることである。その結果として、著者が意図した諸々の反システム運動間の対話、連携の論理的可能性が示され、水俣病や劣化ウラン汚染等々のさまざまな具体例から、その萌芽が提示されている。
もっとも本論文にも、問題点がないわけではない。本論文の第1の問題点は、著者の環境学と平和学の連携の分析が多方面、多分野に渡った分だけ体系化が難しくなり、理論的に深めきれないところを残したことである。一例をあげれば、民主主義と権威主義の二項対立ではなくて「デモクラシー、プルトクラシー、オートクラシー」の三項対比が重要であるという反システム運動の質に関する問題提起は重要であるが、その指摘は研究史のなかで十分に深められておらず、問題提起にとどまっているように思われる。
 本論文の第2の問題点は、自然科学の素養を生かして、環境学のなかに平和学を統合しようとする試みは意義深いものであるが、それを追求する際には、マキャヴェリ以来の戦争と平和をめぐる学問的・思想的な営為の歴史的伝統、さらには近年における正義論の諸成果等も参照され、検討されるべきであった。
 本論文の第3の問題点は、環境学、平和学とさまざまな社会運動の連携、諸社会運動間の連携・対話に道を開いた意義を持つものの、環境破壊や矛盾の深化の結果としてのカタストロフィーの反転として、万年危機論風に社会運動を考えるような発想の残滓を、なお払拭し切れていないように思われることである。
 以上のような問題点は散見されるものの、世界的に自然科学と社会科学の融合が課題となっているなかで、本論文の構想と試論の意味は大きい。著者の試みは、著者の2冊の著書がすでに韓国語に翻訳されていることからもわかるように、日本のアカデミズムにおいてはユニークで実践的であり、他に類例を見ないものである。著者自身、先の問題点を十分自覚しており、それは今後の研鑽の中で克服されてゆくものと考えられる。
 よって審査員一同は、戸田清氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2006年4月12日

2006年2月27日、学位論文提出者戸田清氏の論文「環境学と平和学の関係についての一考察」についての最終試験をおこなった。試験においては、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、戸田清氏はいずれも適切な説明を与えた。
また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、戸田清氏は十分な学力を持つことを証明した。
 よって審査委員一同は、戸田清氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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