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博士論文審査要旨

論文題目:現代日本における情報サービス産業のIT技術者~雇用関係・仕事・技能形成~
著者:津﨑 克彦 (TSUZAKI, Katsuhiko)
論文審査委員:倉田 良樹、依光 正哲、一條 和生、福田 泰雄

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【本論文の構成】

本論文は現代日本の情報サービス産業で働くIT技術者を対象とした実証分析を通じて、従来の「日本的経営モデル」とは異質な、新しい雇用関係・仕事・技能形成のパターンが出現していることを論じている。「行為」概念を中心とした分析フレームワークを提出して、労働研究の方法の面でも従来の研究にはない独創的な視角を打ち出した意欲的な論文である。本論文の構成は以下の通りである。

第1章 問題意識と本研究の概要
第2章 本研究における基礎概念と諸前提
2.1 本章の概要
2.2 行為・生産活動・仕事と労働
2.3 生産活動・生産手段・資源獲得の歴史的展開1 産業社会における基本的問題
2.4 生産活動・生産手段・資源獲得の歴史的展開2 新たな生産手段と獲得の機会
2.5 生産手段獲得に関する日本的モデル
2.6 現代日本における技能形成・雇用と仕事に関する問題
第3章 情報処理技術者 新しい雇用機会か?
3.1 問題の所在
3.2 情報処理技術者の雇用
3.3 情報サービス産業における情報処理技術者の採用
3.4 賃金
3.5 小括
第4章 情報処理技術者の仕事
4.1 問題の所在
4.2 情報サービスの生産
4.3 情報処理技術者の生産手段
4.4 企業間分業と特定職務の「底辺職種化」
4.5 技術革新下における仕事のパフォーマンスの決定要因
4.6 小括
第5章 情報処理技術者と技能形成
5.1 問題の所在
5.2 情報処理技術者 技能形成の実態
5.3 情報処理技術者の技能形成
5.4 小括
第6章 まとめ 情報サービス産業技術者の雇用関係・仕事・技能形成
6.1 仕事・技能形成・雇用関係
6.2 技術者とワークライフバランス
資料1 ヒヤリング・定性調査概要
資料2 アンケート調査概要
参考文献
 
【本論文の内容要旨】

第1章の「問題意識と本研究の概要」では、研究対象、理論的なフレームワーク、方法論に関する本論文の特徴を示しながら、本論文における著者の3つの意図を説明している。第1の意図は、情報サービス産業で働く技術者を研究対象に設定することで、情報技術革新の影響下にある、現代日本の雇用・労働研究の先駆的な課題の解明に貢献しようとすることである。現代日本においては、情報技術革新の影響はおよそすべての産業、職種に及んでいるため、本研究からは、他産業、他職種の現状を分析していくさいにも適用可能な、多くの普遍的知見を獲得することが期待できる。第2の意図は、行為論的な諸概念に基づく理論的フレームワークを適用することで、生産活動、技術・知識、仕事・労働などに関する過去の研究を新たな視角から整理し、既存研究のステレオタイプを越える理論的前進を目指すことである。第3の意図は、既存の統計、各種調査と筆者自身が実施したオリジナル調査の結果を組み合わせる方法をとることで、情報サービス産業技術者の雇用や仕事に関する既存研究の欠落部分を示しながら、独自の知見を提示することである。第1章ではこれに続いて、本論文の結論と各章の内容紹介が行われている。
第2章の「本研究における基礎概念と諸前提」では、前半部分で本研究の中心概念である「生産活動」、「技術」、「仕事・労働」などの定義を行い、本研究の理論的フレームワークを提示している。これらの用語の定義にあたっては、認識、価値、資源という3つの要素によって構成される人間の「行為」の本質に遡及した考察がなされ、行為論をベースとする理論が展開されている。行為とは「ある存在が自身を含むさまざまな存在について認識し、その認識に応じて、資源を利用しつつ価値を追求しようとする一連の活動」である。
生産活動とは、「行為者がさまざまな存在の可能性を認識し、それを引き出す行為」であって、単にモノを生産する行為だけではなく、モノの空間的移動や人間同士の働きかけも含む広い概念である。情報サービス産業で働くIT技術者がクライアント企業の情報システムを設計・構築する行為(対事業所サービスという行為)も生産活動の一種である。また技術とは、さまざまな存在の可能性を認識し、引き出すにあたって活用される知識である。さまざまな存在の可能性を引き出すための知識である技術とは、目的、形相、質料、作用という4つの因を認識することである。情報サービスの生産に即して言えば、ユーザーの要求を認識すること(目的)、ハードウェア、ソフトウェアなどシステム構築の対象を認識すること(質料)、システムの要求、対象の認識に基づいて仕様設計・詳細設計を行うこと(形相)、設計に基づいてインフラを構築し、アプリケーション開発・テストすること(作用)という4つの要素から構成される。
仕事・労働とは、価値実現を意図するのではなく、資源獲得を意図して行われる生産活動である。自らの技術を活用してフリーウェアの生産に協力するIT技術者の無償の行為を仕事・労働とは言わない。情報サービス企業が受注したプロジェクトに関わる業務を遂行する技術者の行為は、その技術者の地位(経営者・正社員・非正社員・独立契約者)の別なくすべて仕事・労働である。仕事と労働の区別に関しては、行為者にとって不快と感じられる場合を労働、不快と限らない場合を仕事と定義する。ちなみに第3章以下におけるIT技術者の就労実態の分析にあたっては、一貫して「仕事」概念が用いられる。
第2章の後半部分では、生産活動、資源獲得、技術・技能、仕事などの概念を活用しながら大量の文献をレビューし、戦後日本の工業化の過程で、雇用関係や仕事内容の違いに応じてどのような技能形成が行われていったのかを考察している。津崎氏はこの考察を通じて(1)職場集団内の生産工程に関する情報流通や技能伝承に依拠したクラフト型技能形成(おもに製造業大企業の生産職場で成立)、(2)継続雇用の中で企業文化・社風を内面化させ、部署を超えた有用情報の収集能力を除々に高めていく内部労働市場的技能形成(おもに大企業管理職で成立)、(3)中途採用で優秀な人材を獲得するなどの外部依存的な専門的技能形成(おもに専門型中小企業で成立)という3つの主要パターンを析出している。そして以上のような戦後日本の雇用関係・仕事・技能形成のパターンが、1990年代後半以降の失業率の上昇、非正規雇用の拡大、若年不完全就労者の増大にともない、急速に変化していることを指摘する。上記3つの技能形成パターンのうち、クラフト型技能形成と内部労働市場型技能形成は、雇用情勢の悪化という要因だけではなく、情報技術革新という要因の影響も受けて、急速な崩壊過程に入っている、というのが本論文の前提となる認識である。本研究の対象である情報サービス産業は、新たな雇用機会創出の期待がかけられている成長産業であり、同時に情報技術革新の渦中にある産業でもある。今後の日本の雇用関係・仕事・技能形成の全体的な動向を予測する上で、先駆事例である情報サービス産業の実態を解明することの意義が大きいことが強調される。
 第3章「情報処理技術者 新しい雇用機会か?」では、既存統計調査と津崎氏自身が実施した調査のデータをもとに、現代日本のIT技術者の雇用形態、学歴、労働移動、賃金構造、賃金決定要因などについての詳細な分析が行われ、この職種の労働市場が「人材の需要は存在するにもかかわらず雇用者数は伸びていない」という構造に陥っていることが指摘されている。企業は技術者の不足を認識しているにもかかわらず、求人にあたってはきわめて高い要件を求め、基準に達しない人材の採用には積極的でない。他方、求職者にとって情報サービス産業は賃金、労働時間、労働内容の点で必ずしも魅力的とはいえず、質量の両面で人材の供給は充分とはいえない。
津崎氏は現代日本においては、社会も企業も情報サービス産業の技術者の技能形成に失敗しているとして、その構造を次のように説明する。大学、専門学校などの外部教育機関で提供される情報技術に関する教育は、情報サービス企業の実務的なニーズを充足する内容となっておらず、企業は外部教育機関での専門教育を信頼していない。他方、企業自身も適切な企業内教育訓練システムを開発し、企業独自で技能形成の仕組みを形成することに成功していない。こうした状況のもと、企業は求人にあたっては、他企業で技能形成された人材の中途採用を重視しているし、新卒者の活用にあたっては、潜在的な学習能力の高い人材を採用して、彼ら・彼女らが企業外で流通している普遍的な知識を獲得しながら技能を高めていくことを期待している。津崎氏はこうした外部市場型ともいえる雇用関係と技能形成のパターンが日本の情報サービス産業においてすでに定着しているのではないか、との仮説を提示し、次章以下で解明するべき課題としている。
 第4章「情報処理技術者の仕事」では、情報処理技術者の仕事に注目し、その内容を観察している。情報サービスの生産活動を情報システムの開発・構築と情報システムの保守・運用に区分して、それぞれの工程、職種、タスクの内容を記述し、情報処理技術者の仕事に必要な知識は「業務スキル」、「ジョブスキル」、「技術的知識」という3つの要素に整理されることを指摘する。「業務スキル」とは情報システムのユーザー側の業務に関する知識(例えば銀行業務における勘定系の知識、流通業の受発注に関する知識など)である。「ジョブスキル」とは、特定の職務に関わる個別的な知識であり、プロジェクトマネジャーであれば、計画、品質管理、工数管理などの知識がこれに相当する。「技術的知識」とは、コンピューター言語、ネットワーク技術に関する知識、ハードウェア・ソフトウェアに関する知識など、情報技術に関わる普遍的な知識を指している。
筆者はネットワーク関連の保守運用業務に従事する技術者を対象として実施した調査結果に回帰分析を加え、上記3要素のうちでは、「技術知識」が最も重要な知識であることを明らかにする。ネットワーク関連の保守運用に携わる技術者にとっては、「ネットワークのデザイン・構築に関する技術的な知識」が仕事を行う上での前提的知識として最も必須の知識として意識されているとともに、仕事のパフォーマンスを高めるための知識としても最も重要な役割を果たしている。また技術者が仕事を行う上で技能を高めるために行う諸行為の中では、職場に流通する知識を身につける行為よりも、職場の外部から知識を入手する行為のほうが仕事のパフォーマンスを高めることに寄与していることが明らかにされている。
この章の結論は、IT技術者の仕事において、顧客との取り引き関係に規定されやすい業務知識や、企業ごとの具体的な仕事の進め方によって規定されやすいジョブスキルよりも、企業横断的な普遍的知識という性格が強い技術的知識のほうが重要であり、技術者自身もまた、外部からの知識を獲得する行為を通じて仕事のパフォーマンスを高めている、というものである。この結論は、日本のIT技術者における外部労働市場型技能形成仮説という前章の仮説を支持するものである。
第5章「情報処理技術者と技能形成」では、情報処理技術者を対象とする学校教育や企業内で実施されるOff-JT、OJTの実態、技能形成に関する技術者自身の意識などを観察し、現代日本の情報処理技術者に関しては、他産業の大企業で成立していたとされる内部労働市場的技能形成メカニズムおよびクラフト的技能形成メカニズムは存在せず、技術者の技能形成に寄与しているのは、技術者自身の自助努力による外部からの知識の取得であることが主張される。
学校教育に関しては、日本の情報工学教育がプロジェクトマネジメント、モデリング手法、設計手法などの教育カリキュラムを欠き、一般的な実務ではあまり応用されない先端的、学術的な分野の知識に偏った教育が行われていることを指摘する。企業の新入社員教育では、この欠落部分をOff-JTによって埋め合わせているが、全般的には技術者の満足に応えるほど企業が積極的に時間的配慮、金銭的支援を行っているとはいえない。ネットワーク技術者を対象とした調査では、企業により提供されるセミナーや研修は年間およそ1~5日程度で、書籍などで自主的に勉強するという行為をとる日数を下回っている。
OJTの現状に関しては、ジョブローテーションによる計画的なキャリア管理が殆どなされていない。一旦顧客先に常駐するオンサイト業務に配属された技術者は、顧客の要請によって配属を固定されてしまう傾向が強く、その場合、顧客先固有の特殊な技能が身につくばかりで、職務経験の幅を広げることが困難になる。企業は技術者に対して様々なプロジェクトを経験させることで計画的に技能を高めていくような施策を取っていない。プロジェクトへの配属にあたって考慮される優先事項は、当該人物が即戦力として使えるかどうかであって、人材育成という観点はあまり省みられていない。
ネットワーク技術者への意識調査から、技能形成に関する当人の満足度を被説明変数、性、経験年数、担当業務、技能形成行為(5項目)の頻度、問題解決行動(5項目)の頻度、学校の専門、教育年数、企業規模、資本系列、仕事に関連する満足度(12項目)を説明変数とする回帰分析を行った結果、職場に流通する知識を習得することが技能形成につながるということはなく、本人の主体性や本人の学校の専門性をベースに、会社による支援や仕事を通した経験の広がりが技能形成に寄与している、ということが明らかになった。この結果もまた、情報処理技術者の技能形成に関する外部労働市場仮説を支持するものである。
第6章「まとめ 情報サービス産業技術者の雇用関係・仕事・技能形成」では、最初に3章から5章までの考察を総括している。すなわち、日本の情報サービス産業技術者の技能形成に関して、クラフト的技能形成メカニズムや内部労働市場的技能形成メカニズムを崩壊させ、外部労働市場的技能形成メカニズムの成立を促進している構造的な諸要因を図式化して示し、「技術的要因」、「ビジネス的要因」、「戦後日本的要因」に分けてその全体的な構造を説明している。        
急速な技術進展は生産活動に必要となる知識を次々と更新してしまうことにより、先任者が後任者にすでに習得した知識を提供するという職場内情報伝達を不可能にしている。また技術進展は、ある特定の職務を技能上容易なものにし、その職務の企業外アウトソーシングを促進する。その部分に特化する下流企業も拡大する(=技術的要因)。結果として「上流」企業ではエントリーレベルの簡単な職務を持たず、「下流」企業では技術者をキャリアアップさせていくべき上流業務を持たない、という分業関係が固定化し、どちらにおいても企業内ジョブローテーションによる内部労働市場的な技能形成メカニズムを成立させる余地が失われる。(=ビジネス的要因)また、企業特殊的ではない専門知識こそが重要となる情報産業においても、専門職・専門的技能に対する社会的な評価基準が充分に発達していない、という「戦後日本的要因」の影響が作用して、賃金体系としては年功序列型の制度がとられている。このために技術者自身に技能向上のインセンティブが育ちにくく、クラフト的技能形成メカニズムの成立が阻害されている。教育機関の技能形成機会としての低調さと人材評価における潜在性重視の傾向というさらに二つの「戦後日本的要因」は、情報サービス産業においては、内部育成の放棄と新卒求人における求人要件の高度化をもたらし、結果として外部労働市場型の雇用関係・技能形成の成立を促進している。以上が6章で示されている、これまでの考察の総括である。
日本的経営や日本的雇用慣行に関するこれまでの研究の中で示されてきた雇用関係・仕事・技能形成の典型モデルと対比した場合、本研究が考察してきた情報サービス産業技術者の事例はどのような意味を持つのだろうか。第6章の末尾では、これを日本的経営モデルのアンチテーゼとなりうる「職業に依拠した仕事のモデル」として提示している。「職業に依拠した仕事のモデル」とは、情報サービス産業の現状から出発して将来的に構想可能なひとつのモデル案である。「職業に依拠した仕事のモデル」が成立する可能性に関連して津崎氏が示している根拠は、技術者自身の意識に関する回帰分析の結果である。この分析によれば、IT技術者の仕事の成果と技能形成に寄与する最大の要因は技術者自身が良好なワークライフバランスの感覚を保持していることであり、良好なワークライフバランスの規定要因として最も重要な要因は、職業的コミットメントと天職意識という、当人の職業意識の高さと労働時間の長さや休暇の裁量に関する満足度(企業側でコントロール可能な要因)であった。
「職業に依拠した仕事のモデル」においては、技能形成の機会は企業内で提供されるのではなく、教育機関によって提供される。賃金は生活の保護や忠誠・苦労の代償という原理によってではなく、生産活動に対する評価・技能に対する評価という原理により決定される。行為者には企業コミットメントに基づく忠誠心ではなく、職業へのコミットに基づく忠誠心が求められ、組織人としての働き方ではなく、ワークライフバランスの取れた働き方が求められる。雇用保障に関しては、会社を辞めない限り生産活動への参加が保証されるのではなく、職業にコミットする限り生産活動への参加が保証される。分業のあり方に関しては、同質的な集団的チームワークではなく、自立した個人のチームワークが形成される。
日本的経営モデルに代えて、横断的労働市場を前提とした専門的職業人を中心とした雇用関係のモデルを提言する議論はこれまでにも数多く存在してきたが、本論文における「職業に依拠した仕事のモデル」は情報サービス技術者の雇用関係・仕事・技能形に関する現状から出発して構想されているところに大きな特徴があるといえる。

【本論文の評価と問題点】
 情報サービス産業で働く技術者の仕事・技能形成という本論文のテーマは、情報化社会の先端トピックのひとつであり、「IT技術と労働」、「知識労働者のHRM」など、様々な近接テーマとの関係で間接的に取り上げられてきた。こうした先行研究と対比した場合の本研究のメリットとして、以下の点を指摘することができるだろう。
第一には、既存研究においては情報サービス技術者の中から特定職種に的を絞ったテーマ設定を行う傾向が強かったのに対して、本研究では上流・下流を問わず、日本の情報サービス産業のベンダー側企業に勤務するあらゆる職種の技術者を対象として考察を展開していることである。津﨑氏はそのための方法として、国勢調査、労働力調査、賃金構造基本統計調査、特定サービス産業実態調査など多くの既存統計を活用しており、その統計解析にあたって高い手腕を発揮して全体像の解明に成功を収めている。津﨑氏は他方では自らヒヤリング調査、アンケート調査を実施しているが、そのフィールドは、事業分野に関しては情報サービス産業の二大分野といえる開発・構築と保守・運用の両者にまたがり、企業規模に関しては大企業から中小企業までカバーし、技術者の職種に関しては主要職種の殆どをカバーしている。現在約80万といわれる日本のIT技術者の全体を視野に収めた研究は本論文が殆ど最初のものということができ、高い評価に値するものといえる。
第二には従来この領域の研究がもっぱら企業経営の観点に特化したり、反対にもっぱら労働者としての技術者の観点に特化するなどの傾向を持つのに対して、津﨑氏の研究は、行為者としての技術者に焦点を当てながら、企業の経営者・管理者の観点や取引先企業の観点などにも注目した幅広い考察を行っていることである。技能形成パターンの考察にあたっては、教育機関の機能にも着目した社会学的な考察を展開していることも本研究のメリットといえる。
日本内外の労働研究全体に対する本研究の学術貢献という点では、以下の二点を指摘することができるだろう。
第一の貢献は、行為論による諸概念と理論枠組みを適用することを試み、使用者・被用者間の指揮命令と服従という関係を過度に重視するきらいのある既存の労働研究理論とは異なる新しい労働研究の可能性を示したことである。津﨑氏はIT技術者を、使用者による指揮命令を受容する被用者としての側面にとらわれることなく、自律的に生産活動を行う行為者として観察する独自の視点を打ち出している。津﨑氏の理論的フレームワークは、未完成な点も多く残しているとはいえ、雇用者と自営業者、正社員と非正社員、雇用労働とボランティア活動などの区分を自明の前提とする傾向の強い従来の労働研究理論の有効性に対する問いかけともなっている。
第二の貢献は、1990年代に日本内外の社会科学者から注目を集めた、高度経済成長期以降の日本企業における熟練形成メカニズムに関連して、文献研究をもとに、クラフト型技能形成、内部労働市場型技能形成、外部依存的な専門的技能形成という3つのタイプを析出したことである。従来の日本的経営論では、「内部労働市場における年功的熟練形成メカニズム」の主張で暗に全体を説明しようとする立場や、より明示的に「ブルーカラーのホワイトカラー化」モデル(小池和男氏)といった主張に代表されるように単一の技能形成メカニズムに全体が収斂しているという立場が通説的な位置を占めてきたが、津﨑氏の3類型説は通説以上に実態が多様であった可能性を示唆し、今後の研究によって更なる解明が期待される知見といえる。
本論文の問題点として以下の二点を指摘することができる。
第一には行為論の諸概念の規定がまだ完全なものとはなっておらず、とりわけ、技術や技能の定義について不鮮明な要素が残されていることである。労働研究プロパーの領域においても技術論はつねに学術論争の主戦場の一つであった。既存労働研究の側からの技術論の成果が本論文の中に取り入れられていないことは残念な点である。
第二には、第6章において結論的に示されている日本の情報サービス技術者の外部労働市場的な技能形成メカニズムの成立に関する説明図式に関しては、社会学的な構造分析として完成度を高めるためには、さらに精緻な考察を加える余地が残されている。例えば、同じ「特殊日本的要因」が作動しているにもかかわらず、特定の歴史的諸条件の下に置かれた特定産業においては、内部労働市場型技能形成メカニズムやクラフト型技能形成メカニズムが成立するが、それと異なる条件下の現代のIT産業においては、外部労働市場型技能形成メカニズムが成立するのはいかなる根拠によるのか、この図式によっては満足の行く回答が得られそうにない。またこの説明図式を日本のIT産業の現状分析に適用していくためには、ITプラットフォームのオープン化、ベストブリード傾向、そしてそれを踏まえた経済産業省によるITスキルの一般化という動向が外部労働市場型技能形成メカニズムにどのような影響を与えているのか、といった重要な問題点に関する分析が必要と思われるが、これらの点に関して本論文は充分な考察を行っていない。
以上のように不十分な点、やり残した点はあるが、これらは本論文の成果が損なわれるほどのものではない。審査員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献したものと認め、津崎克彦氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2006年2月8日

 平成17年12月19日、学位論文提出者津崎克彦氏の論文について最終試験を行った。試験においては、提出論文『現代日本における情報サービス産業のIT技術者』に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、津﨑克彦氏はいずれも充分な説明を与えた。
よって、審査委員一同は津﨑克彦氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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