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博士論文審査要旨

論文題目:老人保健制度の新展開 ―予防機能を中心にして―
著者:佐々木 貴雄 (SASAKI, Takao)
論文審査委員:藤田伍一 高田一夫 藤田和也 林 大樹

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1.本論文の構成

本論文は医療における予防機能の拡充について論じたものである。これまで医療を論ずる場合、大きく2つの分野で研究が進められてきた。ひとつは医療保障や医療へのアクセスなど医療の公平性・平等性に関する議論である。今ひとつは医療費の高騰や供給過剰あるいは過少、医療の無駄など医療の効率性に関する議論である。本論文は、予防機能の効果を論じつつ、同時にアクセスや公平性の問題も論じた総合性を持っている点で画期的と言えるものである。
本論文の構成は以下の通りである。

序章
第1節 問題意識
第2節 老人保健制度に着目する理由
第3節 老人保健制度の課題
第4節 先行研究と本論文の意義
第5節 研究手法

第1章 医療保障と予防
第1節 本章の問題意識
第2節 予防の目的
第3節 医療保障における予防の位置
第4節 疾病転換による予防の変容
第5節 医療保険制度における予防
第6節 予防のインセンティブ
第7節 医療保険による予防の課題
第8節 小括

第2章 老人保健制度の実施
第1節 本章の問題意識
第2節 老人保健制度前史
第3節 老人保健制度の提案
第4節 老人保健法の成立
第5節 老人保健制度の実施と保健事業の展開
第6節 小括

第3章 老人保健制度と介護
第1節 本章の問題意識
第2節 中間施設の創設
第3節 ゴールドプラン
第4節 90年代の老人保健制度
第5節 公的介護保険の実施
第6節 小括

第4章 健康・予防対策への注目
第1節 本章の問題意識
第2節 「成人病」から「生活習慣病」へ
第3節 健康日本21
第4節 介護保険改革と予防
第5節 老人保健制度再編の提案
第6節 小括 

終章
第1節 老人保健制度の歴史的検討からの示唆
第2節 予防を中心とした制度設計
第3節 予防のインセンティブと今後の課題

参考文献

2.本論文の概要

 序章で佐々木氏は保険者機能を論じた修士論文での研究を総括し、保険者機能を十分に発揮するには保険者を小規模にし、効果的な予防サービスを実施するとともに、財政調整の事前調整化など再分配システムの調整が必要であることを確認する。そして、それを受け継ぐ本論では、「予防サービスと加入者とを結びつけるための仕組み」を現代医療の前提である高齢化社会の現実の中で検討することだと、課題の設定をしている。
 具体的には高齢化の下での医療保障を形づくってきた老人保健制度を対象にして、この課題を追求している。著者によれば、老人保健は医療保険であると同時に保健サービスという事業を含むものである。ここでいう保健サービスとは予防活動であり、医療の場合とは違ってすすんで利用しようとするインセンティブが弱い。そのため、効果的な予防体制を構築するには制度的な工夫が必要であり、著者はそれを本論文で分析しようとしたのである。以下、章毎に概要を述べる。
 序章では先行研究を紹介して、予防に関する研究は単純に医療費抑制の立場から論じられたり、財政調整に関わらせて議論されたりすることが多く、予防自体を中心テーマとして研究されたことが、数本の論文を除いてあまりないと指摘している。本研究の独自性を主張している。
 第1章は予防に関する理論的な検討を行っている。医療政策の中で予防が議論される場合、予防の医療費削減効果に注目することが多い。著者はこれに批判的である。著者によれば、医療費削減は健康水準上昇の副次的効果であり、健康水準が上がっても医療費が減るとは必ずしも言えない。予防によって長寿が実現しても疾病の発生時期を遅らすだけである、という批判には根拠がある、とする。しかし、実際に予防活動を熱心に行っている自治体で長期間低い医療費が実現している例もあるため、簡単に結論は出ないと著者は述べている。
 ついで著者は、健康維持が個人の責任だとする議論を批判する。生活習慣病が主体である現代では疾病の原因は多様であり、必ずしも個人がコントロールできるわけではない。したがって、予防は集団的に取り組むべきであると著者は主張する。著者によれば予防は個人を超えた集団的な課題なのである。ここに、著者の社会科学的な視点がよく現れている。
 さらに著者は予防を医療保障制度との関係で議論する。予防は医療と異なり、本人がすすんで利用しようとするインセンティブは小さい。そのため、予防について本人に著者のいう「医療費リスク」を負荷するような方法を取るべきでない。そうであれば被保険者たちは経済的負担を考えて、予防サービスを買わなくなってしまうだろう。
 さらに著者は日本の医療保障研究者によく見られる保険主義を批判する。健康リスクは多様なので保険だけではカバーしきれないし、そもそも日本の健康保険には税金が投入されており、純粋に保険ではないのである。そこで著者は医療、とりわけ予防が多様なリスクに関係していることを根拠にして、費用負担は多様な主体が行うべきだというユニークな立論を展開している。
 ここでの著者の主張は要するに、予防が集団的な性格を持っており個人主義的な対応をすべきではないという点に集約される。そして、集団的に対応する場合でも必ずしも社会保険でなければならぬとは言えないとしており、学界の支配的な見解にとらわれない独自の視点を確立している。
 第2章から第4章までは、具体的な分析対象である老人保健制度の準備・成立段階から現在までを3つの時期に分けて、予防の要素がどのように展開されてきたかを分析している。
 第2章では、老人保健法の成立過程をたどり、保健事業という予防活動がどのようにして法律に組み込まれたかを分析している。保健事業が組み込まれた直接の原因は、無料化をやめて一部負担を高齢者に賦課する対価としてであった。このとき既に政府は、保健事業によって医療費を削減することを意図していた。しかし、その効果は実証されたものではなく、医療関係者の間でみられた「公式のようなもの」に過ぎなかった。ともかくこのようにして老人保健に予防機能が折り込まれることになった。
 第3章では老人医療費が高騰していくに連れて社会的入院が問題となり、介護サービスが導入されていく経緯を分析している。医療費を節約しようとする動きが強まり、介護と医療を分離する試みがなされた。中間施設が創設され、ゴールドプラン、新ゴールドプランが生まれた。そして2000年からは介護保険が実施された。こうして医療と介護が分離された。著者は、この意義を次のように総括している。第1に、介護保険の予防機能も実質は老人保健が担うようになったこと、第2に税と社会保険の区別が本質的な問題ではないことである。これらのことは、予防が社会保険中心であった日本の医療保障制度を転回させる要素をもっていることを示唆している。
 第4章では2000年度からの「健康21」プロジェクト以降、保健サービスへの関心を高めた政府が介護予防事業を始める経緯が分析されている。医療費の抑制を保健機能によって実現しようとする考え方が強まり、それを担う保険者の機能に注目が集まった。改正介護保険法による「新介護予防」もこうした保険者機能の強化として位置づけることができるはずであった。ところが、実際には介護予防は保険者ではなく地域包括支援センターが実施することになった。医療保険と予防が切り離されていることになる。その一方で、社会保険にも予防が浸透したと著者は評価する。新介護予防が導入された介護保険では、保険料が給付費の5割をカバーする。老人保健事業では予防給付は税でカバーされていたから、介護保険では社会保険による予防が確立したことになる。要するに本章では、一本調子ではないまでも、予防機能が医療保障にさらに深く組み込まれてきたことを明らかにしている。
 終章では予防という観点が医療においてどのような意味を持つのかを分析し、将来展望を示そうとしている。まず、予防の費用節約効果を検討し、現状では明確な医療費節約効果を証明するデータはないがQOL向上は確かであって、この意味で予防を推進する意義があることを強調する。第2に、予防を中心とした医療制度の設計を論じ、個人単位ではなく集団的な取り組みが重要であることを指摘する。第3に、予防は医療においても介護においても共通性があるので両者が一体となった方式が優れていると論ずる。さらに第4として予防を推進するためのインセンティブを論じて、税と保険料の双方を利用できるとする。最後に医療供給体制の問題を論じて家庭医を含め、さまざまな試みを行うことによってデータを蓄積し、低廉をめざすのではなくQOL向上を促進する予防のあり方を確立すべきだと論じている。

3.本論文の成果と問題点
本論文の意義として第1に挙げるべきことは、通常医療の効率性あるいは費用の観点から論じられている予防を、QOL向上をめざす社会システムの問題と捉えている点を特筆しなければならない。そもそも現在の研究状況では医療の効果が十分明確に測定できるとは言いがたい。そのため、基本的な点で曖昧さを残したまま効率性を議論せざるを得ない。しかも、そこに公平性の要素を入れるとますます議論は錯綜し、ぼやけてくる。佐々木氏はその問題を十分に意識しながら、QOLを軸とした効率性と公平性を総合的に分析したことが本論文の第一の意義である。
その総合化は次のような手順で行われている。まず、予防の効率性の基準を健康水準の上昇においた。そしてしばしば議論される経済的効果については、予防の経済的効果が局所的に実現した例があるが、その効果の全体的な測定は今後の調査研究にゆだねるべきものだと妥当な結論を導いている。予防の効果は健康水準の向上に現れるのであり、医療費の削減はその副次効果として現れるのであって常に実現するとはいえない、というのが著者の主張である。予防が健康水準を上昇させることは実証がはるかに容易であり、市民にとって意味がある。
次に、予防を現実化するためには、第1に集団的な取り組みを可能にするような体制である。著者によればこれは小規模な保険者が予防に取り組むということによって可能になる。加入者に自己責任を課して予防効果を上げようとしても、加入者のコントロールできる範囲を超えてしまうことがある。また、生活の自由を侵害するおそれもあるので限られた範囲でしか使用できない手段だ、というのが著者の主張である。第2に予防によってコストを削減する試みがある。勿論これは上述のように議論のあるところであり、著者によれば直接コスト削減をめざすべきではなく、健康水準の向上が直接の目的となる。
第3に医療供給体制の問題がくる。しかし、これは現在の所さまざまな試みを試行中であり、データの蓄積を待たねばならない。
このように、構造的な把握の上に立って単なる提言の羅列には流れない緻密な立論を展開しているところに著者の真骨頂を見る思いがする。特に疾病構造の変化にもとづいて個人主義的な予防を批判し、多様な主体の取り組みを主張したのは注目すべきである。ここに著者の社会科学的な構造把握力が見てとれる。
勿論不十分な点もないわけではない。著者の多面的な目配りは、論述を些か晦渋なものとしており、必ずしも分かりやすくはない。また、老人保健の歴史的分析と理論的分析のつながりも今ひとつ緊密さに欠ける。
 だが、これらの点は著者本人も自覚している点であって、本論文の本質的価値を損な
うものでないし、課題の困難さを思えば小さな問題である。
本論文の審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく貢献していることを認め、
佐々木貴雄氏に対して、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判
断した。

最終試験の結果の要旨

2006年2月8日

  平成18年 1月12日、学位論文提出者 佐々木貴雄氏の論文について最終試験をおこ
 なった。試験においては、提出論文「老人保健制度の新展開-予防機能を中心にして」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、佐々木貴雄氏は
 いずれも充分な説明を与えた。以上により、審査委員一同は佐々木貴雄氏が一橋大学
 博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有すると認定し
 た。

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