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博士論文審査要旨

論文題目:中国東北部における朝鮮人教育の研究 1906~1920― 間島における朝鮮人中等教育と日中の政策を中心に―
著者:許 寿童 (XU, Shou Tnog)
論文審査委員:加藤 哲郎、糟谷 憲一、三谷  孝、木村  元

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 一 本論文の構成

 許寿童氏の学位請求論文「中国東北部における朝鮮人教育の研究 1906~1920―間島における朝鮮人中等教育と日中の政策を中心に」は、序章・終章を含む全7章から構成されている。本文中の地図と図表のほか、巻末に参考文献と共に重要な史料が付されている。

序 章
1 問題意識
2 研究の課題と意義
3 先行研究の分析
4 史資料の概要と間島の学校種類
5 論文の構成

第1章 1900年代における朝鮮人学校と中等教育
第1節 朝鮮人の間島移住と法的地位
 1 朝鮮人の間島移住
 2 清国の朝鮮人帰化政策
 3 日本の間島侵出と朝鮮人の法的地位
第2節 清国の朝鮮人教育
 1 間島における清国人教育
 2 清国の朝鮮人教育
第3節 移住朝鮮人の教育の営み―書堂教育から中等教育への挑戦
 1 移住初期における書堂教育
 2 宗教の伝来と学校教育の形成
 3 瑞甸書塾における中等教育の開始
第4節 統監府臨時間島派出所の朝鮮人教育
 1 間島普通学校の設立
 2 「間島私立学校内規」の公布
小 括

第2章 1910年代朝鮮人による中等教育の展開
第1節 「墾民教育会」の設立とその活動
 1 設立の背景と経緯
 2 「墾民教育会」の諸活動
 3 「墾民会」の発足と解散
第2節 朝鮮人中等教育の勃興
 1 明東中学校(和龍県)と昌東学院
 2 開東中学堂と鍾鳴中学堂の設立計画と挫折
 3 「墾民模範学堂」と光成中学校
第3節 民国初期に設立された朝鮮人中学校と軍事学校
 1 間島の中学校と大甸武官学校
 2 北一中学校 ― 大甸武官学校の後身
 3 明東中学校(汪清県)と正東中学校
第4節 間島3・13反日独立運動と中学生の武装独立運動
 1 間島3・13反日独立運動と中学生たちの活躍
 2 中国および日本の弾圧
 3 間島3・13反日独立運動の意義と評価
 4 武装独立運動と十里坪士官錬成所
第5節 朝鮮人中学校の実態と教育内容
 1 日本官憲の間島の中学校認識と各地からの留学生
 2 修業年限
 3 教育内容
小 括

第3章 日本の朝鮮人初等教育・実業教育の実施と中等教育弾圧
第1節 日本の朝鮮人初等教育の拡大
 1 補助書堂の展開
 2 間島普通学校分校の設立
第2節 間島簡易農業学校と日本の中等教育政策
第3節 間島事件における日本の朝鮮人中等教育弾圧
 1 間島事件の背景と出兵経緯
 2 日本軍の朝鮮人虐殺
 3 教育の被害と中学校
小 括

第4章 民国の「画一墾民教育弁法」及び官立中等学校における朝鮮人教育
第1節 民国の教育方針と「画一墾民教育弁法」の実施
 1 「弁法」の公布と中等学校規定
 2 「弁法」に対する朝鮮人の反応
 3 「画一墾民教育弁法」の実施
第2節 延吉道立中学校における朝鮮人教育
 1 初等教育の普及
 2 延吉道立中学校における朝鮮人教育
第3節 延吉道立師範学校における朝鮮人教育
小 括

第5章 外国宣教師と朝鮮人中等教育
第1節 キリスト教系初等学校と外国宣教師
 1 間島に進出した外国宗教組織
 2 キリスト教系初等学校と外国宣教師
第2節 カナダ宣教師による中学校教育
 1 明信女学校高等科
 2 恩真中学校
小 括

終 章
1 まとめ
2 論文で得た知見
3 論文の意義
4 今後の課題

史 料
参考文献

二 本論文の概要

序章では、本論文の対象となる間島地域が、中国・朝鮮・ロシアの国境が接する国際的に重要な地域であり、旧満州国の一部として日本の戦前アジア侵略の一拠点であったこと、また1910年代には人口の7割が朝鮮人で、その教育をめぐって日中両国と民族教育を護ろうとする朝鮮人、さらには欧米キリスト教宣教師の伝道活動も絡んで、利害対立と衝突が絶えなかった地域であったことが述べられる。その地域における中等教育について、先行研究が日本の植民地教育による「近代化」効果を認めたり、朝鮮人自身による中等教育はなかったとする主張さえあったことに対して、著者は、日露戦争から1920年間島独立武装蜂起までの時期について、中等教育の全容を復元し、その歴史的実像を構築しようとした。そのさい「植民地近代化論」の影響を受けた日本の研究、1920年代以降が中心の中国側研究、中等教育を軽視した韓国の研究など先行研究の欠落が指摘され、1920年以前に中等教育レベルでも朝鮮人の民族教育が行われていたこと、朝鮮人中学校における民族教育の日本、中国、宣教師らが設立した学校との違いを明らかにすることが、20年代から第二次世界大戦後にいたる朝鮮人抗日運動、独立運動、ひいては今日の中国朝鮮族の問題を考える上でも重要なことが述べられる。
史資料としては、日本の外務省外交史料館文書のほか、延辺档案館史料、朝鮮総督府史料が第一次史料として用いられ、間島の中等教育については、現地での史資料収集にもとづき、日本、中国、朝鮮、宗教団体という中学校の設立主体、私立、官公立という設立様式の違いと、それぞれの学校の教育内容、学校運営、教師、生徒の構成、生徒の出身家庭の特色などを比較対照していく手法で、全体を歴史的に分析する方法が述べられる。
第1章では、1900年代までの間島地域における教育の全容、そこでの朝鮮人教育のあり方を分析する。もともと間島への朝鮮人の移住は、中国清朝時代の1860年代に始まるが、その教育は、官立学校での中国への同化・帰化を目的としたものであった。日露戦争でのロシア撤退に続いて日本が間島に侵入し、龍井村に総監府臨時間島派出所(間島派出所)をおき、日清両国が間島で支配を競い合うようになった。1912年の中華民国成立時には、朝鮮人約16万人、中国人約5万人、日本人320人という人口構成だった。朝鮮人が間島総人口の7−8割を占める構成は、以後1945年の日本敗戦まで続く。
清国の朝鮮人帰化政策は「薙髪易服」といって、満州人の髪型・服装を強要したものだった。日本が間島派出所を設け、1909年に日中間で間島協約が結ばれたさい、朝鮮人の地位は、清国に法的に従うことと引き換えに居住権が認められ、日本官憲は、朝鮮人の裁判で法廷に立ち会い、人命に関わる事件では再審請求もできるとするものだった。日本は、この間島協約で鉄道・炭坑・鉱山などの利権を得、満州での権益拡大を図った。「薙髪易服」のもとでの清国の朝鮮人教育は、19世紀末から初等・中等教育を整備し、北山中学堂や実業学校である工学伝授所、農業予科学堂のような官立中等教育機関が生まれたが、当初は朝鮮人子弟は入学が許されなかった。教員は清国内地から派遣され、初等教育には朝鮮人も入れるようになったが、就学率は1割以下だった。
ただし、1907年に日本が間島派出所をおくと、清国は、それまで放置してきた朝鮮人を「親中反日」に育てるため、もともと朝鮮人がつくった私立学校養正学堂を官立にして、高等科で中国語を重視した中等教育を始めた。著者は、その教師が清国に帰化した朝鮮人であり、カリキュラムを発掘して、その「親中」教育を分析した。また、カソリック(当時の日本官憲文献で天主教)、プロテスタント(耶蘇教)の宗教団体が設立した私立学校も1911年には19校を数え、日中両国に対して中立的ないし反日的であっただけ、弱者である朝鮮人にとっては、ナショナリズムを育みうる教育機関となった。
朝鮮人自身による朝鮮人教育は、私立学校たらざるをえず、多くは初等教育のみであった中で、1906年12月に龍井村に設立された瑞甸書塾は、高宗のハーグ国際平和会議工作にも加わった独立運動系の朝鮮人愛国者たちが運営し、中等程度の算術、習字、読書、地理のほか国際公法まで教えた。国際法に照らして日本の朝鮮支配の不当性を訴えようとしたものである。続いて明東村、臥龍洞等にも1910年には書塾から中学校に発展する朝鮮人学校が生まれ、初等教育の教師養成など、反日民族教育の拠点となった。
これらに対抗して、日本側も、間島派出所が1908年に間島普通学校を開き、日本語教育に力をいれて、朝鮮人を「親日」にするための学校を作り始めた。同時に、日本も朝鮮人私立学校を支配下におこうとし、1909年の「間島私立学校内規」で学校設立を派出所の許可制にし、日本の植民地教育に合わせようと統制した。
第2章は「1910年代朝鮮人による中等教育の展開」と題し、1910年代の朝鮮人自身による中学校での教育を扱う。背景にあるのは、無論、日本の韓国併合、中国の辛亥革命と中華民国成立、そして祖国が植民地化された間島朝鮮人の民族意識の高揚で、著者の本論文の問題設定も、1919年間島3・13運動とその後の武装独立運動において、なぜ中学生や中学校教員が重要な役割を果たしたかを探求する過程で生まれたものである。
著者は、その始点に、1910年3月設立の親清反日組織「墾民教育会」設立をおく。間島派出所を後ろ盾にする親日派朝鮮人の一進会に対抗して、瑞甸書塾の関係者の流れから、韓民自治会、韓民教育会が作られ、日本の韓国併合後「墾民教育会」と改名した。「韓国」はなくなったという意味と、自治組織でなく教育組織なら許すという、日清両国の妥協点でもあった。墾民教育会は墾民会に発展し、朝鮮人私立学校を管轄し、また学校教科書を編纂・出版したが、その教科書は、日本官憲によって禁書にされるほどに民族主義的色彩の強いものだった。1913年時点で、私立88校・生徒数1859人と1911年からほぼ3倍になり、墾民会解散後も維持されて、そのなかに明東、昌東、光成など朝鮮人私立中学校も含まれていた。
独立運動家李東輝が朝鮮から呼び寄せたキリスト教徒が、私立学校教師、教育会・墾民会会員の中に多く、当初は日本の支配から逃れるため、清国ついで中華民国への帰化運動もあわせて行われた。1910−11年にかけて生まれた朝鮮人の4つの中学校は、明東中学校をはじめ、多くの小学校教師や独立運動活動家を輩出し、民族教育の中心となる。著者は、記録に残された明東中学校、昌東学院、開東中学堂、鐘鳴中学堂、墾民模範学堂、光成中学校、大興中学校、大甸武官学校、その後身北一中学校、明東中学校(汪清県)、正東中学校のそれぞれについて、資料的制約からその実証密度は異なるものの、創立経緯、キリスト教的背景の有無、生徒数とその民族別内訳、女生徒の有無、朝鮮半島・満州各地・ロシア沿海州地域等からの留学生の存在、卒業生の進路、学則・学校運営、カリキュラム、修業年限、語学及び歴史など教科教育内容を、可能な限りで具体的に再現し、それらが間島教師・生徒一丸の3・13反日独立運動の拠点となり、運動から生まれた軍事学校に中学生が入学して軍事訓練を受けるなど、武装独立運動につながった条件を見出している。間島中等教育と独立運動のつながりのみならず、「1910年代の中国東北部における最大規模の反日運動」である間島独立運動そのものの研究としても、これまでの研究にない具体性をもって運動の経過を描いている。
第3章は、こうした朝鮮人の民族教育と対立する、日本による朝鮮人初等教育・実業教育と、朝鮮人中学校への弾圧を扱う。日本は、韓国併合後、朝鮮人は「日本臣民」になったとして間島朝鮮人に対する支配を強めたが、教育においては、1913年末から「補助書堂」というかたちで初等教育を拡大し、1915年からは、領事分館所在地に間島普通学校分校を設置、さらに普通学校付設で簡易農業学校を設置し、朝鮮人に対する植民地教育に乗り出した。「補助書堂」とは、朝鮮総督府から補助金が交付され、総督府編纂教科書を使って親日派を育成し、日本語教育の普及を狙ったものだった。そこでは当然、法権を持つ中国側との管轄争いが起こった。学制を管轄する中国側との関係で「補助書堂」を「学校」とは名乗れなかったものの、対華21か条要求の「治外法権」の一部として「普通学校支校」として保持し、日本語教育に力を入れた。その数は、1914年の4校から21年30校生徒1500人へと増加していく。
その初等植民地教育を踏まえて、間島普通学校の分校のかたちで、日本による植民地教育が行われた。日本人と朝鮮人を教師とした「広壮完備」な設備充実を売りものにし、「排日興韓、排日親支」を改めさせるための、朝鮮人に対する親日派育成教育を企図した。しかし、1918年で5校生徒数700人弱、カリキュラムにも中国語・朝鮮語教育を盛り込まざるをえず、地理を「間島地理」にして地域性を尊重し、算数、理科のほか「農科」のような実業教育を入れてアピールするかたちであった。その延長上で、1915年に日本人と共学の間島簡易農業学校が作られ、実業教育に朝鮮人を引きつけようとしたが、低人気で入学者が少なく、21年には廃校となった。
間島中等教育における日本の役割は、朝鮮人に中等教育を保証することよりも、1919年朝鮮3・1運動に呼応した間島3・13運動時の朝鮮人中学校弾圧が典型的だった。愛国団体間島国民会から「独立軍」の武装蜂起へと広がり、間島各地で日本軍との衝突が起こった。朝鮮人独立団体は約4000人の武装活動家を擁し、日本軍は、1920年10−11月に独立軍兵士であると否とを問わず朝鮮人3579人を虐殺する「三光作戦」を展開した。そのさい朝鮮人私立中学校は「不逞団の策源地」として、すべて焼却・破壊された。かつて中学校があった地域の小学校も含め39校が日本軍に襲撃され破壊された。朝鮮人中学校は、日本側から独立運動・武装蜂起の拠点と見なされていたからだった。
第4章は、中華民国による「画一墾民教育弁法」と、1910年代における中国の朝鮮人教育政策、および官公立中等教育の教育実践を分析する。清国崩壊の後を引き受けた中華民国は、間島の官公立学校をそのまま引き継ぎ、朝鮮人と中国人を一緒に学ばせることで同化政策を強化しようとした。日本の、日本人と植民地人である朝鮮人の共学を制限し隔離する教育政策とは対照的であり、当初は帰化した朝鮮人のみに限定していたものの、入籍(帰化)していない朝鮮人も官公立学校に受け入れるようになった。しかし朝鮮人の初等教育は重視しても、中等教育には消極的で、多くの朝鮮人は、入籍メリットがあまりなく手続きも煩瑣な帰化政策に応ぜず、子弟の教育では官立学校より私立学校を選好した。
1915年の日本の中国に対する21か条要求が、中華民国延吉道当局に、朝鮮人教育を統制して同化を強化し、日本の朝鮮人教育に対抗するための施策である「画一墾民教育弁法」という中国の学制に合わせた教育を、間島地域で強制させることとなった。具体的には、朝鮮私立学校・私塾の設立許可制、中国中央教育部検定教科書の使用、中国国旗・国歌の強制、校名の中国学制にあわせた「国民学校」への変更などで、著者は、その初等・高等小学校カリキュラムの分析から、実質的には、朝鮮人向け中国語教育の役割を負わされたものとしている。これに対する朝鮮人の反応は、強硬派と穏健派に分かれ、学制上中国に従いながらも、特にキリスト教系私立学校の校名変更拒否、中国語教科書の朝鮮語に翻訳しての使用、歴史・地理教育での朝鮮史の秘密裏の授業等の抵抗が見られた。著者はこれらを、間島朝鮮人は経済的基盤も政治的権利も弱く、反日に精一杯で中国にまで本格的に抵抗する力はなかったため、と分析している。
官公立の中等教育における教育内容については、中国人・朝鮮人共学の延吉道立中学校における西欧風「近代化」教育、延吉道立師範学校における「模範的」朝鮮人を中国側が抜擢する「正教員講習科」設置、授業料や食費・教科書代の負担・補助金等の問題を、克明に分析している。中国人官公立学校の生徒数は、朝鮮人が中国人を上回るようになり、朝鮮人教師だけの学校に校長のみ中国人が派遣される事例も見られた。
中国管轄下でも、私立学校では実質的に朝鮮人が民族教育を行う「面従腹背」の余地が大きかった。これが、1919年間島3・13運動の原動力となり、同時に、中国政府による私立中学校の独立運動弾圧、閉校令の背景となった。
第5章は、こうした朝鮮人学校、中国、日本の朝鮮人子弟獲得競争の狭間で、独自の役割を果たした外国人宣教師とキリスト教宗教学校における朝鮮人中等教育を扱う。先行研究のほとんどない領域で、著者は、朝鮮語・日本語・中国語の断片的な記録を収集し、間島地域でのプロテスタント(耶蘇教)、カトリック(天主教)系列それぞれの布教活動、教会設置、宣教師派遣と信徒拡大の流れを概観したうえで、初等教育レベルの52校約1600人の生徒数(1916年)を基礎にして、長老会系のカナダ人宣教師が1913年に設立した明信女学校高等科、男子用の恩信中学校の教育に着目した。そこでは、朝鮮語を含む語学が「立派な宗教人」を育てるための教養として教育され、自然科学重視の合理的教育が行われた。その教育内容は、当時の間島における中等教育では最高レベルのものだった。カナダ人宣教師は、長くイギリスの植民地・自治領であった自国の経験からしても朝鮮人に同情的であり、事実、学生数は必ずしも多くはなかったが、そこから有能な世界的視野で活動する朝鮮人独立運動家を輩出した。
終章で著者は、各章を改めてまとめたうえ、1910年代における間島における中等教育が、中国の学制に組み込まれた中国官公立学校、朝鮮私立学校、日本の植民地教育の延長上の普通学校・実業学校、キリスト教の宗教学校等、制度的形態は異なるが、おおむね4−6年の小学校の上に3−4年の中学校が存在して中等教育が行われていたこと、私立学校の中には、宗教学校でなくてもキリスト教関係者が設立したものが多く、宗教の役割が重要だったこと、中学生徒には間島・満州のみならず朝鮮半島、ロシア沿海州からの留学生も含まれ、間島は日本の植民地とされた当時の朝鮮人にとっての中等教育センター・民族教育センターの役割を果たしたことなどを、本論文の歴史的・研究史的意味として述べている。

  三 本論文の評価

以上に要約した許寿童氏の論文は、以下の諸点で評価できる。
第一に、1906−20年という限られた期間についてではあるが、間島地域での朝鮮人教育の全体像を、その設置国・設置機関別学校数・生徒数、日本・中国の初中等教育政策、朝鮮人私立学校と中国官公立学校・日本側設立学校との相違、キリスト教宗教学校の役割に着目して明らかにした。従来の日本の研究、中国・韓国の研究では、間島地域人口の圧倒的多数派である朝鮮人に対する中等レベルの教育は否定ないし軽視されてきたので、本論文は、その空白を埋めたものと評価できる。とりわけ現地調査と中国語・朝鮮語・日本語の史資料にもとづき、個々の学校のカリキュラム、使用教科書、語学教育・歴史教育の特徴、教員と生徒の民族的構成、朝鮮人生徒の出身階層と卒業後の進路等にまで立入り具体的に論じたことは、実証密度の高いものと評価できよう。
第二に、朝鮮人私立中学校の民族教育・愛国教育が、中国の学制と同化政策、日本の植民地教育強制のもとにあっても朝鮮人住民のナショナルなアイデンティティを育み、1919年間島3・13運動に始まる朝鮮人独立運動・武装蜂起の背景になっていることが、朝鮮人教師・生徒・卒業生の運動参加、中国側の運動弾圧や日本側の中学校破壊から明らかにされ、教育史と政治史の両面から説得的に示された。また、カナダ人宣教師による宗教学校教育の内容を明らかにすることによって、中国、日本、ロシア、背後で欧米列強の利害も複雑に交錯する間島地域の教育の特殊性・重畳性を浮き彫りにすることに成功している。
とはいえ、本論文には、いくつかの問題も孕まれている。
第一に、間島地域の朝鮮人私立中学校の教育内容が個々の学校に立ち入って明らかにされたにしても、それを初等教育と画する中等教育として概念的に明確にするには、制度的にも教科内容でも、当時の日本、中国、朝鮮半島での学制全体や本国人教育とも比較し、民族教育や朝鮮語教育とは異なる指標での検証が必要とされるだろう。各国の間島朝鮮人支配政策の比較のみならず、本国を含む教育制度・教育体系の中での対朝鮮人教育のあり方にまで立ち入れば、日本の植民地教育、中国の同化教育の意味が、いっそう明らかになったであろう。
第二に、初中等教育という人格形成の問題を中心的対象にする場合は、その効果も長期的見通しの中に位置づける、歴史的視点が重要になる。その点からすると、本論文の考察が、1920年の間島事件への中学生・教師の積極的な独立運動参加までに限定され、その後の問題は序章・終章で簡単に触れられるだけだったことは、やや惜しまれる点である。民族教育や愛国教育の内容を、性急な政治教育・思想教育としてではなく「ナショナルな教養形成」と広く考えれば、1920年代、満州国建国期、アジア・太平洋戦争期まで射程を延ばして、本研究を継続することが期待される。
もとよりこうした問題は、著者自身が今後の課題として自覚しているものであり、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与しえたと判断し、本論文が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2006年2月8日

 2005年12月21日、学位論文提出者許寿童氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査委員が、提出論文「中国東北部における朝鮮人教育の研究 1906~1920―間島における朝鮮人中等教育と日中の政策を中心に―」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、許寿童氏は、いずれも必要な説明を与えた。
 よって審査委員会は、許寿童氏が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有すると認定した。

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