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博士論文審査要旨

論文題目:中国内陸地域における金融業の史的展開-重慶銀行業に見る近代と社会主義:1915~1953-
著者:林 幸司 (HAYASHI, Koji)
論文審査委員:三 谷  孝、坂元ひろ子、浅見 靖仁、城山 智子

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一、論文の構成
 本論文は、中国内陸地域の重要都市・重慶における一民間銀行(聚興誠銀行)の、設立(1915年)から共産党による接収(1953年)によって営業停止に至るまでの38年間の歴史について、同銀行の経営方針及び営業状況の変化を中心に、主として当該時期の政権の金融政策・四川省の政治経済情勢との関わりの下に、実証的に検討した論文であり、以下の各章節から構成されている。

序章
第一部 内陸都市における銀行の出現とその発展過程(1915~1949)
 第一章 重慶における民間銀行の設立とその時代
 はじめに
  第一節 清末民国初期の重慶経済
  第二節 聚興誠銀行設立前史
  第三節 聚興誠銀行の設立とその業態
  おわりに
 第二章 1920~30年代の聚興誠銀行と重慶銀行業
  はじめに
  第一節 聚興誠銀行の営業状態とその変化
  第二節 重慶における銀行設立ブームと聚興誠銀行
  第三節 四川における政治状況の変動-分裂から統一へ
  おわりに
 第三章 金融恐慌・日中戦争と聚興誠銀行の近代化
はじめに
  第一節 金融恐慌前夜の重慶における金融構造
  第二節 重慶における金融恐慌(1934~1935年)
  第三節 株式銀行への移行
第四節 日中戦争中の聚興誠銀行
  おわりに
 第四章 日中戦後の聚興誠銀行
はじめに
  第一節 戦後復興と聚興誠銀行(1945~1946年)
  第二節 新体制成立後の聚興誠銀行(1946~1948年)
  第三節 時局の急転と聚興誠銀行(1948~1949年)
  おわりに
第二部 重慶における共産党政権の成立過程(1949~1952)
 第五章 中国共産党による重慶「接管」工作の展開
はじめに
  第一節 中国共産党による都市接収政策の形成
  第二節 重慶接収へ
  第三節 重慶における接管工作の展開
第四節 公営銀行の接収過程-「省・市銀行」を中心に
第五節 省・市銀行の再編過程
  おわりに
 第六章 工商行政機関の成立――重慶市工商業聯合会籌備委員会
はじめに
  第一節 重慶市工籌会の設立とその組織
  第二節 組織機関としての重慶市工籌会
  第三節 利益集約機関としての重慶市工籌会
  おわりに
第三部 公私合営化へ(1949~1953)
 第七章 重慶「解放」と聚興誠銀行
はじめに
  第一節 「解放」当初の聚興誠銀行
  第二節 重慶における民間銀行をとりまく環境
  第三節 幹部座談会(1950年6月29日~30日)
  おわりに
 第八章 公私合営化へ
はじめに
  第一節 「聚興誠銀行調査報告」と方針の転換
  第二節 聚興誠銀行聯営参加の背景
  第三節 聯営参加と銀行の変化
  おわりに
終章
参考文献目録
 関連人名略歴表
 関連略年表
 
   二、論文の概要
 第一部では、中国の内陸都市で設立された民間銀行が、銭荘のような伝統的な金融組織が優勢を占めていた地域社会に立脚しながら、どのように営業を展開して近代的銀行へと移行していったのかが検討される。
 第一章では、重慶における「聚興誠銀行」設立(1915年)の経緯とその当初の特徴が論じられる。聚興誠銀行は、日本ついでアメリカに留学した楊希仲及びその弟の楊粲三によって四川地域で最初の民間銀行として設立された。江西省南城県に原籍を持つ楊家は、19世紀前半に重慶に移住したとされ、1897年頃以降には商業・交易を扱う「聚興仁商号」を営んでおり、その資金と信用が設立の背景にあった。当時の重慶では、票号や銭荘等の伝統的金融機関が金融業を担っていたが、聚興誠銀行も、設立当初は、「股分両合公司」という銭荘と銀行の中間に属する組織形態をとっており、また、学徒制度や貿易部の併設等に在来の商号を継承する特徴が見られた。このように聚興誠銀行は、北京民国政府の銀行関係の法律に則りながらも、西欧に起源を有する株式銀行の範疇には入らない独自の形態をとったものとして発足した。
 第二章では、聚興誠銀行設立当初から重慶で金融恐慌の起こる1935年までの営業と経営状況が分析される。聚興誠銀行は、設立当初より順調な経営を続けていたが、その中で連年赤字を出していた貿易部の処理をめぐって創業者の楊兄弟の間の確執が深まって、楊希仲は自殺し(1924年)、その後経営の主導権を握った楊粲三によって地方軍閥劉湘系の「国民革命軍第21軍」との癒着の下に投機的な商業金融を重視する営業が行われていく。しかし、南京国民政府による全国の統一化が進められていく中で、四川省でも、1930年代以降劉湘による政治的・軍事的統一が進展して地方中小軍閥の割拠・抗争状況が解消されつつあった。金融面においては、川塩銀行(1930年)・重慶銀行(1930年)・四川商業銀行(1932年)等が相次いで設立されて、同業者組織としての重慶市銀行公会も結成され(1931年)、聚興誠銀行が重慶で占めていた優勢な地位も脅かされていくこととなる。そして、1934年から1935年にかけて起こった金融恐慌を契機として国民政府の四川省に対する介入が強化されていく。
 第三章では、国民政府による統一化・金融恐慌及び日中戦争による重慶遷都等との関連から聚興誠銀行が改組に至った要因が論じられる。重慶金融界での位置の低下・国民政府による幣制改革等の経済建設の進展・「掃共戦」のための重慶行営の設置(1935年)という状況の変化を承けて、聚興誠銀行は、有限責任化や企業の法人化・経営方針の転換・四川政財界の有力者の役員への招聘・支店の全国展開等に見られる経営・組織の制度的近代化を推し進め、1937年3月には近代的な有限責任株式銀行へと改組されて、新式銀行として再出発した。しかし、日中戦争が開始されて沿海・沿江大都市が日本軍に占領されるとともに重慶に国民政府の戦時首都が置かれ、その戦時統制下で自主的な営業を阻まれると、再び楊粲三が同銀行の経営を総攬するとともに地方商業化路線に回帰していった。
 第四章では、日中戦争後の同銀行の中央進出とその挫折の経緯が、国民政府の政策面と銀行の内情の両面から検討される。戦後政府が南京に帰還するという新たな情勢にどう対応すべきかという問題をめぐって、経営の国際化・産業金融化・本社の上海移転を志向する楊季謙(楊粲三の弟)を中心とする勢力が台頭し、地方路線に固執する楊粲三を辞任に追い込む(1945年12月)。楊季謙は、上海移転、国際業務・投資活動の展開などに積極的に取り組む等国民政府の経済政策に対応する経営方針をとったが、他方、楊粲三らは同銀行付設の経済研究室の党員研究者を通して中国共産党に接近していった。1948年、内戦の劣勢から国民政府の崩壊が必至となると、聚興誠銀行では、香港等国外への移転を図る楊季謙と、国内での営業継続を望む楊粲三との対立が再燃した。この対立の構図は、国際化・産業金融化路線と地域的商業銀行路線の間の対立を示しているが、結果的に見れば、楊季謙は国外に亡命し、共産党要人にコネを持つ楊粲三の指導権の下に聚興誠銀行は重慶での営業を継続していくことになる。
 第二部では、共産党政権が成立した時期の金融機関の接管(接収・管理)工作の実態と工商業者をとりまく政治的環境が明かにされる。
 第五章では、重慶「解放」とともに実施された公営銀行(省・市銀行)の接管過程が検討される。1949年12月に開始された重慶における接管は、大きな混乱もなく1か月足らずという非常に早いペースで完了した。南京等での大都市接収の経験を踏まえた現実的政策が実施されたこと、休業状態にあった銀行の旧職員にとっては接管に参加し協力していくことが生計維持の途であったこと、共産党政権の立場から見れば、接管は政権安定のために必須のものであると同時に雇用対策の面をも兼ね備えたものであったこと、共産党は接管の際に「自上而下(上から下への)」方式で組織再編を行ったがかなりの権限を現場の裁量に任せていたこと、こうした事情が重慶での接管が順調に進行した背景にあった。このような経緯から、重慶では早期に公的部門における共産党の間接的支配関係が形成されていった。
 第六章では、共産党による工商行政機関の再編過程とその機能が検討される。共産党が「解放」した当時の重慶経済は不況の最中にあったが、朝鮮戦争の勃発とともに、共産党政権によって行われた鉄道建設や加工委託発注など巨額の公共事業が重慶経済回復の大きな刺激剤となった。工商行政機関として共産党によって設立された重慶市工籌会は、こうした事業を仲介したことによって、民間企業に対して大きな影響力をもつことになり、民間企業経営者に対する共産党の間接的支配の関係が形成されていった。これまで企業間・地域間の利益を代表する自律的活動を行ってきた重慶の同業者組織は、次第に政府による企業統制組織としての性格を強めていったが、こうした中間組織の性格の変化が、のちに政府が民間企業を社会主義化していく際の基礎的な条件となっていく。
 第三部では、「解放」直後における聚興誠銀行の自主的再編から、1953年に公私合営銀行への統合により解体されるまでの過程が検討される。
 第七章では、重慶「解放」の時期に、新たな情勢にどう対応するかについて聚興誠銀行内部で展開された議論が検討される。重慶残留を選択した聚興誠銀行の経営者達は、社会主義化の即時実行はないとの認識から、地方経済に立脚した営業によって国家銀行である中国人民銀行に対抗していこうとする。「幹部座談会(1950年6月)」は、共産党政権下での「銀行の存続」と「経営方法」をめぐって、聚興誠銀行幹部18名の出席の下に開催されたものである。そこには、共産党の政策への対応に苦慮する同銀行幹部達のさまざまな認識が示されている。幹部の多くは、経営陣の改組などによる自主的かつ現状維持的改造を基礎に「地の利」を生かした経営方針を採用することを主張した。また、共産党の政策に示されている「民主集中制」と「企業管理化」についても議論されて、経営における楊粲三の独断的傾向が批判された。こうしていったん挫折した経営の多角化や事業銀行への転進という路線が、改めて浮上してくるのであるが、ここには聚興誠銀行の経営者が自主経営の存続のためにさまざまな方途を探求し続けている姿勢が示されている。しかし、朝鮮戦争の勃発等によって国際環境が激変する中で、政府が急速な社会主義化を転換を進めるとともに、民間企業を取り巻く状況も大きく変化していく。
 第八章では、銀行が「聯営」に参加して公私合営化し、そして解体に至る過程が検討される。共産党政権成立当初の重慶では、国家銀行としての中国人民銀行と民間の私営銀行とが営業面において依然競合的な関係にあったが、社会主義化路線への急速な転換という情勢の中で、また「三反・五反運動」等の政治的圧力の下に、「個別的・分散的経営」を「集中的経営」に、「無政府的・無計画的生産」から「組織的・計画的生産」への移行を目指す工商業の再編が進められていく。重慶にあった9行の民間銀行も3行に統合されて、聚興誠銀行本部も他の3行と統合されて「重慶公私合営銀行聚興誠銀行」に再編された。こうした「聯営」に参加することによって税制面で優遇されるという利点及び経営者の株式等資産の保護についての保証・日々強められつつある共産党政権の圧力等の理由から、共産党によって「開明的人物」と評価された楊受百(楊粲三の長男)が銀行内での影響力を強めて、聚興誠銀行も社会主義化の方向を受け入れ、さらに1953年10月に前年北京で成立した「公私合営銀行総管理処」の分行として接収されたことによってその歴史に終止符が打たれることになった。
 終章ではこれまでの検討の結論とその後の展望が述べられる。重慶随一の民間銀行としての聚興誠銀行は38年間にわたって、銀行の全国化・産業金融化路線と地域的商業銀行路線の間、すなわち国家を背景とした他律的・広域的経済秩序に則った営業と自律的経済秩序に従った営業の間で揺れ動きながら営業を継続した。同銀行の経営者達にとっては銀行の維持・発展こそが最大の課題であって、時々の政府や地方軍閥等はその目的のために利用する手段ともいえるものであった。聚興誠銀行がその幕を下ろした1953年秋以降、楊粲三や楊受百等の主な経営者達は、「公私合営銀行聯合董事会」の董事として株式配当等の利益を供与されたが、もはや経営の実権を握ることはなかった。そして、その後ソ連の単一銀行制度に基づいた金融統一が進められるとともに、公私合営銀行も1956年に中国人民銀行の民間工商業業務を行う専業銀行として国有化されて消滅する。

  三、成果と問題点

日本における近現代中国の銀行史・金融史の研究は、同時期の工業史・農業史等の研究に比較して手薄であり、上海・天津・大連といった沿海大都市の事例を対象としたものがその大半を占めているのが現状で、本論文のように内陸地域の地方都市、しかも独自の歴史・文化の伝統を持つとともに日中戦争下で国民政府の戦時首都が置かれた重要都市の重慶における銀行業を対象とした研究は従来類例が見られない。
 その意味で貴重な成果といえる本研究で利用された史料は、著者が、①重慶市档案館で収集した聚興誠銀行関係を中心とする档案史料、②台湾中央研究院近代史研究所・国史館で収集した国民政府財政部関係史料、③『重慶商務日報』(1914~1951年)・『四川経済月刊』(1934~1949年)・『聚星月刊』(1915~1949年)等の重慶で刊行されていた新聞・雑誌類、④『四川経済参考資料』(1938年)等の統計資料及び聚興誠銀行に関する回顧録、⑤関係者3名からの聞き取り調査記録等である。
 著者は1年間の重慶留学期間も含めて数回にわたって重慶・成都・上海・台北等の関連都市に赴いて資料収集にあたった。本論文の最大の成果は、なによりもそのような労を惜しまない史料収集の努力を基礎にして、重慶市の一民間銀行の設立から解体までの38年間の歴史を実証的に明らかにしたことにあるだろう。その具体的な成果は以下の諸点にあるといえる。
 1,重慶最初の民間銀行を創立した楊家の系譜を追求した結果、原籍が江西省にあり、その地縁関係が同家の商業活動に有利に働いたこと及び当時の四川省の商業・金融の実情に即して当初は銭荘と銀行の折衷的組織形態をとって発足したことを明らかにした。
 2,同銀行が上海との密接な金融関係の下に営業を拡大したこと、とくに、重慶・上海間での「山貨」(四川の特産品)と「上貨」(輸入品)の交易に使われた「申匯」という為替による決済の過程の実態と、それが後の重慶における金融恐慌の引き金になったことを解明した。
 3,聚興誠銀行の経営方針が、創業者の一人であり「地域的路線」(地方路線)に固執する楊粲三らと「全国化路線」(中央進出路線)を志向する楊季謙らの新興勢力の間で揺れ動いたことを同社の営業記録に基づいて明らかにした。
 4,「地域的路線」に拠る楊粲三らは、四川省の実権を掌握しつつあった軍閥劉湘に接近してその黙認の下に投機的な商業活動を行った。これは1910年代~1920年代に創立された重慶の民間銀行7行の内5行が途中で廃業ないし合併される中を同行が共産党政権の成立期まで存続できた事情の一端を示している。
 5,四川省における共産党政権成立時の、銀行を始めとする工商業の「接管」工作と再編の実態、とくに留用する人員の選別と再教育の過程を詳細に明らかにした。
 6,共産党政権によるこのような再編に聚興誠銀行がどのように対応しようとしたのか、銀行内部の会議(幹部座談会)で展開された議論の詳細を一次史料の解読に基づいて整理している。
 以上のように、本論文は近代中国銀行史研究の進展に寄与する有意義な成果をあげたものと評価できるが、残された問題も少なくない。
 著者が利用した主たる史料が直接銀行の経営に関する文書・統計類、時の政権の政策的文書、新聞・雑誌記事ということもあって、本論文で明らかにされているのは、聚興誠銀行の経営の制度的・数量的な問題、基本的な経営方針の対立の問題等のような、著者が序章で述べた銀行の「外的構造」に関わる問題が中心であって、「内的構造」すなわち「銀行営業の実態、国家や権力者との人的つながり」の面での解明は不十分に終わっている。そのために、中国社会で重視される「対人信用」の問題がこの銀行の場合どのようにして形成されていたのか、また重慶の商人組織と四川省に巨大な勢力を築いていた哥老会の具体的関係、国民革命軍第21軍との間の具体的関係や政商としての役割の有無、地域社会への利益の還元という「善挙」は行われたのか、等の点は不十分にしか論及されていない。
 しかし、これらの問題点の多くは著者も自覚するところであり、今後一層の研鑽を重ねることによって、将来これらの点についてもより説得的な研究成果が達成されることを期待したい。
 以上、審査委員会は、本論文が当該分野の研究に寄与するに十分な成果をあげたものと判断し、本論文が一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。

最終試験の結果の要旨

2006年2月8日

2006年1月16日、学位論文提出者林幸司氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査員が、提出論文「中国内陸地域における金融業の史的展開-重慶銀行業に見る近代と社会主義:1915~1953-」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、林氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は林幸司氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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