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博士論文審査要旨

論文題目:戦後日本思想史における毛沢東認識
著者:諸葛 蔚東 (ZHUGE, Weidong)
論文審査委員:安丸良夫、田中 宏、三谷 孝、加藤哲郎

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・ 本論文の構成
 本論文は以下のように構成されている。

序論 毛沢東認識に現れた知的状況
第1章 毛沢東とボルシェヴィズム 
 はじめに
 第1節 継承論
  1、議論の展開
  2、岩村三千夫の同一性の論証
 第2節 分岐論
  1、議論の展開
  2、石川忠雄による相違点の指摘 
 おわりに
第2章 毛沢東の階級理論
 はじめに
 第1節 マルクス主義との認識 
  1、議論の概観 
  2、今堀誠二のテキスト研究
 第2節 異質性の指摘 
  1、議論の概観
  2、中西功における中国革命と毛沢東思想 
 おわりに
第3章 毛沢東思想と近代化
 はじめに
 第1節 近代化の一パターン
  1、議論の概観
  2、竹内好の「純粋毛沢東」
 第2節 中国の近代化の見直し
  1、議論の概観
  2、加々美光行の見た「中国革命」
 おわりに
第4章 毛沢東と伝統文化
 はじめに
 第1節 伝統文化の文脈において
  1、議論の概観
  2、貝塚茂樹の見る人間と文化
 第2節 専制思想との共通性
  1、議論の概観
  2、新島淳良における法家と毛沢東
  3、竹内実の循環史観
 おわりに
結論 結びにかえて
主要参考文献


・ 本論文の概要

 序論では、本論文の課題と基本的枠組が提示される。本論文の課題は、戦後50年間における日本知識人の毛沢東認識・評価の変遷をたどることによって、戦後日本の知的状況の変貌を探ろうとするものである。この50年間の日本知識人の毛認識と評価には、劇的といってよい大きな変化が見られるが、それは毛認識の段階的深化を表すというよりは、むしろ日本社会とその知的状況の変化と照らしあわせて理解すべきものである。本論文は4つの主題にわけてそれぞれに何人かの代表的論者を選び、彼らの見解をその知的背景にかかわらせて検討し、さらにその基底にある社会状況の変化に言及する。そのさい、欧米および中国での毛研究と比較することで、政治状況や文化的背景の違いなどが学問研究に与えている影響を重要な参照系として、論をすすめていく。また、戦後日本の思想状況を1970年代なかばを境として2つの時期に大区分し、第一期をさらに安保闘争と近代化論登場の年である1960年をもって二分して、ほぼこの時期区分にしたがって論をすすめる。

 右の時期区分の第一の時代は、戦後民主主義の時代で、その思想的支柱はマルクス主義と近代主義であった。この時代には、日本社会の前近代性を批判する立場のマルクス主義と社会主義国家には大きな権威があり、毛はマルクス・レーニン主義を受けつぎ発展させた偉大な指導者として高く評価された。竹内好は、マルクス主義とも近代主義とも異なる毛論を提示して注目されたが、高い毛評価という点では同じ動向のなかにいた。しかしアメリカでは、冷戦体制のもとでの政策的課題に応答すべく、中国社会主義とマルクス主義の違いに注目する研究が出現した。

 1956年のスターリン批判を一つの画期として、現実の社会主義国家の矛盾が明らかになってくるとともに、他方で60年代にはいると、日本経済の高度成長に積極的な評価を与える近代化論が有力となり、マルクス主義の階級概念を批判する大衆社会論も登場した。こうした状況のなかで毛思想とボルシェヴィズムとの分岐が明確に知られるようになったが、正統マルクス主義の退潮のなかで、毛思想は近代西洋文明に対抗する独自の変革思想として広い注目を集めるようになった。これは、日本に限らず世界的に共通する新しい動向であったが、60年代後半の特殊な条件のもとで成立したもので、70年代初頭には衰えた。

 70年代の日本では、東西両陣営の経済格差がしだいに明らかになるとともに、文化大革命における毛個人崇拝への疑問などが生まれ、近代化に成功した日本と失敗した中国という対比で両国の近代史が論じられるようになってゆき、毛評価はさらに一変する。他方中国では、76年の毛の死が大きなイデオロギー的転機となり、78年以降に毛批判が行われるようになったが、しかしそれは毛個人の思想や行動と「毛沢東思想」とを区別し、後者を擁護するものであった。毛個人の誤りはしだいに公然と論じられるようになり、また毛思想の土壌である中国社会全体について、その「封建主義」や「農業社会主義」を批判する研究も出現した。

 第1章では、毛とボルシェヴィズム・ソ連共産党・コミンテルンとの関係が取りあげられる。この問題はさまざまの歴史的制約のために長い間実態が明らかにされなかったのであるが、戦後間もない頃の日本では、両者の一致が確信されていた。戦後日本の中国研究に大きな発言力をもった岩村三千夫は、そうした立場からの代表的論者で、毛は1920年前後にはすでにマルクス主義について十分な知識をもっていて、中国の伝統思想とは断絶しており、毛思想はソ連共産党とコミンテルンの革命論の継承だ、とした。岩村のこうした一致・継承論は、スターリン批判のあと60年代に入ってからも変らなかったが、こうした毛認識は労働運動の弾圧などのいわゆる「逆コース」時代の日本の現実とかかわりがあるものと考えられる。

 しかし60年代に入ると、毛の中国革命戦略とスターリン・コミンテルンとの違いを認める立場が学界の主流となっていった。石川忠雄と中嶋嶺雄はこうした立場を代表する研究者であるが、そのばあい、アメリカの中国現代史研究の発展、とりわけB・シュウォルツの中国共産党史研究の影響が大きかった。シュウォルツによれば、毛はもともと中国共産党の歴史のなかでの傍流であり、農民の役割を重視する点で正統的なマルクス・レーニン主義とは異なっていた。アメリカでもK・ウィットフォーゲルのようにシュウォルツを批判する見解もあったが、中ソ対立が表面化すると結局はシュウォルツの論点の正しさが承認され、中国でもずっと遅れて、コミンテルンと中国革命とのかかわりがこれまで「一大禁止区域」となっていたことを反省して、新しい認識の必要が主張されるようになった。アメリカでの研究動向を念頭におきながら、石川は、コミンテルンによる中国革命指導の失敗と毛の指導による中国共産党の独自路線の確立、毛の農村工作重点主義や土地改革、モスクワの援助問題などを具体的にとりあげて、毛とボルシェヴィズムとの分岐を明らかにした。毛および中国共産党とボルシェヴィズムとの関係は、その一致論から分岐の実態の認識へと検討がすすんだのだが、この問題の真相が冷静に検討されるためには、それを可能とするような社会的政治的環境が必要だったのである。

 第2章では、1920年代の毛の階級区分理論と60年代前後の階級闘争理論についての諸研究がとりあげられる。まず前者については、シュウォルツ、S・シュラムなどの研究が、毛のマルクス主義理解は高い水準のものではなかったとしていたのであるが、60年代までの日本では、毛の階級分析はマルクス主義理論に従ったものだとされていた。こうした立場の代表的研究者に、毛論文「中国社会各階級の分析」や「湖南農民運動考察報告」について詳細な文献考証をおこなった今堀誠二がいる。今堀によれば、右の二論文のマルクス主義に合致しない箇所がのちの選集版では削除されており、毛が最終的にマルクス主義的方法を用いるようになったのは1929年以降のことである。これはマルクス主義的階級理論に到達してゆく毛を高く評価する立場からのものだが、今堀の毛評価は、70年代に入ると微妙に変化する。しかし70年代には、毛の階級理論とマルクス主義との乖離を強調する論者がしだいに多くなっていく。中西功は、20年代の毛の階級論が大衆行動の激しさだけに関心をもつもので史的唯物論を理解していないとし、コミンテルンの中国革命指導は基本的には正しかったとしたが、また文化大革命を支えている階級闘争理論が、客観的経済法則よりも「革命的情熱」を優先させることでマルクス主義の原則から逸脱しているとした。中西のこうした毛批判は、中国共産党と日本共産党の分岐・対立の表現なのだが、また中国と日本の社会状況の違いに由来するともいえる。そして、中国でも日本でも経済発展の問題が主要な関心事になっていくと、毛の階級理論は研究対象としての重要性を失ってしまった。

 第3章では、日本との対照を強く意識した中国の近代化についての知識人の見方が考察される。よく知られているように、50年代までの日本では日本近代への厳しい批判と革命中国への高い評価が見られたのだが、著者は、南博と住谷一彦の例をあげて、こうした評価が当時の知識人に一般的だったことを指摘している。とりわけ、魯迅と毛に引照しながら中国と日本の近代化を対照的に捉える竹内好の評論は、独特の内容で影響力が大きかった。50年代の竹内は、毛について多く論じたが、そのなかでは毛の人格的魅力、その抵抗精神、自己変革の論理などが論じられ、井岡山での革命闘争のなかですべてを失った毛から「純粋毛沢東」「原始毛沢東」が形成された、と論じた。しかし竹内のこうした毛論は、「(竹内)自身の持つ毛沢東像が先行し、また自らの思想の範疇で論じられたもの」、毛の実像からは離れたものであり、こうした毛観の背景には、「脱亜入欧」型の近代と近代主義に対抗しようとする竹内自身の「アジア主義」があった、といえるだろう。

 中国と日本とのあいだで国交・貿易が再開されると、中国社会の内情が経験的に知られるようになり、現実の中国社会においては、伝統的要因と社会主義の体制的要因とが結びついてきわめて強固な官僚主義がつくりだされているとか、中国社会の本質は清朝以前の封建体制とほとんど変わらない、などという議論が行われるようになった。加々美光行は、1930年代後半以降の毛には「市場メカニズム」に対する敵意が顕著になり、「互助共同」的な革命観がそれに対置されて人民公社にまで行きつき、「「市場メカニズム」の萌芽たる私的欲求のメンタリティを告発しあう」「猜疑的な相互監視、相互告発の社会」をつくりだしてしまった、と論じた。加々美はまた、土地と風土に密着した生活意識に発する「情念」を切り捨てた丸山真男に対して、竹内が民衆性に根ざした「土着的近代化」への視点を提示したとして、竹内を積極的に評価したけれども、この加々美の見解を敷衍して考えてみると、竹内の論もまた中国の現実の民衆と乖離した虚像を作りだしていたということになるだろう。こうして70年代以降とそれ以前とでは、毛思想とのかかわりにおける近代化の捉え方は、相反する2つの方向に分岐しているのだが、これはまた戦後日本における近代化とその原動力についての捉え方の転換に照応しているのである。

 第4章では、毛思想と伝統文化とのかかわりが論じられる。まず、毛とボルシェヴィズムとの相違を明らかにした50年代のアメリカでは、毛の思想はマルクス・レーニン主義よりも中国の伝統思想に由来しているとされる傾向が強かった。ずっと遅れて80年代の中国でも、中国の伝統思想とのかかわりで毛の思想を捉えようとする研究が現れたが、それは例えば金観涛・劉青峰の中国封建社会の「超安定システム論」に見られるように、毛批判を含意したものであった。

 貝塚茂樹は、戦前日本の中国研究で主流を占めていた中国の伝統文化蔑視とは反対の立場をとり、毛の人間的魅力に焦点をあてるとともに、それが中国文化の伝統と深く結びついていたと主張した。貝塚は、中国文化についての多くの著作を著したが、そのなかでは秦漢帝国がヒューマニズムを理想とする世界帝国の理念に基づいて建国されたとか、中国民族は理想主義者であるとともに現実主義者であるとか、中国社会のなかに潜在していた民主主義的な要素が中国革命の成功に大きな役割を果たした、などとした。しかし、中国古典の読解を通じて得られた貝塚のこうした中国文化理解は、必ずしも他の研究者の見解と一致するものではなく、文化大革命のなかで貝塚自身もまた従来の毛評価に疑問をもつようになった。貝塚のような著名な中国研究者の中国認識もまた、「時代に流され、研究の自立性を確保することができなかった」のである。

 スターリン批判や中ソ論争などをへて、毛とボルシェヴィズム・ソ連共産党との対立が明瞭になってくると、毛思想を中国の伝統文化と結びつけて否定的に評価する傾向が顕著になっていった。こうした方向へいち早くすすんだのは中嶋嶺雄で、中嶋は、毛がマルクス主義を体系的に摂取する時間的余裕をもたず、その戦略思想や軍事思想に大きな影響を与えたのは、少年時代以来親しんできた『水滸伝』などの中国古典だったと主張した。桑原壽二は、革命達成までの毛には儒教的な道徳修養の観念が顕著だが、革命実現のあとでは秦始皇帝と対比しうるような法家的な権力思想に転化したとした。新島淳良のばあい、60年代までは中国革命に熱い共感をもった毛思想支持者だったが、文化大革命期の中国の実際を見てその中国観を転換させ、毛思想を儒家思想の系譜とは対立する法家の系譜に属するものとし、毛の権力は「皇帝型権力の典型」だとした。竹内実も、毛のマルクス主義者としての素養は疑わしいとし、中国の歴史の「循環的性質」を指摘して、毛の権力を「皇帝型権力」「現代の始皇帝」と規定した。高度成長以降の日本でその伝統文化が高く評価されるようになったことと対照的に、「同時に中国の停滞が伝統的要素の桎梏によるものと再び認識されるようになった」のである。

 「結論」では、これまでの論述が簡単に要約されている。戦後50年間の日本における毛沢東認識は、単純に学術的なものとはいえず、「戦後日本の思想状況がそのまま投影されているもの」であり、それぞれの時期の「心理的な状況と結びつい」たものである。このことはアメリカにおける毛研究と対照することでいっそう明らかにできることなのだが、高度成長以降の日本ではマルクス主義の影響力が衰えて、アメリカでの研究と相互影響や共通点が多くなってきた。そして、本論文で取りあげた4つの主題のいずれをとっても、戦後初期の毛研究と70年代のそれとでは、60年代の社会的激動をあいだにはさんで、「逆転」というべき巨大な転換を達成してしまったのである。


・ 本論文の成果と問題点

 本論文の成果は、まず第一に、戦後日本における数多くの毛沢東論を収集・整理して、一つのまとまりある全体像を構成してみせたことにある。論述の細部には異論がありうるが、戦後日本における毛像には著者が述べたような大きな変貌があったことはそれ自体として重要な事実であり、多くの文献によりこの事実を検証することは、これまで日本人研究者も企図しなかったところである。

 第二に、著者はこうした毛像の変貌を戦後日本の時代状況と知的状況に結びつけて説明してみせた。その背景の説明の仕方はなお不十分だとしても、毛認識の変遷という特定の視座から戦後日本の精神的知的状況の歴史が描きだされており、禁欲的叙述のなかに戦後日本の精神的知的状況に対する著者の辛辣な批評が読みとれるともいえよう。

 第三に本論文は、戦後日本における毛研究を、一つには欧米とりわけアメリカのそれと、いま一つには中国のそれと対照して、比較史的に検討している。こうした比較史的検討によって、学問研究がそれぞれの社会の政治的・イデオロギー的諸条件に深く規定されてきたことがよく理解できるし、戦後日本の知的・イデオロギー的特徴もより明晰に洞察することが可能となっている。

 なお本論文は、さまざまの毛研究を通して戦後日本知識人の知的思想的状況を説明したもので、著者自身の毛沢東観や中国社会認識は述べられていない。この点は若干物足りないところともいえるが、著者の問題関心の基底には、日本での中国認識を媒介にして中国社会をより客観的批判的に対象化しようとする強い願望があるものと思われ、将来、こうした立場からの著者の認識がより明示的に語られることを期待したい。

 本論文は、基本的にはその成果を積極的に評価すべきものであるが、限界や問題点もないわけではない。第一に、著者の対象としている毛研究は、それぞれの社会、時代、研究者個人の立場によって多様な形をとっているのだが、著者がこうした3つの次元をどのように区別し連関づけているのかを、論述のなかから必ずしも明確に読みとることができない。第二に、著者の取りあげている4つの問題の重要性の根拠や相互関連についての説明がない。第三に、著者の論述は代表的な知識人・研究者に限定されており、ジャーナリズムにおける毛観やより大衆的な次元での毛観・中国社会観については触れられていない。だがこうした次元での分析をふまえることで、著者の主張はより彫りの深いものに彫琢できるはずである。第四に、コミンテルン史料など、外国文献の利用のさいに基本史料が参照されていないばあいがある。

 こうした問題点にもかかわらず、審査委員一同は、本論文が新しい領域を開拓した意欲作であることを積極的に認め、諸葛蔚東氏に一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適切であると判断した。

最終試験の結果の要旨

1998年3月11日

 1998年2月17日、学位論文提出者諸葛蔚東氏の論文についての最終試験を行った。試験において、提出論文「戦後日本思想史における毛沢東認識」に基づき、審査委員が疑問点について逐一説明を求めたのに対して、諸葛氏は、いずれにも適切な説明を行った。
 よって審査委員会は、諸葛蔚東氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定し、合格と判定した。

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