博士論文一覧

博士論文審査要旨

論文題目:植民地期朝鮮における神社政策と朝鮮社会
著者:山口 公一 (YAMAGUCHI, Koichi)
論文審査委員:糟谷 憲一、吉田 裕、深澤 英隆、若尾 政希

→論文要旨へ

1.本論文の構成

 本論文は、植民地期(1910~1945)における朝鮮総督府の神社政策の展開過程を総体的に究明しようとしたものであり、神社政策を植民地支配政策全般の中に位置づけるとともに、朝鮮社会の動向や朝鮮民衆の対応との相互関係を究明し、対外関係や日本本国の政治状況との関連にも留意している。本文・参考文献目録を併せて、400詰原稿用紙換算で約830枚に及ぶ意欲的な労作である。
 その構成は次のとおりである。

序 論 研究史の整理と課題の設定
 第1節  研究史の整理
 第2節  課題の設定と研究の方法
第1章 「武断政治」期における「国家祭祀」の整備過程―1910-1919年―
 はじめに
 第1節  居留民神社の状況
 第2節  朝鮮における神社法令の整備と朝鮮神宮の創立
 第3節  1910年代における宗教管理統制法令の整備過程
 おわりに
第2章 「文化政治」期における「神社非宗教」論の登場―1919-1931年― 
 はじめに
 第1節  「国民儀礼」と「祖先祭祀」をめぐる朝鮮社会の諸相
 第2節  朝鮮における宗教管理統制秩序の再編
 第3節  「内鮮融和」をめぐる神学論争―朝鮮神宮祭神論争― 
第4節  「神社非宗教」論に基づく朝鮮神宮に対する「宗教性」の抑制
 第5節  「国家祭祀」と朝鮮社会
 おわりに
第3章 「満州事変・農村振興運動」期における「国民儀礼」の浮上過程
     ―1931-1936年―
 はじめに
 第1節  「満州事変」に伴う「国民儀礼」の浮上
 第2節  京城における地域支配と神社
 第3節  1936年8月の神社制度の改編
 おわりに
第4章 戦時体制期における「国民儀礼」強要政策の展開過程―1937-1945年―
 はじめに
 第1節  戦争の進展に伴う神社政策の段階的変化
 第2節  戦時動員としての「国民儀礼」強要の具体的展開
 第3節  戦時期神社政策への朝鮮民衆の対応の様相
 おわりに  
結 論 植民地期朝鮮における神社政策と朝鮮社会  

2.本論文の概要
 
序章第1節では、朝鮮における神社及び朝鮮総督府の神社政策に関する研究史を、大きく二つの時期に区分して整理している。
 第一の時期、1950年代から1990年代前半までについては、まず海外神社普及運動の担い手であった小笠原省三の『海外神社史』(1953)が古典的・基本的文献として位置づけられるとした後、1960年代以降、研究者による本格的研究が始まったことを述べている。そして、これらの研究は、(1)朝鮮の神社を含めた海外神社の機能、および朝鮮総督府の神社政策の狙いが植民地支配を正当化する思想の注入にあったことを軸として把握する研究(海外神社史研究)、(2)主にキリスト教との葛藤関係を軸に、神社参拝強制を宗教政策として把握する研究(神社参拝強制史研究)、を中心としたものであったと論じている。
 第二の時期、1990年代後半以降については、研究動向が多様化し、(1)「支配と抵抗」という二項対立ではなく、支配民族と被支配民族の相互作用に着目した研究(並木真人)、(2)神社政策と地域支配の再編成との関係を究明しようとした研究(青井哲人)、(3)朝鮮民衆の「心性」への接近を通じて神社政策・宗教政策のねらいや構造を解明しようとした研究(青野正明)、(4)総督府の神社政策と信仰文化の関係のあり方を明らかにしようとした研究(栗田英二)、(5)「祭神」の性格分析を深めた研究(菅浩二)、(6)「帝国」史研究の方法に立脚した研究(駒込武)が登場したことが紹介され、従来の神社政策史研究が再検討を迫られるに至ったことを述べている。
 第2節では、まず、先行研究には三つの問題点があると論じている。第一は、朝鮮総督府の神社政策を「国家神道」の移植であると前提したために、1930年代前半以前の朝鮮の神社の意味を神社参拝強制策の前史としてしか位置づけていないことである。第二は、日本の朝鮮支配をめぐる世界史的環境(対外状況)や日本国内における政治状況との関わりで、朝鮮の位置を捉えていく視点が充分でなかったことである。第三は、朝鮮民衆の神社参拝強要への対応が、二項対立的構図に還元されて、その多様な対応のあり方が見えてこないということである。ついで、こうした問題点を克服するために、朝鮮における神社政策の展開を、朝鮮社会や朝鮮民衆の対応との相互作用を踏まえ、朝鮮植民地支配政策の一環として、対外環境の面も含めて、歴史の過程に位置づけていくことが、本稿の課題であると述べている。
 次に、本稿において独自性をもつ研究方法は、(1)「統合」という視角の導入、(2)神社政策と総督府の重要政策課題との関係性の重視、(3)神社政策が促した地域社会の支配構造の再編成への着目、という四つの視角に立つことであることが、説明されている。
 第1章第1節では、朝鮮における神社の起源が「韓国併合」前の居留民神社にあることを、次のように説明している。
 朝鮮で最古の神社は、17世紀に釜山・草梁の倭館内に建てられた龍頭山神社である。祭神は金刀比羅神、住吉大神など、通商の繁栄と航海安全を願うものであったが、1865年には皇祖神である天照大神が合祀された。1876年の日朝修好条規調印後、倭館は日本の専管居留地に転ぜられ、龍頭山神社等、旧倭館に所在した神社は居留民神社となった。1898年には素戔嗚尊・神功皇后・豊国大神が龍頭山神社に合祀されるが、これは居留民上層や神職の主導によるものであり、日清戦争後の朝鮮侵略の展開に影響を受けて、国家的進出を支える日本人の朝鮮人に対する優越性を意識させるナショナリズムを体現したものであった。釜山の他、1880年以降、元山・仁川等の開港場や京城・平壌・大邱等の都市には、日本人が在住するようになるが、これら居留民によって神社が創建された。これらの居留民神社は、大神宮(祭神は天照大神)とその他の神社(金刀比羅神社、水産神社、恵美須神社、稲荷神社など生業の守護と繁盛、航海安全などの神を祀る神社)とに分かれていたが、「保護国」期を迎えると、居留民団(居留民組織)は、国家的対外進出を支える日本人の優越性や居留地における日本的アイデンティティの保全を意識する形で、大神宮奉祀の意味を位置づけていく傾向を強めていった。
 第2節では、まず、1910年8月の「韓国併合」によって韓国の「国家祭祀」であった社稷壇祭祀が1911年1月に廃止されたこと、1915年11月10日の大正天皇即位礼に先立って勅令「官国幣社以下神社祭祀令」等が朝鮮に適用される(11月4日)とともに、総督府令で「神社寺院規則」が定められ(10月1日施行)、「国家祭祀」を執行する場としての神社の制度的整備が図られたこと、大正天皇即位礼当日には京城神社等の神社において「大典奉祝行事」が執行されたこと、「神社寺院規則」によって既設の居留民神社の整理が行われたが、「神社」の要件を満たさないものについては簡易神社である「神祠」の設立を認める措置が取られたこと(1917年3月の総督府令「神祠に関する件」の発布・施行)が、述べられている。そして、(1)これら一連の神社法規の整備と神社整理は、居留民神社における多様な信仰のあり方を、天照大神奉斎神社への信仰に収斂させたこと、(2)それを促したのは大正天皇即位礼等の「国家祭祀」や附帯奉祝行事であったこと、(3)「内地」式に神社祭祀を執行させることは統治権の所在を明確にする上でも重要であったことなどを、指摘している。
 次に、朝鮮神宮の創立過程が、「韓国併合」前における「韓国の総鎮守」建設論、1911年に始まる朝鮮神社創建計画、1919年8月の朝鮮神社創立の順で跡づけられ、祭神を天照大神と明治天皇とした朝鮮神社の創立には、忠君愛国精神を日本人だけにではなく朝鮮民衆にも涵養しようとする「国民統合」の方向性が示されていたと論じている。
 第3節では、1910年代の朝鮮における宗教統制政策が概観されている。まず、神社と教派神道・仏教・キリスト教などの諸宗教に関する行政の分離が明確でなかったことを指摘した上で、「寺刹令」(制令。1912年6月)、「神社寺院規則」、「布教規則」(総督府令。1915年8月)などの宗教管理統制法令の整備過程が説明される。ついで、「国民教育」徹底という観点から、普通学校における宗教教育の禁止などによって宗教と教育の分離が徹底されたこと、「公認宗教」以外の民間信仰や民衆宗教は「宗教類似団体」として、警察が治安法規によって統制する対象であったことなどが述べられている。そして、総督府の宗教政策は「文明国」を標榜する日本の立場もあって、「信教の自由」を認め、各宗教に「保護」「便宜」を与えて懐柔しようとするものであったが、そこから逸脱する宗教に対してはこれを徹底して弾圧する方針を貫徹するものであったと、論じている。
 第2章第1節では、1920年代における「御真影拝礼」問題、および江景公立普通学校神社参拝強制事件をめぐる朝鮮総督府とキリスト教側との対立の様相を明らかにしている。前者については、御真影拝礼を拒否するキリスト教徒に対して、総督府が、御真影拝礼は国民教育上の儀式であって、キリスト教系学校であっても御真影を拝礼しないことは許されないとの姿勢を明確に示して、対立していたことが明らかにされる。後者においては、1924年10月に忠清南道の江景大神宮例祭に参列した江景普通学校生徒50余名が神社参拝をしなかったために、26名が退学に処せられた事件が検討されている。その中で、学校長が「神社大祭は国民思想の中枢」と処分理由を述べたこと、京畿道学務課長が神社は宗教ではなく、日本の祖先を崇拝する機関なので、強制的にも参拝させざるを得ないと発言したこと、総督府学務課長が参拝拒否は祖先祭祀の否定につながると発言したことが示される。三者の認識に若干の差異があることを根拠として、筆者は、この事件の段階では総督府自体が「神社が非宗教である」との認識を確固として明示せず、学校教育における神社参拝が国民教育の一環としての「儀礼」であるとの立場を明確にしえていなかったと論ずる。
第2節では、1920年代における宗教管理統制秩序の再編について検討している。第一に、1925年1月の朝鮮総督府の機構改編によって、神社行政が学務局宗教課から内務局地方課に移管されたことを取り上げて、これ以降、「神社非宗教」論は行政上の措置に裏打ちされた理論として登場することになったと論じている。第二に、一部の「宗教類似団体」に対する警察(警務局)の警戒感は1920年代半ばを過ぎても一貫していたことを明らかにしている。
 第3節では、1925年10月の朝鮮神宮(朝鮮神社を昇格)鎮座祭を直前にして起きた祭神論争と、鎮座祭前後の状況を検討している。前者については、小笠原省三が朝鮮民族を代表する檀君を祭神とすべきとする「内鮮融和のための檀君合祀論」を唱えたこと、神職有志は朝鮮の国土経営神として「国魂大神」を合祀すべきとしたこと、朝鮮人の上流層にも「檀君合祀論」などがあったこと、石黒英彦地方課長は朝鮮には合祀すべき神はいないとして反対し、祭神は天照大神と明治天皇で結着したことを明らかにし、この祭神論争は神社を通じて朝鮮人をどのように「統合」するかをめぐる神学論争であったと論じている。後者に関しては、(1)学務局は神宮御霊代(御神体)奉迎式とそれに伴う神社参拝に学校教員・児童生徒の参加を求めたのに対し、キリスト教系学校は参加しなかったが、処分されるには至らなかったことを明らかにし、(2)この段階では、「神社非宗教論」は学務局・内務局の共通認識となっており、神社参拝は「国民儀礼」とする認識が総督府内で固まっていたことが窺えると、論じている。
 第4節では、1920年代半ば以降の総督府の「神社非宗教」論は、神社の持つ「宗教性」を抑圧するものともなったことが、明らかにされている。このような「宗教性抑圧」の事例としては、神社による思想善導は時代遅れであり、神符・守札は不都合、神前結婚式を遠慮せよとした生田清三郎内務局長の発言、神社祭祀に総督府高官が参列しないこと、朝鮮神宮の施設設備の整備の遅れ(整備費は総督府予算から支弁されていた)、などが挙げられている。この背景には、(1)当時は地方制度改編等によって朝鮮人地方有力者を総督府側に引き寄せようとすることに関心が向けられていたこと、(2)列強中心の国際秩序維持への配慮から、総督府はキリスト教懐柔政策を取っており、キリスト教系学校に対しては「神社非宗教」論で「国民儀礼」への参加を説得すること以上の抑圧的な対応をとれなかったこと、(3)そのことは逆に、「神社非宗教」論の枠組みを超えるような、神社による「忠君愛国」「国風移植」の「思想善導」を抑制せざるを得なくさせたこと、などの事情が存在したと、筆者は分析している。
 第5節では、韓国最後の皇帝・純宗および大正天皇の死去(1926年)、昭和天皇の即位礼(1928年)に際しての「国家祭祀」をめぐる朝鮮社会の動向、朝鮮民衆の対応が検討されている。ここでは、次の諸点が明らかにされている。(1)純宗の国葬は純朝鮮式で行われた。(2)純宗国葬に際して、一部の地域では神社が「遙拝式」の会場とされ、「国家祭祀」「国家儀礼」を行う「広場」としての公共性を帯びて、神社が徐々に朝鮮社会に入り込んでいく過程として捉えられる。(3)純宗国葬に際して、朝鮮民衆は「望哭」という儀式、閉店・休学による奉悼を行い、純宗との紐帯の深さを示した。(4)大正天皇死去に際しては、遙拝式・奉悼式、大喪時の神社での「国家祭祀」が挙行されたが、朝鮮民衆は無関心であった。(5)昭和天皇即位礼に際しては神社での遙拝式とその後の奉祝行事、大嘗祭時の朝鮮神宮での「幣帛神饌の儀式」とその後の奉祝行事が行われ、神社が「国家祭祀」の場として機能することになった。(6)大正天皇から昭和天皇への代替わりに際して神祠が増加したが、1928年末現在、神社・神祠が設置された府面数は総数の8%弱に過ぎなかった。
 第3章第1節では、満州事変・農村振興運動の時期に神社が「国民儀礼」を行う場として浮上していった過程を、次のように跡づけている。(1)総督府は農村振興運動に並行して1932年以降、「国民精神作興運動」を展開するが、1932年11月の「国民精神作興に関する詔書」(1923年11月発布)の奉読式は、例えば平壌では神社が使用されておらず、この段階においては神社は必ずしも積極的に位置づけられていたわけではない。(2)「農村振興運動」進展の中で、総督府は1935年以降、「心田開発運動」を展開するが、神社はこの運動の担い手として登場した。(3)1936年には日本政府の「国体明徴声明」に影響を受けて、心田開発運動の目標に「国体観念の明徴」「敬神崇祖及び信仰心の涵養」が盛り込まれることによって、神社の役割は増大することになった。(4)1932年9月の平壌瑞気山で行われた「満州出征戦没将士慰霊祭」を契機に、キリスト教系学校の招魂祭不参列を黙認してきた平安南道学務課は参列を求める方針に転換し、両者の対立が表面化することになった。(5)1933年12月の皇太子誕生以降相次いだ神社での「国家祭祀」や「慶事奉祝」行事を通じて、「国家儀礼」は、帝国日本の繁栄を奉祝する社会規範や慣習として朝鮮社会に印象づけられていった。(6)「国体明徴声明」後の1935年11月、平壌のキリスト教系学校長が平安南道校長会議冒頭の平壌神社参拝を拒否したのに対し、平安南道当局が「校長更迭・廃校処分」の態度を示したのに端を発して、総督府とキリスト教系学校側との対立が深まり、1936年2月以降の校長罷免を経て、4月の学務局長通牒により、全教育機関に「神社非宗教」論に基づく神社参拝が事実上、義務化されるに至った。
 第2節では、1898年に京城の居留民によって創立された京城神社が、1926年以降には朝鮮人を氏子に含むことになり、1931年には朝鮮人氏子によって例祭の準備が行われたこと、1929年には「国魂大神」を合祀して神社祭祀への朝鮮人の「統合」を進めようとしたことを述べて、京城神社は地域教化網の中で重要な役割を果たしたと主張している。
 第3節では、1936年8月に実施された神社制度の改編について詳細に検討している。まず、この改編が、神社に対する朝鮮総督への権限付与、「神社規則」「神祠に関する件改正」(朝鮮総督府令)などによる神社法令の整備と神社に対する管理統制の強化、神饌幣帛料供進制度の確立を柱とするものであったことを、説明している。ついで、制度改編の意味は、(1)神社を朝鮮民衆の「統合」の手段とすべく、制度的に整えることであり、(2)このような神社政策の方針転換は、満州侵略の選択、ワシントン体制からの離脱によって国際的に孤立を深めていた日本が、帝国内における一層の「国民統合」を図る必要性に迫られた結果であった、と筆者は論じている。
 第4章第1節では、日中戦争開始後、皇民化政策の時期における総督府の神社政策は、「皇民化」を支える理念的根拠である「国体明徴」を朝鮮民衆に広めることであったとして、その展開過程を跡づけている。その主なものは、1938年の時局対策調査会を機とする一面一神祠設置方針の樹立、1939年以降に進められた京城・羅南の両護国神社設置、皇紀2600年記念事業として百済の旧都への扶餘神宮の造営計画(1939年に開始されたが、未鎮座に終わる)、アジア太平洋戦争期における禊祓(ミソギハライ)の励行、神社代替物としての大麻(オフダ)の配布と神棚設置の推進による「家庭の錬成道場」化の企図などである。
 第2節では、戦時期に、「国民儀礼」としての神社参拝を強要する政策が「国民運動」として展開された過程を跡づけている。1938年8月に皇民化政策推進のための「国民運動」組織として、国民精神総動員朝鮮連盟(1940年10月に国民総力朝鮮連盟に改組)が発足するが、その末端組織で地域・職場・学校単位に組織された単位連盟やその下の「愛国班」を利用して神社参拝が推進、強要される様相が具体的に明らかにされている。
 第3節では、まず、日中戦争開始後に、神社の例祭に際しての附帯行事から「娯楽」的色彩が消え、戦勝奉告祭や武運長久祈願祭など戦争関連の祭典が執行され、これらの行事に朝鮮人も動員されることになったことが述べられる。ついで、「国民儀礼」としての神社参拝を強要された朝鮮民衆の対応が、(1)キリスト者の参拝拒否などの抵抗や「非礼」言動、(2)「屈従」した者の中に見られる「面従腹背」、(3)神社参拝や大麻・神棚等の意味に対する「無理解」、などとして現れたことを、警務局の不穏言動取締報告を基にして明らかにしている。
 結論は、以上の要約・整理であるが、朝鮮総督府の神社政策の展開過程は「国家祭祀」や「国家儀礼」によって「国民統合」を段階的に試みてきた過程であり、それは(1)「国家祭祀」の整備過程(1910-25年)、(2)「神社非宗教」の確立と「国民儀礼」の浮上過程(1925-36年)、(3)「国民儀礼」の強要過程(1936-45年)に時期区分して把握できる、としている点は、重要である。

3.本論文の成果と問題点

 本論文の第1の成果は、居留民神社としての出発以降における朝鮮の神社の変化、朝鮮総督府の神社政策の展開を、段階的に跡づけることによって、植民地朝鮮における神社が「国家祭祀」「国民儀礼」の場として位置づけられ、制度的に整備されていき、やがて、「神社非宗教」論によって学校への神社参拝の強要が徹底され、日中戦争開始後には朝鮮民衆全体に対する「国民統合」の手段と位置づけられ、神社参拝が「国民運動」の一環として強要されるに至った過程が、系統的に明らかにされたことである。これは、従来の朝鮮総督府神社政策史研究が1936年の神社制度改正、キリスト教系学校への神社参拝強要以降を中心としていたり、それ以前の時期の神社・神社政策に関する研究も部分的な検討に止まっていたのに対して、居留民神社以来の朝鮮における神社の展開、総督府の神社政策の展開過程を、総合的系統的に検討した努力による貴重な成果であり、高く評価できるものである。
 第2の成果は、神社・神社政策に対する朝鮮民衆の対応の諸相が、時期によって濃淡はあるものの、具体的に解明されたことである。例えば、1925年の江景公立普通学校事件、1926年の純宗死去と大正天皇死去に際しての対応、1932年の平壌「満州出征戦没将士慰霊祭」事件、警務局資料による戦時期の神社参拝強要への対応などの検討は、史料博捜の努力が産み出した貴重な成果である。
 第3の成果は、朝鮮における神社政策の展開と対外状況、国内政治状況の変化とを関連づけて把握する視点が、いくつかの点で成功を収めていることである。それは、キリスト教・キリスト教系学校への対応を日本の対欧米関係の変化と関連づけて説明している点、心田開発運動のなかに「国体明徴」が盛り込まれることと1935年の日本政府の「国体明徴声明」との関係を具体的に述べている点、などである。
 第4の成果は、神社・神社政策関係史料はもちろん、朝鮮総督府の支配政策関係史料、キリスト教関係史料、地方史関係史料、日本語・朝鮮語の新聞など、史料を広範に収集・検討しており、実証上、高度の水準を確保していることである。
 本論文の問題点は、第1に、神社・神社政策への民衆の対応の諸相を相当に解明はできてはいるが、朝鮮民衆の信仰・宗教の世界はどうであったかを示しつつ、そのことと神社・神社政策との接点を明らかにすることが、課題として残されていることである。
 第2に、第1の点とも関わることであるが、筆者は朝鮮民衆の「心性」に言及し、注目しているけれども、「心性」の概念がなお充分に彫琢されておらず、また「心性」の具体相を示す材料の提示がなお乏しいことである。
 しかし、以上の2点は、今後の研究において克服することが期待できる点であり、本論文の達成した成果を損なうものではない。
 以上、審査員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与する充分な成果を挙げたものと判断し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するのに相応しい業績と判定する。

最終試験の結果の要旨

2006年2月8日

 2006年1月24日、学位論文提出者山口公一氏の論文についての最終試験をおこなった。試験においては、提出論文「植民地期朝鮮における神社政策と朝鮮社会」に基づき、審査員から逐一疑問点について説明を求めたのに対し、山口公一氏はいずれも適切な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は山口公一氏が学位を授与されるのに必要な研究業績及び学力を有することを認定し、合格と判定した。

このページの一番上へ