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博士論文審査要旨

論文題目:体験学習活動による生涯学習の基盤形成―生徒の意識変容のプロセス―
著者:杜 念慈 (TU, Nien Tzu)
論文審査委員:藤田和也、中田康彦、林 大樹

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1.本論文の構成
杜念慈氏の問題意識は、台湾での中学校教師(数学)の経験にもとづくものである。台湾での生徒たちの学力低下と逸脱行動の日常化に頭を悩ませた筆者は、学習を将来の希望に繋げたいと願い、生徒の学習観の変容をうながす教育実践を日本において模索した。その結果、筆者は中学校における体験学習活動が生徒の学習意欲を高め、生徒たちを生涯学習者に育てうるという仮説を立てるに至った。本論文は体験学習活動として国内外によく知られる兵庫県の「トライやる・ウィーク」を丹念に調査し、体験学習が生徒の学習意欲に及ぼす影響、体験活動による学習への見方の変容、主体的な生涯学習者への発達の可能性の解明を試みた力作である。
 
目次
序章                                 
第1節  問題関心と本論文の主題
第2節  先行研究の展開と本論文の位置づけ
第3節  課題と方法
第1章  体験学習活動の目的―教育政策における意義 
 第1節  体験学習活動導入の背景―兵庫県の教育行政から
第2節 文部科学省による体験学習活動の提唱-中教審答申にみる政策目標     
第3節 「トライやる・ウィーク」への注目                   
第2章 体験学習活動の事例
――兵庫県の『地域に学ぶ「トライやる・ウィーク」』の展開 
第1節 初年度(1998年)の取り組み                      
 第2節 6年間(1998年~2003年)の実施状況                 
第3節 「トライやる・ウィーク」に対する評価                
第3章 体験学習活動における生徒の意識変容               
第1節 長田中学校の「トライやる・ウィーク」実施状況            
第2節 実施過程における生徒の意識調査                   
第3節 一年後の追跡調査                          
第4節「トライやる・ウィーク」による生徒の意識変容             
第4章 体験学習活動の地域展開による生涯学習の基盤形成          
第1節 体験学習活動による意識変容
第2節 学校経験と生涯学習への動機づけ
 第3節 生涯学習の基盤形成の促進を支える支援ネットワークのあり方
結論
 文献表
 資料
(1)長田中学校における調査データ
(2)一年後におこなったアンケート調査②の回答
(3)神戸市立長田中学校2002年度「トライやる・ウィーク~自分の将来を見つめて  
~レインボードリーム」において使用された指導用資料等

2.本論文の概要
 序章では、問題関心が述べられ、研究課題が設定される。筆者は台湾と日本における教育の問題状況を整理し、学習にたいして生徒のもつ否定的イメージを肯定的なものに転換する重要性を指摘する。その転換の可能性を、筆者は体験学習に求めた。体験学習活動による肯定的な学習イメージの獲得は、生涯学習社会の構築にむけての重要な課題であるとする。
 生涯学習政策の流れをまとめ、体験学習活動に関する先行研究を綿密に整理し、具体的には、兵庫県で全県的に実施されている体験学習活動「トライやる・ウィーク」を分析の対象に定める。筆者は「トライやる・ウィーク」の特徴を以下の5点にまとめている。すなわち、第1に、従来わが国で実施されてきた体験学習活動に比べて、活動期間が5日間(月曜~金曜)と長期であり、生徒は毎日自宅から直接体験先に行き、指導ボランティアと一緒に体験を行うこと。第2に、主として地域の事業所で実施され、地域の支援ネットワークの連携、融合および協力のあり方が模索されつつあること。第3に、この事業は1995年の阪神淡路大震災と1997年の神戸市児童殺害事件への緊急の対応として全県一斉に実施されていること。第4に、1998年から毎年実施されていることから、学校や地域の事業所といった関係者のなかでの試行錯誤や事業実施の経過と変遷を追うことが可能であること。第5に、1999年にOECDによる調査(OECD/CERI「生涯学習に対する生徒のモチベーションを促す教育方法」)の対象となっており、すでに生涯学習の観点からも高い評価を得ていること。
 上記の特徴をもつ「トライやる・ウィーク」は、教師などの関係者による実践報告は多くあるものの、研究者による学術研究はきわめて少なく、活動の全貌は明らかにされていないことが先行研究の幅広い考察にもとづき示される。さらに、筆者は、「トライやる・ウィーク」による生徒の動機づけの成功に、学校の革新の可能性を読み取ったOECDの調査報告書に学びながらも、この報告書では子どもの多様な意識変容とその意味が詳しく考察されていないとする。そこで、筆者は、「トライやる・ウィーク」を事例に体験学習活動による生徒の意識変容を考察し、生徒の意識変容のプロセスから、生涯学習の基盤形成をめぐる体験学習の可能性を解読するという課題を設定する。
 筆者は、参与観察、アンケート調査とインタビュー調査を重ね、さらに、支援ネットワークの市民、事業所の人々に聞き取り調査を行っている。兵庫県教育委員会の統計データを収集し、「トライやる・ウィーク」の実施にかかわる行政関係者へのインタビューを重ねている。丹念な調査活動と資料収集を地道に積み重ね、先の課題に取り組んだ。
「第1章 体験学習活動の目的―教育政策における意義」では、まず、兵庫県で体験学習活動が提唱され、導入されるようになった経緯が明らかにされる。次いで、国の教育政策の動向が考察された。中教審答申と教育改革国民会議の答申を読み解き、特に平成8年答申以降のキー・ワード「生きる力」「ゆとり」「心の教育」「職業観」「キャリア教育」などを検討する。さらに、阪神・淡路大震災と不幸な事件(A少年事件)が続いた兵庫県での独自の教育改革が、国の教育政策に及ぼした影響と、国の教育政策が兵庫県の体験学習活動事業に与えた影響の両方が解明される。「トライやる・ウィーク」に先行した体験活動の試み(「自然学校」や短期間の体験活動)を追い、背後に県民運動の展開があったことを突きとめる。
また、筆者は、「トライやる・ウィーク」が奉仕活動の導入や不登校、総合的な学習とのかかわりで、注目されていることにも言及する。
 「第2章 体験学習活動の事例―兵庫県の『地域に学ぶ「トライやる・ウィーク」』の展開」では、分析の対象となる「トライやる・ウィーク」の概要が示され、1998年の事業の立ち上げから2003年までの6年間の実施状況が詳細なデータを用いて説明されている。活動内容、職種の内訳、不登校生徒への影響をはじめ、この事業がどのような内容でどのように実施されてきたかが綿密に検討される。こうして「トライやる・ウィーク」実施の全貌が明らかにされる。
 続いて、「トライやる・ウィーク」の関係者がどのようにこの事業を評価しているかについて、この事業にかかわる各種フォーラム報告書や行政文書をくまなく収集し、教師や保護者、指導ボランティアによる報告、各種フォーラム、たとえば神戸市で開催された「体験活動フォーラム」での参加者の発言など、多様な関係者のさまざまな場面での意見を記録し、多様な評価を総合的に考察している。
「第3章 体験学習活動における生徒の意識変容」では、体験活動の実施過程で行った調査と実施1年後の補充調査とから得たデータを分析し、生徒の意識変容のありようを浮上させる。事前調査を踏まえて、長田中2年のあるクラス(協力者である教師が担任するクラス)において「トライやる・ウィーク」をめぐる生徒と教師の活動の参与観察を行った。実施前週の調査にもとづき事前学習の内容、スケジュール、その際の生徒たちの行動や表情、発言などが記録された。実施前に、生徒たちを対象に体験活動への期待や学校観などめぐるインタビューも行っている。
体験学習活動実施過程では、筆者の参与観察を許可してくれた事業所で活動に加わり、生徒たちの動きをめぐるフィールド・ノーツが作成された。教師の事業所訪問にも同行し、さまざまな事業所の対応と生徒たちの活動を調査している。さらに、一日の活動を終えて学校に戻った生徒にインタビュー調査を実施した。翌週の事後指導の際にも、長田中でインタビューを行っている。
積み重ねられたインタビュー結果、参与観察の記録ばかりでなく、生徒たちが記述する「しおり」、生徒の「トライやる・ウィーク Rainbow日誌」、生徒の感想文をまとめた「レインボー・ドリームを終えて」(「一言集」)、生徒の日誌に含まれる保護者のメモ、筆者が実施したアンケート調査(体験活動後の生徒の意見・感想などを問うアンケート)結果などが整理される。さらに、1年後には追跡調査が実施され、1年前に参与観察を行ったクラスの生徒たちにアンケート調査に協力してもらった。こうしてえた膨大なデータを用いて、生徒たちの心の動きに接近し、意識変化の有無、変化のなかみを再構成していく。
本章最終節では、「トライやる・ウィーク」による生徒の意識変容が、職業観、学校観、自己認識、学習観の各変容として明らかにされる。ここでは、ある意識変容が他の意識の変容に連動する構造が解明され、学習観の変容に収斂する意識変容のあり方のパターンが仮説的に示されている。
「第4章 体験学習活動の地域展開による生涯学習の基盤形成」は、第3章で得られた分析結果をもとに、体験学習活動が生涯学習の基盤形成を促進する可能性を理論的に考察し、生徒の意識変容を促す支援ネットワークの構想を検討する。
第3章で示された学習に対する肯定的なイメージの形成に繫がる生徒の意識変容の構造を理論的に検討するために、筆者は、成人の学習による意識変容の構造を明かしたパトリシア・クラントンの理論に注目し、子どもの学習の独自性を踏まえて彼女の理論の修正を試みる。クラントンは学びの過程を「前提」「気づき」「ふり返り」「前提の再形成」の循環と捉えたが、筆者はそうした循環を一つの完結した環としてではなく、いくつかの意識変容の連鎖によって構成されるものとして捉える。この場合、その意識変容の循環は職業観あるいは自己認識の変容によって稼動し、肯定的な学習イメージの形成に連なる変容の連鎖が起こると分析する。こうした前提の振り返り、再形成といった意識変容の必要性を述べる一方で、肯定的な学習イメージに関しては子ども期の場合不安定であり、これが揺らぐと次なる意識変容の連鎖の過程が中断されかねない点を指摘する。そこでこの肯定的な学習イメージが揺らがず維持されるためには、周囲の働きかけが必要であるとされる。こうして教師の事後指導の重要性が明らかにされる。教師ばかりでなく、保護者や地域の人々も加わったネットワークによって、肯定的な学習イメージが維持されれば、その学習イメージは生涯学習の基盤となりうると、筆者は指摘する。
第2節では、生涯学習の基盤形成が現代的な課題であることを、90年代後半以降のOECDの取り組みと、OECDが 2000年に提出した報告書「教育改革の効果―生徒の生涯学習への動機づけ」にもとづき指摘する。OECD/CERIは1996年から1999年にかけて8カ国24ケースの体験学習活動の調査研究を行ったが、その調査対象の一つが「トライやる・ウィーク」であった。OECDは体験学習活動の経験が生徒たちの学習意欲を高め、生徒を生涯学習へ動機づけるとした。筆者はこの報告書を評価しつつも、生徒の体験学習活動により喚起されるさまざまな意識変容の過程が明らかにされていないと批判した。
続いて、国内外の主な生涯学習論にあたり、子どもを生涯学習者に育むための取り組みは、大人の生涯学習の実践にもなりうることを析出する。筆者は「トライやる・ウィーク」が、教師、保護者、地域住民の連携による支援ネットワークによって実現されているとする。行政、学校、事業所、家庭の支援体制をもう一度丁寧に洗い出し、支援ネットワークのモデルを提示する。筆者は、家庭と学校、家庭と事業所の連携が弱いことを指摘し、行政から学校へのトップダウン、行政の枠付けの強固さを批判的に検討している。
筆者は学校と事業所と家庭の連携の強化の必要性を論述し、支援ネットワークの形成には大人の学習を促進する効果があると述べている。
「結論」において、筆者は本論文によって明らかになった点を整理し、体験学習活動による生涯学習の基盤形成の可能性について論ずる。本論文が、体験学習活動による意識変容の連鎖構造を明らかにし、体験学習活動により学習にたいする肯定的なイメージの形成が可能性になることを解明したこと、支援ネットワークの意味を洗い出し、支援ネットワークづくりによって地域社会が生涯学習社会になる可能性を論じたことが記述されている。

3.本論文の成果と問題点
 本論文の成果の第一は、「トライやる・ウィーク」の総合的で克明な考察にある。OECDは、「生涯学習に対する生徒のモチベーションを促す教育の方法」研究に取り組み、「トライやる・ウィーク」に注目した。筆者はOECDから派遣された研究者と一部一緒に調査するなどのチャンスを活かし、紹介されることこそ多いが分析されることは少ない「トライやる・ウィーク」を、子どもの学習観などの意識変容の観点、及び支援ネットワークの編成とおとなの生涯学習という観点から、はじめて本格的に分析し、「トライやる・ウィーク」の実態の総合的な解明に成果をあげることができた。
 第二の成果は、「トライやる・ウィーク」の前史と実施をめぐる諸書類、国レベルから地方行政にまで及ぶ各種の行政文書等を徹底的に収集し、政策動向を詳細に叙述することによって、学校・家庭・地域の連携を必要とする政策の課題設定と実施過程の諸問題や条件整備にかかわる課題を具体的に明らかにしたところにある。県独自の政策課題の設定・実施などの教育政策として評価できる要素を浮上させ、また、政策の早急な実施が学校に過大の負担をかけ、支援ネットワークづくりの入念な準備を欠いたために、学校と家庭と地域の連携が形式的になった経緯が明らかにされた。
 第三の成果は、「トライやる・ウィーク」を構成する多様なアクターのそれぞれを調査し、インタビューとアンケート調査を重ね、生徒の各種作文とメモを収集・分析し、体験学習活動によって学習の肯定的なイメージが形成されうることを実証したことである。この研究成果は日本にとっても台湾にとっても意味の深い問題提起を含んでいるものと思われる。
 第四の成果は、体験学習活動による生徒のさまざまな意識変容を捉え、変容の連鎖を構造的に説明することに成功したことである。職業観の変容がさまざまな変容の契機になることや、いくつかの変容が学習観の変容に収斂することが示された。この成果は、OECDの研究が踏み込まなかった課題に部分的に取り組み一定の成果をあげたという意味をもつ。そればかりではない。学校での学習のイメージが変わらなくとも、学校に縛られない学習観を持ちうることを明らかにし、生き方の設定や再設定にあわせ生徒が学校という場を位置づけ直し、学校の外の学習機会にも自覚的になりうることを示したことは、学校教育の再考と生涯学習理論の展開にとって重要な示唆を与えているものと思われる。
 第五に、生徒の体験学習活動にかかわるおとなたちに、支援活動が、関係者としての自覚と課題意識を喚起し、多様な生涯学習を生み出しうることを明らかにした。
 しかし、問題がないわけではない。生涯学習の基盤形成に体験学習活動が資する点は示されたが、基盤形成の実現が検証されたとはいいがたいのではないか。筆者もこの点を自覚しており、論文の中で今後の課題として追跡調査の必要等を告げている。
また、論文には、学校の学校外活動(体験学習)の組織化をめぐる詳細な記述が含まれているが、研究を、生徒の意識変容と生涯学習者への育成という課題に絞ったために、地域づくりという観点からの考察は深くはない。この観点からの研究に期待を寄せたくなるようなデータが含まれているので、分析の踏み込みが不十分なのは残念である。筆者もこの点を承知しており、地域社会が子どもの教育を核として生涯学習社会となっていく過程を追究したいと、今後の決意を語る文章で本論を閉じている。
以上のように、問題がないとはいえないが、生徒における肯定的な学習イメージの形成の可能性を体験学習活動から読み取り、体験学習活動による生徒の意識変容と支援ネットワークを解明するという筆者の課題は果たされており、さきの問題点によって論文の意義が減ずることはない。しかも、本人が問題点を自覚しており、今後の研究の進展を期待したい。
 以上のように審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく寄与するものと認め、 杜念慈氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2005年7月13日

 2005年6月15日、学位請求論文提出者杜念慈氏についての最終試験を行った。本試験において、審査委員が提出論文『体験学習活動による生涯学習の基盤形成―生徒の意識変容のプロセス―』をめぐり、逐一疑問点について説明を求めたのに対し、杜氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査委員一同は杜念慈氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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