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博士論文審査要旨

論文題目:イギリスのスポーツ・フォー・オール-福祉国家のスポーツ政策-
著者:内海 和雄 (UCHIUMI, Kazuo)
論文審査委員:高津  勝、渡辺 雅男、尾崎 正峰

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【本論文の構成】

本論文は、イギリスのスポーツ・フォー・オール政策を福祉国家政策の一環としてとらえ、その政治・経済的な基盤にまで掘り下げて、歴史的、構造的な分析を行った労作である。
本論文の構成は以下の通りである。

序 章 問題意識の所在-イギリス研究の意義
第1部 福祉国家論とスポーツ政策研究
 第1章 イギリススポーツ政策研究
 第2章 福祉国家論とスポーツ・フォー・オール
第2部 イギリススポーツ政策の変遷
 第3章 1960年代以前の社会背景とスポーツ政策-自由放任の終焉-
第4章 1960年代のスポーツ政策-権利・公共性の台頭:階級独占から全階級へ-
第5章 1970年代のスポーツ政策-権利・公共性の発展-
第6章 1980年代のスポーツ政策-新自由主義と貧困格差拡大-
 第7章 1990年代のスポーツ政策-私事化と公共性の拮抗-
 補 論 デニス・ハウエル研究
第3部 イギリススポーツ行政の構造
 第8章 国のスポーツ行政の構造
 第9章 スポーツカウンシル他の組織と活動
 第10章 地方自治体とスポーツ行政の構造
 第11章 ヨーロッパのスポーツ政策と組織
第4部 青少年スポーツの振興
 第12章 「全国ジュニアスポーツ計画」
 第13章 イギリスの部活動行政の現状と問題点
 第14章 学校スポーツコーディネーター
【本論文の内容要旨】

 本論文は、序章、および4部14章で構成されている。
序章において、「なぜイギリス研究をするのか」という問いを発し、自国の課題との接点の探求という問題意識を交えながらイギリススポーツ政策研究の必要性を説いている。
第1部「福祉国家論とスポーツ政策研究」(第1~2章)では、先行研究の検討をふまえ、研究対象、理論的なアプローチ等に関する本論文の特徴を示しながら、本論文における著者のねらいを述べている。
 第1章「イギリススポーツ政策研究」で、日本とイギリスのそれぞれにおけるイギリススポーツ政策研究を検討している。1960年代後半から始まったスポーツカウンシル(Sports Council)の活動が、1970年代以降、多くの日本人研究者や行政関係者の注目を集め、論文などで紹介された。しかし、内海氏は、そのほとんどが断片的紹介にとどまり体系的な把握がなされておらず、また、1980年代後半以降、日本におけるイギリススポーツ政策研究はほとんど進展していないとする。一方、イギリスにおいても、スポーツ政策研究は1980年代以降に始まったものであり、1990年代後半になってようやくスポーツ政策に関する歴史的な研究が提起されるようになったが、福祉国家の一環としてスポーツ政策の展開をとらえた研究は極めて不十分であるとする。
第2章「福祉国家論とスポーツ・フォー・オール」では、第1章の研究史の総括をふまえ、1942年のベヴァリッジレポート以後の福祉国家の変遷を考察したあと、著者による時期区分を示し、次のような研究上の課題を列挙している。すなわち、福祉国家体制の変容とともにスポーツ政策が展開していく中で国や地方自治体などパブリックセクター(公的部門)の役割がどのような変遷をたどってきたのか、サッチャリズムに代表される新自由主義的な政策方針が顕現化する中で福祉国家の進展とともに蓄積されてきた人々のスポーツの享受に関わる基盤がいかなる影響を被っているのか、スポーツという文化の権利保障の筋道をどのように構想していくのか、などである。
 第2部「イギリススポーツ政策の変遷」(第3~7章、補論)は、第2章で提示された著者の時期区分に基づいて、戦後のイギリススポーツ政策の変遷を、各時代の政治・経済の動向、および福祉政策の動向をふまえながらスポーツ・フォー・オールの視点から分析したものである。
 第3章「1960年代以前の社会背景とスポーツ政策-自由放任の終焉-」は、戦後の経済成長とそれにともなう福祉国家の展開という中で、人々の「するスポーツ」への国家の関与が胎動してくる過程を明らかにしている。アマチュアリズムの理念が強固なイギリスにおいては、人々の「するスポーツ」に関しては中産階級を中心とするボランタリーセクターに委ねられていたが、第二次世界大戦後の高度経済成長にともなう労働形態・生活形態の省力化の中での健康対策、そして、国民の文化要求の高揚と一方での国民の不満を管理する社会統制という福祉国家の2つの側面とが折り重なって、「するスポーツ」への国家の政策的関与への動きが1950年代後半には醸成され始めたとする。
 第4章「1960年代のスポーツ政策-権利・公共性の台頭:階級独占から全階級へ-」は、1960年のウォルフェンデンレポートを契機としてスポーツに対する国家政策のあり方が大きく転換し、1965年にスポーツカウンシルが設立され活動を開始した過程に焦点をあてている。ウォルフェンデンレポートにおいては、イギリスのスポーツの実態調査をもとにした数多くの問題指摘とともに、その改善を図る上での国や自治体の責任による施策展開をもとめていた。その中でとくにその設立が重視されていたスポーツカウンシルは、準政府機関の特殊法人(Quasi Non Government Organization:Quango)としての性格を持つこととなり、ネオ・コーポラティズムの政治・経済下で、政府は経済的な援助は行うがカウンシルの活動に直接的に介入すべきでないとした制度的特質が、世界的に注目されることになったとする。
第5章「1970年代のスポーツ政策-権利・公共性の発展-」は、1970年代は、福祉国家が最も充実した時期であり、イギリスのスポーツ・フォー・オール政策についても最も伸展した時期として、その政策動向を分析している。政策展開の内実として、スポーツクラブ育成の奨励とともに、ウォルフェンデンレポート以来指摘されてきたスポーツの展開のための基盤整備(体育館、屋内プール、屋外スポーツグラウンド等の施設建設)が、内需拡大策と結合して、この時期に急速に伸展した点を関連資料と統計数値を示しながら論証している。そして、1975年には当時のスポーツ行政を所管する環境省が初めてのスポーツ白書『スポーツとレクリエーション』をまとめ、欧州審議会(The Council of Europe:CE)のスポーツ政策に呼応しながら、スポーツ振興策の概要を提起した。このことはスポーツ政策の直接的な実施機関である地方自治体のスポーツ行政推進に大きく貢献した。こうした分析をもとに、内海氏は、イギリスの福祉国家政策の一環としてのスポーツ政策は1970年代に確立したとする。
 第6章「1980年代のスポーツ政策-新自由主義と貧困格差拡大-」では、サッチャー政権下での新自由主義的な政策のスポーツ政策への影響について分析している。国や自治体業務の民営化、多国籍企業を中心とする市場化の進展、福祉の削減の中で、1980年代の中頃には失業率が13%、実数は350万人(人口6,000万)となった。こうした中で、1980年代初頭には都市暴動が勃発し、スポーツが社会統制の有力な手段としてとらえられた。そのため、当初、スポーツカウンシルなどの特殊法人は削減・廃止の対象と目されたが、スポーツカウンシルは廃止の対象とならなかったばかりか、1980年代にかけて予算は逆に増加した。この点から見れば、新自由主義的な政策方針のスポーツ分野への浸透は他分野に比べて相対的に遅れたといえる。しかし、同時に、国民の福祉水準の低下はスポーツ参加の低下につながったという実態も指摘されている。
第7章「1990年代のスポーツ政策-私事化と公共性の拮抗-」は、政権がサッチャー、メジャー、ブレアと交代した時期である。スポーツ政策の領域では、1990年代初頭から自治体において強制競争入札が導入され、行政分野での民営化が図られ、自治体の補助金は停滞した。その一方で、イギリススポーツの国際的威信の低下、あるいは国民の健康問題の深刻化により、スポーツの高度化と大衆化、特に青少年のそれは喫緊の課題となった。このため、1995年にメジャー首相が、2000年にはブレア首相がそれぞれ主導してスポーツ振興のための政策が公表された。これらの政策の財源は1994年以降実施されている国営宝くじ(National Lottery)に依るところが大きいとする。
「補論 デニス・ハウエル研究」は、労働党スポーツ大臣として11年間在任し、イギリスのスポーツ政策の基礎を築き、発展させたデニス・ハウエルその人に焦点をあてたものである。内海氏によるハウエル氏への2度にわたるインタビューと諸資料から、ハウエル氏の思想、政策への関与等について分析した。
第3部(第8~11章)「イギリススポーツ行政の構造」では、国の行政機構、スポーツカウンシル等のスポーツ組織、そして地方自治体のスポーツ行政に関して分析を加えている。
第8章「国のスポーツ行政の構造」では、国の行政機関におけるスポーツ行政組織「スポーツ・レクリエーション課(SARD)」と所管省の変遷の概略をまとめている。イギリスでは、政権交代の度に省庁再編が起きるといえるが、SARDの所管も、教育省、環境省、地方・保険省、教育雇用省、国民文化遺産省と移り変わり、1997年のブレア政権において初めてスポーツを冠した文化・メディア・スポーツ省が誕生した過程を、行政の機構・構成の変遷とともに描き出している。
第9章「スポーツカウンシル他の組織と活動」では、スポーツカウンシルをはじめとする、全国レベルのスポーツ組織の検討を行っている。個々の組織の展開過程の分析とともに、とくに、「身体レクリエーション中央評議会(CCPR)」とスポーツカウンシルとの関係が、発足当初から問題をはらんでいる点を示した。そこには、両者の活動の多くが重複している面があることの他に、ボランタリーセクターとしてのCCPRが、より政府からの相対的な独立を志向することが背景にあるとする。
第10章「地方自治体とスポーツ行政の構造」では、イーストミッドランド地方とその行政範囲にあるレスター県やチャーンウッド郡などのスポーツ政策・行政の実態について、イーストミッドランドスポーツカウンシルと各自治体の関連資料に基づいてまとめている。1980代以降のサッチャリズムの下で、イギリスの地方自治体も大きな福祉削減を求められてきたが、1980年代後半以降もスポーツ振興の関連予算は大きくは削減されなかった点が明らかにされている。しかし、1990年代に入っての強制競争入札導入以降は自治体の補助金が停滞している現実についても言及されている。また、ここでは、地域で活動する地域スポーツクラブ、フットボールリーグ(協会)の分析も行い、自治体の援助との関連、とくに、活動の前提となるグラウンド、コート、体育館やクラブハウス等の施設が自治体からの長期、低料金契約で貸与されていることを示している。
第11章「ヨーロッパのスポーツ政策と組織」では、ユネスコ、欧州審議会(The Council of Europe:CE)、欧州連合(European Union:EU)のスポーツ政策と、そこにおけるイギリスの位置の検討を行っている。EU内の国際的スポーツイベントや施設建設への援助の拡大など、近年のEUのスポーツ政策の展開をとらえるとともに、ここではとくにCEが率先してきたスポーツ・フォー・オール政策の推進に関する歴史的経緯に着目している。CEは1976年に「ヨーロッパ・みんなのスポーツ憲章」を採択し、スポーツを享受することがすべての人々の基本的権利であると謳い、そのための条件整備として公共機関が中心的な責任を果たすこと、つまりスポーツ政策として「スポーツ権」を提起したと内海氏は評価する。この理念は2年後のユネスコ「体育・スポーツ国際憲章」に引き継がれ、全世界へ敷衍された。こうした潮流と並行してイギリスでも(第5章でも論述された)スポーツ白書『スポーツとレクリエーション』が提起された。ここでは、スポーツ権としての明記はなされなかったが、実質的な政策の推進によって、他の西欧諸国に追いつく形で、イギリスのスポーツ政策が福祉国家の一環に位置づけられたとする。
 第4部(第12~14章)では、スポーツ・フォー・オール政策の基礎的な部分である学校(授業と部活動)、地域での青少年のスポーツ振興の政策に焦点をあてて検討した。
第12章「全国ジュニアスポーツ計画」では、同計画策定に至るまでの過程、ならびに計画の骨子について叙述されている。スポーツカウンシルによる『若者とスポーツ:政策と活動の枠組』(1993年)やメジャー首相が積極的にバックアップした『スポーツ:ゲームを盛り上げよう』(1995年)をきっかけに、「全国ジュニアスポーツ計画」が策定され、実施に移された。学校と地域の連携、そのための指導者の養成計画などが盛り込まれ、補助金の給付のほか、活動の奨励のために学校での体育科、運動部活動に関わる各種の賞が設定された。この計画はスポーツカウンシルが担い、財源は1994年から始まった国営宝くじの配分金が充てられた。
 第13章「イギリスの部活動行政の現状と問題点」で、内海氏は、日本でのイギリスの部活動研究はこれまで皆無であり、ここでの論考が初のものであるとする。1985年の教員スト、そして競争主義的教育政策の導入などにより部活動は大きく変化した。全般的に見るならば、パブリックスクールを中心とする私立の学校では1980年代以降も部活動は一層進展している一方で、公立の学校の部活動の衰退は顕著である。これらの状況が、前章で検討された青少年のスポーツに関する諸報告や「全国ジュニアスポーツ計画」が出されたひとつの背景であるとする。
 第14章「学校スポーツコーディネーター」は、前章にいう状況に対して、その改善策として学校で採用され始めた「学校スポーツコーディネーター」制度を検討したものである。この制度は、部活動自体の推進と同時に、子どもたちが学校外でもスポーツに参加できるように地域スポーツクラブとの連携活動を推進しようとするものである。当面は各学校に1人、主に体育教師を任命してその任にあたらせるが、中等学校と小学校の連携が強調されている。この制度の実施で、部活動の種目数、参加生徒数、参加教員数が増加するなど、その効果が現れており、5年の時限計画が延長された。この試みは、従来までの部活動をめぐる学校と教師のあり方とは異なる要素を持っているなど注目すべき点をもち、同じように部活動のあり方をめぐって激動する日本にとっても示唆する点は多いとする。

【本論文の評価】

 以上に要約した内海和雄氏の論文は、以下の点で高く評価できる。
 第一に、福祉国家政策の一環としての国民へのスポーツ奨励策を、初発をなす1960年代から1990年代まで鳥瞰し、政治・経済動向と関連させつつ、「権利・公共性の台頭」(60年代)、「権利・公共性の発展」(70年代)、「新自由主義と貧困格差の拡大」(80年代)、「私事化と公共性の拮抗」(90年代)として特徴づけ、「スポーツカウンシル」発行の諸資料や行政資料を駆使しながら、通史を示したことである。日本ではこうした包括的な研究は存在しない。とりわけ、日本との比較を念頭におき、先進性だけでなく、政党間の確執や新自由主義的政策の導入など、問題点を含めて全体像を明らかにした意義は大きい。
 第二に、本論文の中心的な研究対象は、国の政策の策定と推進の主体である準政府機関(Quango)、すなわち「スポーツカウンシル」の活動であるが、あわせて、イーストミッドランド地方のスポーツ活動の事例研究を行い、政策研究と実態分析を統一させることに成功している。この作業を介して、著者は、80年代以降の新自由主義的政策のもとでも、スポーツ政策の領域ではその影響がストレートに現れなかったことを確認しており、この指摘は、実証抜きに新自由主義とスポーツの公共性の危機を直結させる動向把握への警鐘として重要である。
 第三に、著者は、上述の事例研究を介して、これまで個別的・断片的にしか研究されていない地域スポーツクラブ、青少年スポーツ、学校と地域スポーツの提携といった諸活動が、スポーツ・フォー・オール政策と関係していることを明らかにし、政策の展開を補助金や施設数といった数量的な側面からだけでなく、地域スポーツの実態とかかわらせてリアルに把握することに成功している。
 とはいえ、本論文には、今後さらに究明すべき問題点も含まれている。
第一に、1960年代を起点にした10年ごとの時期区分は、各時期の国のスポーツ政策の概略を把握するのに有効であるとしても、福祉国家とスポーツ政策の内的な関係を説明するには、十分とはいえない面をもっている。
第二に、本論文では、福祉国家イギリスのスポーツ政策は、主として、中央機関(「スポーツカウンシル」)とその支部を介し、地方自治体のスポーツ行政において展開するものとして把握され、下から上へ向かう政策過程やスポーツをめぐる国と地方自治・住民自治との関係性、両者の緊張関係の分析については、必ずしも十分とはいえない。
第三に、国による国民のスポーツ奨励策をもって福祉国家におけるスポーツ政策とみなし、「スポーツカウンシル」の機構と活動をもってそれを代表させる著者の方法は、福祉国家とスポーツ政策の特殊イギリス的な性格を解明するという点で有効である。しかし、福祉国家の内部には、スポーツ団体やその他の社会組織、政党など、他にもスポーツ政策の主体は存在する。今後は、そうした多様なアクターを視野に入れたより構造的な政策分析が求められることになろう。
 しかし、以上のような問題点や課題は、上述した本論文の学問的成果を減ずるものではなく、今後の研究の発展のなかで克服されていくことを期待しうる。

 以上、審査員一同は、本論文が当該研究分野の研究に十分寄与しえたと判断し、内海和雄氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

2006年3月8日

 平成18年2月22日、学位論文提出者内海和雄氏の論文について最終試験を行った。
試験においては、提出論文『イギリスのスポーツ・フォー・オール-福祉国家のスポーツ政策-』に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対し、内海和雄氏はいずれも十分な説明を与えた。
また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、内海和雄氏は十分な学力を持つことを証明した。
よって、審査委員一同は内海和雄氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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