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博士論文審査要旨

論文題目:心的概念の論理文法――医療実践の社会学的記述へ向けて
著者:前田 泰樹 (MAEDA, Hiroki)
論文審査委員:安川 一、平子 友長、糟谷 啓介

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1.本論文の構成
 本論文の構成は以下のとおりである。

序言
 資料1 各章初出
   2 調査データの概要
   3 各断片(トランスクリプト)に用いられている記号の凡例
第一部:心の理解可能性
 1:行為記述の理解可能性
  1.1:行為の記述・動機の帰属・実践の編成
  1.2:記述の理解可能性
   1.2.1:記述の理解可能性の論理的先行性
   1.2.2:行為の動機的理解
  1.3:記述する実践の分析可能性
   1.3.1:社会学的記述の一つの基準
   1.3.2:助言の資源としての「弁解」
   1.3.3:助言に従わないことの「正当化」
  1.4:概念分析としての社会学的記述
 2:私的経験の理解可能性
  2.1:私的経験としての感覚
  2.2:感覚の論理文法
   2.2.1:「痛み」の三人称的帰属
   2.2.2:「痛み」の一人称的表出
  2.3:痛みの主張をめぐる歯科診療の実践の記述
   2.3.1:知識配分の非対称性
   2.3.2:「感じる」ことの非対称性
  2.4:私的経験の理解可能性
第二部:感情と経験
 3:共感の理念と感情の論理文法
  3.1:共感の理念・傾聴の技法・感情の労働
  3.2:感情の論理文法
   3.2.1:感情の理解可能性
   3.2.2:情緒・感覚・生理学的喚起
   3.2.3:対象や状況の判断
   3.2.4:感情の規範性
  3.3:感情を配慮する実践の社会学的記述へ向けて
 4:感情を配慮する実践
  4.1:カテゴリー化の実践と活動への規範的期待
  4.2:検査結果を説明する実践の記述
   4.2.1:専門的カテゴリーとしての「助言者」
   4.2.2:問題解決への規範的期待
   4.2.3:トラブルの語りと感情経験の語り
   4.2.4:問題解決の棚上げとしての配慮の実践
  4.3:個人的な経験としての感情への配慮
 5:傾聴活動の論理文法
  5.1:電話相談という活動とロールプレイの設定
  5.2:電話相談のロール・プレイの実践の記述
   5.2.1:「助言者であること/相談者であること」
   5.2.2:問題を特定すること
   5.2.3:「助言者」であることの「危うさ」
   5.2.4:「電話相談の限界」を教えること
  5.3:傾聴活動と配慮の達成
第三部:記憶と想起
 6:失語症研究と想起の論理文法
  6.1:想起の語り・記憶の科学・個人の能力
  6.2:記憶の科学の思考法
   6.2.1:大脳機能局在論
   6.2.2:局在論に対する批判
  6.3:想起の論理文法
   6.3.1:還元主義的思考の困難
   6.3.2:「能力」の文法
  6.4:想起する実践の社会学的記述へ向けて
 7:生活形式としての失語症
  7.1:失語症研究と会話分析
  7.2:修復活動の編成という考え方
  7.3:失語症を持つ人への言語療法実践の記述
   7.3.1:修正と修復
   7.3.2:修復活動を行う相互行為への参加
   7.3.3:個人の言語能力の焦点化
  7.4:生活形式としての失語症
 8:知識を示す能力・経験を語る権利
  8.1:医学的カテゴリーの利用可能性
  8.2:記憶障害を持つ人への言語療法実践の記述
   8.2.1:課題訓練を導入する方法
   8.2.2:知識を示す能力
   8.2.3:経験を語る権利
  8.3:経験の記憶を語り聴く実践
結語

参考文献

2.本論文の概要
a.問題の所在
 本論文の課題は、「心」にかかわる概念(動機、感覚、感情、記憶、等々)を用いてなされる実践のあり方を、そうした実践が強く問われる場面、すなわち医療関係者が患者や利用者と向かい合う場面において記述し、それをもって私たちの日常の生活形式の展望へとつなげていくことである。
 一般に、動機や感情や記憶は、個人の心理状態や個人の能力へと還元されて理解されることが多い。それに対して本論文では、日常で実際に問題になるのは心にかかわる概念を実際にどう用いるかということそれ自体である(eg. 「不安」をめぐる日常的課題は、それがいかなる不安でどのくらい不安なのかではなく、むしろ、誰が抱えるべきか、どう対処し、誰にどのように訴えるか、周囲からどう対応されるか、にある)とする認識から、動機や感情や記憶を私たちが参加し荷担している実践に位置づけることが提言される――たとえば共感や傾聴を求める要請の適切さが感情をめぐる権利/義務の帰属の実践に依存し、あるいは記憶についての一般的な説明の適切さが想起についての能力帰属の実践に依存するというように。感情や記憶の個人還元的な理解もまた、むしろ、心にかかわる概念をめぐる私たちの実践(ie. 帰属の実践)に依存している。
b.データと方法
 本論文の題材は、筆者が1996年から2003年の間に、脳神経外科と老人保健施設が併設されている施設、歯科診療所、そして臨床経験のある看護師対象の再教育機関で行った調査研究から得られた、問診で検査結果を説明する場面、歯科診療場面、電話相談のロール・プレイの場面、言語療法場面などにおける諸実践の録音/録画データである。これらのデータを会話分析的に扱いつつ、たとえば歯の「痛み」やペースメーカーの故障への「不安」や終戦の日の「想い出」といった心にかかわる概念の記述が試みられる。
 ここでいう「記述」とは、心にかかわる概念がその実際の使用において、他の様々な概念、たとえば知識、経験、能力、権利、義務といったそれらとどのように関り合いながら用いられているかを把握することである。これは、概念の「論理文法」の分析と呼ばれ、ウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジストによって進められてきた。論理文法は経験に対してア・プリオリに形式を与えるものと位置づけられ、そうした論理文法の集積がいわば水路の網の目のように「生活形式」(ウィトゲンシュタイン)を形作るとされる。
 こうして本論文は、医療関連場面における心にかかわる概念の論理文法分析を通して、私たちの日常の生活形式を展望しようとする。
c.本論部の構成
 第一部「心の理解可能性」は、人の心を閉じた空間のように表象したうえでなされる“他者理解への懐疑論”を退け、心にかかわる概念を、私たちが参加し荷担している実践に位置づけ直すことを提言する。
 第1章は、互いの行為を理解する実践のあり方を、検査技師による説明と助言の場面において記述し、検討する。私たちは互いをカテゴリー化し、そのカテゴリー関連的に責任を帰属し、それと絡めて非難したり弁解したり正当化したりする。たとえば、検査技師(=専門職カテゴリー)が利用者(カテゴリー)に説明するということは、利用者の責任を免除しつつ、助言を組み立てることであった。利用者が自責の語りを語りなおすことは、助言を拒否することであり、助言の拒否を正当化することであった。そして、そのように理解可能だからこそ、利用者の語りは専門職によって「傾聴」されていた。こうして、参加者たちにとって互いの行為の理解とは、「参加者たち自身の方法」をめぐる実践的課題だった。
 第2章は、歯科診療場面で患者からなされた「痛みの報告」に対する歯科医師の実践を記述する。患者の痛みの報告をめぐるやりとりは、一方で歯科医師-患者の間の「知識配分の非対称性」を際立たせるとともに、他方で痛みを感じることにおける一人称/三人称の「文法上の非対称性」を進める。そして、歯科医師による痛みの三人称的な帰属は、患者による痛みの一人称的表出の強さを損なわないかたちでなされ続けた。歯科医師は患者の痛みの表出を否定することなく、患者の行為を説明するのだ。ここに、痛みをいわゆる「私的経験」とする私たちの日常的理解は感覚をめぐる私たちの実践の一つの帰結である、と理解する可能性が指摘される。
 第二部「感情と経験」は、第一部で示した知見を感情や情緒を題材として展開する。とりわけ他者の感情への配慮が、参加者たちのカテゴリー化とともに権利/義務を帰属する実践として論じられる。
 第3章は、感情を個人的なものとする通常の理解に対して、論理文法分析の立場から、感情の規範性等をめぐる感情社会学の成果をふまえた提言を行なう。すなわち、感情の経験や表出や配慮は、参加者のカテゴリー化とともに様々な権利/義務の帰属の実践がなされることとして理解できる。感情を個人的なものとして経験することは、感情がそうしたものであるからゆえの帰結なのではなく、私たちの帰属の実践の一つの所産だ、という見方がここに示される。
 第4章は、感情を個人的経験として尊重するという実践を、検査技師による説明と助言の場面において記述する。感情への配慮が実践的問題となる場面、たとえば、専門職による助言がただちには受け入れられず利用者によるトラブルの語りが続けられるような場面に焦点が置かれる。ここで専門職が{トラブルの語り手―トラブルの語りの受け手}というカテゴリー対のもとで共感的な応答をするのであれば、特別な困難は生じないかもしれない。けれども、医療専門職が専門職たる助言者であり続けるにはこの方策はとれない。専門職は、助言を行うという実践のレリヴァンスを維持したまま、あえて助言を控え、「問題の解決」をいわば棚上げしつつ、「患者の感情に配慮する」実践を行なう。こうして、感情を個人的経験として尊重する実践は、参加者たちのカテゴリー化とともに、感情への権利/義務を帰属する実践として営まれる。
 第5章は、電話相談看護のロール・プレイを題材に、「傾聴」という営みに結びついた実践を分析する。すなわち、第一に、情報提供などで助言が可能な場合、傾聴活動を行うことが関連性をもたない可能性がある。第二に、助言が直ちには受け入れられず、助言に対する拒否の理由を聴く機会を持たなければならない場合には、傾聴の重要性は高まる。とりわけ、医学的な理由などから助言内容の変更の可能性が低い場合、相手の拒否の理由を聴くことと、その上で同じ内容の助言を受諾してもらうこととがなされなければならないため、傾聴活動の重要性が高まる。第三に、助言が困難である場合、傾聴的技法の一部は、医療的文脈を構成する「助言-相談」の関連性に引き戻され、トラブルを助長させる可能性がある。助言ができないまま話を聴きつづけることによってかえって感情への権利/義務の分配の失調が可視化されてしまうのであれば、傾聴することのレリヴァンスが失われるだけでなく、助言者の資格さえ危うくなることもある。こうして電話相談看護という実践が、参加者をカテゴリー化しつつ権利/義務を帰属する実践であること、感情への配慮もまたその一部として行われていることが示される。そしてこの実践が、上に述べた意味でこのように論理文法上の制約に則って当 事者相互に記述-理解されているのだとすれば、その詳細を見ずに、医療場面 における相手の感情への配慮について、個人の能力上の問題という点からのみ 説明してしまうことは(医療教育における抽象的理念や発話表現技法の強調と もあいまって)、医療従事者個人に対して過重な責任を負わせることにもなり かねない、と本論文は警告する。
 第三部「記憶と想起」は、記憶や想起を個人の経験や能力と結びつける考え方、とりわけ機能還元主義的な捉え方を退け、記憶や想起が多様で複雑な実践として営まれていること、そうした実践全体において把握されるべきことを示している。
 第6章は、失語症研究についての考察を手掛かりに、記憶や想起にかかわる社会学的議論の方向性を示す。失語症研究は身体機能還元主義的な記憶の科学を前提にしているが、これは、実際の記憶や想起の実践が参加者のメンバーシップ・カテゴリー化とともに能力や権利を帰属するという実践であることを見落としており、記憶や想起がコミュニケーション全体に関わる事柄であることを捉えきれていない。記憶や想起の社会学的記述は、そうした実践を生活形式において記述できるものであるべきだ、という。
 第7章は、言語療法場面におけるトラブルの修復の編成の仕方を記述する。失語症をもつ人との会話では他者による修復が多く見られると言われてきたが、その場合でも、失語症をもつ人自身による修復の機会を気にかけながら修復(他者による)を進める様々な方法が用いられており、その意味では自己修復が優先されるという規範は維持されている。課題訓練の局面のように、個人の能力への関心が焦点化する場合でも、トラブルの修復を個人で行う作業としたり、協働的な作業としたりするなど、様々な実践のレリヴァンスを管理するための方法が用いられている。ここに、コミュニケーション上のトラブル(とその修復)をコミュニケーション環境に参加しうる参加者たち全体の問題として捉え返していく可能性が開かれる。
 第8章は、言語療法場面を手掛かりに、記憶が問題化される実践における、知識を示す能力を焦点化する実践と、経験を語り聴く実践との差異について考察する。前者においては、専門職による質問は課題提示を構成していたし、課題への回答には修復のきっかけづけや評価がなされるレリヴァンスがあった。すなわち、{専門職―(「記憶障害」という医学的カテゴリーのもとで記述可能な)利用者}というカテゴリー対のもとで、知識(の記憶)についての個人の能力を焦点化する実践がなされていた。他方、後者――経験を語り聴く実践――では、修復のきっかけづけや評価がなされるレリヴァンスが失われていた。ここでは、{経験者―未経験者}といったカテゴリー対のもとで、経験の記憶を語り聴く実践がなされていて、これには語る権利をそのままに承認するという実践が含みこまれていた。言語療法場面は、こうした様々な実践のレリヴァンスを管理しつつ、知識(の記憶)について個人の能力を焦点化したり、経験者の個人的な経験(の記憶)を傾聴したりする「参加者たち自身の方法」が編成されるなかで進行していた。
d.結論
 本論文において医療関連場面を題材に繰り返し示されたのは、心にかかわる概念を用いてなされる実践がメンバーシップ・カテゴリー化とともに帰属の実践として行われているということだった。こうして、心にかかわる概念は、これを個人の心理状態や能力とみなす考え方から救い出され、私たちが参加し荷担している実践へと位置づけ直された。そして、この「参加者たち自身の方法」の記述が生活形式への展望に連なっていくことが期待され、そうした記述のいっそうの推進が今後の課題として確認された。

3.本論文の成果と問題点
 本論文は、「心」にかかわる概念をめぐる諸実践をその実際の発現場面において、知識、経験、能力、権利、義務といった他の諸概念とのかかわりのもとに記述しようとする、そして、そのことをもって私たちの日常の生活の形式を展望していこうとする、理論的試みである。筆者は「心」を、すなわち、もっぱら「個人」に属する特異で固有な領域とされ、結果として不可知論や懐疑論の領分に追いやられてきた「心」を、私たちが生活世界で参加し加担している実践の現場に位置づけ直すことを提言する。こうした提言――主にウィトゲンシュタインや日常言語派哲学の所説を拠り所としてなされる提言――が、実際の医療関連場面における発話場面を踏まえつつ説得的に展開され、しかもそれが生活世界の理論的実際的な新たな理解の可能性を示唆している――このような試みがともあれ破綻なく成立したことが、まずもって評価されるべき本論文の成果である。
 特に2点に言及しておこう。第1に理論的成果として、本論文は「心」をめぐる個人主義的存在論を退け、それゆえ他者理解への懐疑論を退ける議論の方向性を示した。「心」は、元来個人の領域にあって私秘的なものだというのではなく、そのようなものとして扱う実践を通じて私秘的なものになる。たとえば動機や感情や記憶は、これらにかかわる参加者たち各々のカテゴリー区分に応じた権利や能力の帰属の実践(配慮、傾聴、想起、等々)として記述される。相手の痛みの理解は、当事者間の非対称性と不一致を適切に営んでいく実践として記述される。いずれも、「心」が個人的なものとして扱われるそのあり方が生活世界の実践とのかかわりにおいて記述され、そのことにおいて「心」を私秘的なものと前提しない理解と議論の可能性が示される。
 第2に、本論文が提言するこうした視座転換は、考察の題材に据えた医療の現場に対して、さらには他者理解という日常的課題に対して、現実に実際的な意義を持ちうる。医療関連場面ではしばしば共感や理解の不足が指摘され、それが一方で患者の「心」の私秘性に、他方で医療従事者「個人」の資格・能力の欠落に結びつけられてきた。けれども本研究が示したところによれば、現場で課題化する「心」はその場の実践全体のあり方のなかで焦点化し、そのあり方に制約をうけている。それゆえ、現場で行われがちな性急な神秘化や個人化は、実際の課題の充分な把握を妨げ、当事者たちに過重な負担を強いることになりがちである。そして、理解が生活の形式に連なるものであるとしたら、それはいたずらに臆病になる必要のないものだし、その場の実践の把握を手掛かりに推進しうるものでもある。
 むろん本論文にも難点はある。ウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの方法を踏襲した本研究は、それゆえにこそ一方で実際の発話場面を踏まえた分析と考察を実現できてはいるものの、他方でこの学派特有の用語法に依拠しすぎた論述を生んでもいる。しかも、「記述」「メンバー」「秩序」等々、日常語/学術語的慣用からズレた用語法が少なからずあり、それらが理解を邪魔立てしている。その結果、ともいえるだろうが、本論文の視角と成果を既存の諸研究と対比し、かつ関連づける視点と議論の不足を感じさせる。また、「哲学はすべてのものをあるがままにしておく」というウィトゲンシュタインの立場に追随したのかもしれないが、既存の諸知見を否定も批判もしないといった過度に自制的とも言える姿勢は、議論を消極的なものに見せる。
 そして、本論文で繰り返しなされる「実践の記述が生活形式の展望につながる」という主張は、たぶんに先行研究を踏襲してのものではあるが、そのこと自体がさらにまた説明と議論を必要とする事柄であることがさらに自覚されるべきだろう。会話分析的なデータ操作法が実際にいかなる意味で実践の記述となっているかということ自体も考察されるべきだろう。要するに、筆者の着想を研究の作業と論述に具体化するにあたって、本論文で依拠した方法論とその前提について、反省的な議論がなされるべきだろう。本論文で示された思考とその成果は、そうすることで広く受け入れられ、また、いっそう実りあるものになるだろう。
 もっとも以上のような問題点は、筆者も十分認識するところであり、また筆者の拠って立つ方法論に連なるものでもあって、それらが本論文の価値を低めるというわけではない。本論文に示された精緻な思考の道筋から判断するかぎり、筆者の今後の研究は、難点をひとつひとつ解消しつつ、その着想をいっそう豊かに展開していくものとなるだろう。
 以上、審査員一同は、本論文を学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものと評価し、前田泰樹氏に、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

2006年1月18日

 2005年12月20日、学位請求論文提出者の前田泰樹氏についての最終試験をおこなった。
 本試験においては、審査委員が提出論文「心的概念の論理文法――医療実践の社会学的記述へ向けて――」について、逐一疑問点に関して説明を求めたのに対し、前田泰樹氏はいずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員一同は、前田泰樹氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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