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博士論文審査要旨

論文題目:米国占領下の沖縄における基地社会の形成と政治運動の展開:1945~56年-引き裂かれる「自治」と「復興」-
著者:鳥山 淳 (TORIYAMA, Atsushi)
論文審査委員:加藤 哲郎、吉田  裕、伊豫谷登士翁

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一 本論文の構成

鳥山淳氏の学位請求論文「米国占領下の沖縄における基地社会の形成と政治運動の展開:1945-56年——引き裂かれる『自治』と『復興』」は、間接占領の日本本土とは異なり、米軍の直接占領下に入る1945年の沖縄戦敗戦から、いわゆる「島ぐるみ闘争」で軍用地反対運動が高揚し、「プライス」勧告から本格的な復帰運動に繋がる1956年までの沖縄の政治・社会史を、副題にあるように、「自治」と「復興」という観点から詳しく論述したものである。
全体は、3部9章から構成されている。注解や地図は、本文中に組み込まれている。

序 章
第Ⅰ部 : 混乱の中での模索 1945〜49年
 第1章 民間人収容所からの出発
  (1)民間人収容所への隔離と基地建設
  (2)動員される労働力
   (3)「自治」の出発点
  (4)収容所生活の困難
  (5)基地に阻まれる帰郷
  (6)封じられた自治要求
 第2章 基地に翻弄される地域社会
  (1)基地労働に組み込まれる人々
  (2)帰郷を待つ人々(Ⅰ)−那覇−
  (3)帰郷を待つ人々(Ⅱ)−北谷−
  (4)帰郷を待つ人々(Ⅲ)−読谷−
  (5)生活再建の困難
  (6)米軍の演習と再接収
 第3章 閉ざされる自治と混乱を続ける社会
  (1)政党の結成
  (2)軍政府の牽制
  (3)日本から自立する主体の模索
  (4)労務供出をめぐる混乱
  (5)配給停止指令
  (6)物資値上げと徴税指令
  (7)軍政府批判の噴出
第Ⅱ部 : 交錯する多様な希求 1949〜51年
 第4章 基地の拡充と社会の変容
  (1)流入する米国援助
  (2)基地建設工事の開始
  (3)遠ざかる帰郷
  (4)農村から流出する人々
  (5)拡大する基地労働
  (6)島々からの出稼ぎ
 第5章 日本復帰運動と表面化する亀裂
  (1)沖縄群島知事選挙(Ⅰ) −復興費の力−
  (2)沖縄群島知事選挙(Ⅱ) −農村の危機感−
  (3)日本復帰運動の開始
  (4)日本統治時代の記憶
  (5)米国援助が生み出した潮流
  (6)地域社会の苦悩と復帰論
  (7)青年層の動き
  (8)基地を問うことの困難
  (9)「基地の街」の形成
  (10)動き出した軍用土地所有者
第Ⅲ部 : 破綻する「協力」 1952〜56年
 第6章 占領の継続と噴出する矛盾
 (1)琉球政府の発足と先送りされた「自治」
  (2)復帰決議をめぐる対立
  (3)米民政府への「協力」を軸とした結集
  (4)軍用地政策に対する反発
  (5)基地建設現場の争議と労働立法
 第7章 動揺する「協力」の論理
  (1)高まる復帰願望
  (2)オフ・リミッツの波紋
  (3)土地収用令と沖縄社会の亀裂
  (4)繰り返される住民立ち退き
  (5)日本政府に向けた援助要請
  (6)行き詰まる経済と復帰運動
 第8章 反共主義と軍用地問題
  (1)敗北する「協力」の論理
  (2)復帰運動への攻撃
  (3)激化する反共主義
  (4)反共主義と歓楽街
  (5)軍用地代をめぐる思惑
  (6)強行される新規接収
  (7)調査団に賭けられた希望
 第9章 「協力」の破綻と日本へのまなざし       
  (1)プライス勧告の衝撃 
  (2)日本政府への期待と懐疑
  (3)運動の亀裂と肥大化する「領土」
  (4)オフ・リミッツがもたらす不条理
  (5)引き裂かれる運動
  (6)新たな動きの起点
 終 章 
 参考文献

二 本論文の概要

沖縄の戦後政治史は、GHQの占領改革や日本国憲法制定過程について詳細な研究が進み、高度経済成長期についても蓄積のある本土の戦後史と比べて、相対的に研究が少ない。沖縄戦についての記録と記憶の収集が市町村単位で進んで、ようやくその全体像が示され、米国の沖縄政策についても公文書類が発掘されてきたが、米国軍政下にあった1945年以降の沖縄社会の変貌とそこでの政治的対抗は、本土とは大きく異なる地域政党を中心とした政党政治の歩みがある程度知られてきた程度で、本格的研究は乏しかった。また軍政下沖縄政治の帰結は1972年沖縄施政権返還と想定され、そこまでの日本復帰運動と日本側の沖縄返還運動に、焦点が絞られるきらいがあった。
鳥山氏の本論文は、米軍統治下の期間よりも、日本復帰後の県政の方が長くなった現時点で、従来の研究で中心的に論じられてきた「独立か日本復帰か米国帰属か」という帰属問題が、本当に当時の沖縄民衆の選択肢だったのだろうかと問いかけ、今日まで続く米軍基地の存在の重みとそれを中心に編成された社会、その「基地社会」における政治勢力の志向と分岐が生起する文脈を探求することにより、従来の研究では無視ないし軽視されていた諸側面に光をあてて、研究の焦点そのものを転換させたものである。
著者は序章で、本論文の二つの視座を提示する。第一に、1945年3月末に始まる沖縄地上戦・米軍占領により大きく変貌した沖縄住民の生活環境の変化を「基地社会」とよび、その住民生活と社会変容を丹念においかけていく視角、第二に、基地と占領のもとで生起した政治潮流の動きを、解放願望としての「自治」と、生活打開のための「復興」のからみあいとして見ていく視座である。そのため分析の空間的対象は、米軍の占領した
「琉球」地域=奄美、沖縄、宮古、八重山群島のうち、基地のある沖縄本島に絞り込む。
 時期区分は、統治政策・統治制度の変化と、政治潮流の変化の、双方を指標にする。
第Ⅰ部は、1945年から49年で、「混乱の中での模索」と題される。米国本国での沖縄統治の方向は、45年10月に統合参謀本部が排他的保有の方向を打ち出すまで、混乱が続いた。国務省は沖縄の非軍事化と日本帰属を主張したが、米軍が基地としての利用継続を望んだため、予算も人員配置も決まらず、沖縄住民の多くは収容所に入れられたまま、生活を翻弄された。米軍は上陸前から沖縄本島に8本の滑走路を計画し、4月上陸時点で18本に計画を拡張、降伏後の6月末時点で、すでに5本が稼働し8本が建設中だった。激しい戦闘舞台であった南部の住民は軍用地から追い出され、山間部が多い北部へと退避を余儀なくされた。米軍管理下で収容所が次々に建設され、30万人近くが収容された。住民は隔離されたばかりでなく、飛行場や収容所建設、疫病予防や荷卸しに動員され、それが日本の敗戦も定まらぬ時点での沖縄住民の生活の糧となった。米軍の住民管理は、軍政地区を単位として住民代表を選ばせ、審査の上登用するもので、例えば後に沖縄人民党初代委員長になる浦崎康華は、45年7月に「アメリカ合衆国の保護」のもとでの「最高度の自治」を保証した「平和的民主的国家」を米軍に嘆願していた。日本本土が無条件降伏した8月15日が、沖縄では収容所代表者の第一回代表者会議(沖縄諮詢会)で、「玉音放送」を住民に伝えるよう米軍から諮詢会に指示された。9月には米軍「地方行政緊急措置要綱」にもとづき、民間人収容所内で女性にも選挙権が与えられ「市長選挙」が行われた。ただし、ここでの「市」とは、軍政単位となる民間人収容所の別名だった。
戦争終結は、収容された住民に生活悪化を強いるものだった。沖縄の物資や自動車が本土の占領用に回され、北部の収容所ではマラリヤ流行もあって餓死・病死者が出ていた。立ち入り禁止となった南部に食糧探しに出るものもあり、米兵による性暴力も始まった。45年10月末から一部の帰郷が認められたが、軍用地にされた地域住民には戻る集落もなかった。46年4月に諮詢会が廃止されて沖縄民政府が発足し、知事には諮詢会委員長がそのまま任命された。民政府の議会も、沖縄戦以前の県会議員ら25名全員が軍政府の任命だった。「軍政下のデモクラシー」を求める声は無視された。
1945年8月に25万人以上だった沖縄米軍が、1年後に2万人、3年後に1万人まで減員したが、「基地に翻弄される地域社会」は続いた。軍事基地の維持には膨大な労働力が必要だった。日本人捕虜1万人以上が先ず作業に動員された。46年8月から沖縄出身者の出征先・出稼ぎ先・移民先からの引き揚げが始まり、沖縄本島にも11万人が引き揚げてきた。米軍は47年には住民約4万人を作業員として用いていた。ただし賃金や労働条件がよかったわけではない。米軍物資を入手する機会が多かったからで、闇市・密貿易が広がっていた。開放地にも通行制限があり、米軍演習のための再接収や立入禁止区域も広がった。著者は那覇、北谷、読谷を事例に、土地と住まいを失った人々の生活再建の困難、農地での爆発物や性暴力との隣り合わせの状況を、詳細に描いた。戦後沖縄の政治は、このような条件下で出発する。この期の住民生活の実態は、従来ほとんど研究されておらず、著者は、米国及び沖縄県の公文書館で公開された米軍軍政報告書、民政府文書、市町村行政資料、各地域の住民証言などから、当時の具体像を再現した。
国務省の返還論と排他的保有を主張する軍部の対立で、米軍の沖縄占領は、46年11月には「何もしない」棚上げ状態になった。東京や九州からの引揚者は「楽土」を夢見て帰って悲惨な現実に直面し、先ずは沖縄民政府への自治要求が生まれた。1947年6月発足の沖縄民主同盟が「沖縄人による沖縄の解放」「民主政治の確立」「独立共和国の樹立」を掲げ、7月沖縄人民党創立が「人民自治政府の樹立」を掲げたのも、軍政府に対してよりも、民政府を批判し公職追放を徹底するためで、「沖縄民族解放」の願いが込められていた。具体的要求は、知事・民政議員公選、「民主化=自治」と「戦場からの復興」だった。いわゆる「独立論」も、復興資金を米軍に依存するのか、日本政府に「賠償」として要求するのかに関わり、当時の民政府首脳は日本政府への賠償請求を求めていた。
米軍物資の配給は、46年6月から有償配給となり、47年4月から市町村が配給物資販売に附加税を課すようになった。軍作業所での待遇改善を求める労務者の紛争や労働組合作りが始まった。48年7月の軍政府による千名の港湾作業員の緊急供出命令には、米軍の配給停止の脅しのなかで、市町村会も住民の不満を受け「陳情」した。49年1月、インフレ抑止の名目での配給物資値上げ、所得税徴収に対しては、食糧対策那覇市民集会など各地で住民集会が開かれ、軍政や米軍そのものへの不満が語られた。3月に民政府沖縄議会が総辞職を決議し、4月には民主同盟・人民党・社会党が「共同戦線」を組んだ。日本軍国主義にも米軍統治にも失望した文脈から「沖縄の自治国」という言説も現れた。
第Ⅱ部は、占領政策の転換が明らかになった1949年10月から、朝鮮戦争が始まり沖縄群島知事・議会選挙が行われ、サンフランシスコ講和条約で沖縄の占領継続が決められた51年までを、「交錯する多様な希求」として扱う。米軍の沖縄長期保有方針が確定し、軍政府にシーツ長官が赴任すると、米国経済援助の増額、商業ドル資金勘定(貿易決済基金)開設、ガリオア融資等によって物資が出回り、経済状態は安定してきた。日本から移駐する海兵隊を受け入れるための基地の新設・恒久化に伴い、米軍駐留部隊・家族の居住空間が作られ、嘉手納基地など軍用地のまわりの狭隘地には、アメリカ人からみればスラムに近い沖縄住民の住宅が密集する構造が作られた。基地新設工事は国際入札で、日本本土の大手建築会社が受注し、沖縄企業は末端下請けに使われた。50年6月に朝鮮戦争が勃発すると、部隊の移動、対空砲火演習、野営演習も活発化し、農家でも男性は土木建築工事に従事するようになって、基地中心の経済復興が始まった。52年5月が軍作業員のピークで6万7000人、基地周辺市町村で就業人口のほぼ3割、北谷村のように7割近くを占めるケースもあった。奄美・宮古・八重山群島から密航を含む出稼ぎ者が流入し、52年3月には、奄美から正規渡航1万人を含む4万人が沖縄本島に住んでいた。
50年9月投票の初の群島知事選挙で、民政府で工務交通部長として復興予算を仕切ってきた松岡政保を沖縄民主同盟が支持し、これに対抗して人民党から瀬長亀次郎が、また農漁業関係者・青年会・教職員を支持基盤に琉球農林省総裁平良辰雄が出馬し、平良が当選した。争点は復興事業のあり方で、3候補とも沖縄帰属問題には触れていなかった。11月発足の群島議会選挙では、平良を委員長、人民党を離れた兼次佐一を書記長に生まれたばかりの沖縄社会大衆党が、20議席中15議席を占めた。そこに50年12月、米軍政府が琉球列島米国民政府に改組され、米軍極東軍司令官が国民政府長官を兼ねて「軍事占領に支障を来さない範囲」でのみ「自由」が保証されると宣言された。翌52年に入って、仲宗根源和ら松岡支持勢力の一部が作った共和党は「独立」を主張したが、人民党、ついで社会大衆党が日本復帰方針を出し、3月沖縄群島議会で初めて復帰が決議された。4月29日に日本復帰促進期成会が作られ、社会大衆党・人民党を中心に講和会議に向けて全有権者の72%にあたる19万人の署名が集められ、日本の吉田首相と米国ダレス特使に送られた。しかし、サンフランシスコ講和条約第3条では日本の沖縄に対する「潜在的主権」が認められるに留まり、信託統治となるまで米国の全権支配が認められた。
この初発の日本復帰運動は、日本統治時代への郷愁や言語風俗習慣の同化を意味するものではなかった。戦前日本の差別と沖縄住民の「血の滲むような努力」を見据え、「帝国主義から民主主義」「好戦国家から平和国家」へ転換した日本へ、「自治」を求めて復帰しようという苦渋の選択だった。他方、仲宗根源和ら共和党の独立論も、日本の植民地として搾取されてきた戦前の歴史を振り返り、まずは米国の援助による経済復興を求める主旨だった。とりわけ敗戦時に日本の楯とされた沖縄戦の記憶が、単純な復帰論を許さなかった。社会大衆党中央委員から初代琉球政府行政主席になる比嘉秀平のように、米国の援助を求めて「一定期間の信託統治」を経た後に日本復帰を構想する段階論もあった。
 日本向け換金作物としてサトウキビ栽培が再開され、復帰署名に取り組んだ沖縄青年連合会は地元農民による製糖会社株式購入運動に取り組んだ。しかし農地を接収された農業経営は苦しく、朝鮮戦争期に基地に依存した米兵相手の歓楽街が定着し、軍用地の返還をあきらめ、土地所有権の確認と借地料での生活再建を求める動きが出てきた。
第Ⅲ部は、1952年4月の琉球政府発足から、軍用地問題を契機に大規模な「島ぐるみ」運動になった56年8月末までを、「破綻する『協力』」として描く。52年4月に琉球政府が発足し、初代主席比嘉秀平は、同時に行われた立法院議員選挙で多数を占めた社会大衆党から離党し、米民政府に協調しての復興を最優先した。立法院を憲法議会と位置づけ、基本法制定による自治拡大で復帰をめざした勢力は、期待を裏切られた。立法院内で社会大衆党を離れた議員と無所属議員による「米民政府に協力して復興」「福祉増進・生活向上」をめざすグループが過半数になり、比嘉主席与党の民生クラブが結成された。社会大衆党・人民党は復帰を掲げ続けたが、比嘉主席は日本との経済文化交流政策で復帰を先送りにした。ただし与党民生クラブでも、基地のない奄美群島選出議員は、米国援助ではなく日本の援助による復興を求め、沖縄への出稼ぎ依存から脱却しての復興・復帰を求めた。そのため52年8月に民生クラブが琉球民主党に改組されるさいには、「母国復帰促進」を掲げたが、それは、米民政府に「協力」するなかで「復帰」の可能性を追求する主旨だった。この民主党の「協力による復帰」が、琉球政府首脳、市町村長に広がった。
しかし、52年5月に開始された軍用地代支払いの方法と金額について、住民の不満が高まった。新規接収・演習地拡張による立ち退きに対しても反感がつのり、52年6月日本道路従業員ストに始まる基地作業員の労働争議、53年1月沖縄教職員会を中心として「祖国の逞しき復興」への合流をめざす沖縄諸島祖国復帰期成会結成と、復帰をめざす運動が続いた。53年4月の立法院議員補欠選挙では、即時日本復帰を掲げる野党統一候補が与党民主党を破ったが、米民政府は選挙に介入して当選無効・再選挙を命じた。そのさい不祥事を恐れて米軍人に「オフ・リミッツ=住民地域への夜間立入禁止」を命じたことが、米兵相手の歓楽街に経済的打撃を与え、それを生活の糧とする住民は、米軍ではなく「反米」復帰運動に怒りの矛先を向けた。軍命令による強制立ち退きを認める53年4月の土地収用法をめぐって、土地収容委員会設置でお茶を濁そうとする琉球政府比嘉主席・民主党に対して、日本復帰を掲げる社会大衆党や人民党は、土地とりあげ反対運動に取り組んだ。琉球政府も、糖業への助成、駐日貿易代表事務所拡充などで日本政府への支援要請を強めたが、53年秋の軍作業縮小、奄美群島日本返還は、琉球政府・民主党の米軍への「協力による復興・復帰」路線の破綻を示していた。
54年3月立法院選挙は、「日本復帰か復興か」が争点になった。結果は与党民主党と最大野党社会大衆党が同数、人民党や無所属を加えると復帰派が過半数を制した。それに危機感を抱いた米民政府と民主党は、冷戦イデオロギーを用いて人民党を「共産主義者」、社会大衆党を「反米容共」と攻撃した。社会大衆党は、日本復帰を要求するが米軍基地建設には協力するとして、人民党と一線を画した。反共主義は強まったが、54年9月豊見城村長選挙で米軍統治を植民地政策と真正面から批判した人民党員又吉一郎が当選した。米民政府は奄美出身人民党員が沖縄住民を煽動したという容疑で退去命令を出し、その容疑者逃亡を助けたとして又吉村長、瀬長亀次郎人民党委員長らを逮捕し軍事法廷にかけた。オフ・リミッツで仕事に窮した歓楽街経営者らが、米軍反共パンフレット配布に協力した。
民主党は、軍用地代値上げで住民の批判をかわそうとしたが、米民政府は54年3月、軍用地無制限使用・地代一括支払い・買上げの新方針を出した。琉球政府・立法院は、「買上げ・永久使用・一括支払い反対」など超党派の四原則要求で反対した。そこに、北部伊江島、中部伊佐浜の新たな土地接収が強行され、現地の農民を中心に「島ぐるみ」の抵抗運動になった。55年5月に米民政府公認で琉球政府・立法院の渡米折衝団が送られ、ワシントンの米国議会に陳情して軍用地使用料一括支払いはいったん棚上げになった。しかし琉球政府の要請で現地調査をしたうえ、56年6月に出された米下院軍事委員会報告書(プライス勧告)は、超党派の四原則どころか地代一括支払い・新規接収を容認するものだった。ついに比嘉主席も引責辞職・議員総辞職を表明、日本政府への協力要請にいたったが、日本政府は米国による復興に感謝するだけで沖縄は見捨てられ、「日本民族沖縄県民」としての土地を守る総抵抗に広がった。そこに米軍は、オフリミッツを発動して歓楽街経営者から運動切り崩しをはかり、民主党は基地産業中心の沖縄の現実を認め、軍用地問題を個々の地権者と米軍の交渉問題に解消する方向に後退した。こうして分断された「島ぐるみ」の闘争のなかから、日本からいったん見捨てられた沖縄住民としての新たな「自立」と「自治」にもとづく復帰運動が再興していく。著者は、このプライス勧告拒否闘争の経験、「自治」と「復興」の葛藤のなかから、戦後沖縄史の転換が生まれたとみなす。
終章では、以上を米軍基地に深く規定された「復興」と「自治」「協力」の関係としてまとめ、56年末那覇市長選挙での瀬長亀次郎当選、58年軍用地代一括払い全廃、59年沖縄自由民主党結成後の日本政府の援助による「祖国と一体化」路線を展望する。

  三 本論文の評価

以上に要約した鳥山淳氏の論文は、以下の諸点で、高く評価できる。
 第一に、1945年から56年の沖縄政治史を、米軍の政策や地域政党の対応ばかりでなく、そのもとで暮らす住民の生活状態と意識にまで立ち入って詳しく体系的に描きあげたのは、本論文の大きな貢献である。従来の研究が軍政史、政党史や経済史の個別分野で進められてきたのに対して、鳥山氏は「基地社会」という基軸をおくことによって、沖縄住民の生活と意識に即した政治社会の全体像を描くことに成功している。
第二に、そこで提起した「自治」と「復興」という、当時よく用いられた言葉を抽出しての二つの視角は、「独立か日本復帰か米国帰属か」と主権と帰属の問題に焦点を当てて論じられてきた従来の研究に対して、新たな問題設定を行ったものである。著者はこの視角から、「自治」と「復興」のからみあい、その試行錯誤から生まれる「独立か復帰か協力か」の葛藤をも、その志向の生まれる政治潮流の課題意識と局面状況に即して描いた。著者はこれを、1972年復帰後の今日まで続く「基地社会」を貫く問題の原型として設定しており、重要な問題提起である。
第三に、とりわけ1945年から50年頃までの、沖縄戦終結から政党政治が形成される時期の収容所、軍用地接収、住民生活の実態については、これまで現地の新聞など断片的記録と証言が市町村史などに収められてきた。著者はそれらを地域別・階層別に丹念に集積し、新たに収集した米軍文書や行政文書で補い、統計や地図を用いて立体的に再構成した。著者は別途、この期の沖縄社会運動の第一次史料集をも編纂・公刊しており、これら史実の発掘・整理は、独自の貢献として評価できる。
もちろん本書にも、今後の研究で更に探求すべき問題点が、ないわけではない。
第一に、問題が「基地社会」の政治史と設定されたため、対象が主として沖縄本島の定住民に焦点が当てられていることである。北部に移されての収容所生活や兵士・捕虜体験者、奄美・宮古・八重山の出稼ぎ労働者もその都度論及されているが、「基地社会」の特質を浮き彫りにするためにも、基地のない奄美の政治史や、日本本土の沖縄人連盟、米国西海岸の沖縄県人会等の政治志向と比較対照できれば、いっそうその「自治」と「復興」の意味が明らかになったであろう。また、米国の沖縄長期保有政策・基地政策は、本論文でも簡単に触れられたように、中国革命、朝鮮戦争、日米安保、ベトナム戦争と続く世界政策・アジア政策の中にある。沖縄は、それらと関わる重要な基地の島であると共に、中国・台湾や朝鮮半島と歴史的に繋がり、南洋諸島、ハワイ、アメリカ大陸へ多くの移民を送り出してきた。こうした点からすると、「移動」する非定住民や「周辺」ネットワークの観点からの描き方も、ありえたであろう。もとより主題を限定した本論文ではないものねだりであるが、鳥山氏の問題提起が重要で鋭角的であるがゆえに、いっそう複眼的なアプローチを望むものである。
第二に、本論文の「基地社会」、「自治」と「復興」という視角からの問題提起が、米軍基地再編の今日まで通底しているとすれば、叙述が1945年から56年までで、終章の見通しも60年頃までというのは、やや物足りない印象を否めない。初期の指導者の戦前・戦時の経歴からの政治的分岐、60年代復帰運動や72年返還、その後の政党政治の日本本土への系列化や「基地社会」の変容に及ぼす効果にも言及できれば、鳥山氏の沖縄歴史像は、いっそう鮮明になっただろう。また本論文で多様なニュアンスで描かれる「復帰」願望が、「自治」の実質を求める社会運動として結晶する筋道が、改めて近代史の中に位置づけられたであろう。この点も、実証密度を高めた学問的禁欲として理解できるものだが、今後のいっそうの研鑽への期待として、敢えて述べておきたい。

以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に十分に寄与しえたと判断し、本論文が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与するに値するものと認定する。


                                 

最終試験の結果の要旨

2006年1月18日

 2005年12月7日、学位論文提出者鳥山淳氏の論文についての最終試験を行った。試験においては、審査委員が、提出論文「米国占領下の沖縄における基地社会の形成と政治運動の展開:1945-56年—引き裂かれる『自治』と『復興』—」に関する疑問点について逐一説明を求めたのに対し、鳥山淳氏は、いずれも十分な説明を与えた。
 よって審査委員会は、鳥山淳氏が、一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるものに必要な研究業績および学力を有すると認定した。

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