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博士論文審査要旨

論文題目:戦後新興紙とGHQ -新聞用紙をめぐる攻防-
著者:井川 充雄 (IKAWA, Mitsuo)
論文審査委員:矢澤修次郎、加藤哲郎、山本武利

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1、本論文の構成
 本論文は、占領期における新聞用紙割当制度に着目し、CIE(民間情報教育局)をはじめとするGHQの各部局や、日本政府、新聞界、製紙業界などの動向も重ね合わせることによって、GHQのメディア政策について考察したものである。
 本論文の構成は以下のとおりである。

序 問題の所在

第一部 戦後の新聞用紙割当制度と戦後新興紙
 第一章 戦後の新聞用紙割当制度の創設
 第二章 新聞用紙の割当制度をめぐる政治力学
 第三章 新興紙の叢生と全国紙
 第四章 用紙割当制度の矛盾の顕在化
 第五章 「新聞に関する世論調査」の実施
 第六章 購読調整の実施とその影響

第二部 戦後新興紙の盛衰 ~『中京新聞』の事例
 第七章 『中京新聞』の創刊
 第八章 中京新聞社の経営
 第九章 『中京新聞』の最期

第三部 政策としての用紙割当制度
 第一〇章 『アカハタ』と用紙割当
 第一一章 用紙統制撤廃をめぐる政治過程
 第一二章 日本出版協会の事業者団体法違反事件

終章 結論と今後の課題

付表A 新聞用紙生産量などの推移
付表B 購読調整の結果と割当の変更
付表C 中京新聞社 損益計算書
付表D 中京新聞社 貸借対照表(その1)
付表E 中京新聞社 貸借対照表(その2)
参考文献

2、本論文の概要

序章で、筆者は、占領期における新聞用紙割当制度に着目する理由を述べる。言論の自由を考える場合、抽象的なレベルでの議論とともに実体的なレベルでの議論が必要である。すなわち、理念としての言論の自由の確立ともに、実体として言論の自由を制度的に保証し、またその担い手を確保し、それをどう育てていくかが議論されねばなるまいとする。そして新聞とは<紙>のメディアに他ならず、占領期のように資源としての紙が僅少な場合、どの新聞社に用紙を割り当てるかは、民主主義の担い手の1つとして期待される新聞社の死命を制するほどの大きな意味を持っている。そこで、本論文は、新聞用紙割当制度に焦点を絞り、GHQの「民主化」政策の内実を、実体的なレベルで、しかも政治的民主化とともに経済的民主化も視野に入れながら解明することを目的とすると表明される。
 占領期の新聞政策を対象とした先行研究においては、主に新聞検閲や読売争議などが取りあげられ、GHQによる日本のメディアの統制という側面が強調される一方で、新興紙や用紙割当制度は軽視されてきた。それに対し、筆者はCIE(民間情報教育局)の行ったさまざまな「改革」の重要さを指摘した上で、新聞用紙割当制度の理念と実態、その限界などを論じることでGHQのメディア政策について考察することの必要性を述べる。
全三部から構成される本論のうち、第一部では、占領初期から1948年11月の購読調整までの時期を対象として、戦後の新聞用紙割当制度の創設から購読調整までの経緯、ならびにそれに対する既存紙・新興紙の対応などについてまとめている。
 第一章では、戦時下の用紙統制と比較しながら、戦後の新聞用紙割当制度の創設の経緯が示される。戦時下の新聞用紙統制は1940年5月22日に内閣に、新聞雑誌用紙統制委員会が設置されたことをもって始まり、新聞統合において用紙統制は大きな力を発揮した。こうしたことから、戦後になってGHQは用紙割当制度の刷新を日本側に求め、1945年11月26日に新たに新聞及出版用紙割当委員会が創設された。そして既存紙に対しては終戦時の実績をもとに割当を行うとともに、新興紙に対してはその申請に対して一律に用紙を割り当てたことが新興紙の創刊ラッシュを招いたことが指摘される。
 第二章では、1946年の内閣への移管以降、同制度の変遷をたどるなかで、その時々の政治力学を明らかにする。戦争責任の問題に端を発した出版界の抗争が用紙割当委員会の内閣移管の契機となったが、それにはCIEは難色を示した。CIEは、政府からある程度の独立性を有したある種の独立行政委員会方式の採用を目指し、それによって日本新聞協会ならびに日本出版協会の2つの組織を利用してメディア全体に睨みをきかせ、メディア側の同調を引き出そうとしたのだと指摘される。
 第三章では、新興紙の創刊ラッシュの原因となった用紙割当制度をめぐる既存紙や新興紙の思惑を明らかにする。全国紙も全国各地に協力紙と呼ばれる新興紙を創刊した。朝日新聞社の事例を検討した結果、全国紙と協力紙の関係は首尾一貫したものではなく、次第に両者の溝は深まっていったと指摘される。
 第四章では用紙生産の状況と闇取引について述べ、用紙割当制度の矛盾が次第に露呈する経過を明らかにする。占領期には、「白損紙」や「黒損紙」の利用、「丸炭・丸木」と称されるバーター方式、正規の新聞用紙の横流しなどが後を絶たず、それを停止する有効な手だてもなかった。そして、こうした紙の闇取引は、行政的に上から割当を決定するという用紙割当制度に内在する構造的な矛盾であったと指摘される。
第五章では、こうした用紙割当制度の矛盾を解消するために、1947年8月から9月にかけて実施された「新聞に関する世論調査」の実施方法、経緯、結果を検討する。この調査は、CIEの強い意向で実施されたが、より小さいエリアを対象とする新興紙や地方紙には不利な結果が出るという欠陥をもっていた。結果、全国紙3紙や既存紙に希望が集まり、新興紙の多くは苦戦したことなどが、当時の集計結果から示された。
 第六章では、それに引き続いて1948年11月に実施された転読希望調査の実施過程をたどりながら、購読調整に対する既存紙や新興紙の対応を明らかにする。これは、当初から公正な調査を期待できず、業界を混乱に陥れるという日本側の反対を押し切って、CIEが実施させたものである。実際、不正行為が続出し、大混乱を招く結果に終わったが、地方の弱小紙や大都市の新興紙の統廃合を推し進めるなどの影響を新聞界にもたらしたことが指摘された。
第二部では、朝日新聞社と協力関係のあった新興紙『中京新聞』を取りあげ、その創刊から廃刊までの経緯をたどりながら、用紙割当制度のもたらした影響について論じる。
 第七章は同紙の創刊の経緯を描く。同紙は、社会党の代議士・加藤勘十が新聞用紙の割当を受けたことに端を発し、朝日新聞社との提携により誕生した。朝日新聞社にとっては名古屋に協力紙をもつことが、経営上の戦略として必要であったのだとされる。また、『中京新聞』は、「クオリティーペーパー」の実現をめざし、初期の紙面では毎日「文化欄」を設けたり、第1面のトップには地元の記事で重みのあるものを掲載しようと努力をしていたことが示された。
 第八章 では同紙の経営の実態を検討する。同紙は、宅配よりも即売に依存しており、経営は不安定であったが、初期には8万部程度が販売され、1947年上半期にはわずかながら黒字を計上するまでに至った。しかし、新聞購読調整以降、中京新聞社の経営は悪化した。中京新聞社は経営体制の立て直しを図るとともに、紙面を刷新して娯楽色を強めていった経緯などが、株主総会などの資料に基づいて指摘された。
 第九章では1949年以降、次第に追い込まれていく同紙の姿を描く。1949年頃になると、各紙は統制外のセンカ紙を用いて一斉に増紙攻勢をかけ、中京新聞社は赤字に転落した。さらに『朝日新聞』が1950年2月1日から、名古屋での印刷発行を再開したことが追い打ちをかけた。中京新聞社は自前の印刷会社の創立や、姉妹紙『夕刊新東海』との合併によって朝日新聞社からの自立を模索したが、結局、1951年5月5日付けを最後に廃刊を余儀なくされた。その経緯や特に朝日新聞社との葛藤の過程が示された。
第三部「政策としての用紙割当制度」は、購読調整以降の占領末期の用紙割当制度の持った意味を考察する。
第一〇章では、政党機関紙に対する用紙割当の問題を取り上げ、とくに言論政策としての側面から用紙割当政策を考察する。1949年3月以降、CIEのドン・ブラウン情報部長は、用紙割当委員会に対し、4度の覚書を発し、政党機関紙への割当の修正を求めた。これは、直近の総選挙での得票率に応じて、各党への用紙割当を行うというものであったが、実質的には『アカハタ』の用紙割当削減を意図していた。こうしたCIEの姿勢は、GS(民政局)などとも協議を経たものであった。また、この割当削減決定に至る経緯において、吉田茂首相がマッカーサー元帥宛の書簡の中で、政党機関紙への割当を全廃し、その分を一般紙へ振り向けることを要請していた。吉田にとっては、与党側の機関紙を作るよりも、自分を支持する一般紙への用紙割当を増やす方が有利だとの判断があったのである。このように、日本政府は、GHQの威光をかりて、共産党攻撃を行おうという意図があったことが指摘された。
 第一一章では、用紙割当制度の撤廃の経緯を、とくに日本政府の働きかけと、それに対するGHQ内部の対立を軸にしながら明らかにする。1949年7月12日、吉田茂首相は、マッカーサー元帥宛に、新聞用紙統制の全面撤廃を訴える書簡を送った。それに対し、ESS(経済科学局)は、新聞用紙の需給関係から価格の急激な変動を憂慮し、統制撤廃には慎重であったが、1951年3月頃になると、統制がむしろ増産の妨げになるという理由から統制撤廃に方針を転換した。また、CIEは、あくまで小新聞を保護育成しようとする意図を持っており、また用紙割当制度によって、最後まで新聞界に対して睨みをきかそうとしていた。それに対して、G-2(参謀第2部)は、用紙割当制度の早期の撤廃により、自由競争システムの確立をめざしており、それによって保守的な大新聞を擁護しようとする立場であった。こうした対立は、用紙割当政策に、経済政策的な側面と言論政策的な側面の2つがあったことを如実に示しているとされる。
 第一二章では、日本出版協会の事業者団体法違反事件を事例とし、同協会の持つ用紙割当原案作成権やそれを後押しするCIEの姿勢を明らかにする。これは、公正取引委員会が、日本出版協会が行う割当原案作成を事業者団体法に違反するものとして、審判を行い、東京高裁まで争った事件である。この事件の背後には、厳正な公正取引の実現を求めるESSと日本出版協会をとおして日本のメディアを監督しようとするCIEの路線対立があったことが示された。そして、この事件が、用紙割当政策に内在する経済政策的な側面と言論政策的な側面の衝突であったことが指摘された。
 以上の論述にもとづいて、終章では、占領期における用紙割当政策の意義を明らかにするとともに、GHQ内部の問題、日本政府とGHQの関係、新聞社の対応といった諸点から、占領史研究全般に関わる論点についても論及する。すなわち、占領期の用紙割当政策を経済政策としてみれば、占領開始当初は用紙生産が回復しない状況にあって公定価格や割当制度によって、用紙の生産流通を統制せざるをえなかった。しかし、それは、闇取引の横行などの矛盾を抱えていた。そうした矛盾にかかわらず、GHQが用紙割当制度を維持したのは、それが言論政策としての側面を持っていたからである。アメリカ流の民主主義の理念を宣伝啓蒙するために最大限メディアを利用しようとしたCIEにとって、用紙割当制度は、日本の言論機関を監督するためのメカニズムであり、それゆえ最後まで用紙割当制度の存続を求めていたのだとされる。その一方で、用紙割当に関しては、吉田首相が2度にわたってマッカーサー元帥宛に書簡を送るなど、日本政府が積極的にGHQに働きかけを行っていたことが明らかにされた。また、既存紙にとって、初期の用紙割当は不満ではあったが、協力紙という形態の新興紙を創刊することが可能であったし、新聞購読調整にあたっても、販売店との関係を梃子に有利な結果を得ることができ、結果として、新興紙を駆逐し、五大紙+一県一紙の枠組みを確立させた。これは戦時統制の遺物ではなく、統合によりスケールメリットを得た県紙が積極的に一県一紙制を指向したのだと指摘される。
 最後に、GHQは、少なくとも用紙割当政策については、具体的な政策プランを十分に検討しておらず、時に場当たり的な対応に追われた。また、新興紙の創刊を奨励したものの、既存紙の既得権益には手をつけず、その戦争責任の追及することよりも、占領政策の円滑な遂行のために利用し、メディア側の同調を引き出すことに重点をおいていた。こうしたことがGHQの「民主化」政策の限界を表していると指摘される。


3.本論文の成果と問題点
 本論文の成果と問題点

本論文の第1の成果は、新聞用紙割り当て制度に着目して、日本の敗戦から1950年代初頭にいたるまでのGHQのメディア政策をその細部の矛盾をも含めて明らかにしたことにある。これまでの先行研究は、GHQによる日本メディアの統制を強調してきたが、本論文は、新聞用紙割り当て制度に着目するというユニークな視点を取ることによって、GHQによる日本メディアの統制と養成という複雑な過程、GHQ内部の経済政策、政治政策、メディア政策間の矛盾、メディア政策に対する日本政府の積極的な関与など、GHQのメディア政策を巡る新たな側面を明らかにすることに成功している。
本論文の第2の成果は、同じく用紙割り当て制度に着目することを通じて、同時期の既存紙、新興紙を中心とした諸新聞の対応過程、変動過程を詳細に記述・分析することに成功していることである。本論文の取ったユニークな視点は、既存紙が協力紙という形態の新興紙を作って勢力の温存拡大を図った事態や、新聞購読調整に際しては、販売店との協力関係を梃子に、有利な結果を手に出来た状況を明らかにすることを可能にしたのであり、戦後初期の新聞の実態は一段とクリアになったと評価することができる。
また本論文の第3の成果は、『中京新聞』を事例として、新興紙の台頭から衰亡にいたる動的な過程を明らかにしえたことである。この点は、筆者の卒業論文、修士論文以来の一貫した問題関心であり、分析の深さと広がりは本論文中の白眉であり、学会においてあまり研究蓄積がない状況の中で、今後の研究のスプリングボードとなりうるものであろう。
本論文は、以上のような大きな成果を上げているが、勿論問題点も無いわけではない。あえてその問題点を指摘しておくとすれば、それは以下の3点である。
本論文は、戦後の新聞を巡る諸制度、諸過程を分析・記述することを目的としたものであるが、それを十全な形で分析するためには、戦前の新聞を巡る諸制度、諸過程への着目し、それらが敗戦・占領下で再編成されたものとして見る視座が必要不可欠なものとなろう。本論文もそうした視座に立っているが、いささか戦前の分析が手薄になっているきらいがある。GHQのメディア政策にしても、占領以前から日本研究がどの程度進められ、それが実際の占領の実施過程においてどのような変化していったのかに、もう少し注意を払う必要があったのでなかったか。これが本論文の第1の問題点である。
本論文の第2の問題点は、新聞紙割当て制度に着目するというユニークな着眼点は評価できるものの、その制度に関して残されている史資料たとえば出版界の用紙関係文献を完全に使い切っていないと考えられるところが見受けられることである。
そして本論文の第3の問題点は、本論文が新興紙の分析に新たな地平を切り開いたことは評価するものの、たとえば『中京新聞』の分析を、それの発刊に関わった多くの国民的政治家、地元政財界人、ジャーナリストの分析に結びつけたりして深化させてゆく作業が残されたことである。これらの作業に取り組んでゆけば、筆者が関心をもっているこの新聞が『草の根のジャーナリズム』であったのかどうかの回答をうることに繋がってゆくだろう。
もっとも以上のような問題点は、筆者も十分認識するところであり、本論文の価値を低めるものではありえない。筆者の今後の課題として必ずや克服されることを期待する。
よって審査員一同は、本論文を学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものと評価し、井川充雄氏に、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

2005年12月14日

 2005年10月24日、学位請求論文提出者井川充雄氏についての最終試験を行った。
 本試験においては、審査員が提出論文『戦後新興紙とGHQ-新聞用紙をめぐる攻防-』について、逐一疑問点について説明を求めたのに対し、井川充雄氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、井川充雄氏は十分な学力を持つことを証明した。
 よって審査委員一同は、菊谷和宏氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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