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博士論文審査要旨

論文題目:イタリア・ファシズム前夜の労働運動と政治運動-グラムシ・ダンヌンツィオ・ムッソリーニ-
著者:藤岡 寛己 (FUJIOKA, Hiromi)
論文審査委員:矢澤 修次郎、加藤哲郎、平子友長

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1 本論文の構成

 欧州史上、前例をみない最大規模の人的・物的・経済的損害をもたらした第一次世界大戦は、同時に、統一国家の成立(1861年)というリソルジメントの帰結から半世紀を経過したばかりのイタリア王国に、種々の活動領域で未曾有の大変動を惹起した。藤岡寛己氏(以下、著者と記す)の学位請求論文「イタリア・ファシズム前夜の労働運動と政治運動‐グラムシ・ダンヌンツィオ・ムッソリーニ‐」は、「赤い2年」と称される大戦直後の2年間(1919年‐1920年)に展開された労働運動と政治運動の代表的かつ典型的ないくつかの事例を詳細に検討・分析し、1922年に始まるイタリア・ファシズム時代に直接的・間接的に連関する当時の社会的断面を歴史的・政治思想的な視点から鮮明に照射した論考である。
 本論文は、以下のように、トリーノでの労働運動の実態ならびに多様なイデオロギーが存在した工場労働運動を扱った第1部、アドリア海問題と広く一括できるカテゴリーにおける、第一次大戦中のローマ会議および戦後のフィウーメ事件、さらにはグラムシとダンヌンツィオとの関係を扱った第2部、そして「原初」におけるファシズムの構成要素と諸側面を扱った第3部から構成されている。

凡例

第1部 「赤い2年」(1919年‐1920年)の労働運動
第Ⅰ章 工場評議会運動と1920年4月ゼネスト    
第Ⅱ章 工場占拠     
第Ⅲ章 アナーキズム勢力     
第Ⅳ章 カトリック労働組合(CIL)の動向      
むすび
第2部 アドリア海問題とフィウーメ占領
第Ⅰ章 被抑圧諸民族ローマ会議(1918年4月)            
第Ⅱ章 フィウーメ占領期にみる革命的サンディカリズム        
第Ⅲ章 グラムシとダンヌンツィオ‐実現しなかった会見‐  
むすび
第3部 原初的ファシズムの誕生
序論
第Ⅰ章 ムッソリーニと『イタリア人民』紙の「転向」
第Ⅱ章 アルディーティ                       
第Ⅲ章 未来派の政治的発展                     
第Ⅳ章 原初的ファシズムの誕生                   
むすび
要引用文献・参考文献
人名索引

2 本論文の概要

 第1部は「赤い2年」期における多様な工場労働者闘争に関する記述である。第Ⅰ章ではトリーノの工場労働者による労働闘争と彼らの精神的・心理的な態様が検討されている。他の欧州諸国と同様、大戦後とくに近代的大産業部門での労働者による工場管理を含む社会主義的諸要求の実現を巡る労使の軋轢はイタリアにあっても急激に拡大したが、著者は、現在でも世界有数の自動車会社として知られるフィアット社における当時の労使関係に焦点を絞って論じた。まず戦後の労使交渉を概観しつつ、ついでグラムシやトリアッティらによる機関誌『オルディネ・ヌオーヴォ』(Ordine Nuovo、新秩序)を拠点とするON派(オルディネ・ヌオーヴォ派)が提起し開始した工場評議会運動を取りあげ、既成の社会党系大労働組合のもつ労働力価格の交渉者としての組織から、歴史の主体となるべきプロレタリアートが管理機構と産業権力において資本家階級に代替する評議会への移行を訴えた内容が詳説される。イタリアにおけるソヴィエト的運動の実験ともいうべき評議会運動理論と現場労働者との合力は事実上1920年4月のストライキで頂点に達したが、資本家、社会党そして既成労組との画策により、産業権力獲得のための闘いは挫折する。グラムシはその主因として、労働組合上層部の迷信と愚鈍、プロレタリアート全体の革命的凝集力の欠如、組織中央の不在、有機的で規律的な運動に必要な条件の欠如、闘争のイニシアティヴが資本家とブルジョワ国家に握られていた点を指摘した。そして、産業権力獲得のための闘いと、労働組合組織の獲得およびプロレタリア的統一のための闘いという「二つの戦線における闘い」を継続するには、一方では工場評議会を核とした労働者闘争を展開しつつ、他方で労働者革命の推進手段となるべき社会党の革新の必要性を説いた。筆者はこのように、グラムシの評議会理論と情勢・党の分析をとおして、トリーノにおける近代的工場労働運動の内実を明示した。
 第Ⅱ章はトリーノひいてはイタリア全土的な工場労働者闘争にとって、この時代の終期点となった1920年8月‐9月の工場占拠闘争に関するモノグラフである。ここで筆者は、まず前章で論じた1920年4月闘争から工場占拠までの経緯をみたあと、工業家によるロックアウトが発端となって始まった占拠闘争の展開と、資本家・社会党・既成大労組の間でこのときにもなされた「解決」のからくりを検討し、さらにジョリッティ伊政府の対応にも言及している。ついで、工場占拠の歴史的な意義と政治的・社会的環境に注目し、占拠のもっとも直截的な帰結として、いずれ共産党の結成に至る、社会党内での分離的潮流の激化を指摘し、他方、占拠闘争からイタリア社会主義革命への可能性に関して、伊社会党主流のみならずコミンテルンまでもが否定的であった点やムッソリーニの占拠評価を紹介している。そして筆者は、労働者側に「ソヴィエト=ロシアのようにやるといった理想と自覚が欠如していた」工場占拠のもう一つの重要な帰結として、その実質的・根元的な欠陥に起因する敗北以上に、資本家側に恐怖をもたらしたことーそれはやがてファシズム運動へと連なってゆくーの重大性を指摘した。
 第Ⅲ章では、イタリアの学界にあっても論じられることのすくなかった、労働運動領域におけるアナーキズム勢力およびグラムシのアナーキズム観について分析している。筆者はまず、バクーニン、コスタ、マラテスタの三人を例にイタリア近現代アナーキズム史の動向を概観し、ついで社会党系の労働組合に比べて劣勢にあったアナーキズム系労働組合
USI(イタリア労働組合連合)の歴史的推移、すなわちデアンブリスらによる参戦主義革命的サンディカリズム労組から、ボルギを中心とするアナーキズム的なアナルコ=サンディカリズム労組への移行をみたあと、とりわけトリーノの労働運動で工場評議会に対する親近性と共感を表明して積極的に評議会運動に参加していったアナーキスト労働者を描写する。そして、アナーキストおよびアナーキズム思想に対するグラムシの対応について、アナーキストのグラムシ回顧とグラムシのアナーキズム論を詳細に検討した著者は、グラムシが国家の問題を留保し、個々人の英知の集積・発露としての評議会理念を敷衍し、その地平に、プロレタリア文化の充溢する社会をイメージしたことにおいて、グラムシ思想とアナーキズムとの相互浸透性を見て取っている。
 第Ⅳ章は、我が国の歴史研究において一度も取りあげられたことのないカトリック系労働組合ナショナルセンターCIL(イタリア勤労者同盟)について論じられている。ローマ=カトリック教会勢力にとって、イタリア統一国家はまず「国家対教会」という対立図式から始まったが、産業革命の発展に随伴する近代的労働者階級の発生と拡大ならびに社会党を核とする社会主義勢力の伸張により、「教会対社会主義」という新たな対立式がカトリック陣営を悩ませることになった。後者への対応策は、カトリック側からの勤労者階層の取り込み、組織化となって表現された。その最大の結実が1918年3月のCILの設立であり、それはまた、筆者によれば、1919年1月に結成されたカトリック政党である人民党同様、カトリック内部での非妥協派に対する穏健派や民主派の優位を示すものであった。つぎに本章では、CIL綱領にみられるキリスト教的特色、とくにその階級協調主義的性格が指摘され、さらに総加盟員の80%が農民である一方、工業部門加盟者の半数以上は繊維組合に所属しており、したがって14,500人弱しか組織されていない傘下金属産業労組は、16万人以上を組織する社会党系労組に数的勢力の上でも劣性であったことが明らかにされる。その圧倒的な劣勢の中で、カトリック系労組はブルジョワ資本主義と社会主義的集産主義との間に見いだされるべき第三の道を提示することにより、固有のアイデンティティを敵対的労組や政府に訴えようとした。しかし、工場占拠闘争前後での著者による情勢分析が示すように、この絶対的少数性に起因する政府の軽視やカトリック中央からの圧力、さらには人民党との軋轢により、カトリック的階級協調主義からともすれば社会主義的傾向へ「逸脱」傾向をみせるカトリック系労組の独自の行動も、結局は抑制されたのである。
 以上、著者は第1部で、「赤い2年」における各種労働勢力の動静動向を検討することにより、ファシズム前夜のイタリアに見られた、カトリック系労組も含め総じて左翼的性格を有する近代的工場労働運動の様相に明晰な分析を施した。加えて、工場評議会運動というグラムシらON派による労働運動の理論と実践への新たな提起と、グラムシとアナーキズムとの思想上ならびに実践運動上の相違と交流を明らかにしたことは、獄中ノートでのグラムシ思想を理解するのに一助となるものである。

 「アドリア海とフィウーメ占領」と題した第2部で、著者は、第一次世界大戦末頃から1921年初頭までのアドリア海有数の港湾都市フィウーメ(リエカ)をめぐる国内的・国際的な政治動向、ダンヌンツィオによるフィウーメ占領時に成ったカルナーロ憲章、グラムシとダンヌンツィオとの接触に関してそれぞれ詳細な検証をおこなっている。第Ⅰ章は、オーストリア・ハンガリー二重君主国統治下にあった諸民族の解放と自治をめざして大戦末の1918年4月にローマで開催された被抑圧諸民族会議(ローマ会議)に関する論究である。同会議は名のみ知られていたものの、これまでイタリアにおいてもほとんど扱われることのない歴史的会議であった。筆者は、(1)イタリア、(2)治下諸民族、(3)英仏連合国のそれぞれにとってのローマ会議の意義、および会議開催の理由と開催に至るまでの経緯を詳しく検討している。たとえば、①民主主義参戦派による、諸民族解放・独立の主張と伊‐ユーゴ間の正当な国境確定を推進しようとする積極的な動き、②1917年10月のカポレット戦により墺軍に大敗を喫して瀕死状態に陥り、兵士のみならず国民的な戦意の低下を生じた状況からなんとか脱却したいオルランド政府の窮余の一策としての支持、③イタリア帝国主義的理念を抱き、墺洪二重君主国打倒の手段として利用したいナショナリズムや帝国主義的陣営の存在など、ローマ開催に対する多様な政治的背景が説明される。他方、治下諸民族は当然二重君主国の敗戦を望むが、イタリアが戦勝した場合に発生する可能性の高い伊・墺による新たな民族分断という事態も危惧しており、苦境に立たされていた。また、英仏はローマ会議の開催によって大戦の大義が再確認され、戦争続行のための国民的合意を再度取りつけることができると期待していたことが明示される。さらに著者は、米国政府がウィルソンの14箇条という絶対的な影響力をもって加わり、米国の参戦によってイタリアは戦前のロンドン条約で約束されたアドリア海沿岸諸地域の大半の領有権を拒絶されて窒息状態に追いつめられ、じきにフィウーメ占領の道を選び取るに至るであろうことを示唆している。
 第Ⅱ章で著者は、フィウーメを占領したダンヌンツィオの信頼を得て内閣首班に就任し、革命的サンディカリストとしての思想と経験をフィウーメ執政府の最高法のなかに注入したデアンブリスが展開した独自のフィウーメ論、および彼の政治的イデオロギーと履歴を読み解き、さらに最高法であるカルナーロ憲章の特色を緻密に究明する。その特色とは、諸々の自由権、平等権、地方自治、陪審制、常備軍の廃止、イニシアティヴ、レファレンダム、といったきわめて進歩的・先進的な内容にあった。著者はこのように条文を追って憲章をみてゆくとともに、デアンブリスの草稿版とダンヌンツィオが手を加えた決定版という二つのカルナーロ憲章の内容上の異同を詳細に検討し、さらには憲章におけるデアンブリスの協同体論とファシズム(協同体国家)体制期の労働憲章にみられる協同体論との相違を淀みなく論じている。だが、革命的サンディカリスト=デアンブリスと、デカダンの革命家=ダンヌンツィオとの根本的な政治資質の相違は、後者の諸文学作品を検討することで露呈され、むしろダンヌンツィオのもつ帝国主義的性質が問題になっていることも指摘している。
 第3章では「実現しなかった会見」とのサブタイトルを付し、1920年夏と1921年春に試みられたグラムシとダンヌンツィオとの接触を論じる。著者はまず、日本におけるダンヌンツィオ文学の受容とフィウーメ占領の概要を記述し、第二次大戦前まではダンヌンツィオの作品は日本でも比較的によく知られたものであったが、ダンヌンツィオ=フィウーメ占領がムッソリーニ=ファシズムのプロトタイプ(原型)として敬遠された本国イタリア同様、第二次大戦後は日本でもほとんど忘れられた存在になっていたこと、他方で「生け贄の都市」という自己規定からフィウーメを他諸民族の解放拠点へと展開しようとする傾向も看取されることを指摘する。そして両者の二度におよぶ接触を詳述する。一つは1962年の雑誌記事からあきらかになった事実で、イタリア共産党の結成からわずか3ヵ月後の1921年4月、党創立者の一人であったグラムシが、フィウーメ占領の挫折から身を移していたガルダ湖畔のガルドーネまで訪ねていったが、結局ダンヌンツィオは会見を反故にした一件である。二つ目は、1978年11月に有力紙『コッリエーレ=デッラ=セーラ』に掲載された記事で、時間は前後するが、今度は1920年7月にダンヌンツィオがグラムシを占領中のフィウーメに招いたというものであった。著者は、対立する史家の見解を検証しながら、この二つの事例を丹念に解読してゆく。そして不首尾に終わった両方の事例ともフィウーメ主義左派の人物によって画策された試みであり、ダンヌンツィオもグラムシも会見の意思や計画をまったく持っていなかったという真相が判明する。著者は、それにもかかわらずグラムシはその一計にあえて従うことで、ブルジョワ国家の解体あるいは肥大するファシズム勢力への対抗のために、フィウーメ左派との連繋を図ったのではないかと推量する。くわえて筆者は、獄中ノートにおいてグラムシがダンヌンツィオの大衆懐柔的政治主義を指摘していたことに注目する。

 第3部は、イタリア=ファシズム運動の出発点である1919年3月の戦闘ファッシの結成大会を中心に、「原初のファシズム」の構成要素、イデオロギー、行動について論究している。第Ⅰ章では、ムッソリーニの発言と行動の本拠地となった新聞『イタリア人民』(Popolo d'Italia)における論調の変化と財政を検討する。ムッソリーニは、第一次大戦の勃発から3箇月ほど経過した1914年11月、社会党機関紙『アヴァンティ!』(Avanti!)に論説「絶対的中立から能動的・効果的中立へ」を発表し、それまでの絶対中立論から主戦論、対墺独戦参戦論に転じた。同紙の編集長でありながら反戦中立の党是に叛旗を翻したムッソリーニは事実上社会党を追放され、自ら創刊した『イタリア人民』紙に論陣を張る。もっとも、『イタリア人民』の題字下には「社会主義日刊紙」という副題をつけていたように、ムッソリーニは社会党離脱後も、参戦主義社会主義者として、社会主義の看板を下ろさなかった。しかし1918年8月1日、『イタリア人民』紙の創刊から3年8箇月経ち、「社会主義日刊紙」から「戦士と生産者の日刊紙」へ副題が変化する。著者は、同日号に掲載した論説から、ムッソリーニの主張が、①社会主義はもはや時勢に不適応であること、②社会主義者に代わって戦士(軍人)が社会変革の一方の主体となり、さらにブルジョワジーを含む全生産者がもう一方の主体となるということを読み解いた。まさにこのときにムッソリーニは、自己流の社会主義をなお残すものの、正統的な意味での社会主義を放擲したと筆者は判断する。次に筆者は、発行部数も思うように伸びなかった『イタリア人民』紙はたびたび財政危機に瀕したが、その苦境を救ったのが財界からの支援であったことを突き止め、さらにイタリア社会の参戦意識の高揚を目する仏政府からの資金提供も小さくなかったことを実証的に指摘した。
 第Ⅱ章はアルディーティに関する論及である。上記のように、戦略を転換したムッソリーニは自身の運動母体になりうる対象として軍人層に食指をのばしたが、そのなかでも、軍の特殊兵であったアルディーティ(勇者)と呼ばれる突撃隊員の獲得に傾注する。著者は、「アルディーティの歴史と行動」、「アルディーティの像(イメージ)と心理」の二節のなかで、軍事史・軍制史的な領域にも分け入りつつ、種々の史料を用いてアルディーティを定義し、その実像・実態に迫る。さらに、「アルディーティの処遇と評価」、「アルディーティの組織化」の節では、その攻撃性・戦闘性と過激な暴力性などによって軍指導部からも疎んじられ、さらに第一次大戦の終結による除隊とともに戦時から平時への生活転換になかなか適応できないアルディーティが、行き場を失ったぎりぎりの時点で自らのアイデンティティを模索し、組織化へと動き出す態様を具体的に描写する。そして、彼らのこうした組織化の一つの中心を形成したのが、カルリやヴェッキといった未来主義者でもあるアルディーティだった。カルリらは1919年1月、「アルディーティとともに相互扶助と労働と闘争を強力に組織し、偉大なるイタリア国民の上昇力を平時において持続することを目的とする」(協会綱領2条)アルディーティ協会を設立するのである。無論、ムッソリーニも、「偉大なるイタリアは諸君のものだ! 諸君がイタリアを防衛するのだ!」とアルディーティを最大級に持ち上げ、彼らの獲得に熱を入れた。著者はこのように、アルディーティが「原初のファシズム」の最適最良の実戦部隊員として、取りこまれる経緯を鮮明に描写している。
 第Ⅲ章で著者は、「原初のファシズム」を理論的・イデオロギー的に主導したと筆者自身が見定める未来派の政治的容貌を、1909年2月に仏紙『フィガロ』(Le Figaro)の第一面に掲載された「未来派宣言」の条項分析から始める。そして、全11条からなる未来派宣言の内容中、さまざまな芸術的表白とともに、「世界の唯一の健康法である戦争」という文言の他、軍国主義や愛国主義、闘争や攻撃性といった表現を確認した。つまり、芸術家集団未来派(未来主義)はその初発においてすでに現状破壊的で反体制的(=反自由主義政府的)な傾向を蔵していたのである。ついで著者は、「未来派第一政治宣言」(1909年3月)、「未来派第二政治宣言」(1911年9月)、「未来派第三政治宣言」(1913年10月)という一連の政治的声明文書を入念に分析するが、そこでは破壊・革新、軍国主義・愛国主義、反教権主義・反自由主義、科学主義・反伝統主義、帝国主義・植民地主義などの諸点が強調され、当時のイタリア政治・社会における二大陣営といえる「教権主義‐穏健派‐自由主義派」も「民主派‐共和派‐社会主義派」も一刀両断のもとに批判されていた。未来主義者達は、第一次大戦の勃発まもない1914年9月に「戦争の未来派的まとめ」と題する一覧を発行し、当時まだ中立を宣言していた伊政府に対して英仏側に与する参戦を要求した。ムッソリーニの政治的蛇行とは違い、未来派の戦争への熱望と期待は確固たるものであったために、第一次大戦に際してもその態度は旗幟鮮明であった。戦争末期の1918年2月に発表した「未来主義党宣言」では、従来の主張の再確認にくわえ、議会の改編や男女平等普通選挙、土地の社会化、最低賃金設定、労働者年金など、革命的サンディカリズム的内容が盛りこまれていたが、筆者によれば、こうした項目は、心身共に疲弊した戦士に対する配慮であった。第一次大戦直前から未来派の政治活動は一気に加速し、未来派の領袖マリネッティは、1918年9月末にアルディーティの隊列に向かい、「わたしは未来主義者である。つまり革命的愛国主義者である」、「諸君が新しいイタリアの主人である」、「諸君は新イタリアの神々しい未来主義者である」と呼びかけた。大戦後、上述のアルディーティ協会が発足し、同ミラーノ支部がマリネッティの自宅に置かれ、未来派とアルディーティ集団との結びつきは強固となった。そして、親ウィルソン主義で民主主義参戦派の要人ビッソラーティの演説会を力ずくで潰した事件(スカラ座事件)を契機に、未来派とムッソリーニはいよいよ自陣の拡大を確信するようになった。
 最終章である第Ⅳ章で著者は、前章まで検討してきたムッソリーニ、アルディーティ、未来派が一堂に会して戦闘ファッシを結成する1919年3月23日のサンセポルクロ集会を中心に論究している。上にみたように、ムッソリーニ=『イタリア人民』とマリネッティ=未来派はアルディーティ協会を接着点にして結合した。アルディーティ協会を警護する武装アルディーティを見逃したことから明らかなように、警察当局は左翼運動の破壊者でもある彼らの行動を黙認した。ムッソリーニは『イタリア人民』紙上で繰り返しアルディーティに激励を送り、彼らを讃え、戦闘ファッシの結成大会への参加を呼びかけた。こうしたムッソリーニによるアルディーティへの連日のラヴコールが功を奏し、集会当日には少なくとも100名を超える参加者をみた。集会ではムッソリーニもマリネッティも長広舌を揮った。わけてもムッソリーニは、①諸々の軍人への謝恩と支援、②内外の帝国主義に反対、フィウーメとダルマツィアの回復と併合、国際連盟の承認、③中立主義者(反戦主義者)の選挙立候補を全力で阻止するといった内容の三つの宣言を発表し、さらに社会党批判、行動的少数者としての自負、ナショナル=サンディカリズムの主張、経済的民主主義から政治的民主主義へ、ボリシェヴィキ批判などを説いたが、その言辞とは裏腹に、実質的には「革命」主義からかなり後退し、著者によれば、「革命」を一種のスローガンとして棚上げしたのである。他方、マリネッティは、伊社会党の反戦主義を批判する一方、ムッソリーニが指導する戦闘ファッシとその中で共に闘う未来主義者を高く評価し、いわば自画自賛した。そして、「革命」を社会党から自陣に奪い取り、群衆に「革命」を浸透させることが集会参加者全員の義務だと述べた。著者は、まさにこの「革命」認識に両者の相異を見、同じく未来派でアルディーティであるカルリもイタリアにボリシェヴィズムを期待していた事実を指摘する。他方、マリネッティは集会における革命性の希薄さを懸念し、ムッソリーニへの不信と疑念を見せた。つまり、実質的には未来派と『イタリア人民』派には革命意欲の違いが顕在していたのである。また著者は、集会から2週間強が経過した4月15日に発生したアルディーティを中心とする社会主義労働者集会への暴力襲撃を詳述し、この襲撃によってファシズム運動の暴力性の端緒が開かれたことを指摘する。
 著者は、第Ⅳ章第4節を「歴史的捏造としてのサンセポルクロ綱領」と題し、従来よりその存在が当然視されてきた「サンセポルクロ綱領」(1919年6月6日『イタリア人民』紙掲載)すなわち集会で決議された「戦闘ファッシ綱領」が実は捏造ではなかったかという問題提起をおこなっている。その理由として、①一国ならば最高法の憲法にも相当する「綱領」が、紙面の第1面とはいえ、なぜ右隅にわずか一列掲載と冷遇扱いされたのか、②サンセポルクロ集会から2箇月以上も経つまでなぜ公表されなかったのか、③もし著名歴史家が推測するように修正・増補に時間がかかったのであれば、「綱領」内容をムッソリーニの一存で改変することが果たして許されるのか、の三点をあげる。著者は以上の疑問点に対して以下の結論を出す。すなわち、①参加者の日記や回想や関連文書、あるいは集会を伝える諸紙の記事などからは、「ファッシ綱領」が集会で決議された形跡がない。したがって、この「綱領」はもともと存在しなかったし、したがって決議もされなかった可能性が高い。②よしんば、綱領の決議が事実だとして、革命的サンディカリズム、未来派、アルディーティが主導した綱領の革命的で革新的な内容の公開をムッソリーニが逡巡したため、2箇月以上も公表されず、また公表されても小さな扱いとなった、③ムッソリーニは、第Ⅰ章にその関係をみた財界・資本家と、支持母体として確保しておきたいアルディーティと一般労働者大衆、そして革命的な未来派との板挟みになって、大いに苦悩した。その結果が、「綱領」への冷遇となった。以上から、著者は、「原初のファシズム」が誕生したとき、未来派やアルディーティこそ真の意味でのファシストと言えるにしても、ムッソリーニは真正ファシストではなく、よってファシズムはすでに初発において、虚構の革命的綱領の上に立つ神話であったとみた。


3 本論文の成果と問題点

 本論文の成果は、なによりもまず、「赤い2年」と呼ばれる1919‐1920年に展開されたイタリアの代表的な労働運動、政治運動の分析に、多くの新しい視点を導入し、それら諸運動をダイナミックに捉え、結果として、多くの新しい歴史的事実を発掘することに成功したことである。
 新しい視点の代表的なものをあげるとすれば、それは以下のごとくである。
(1)グラムシを抽象的・教条的に取り扱うのではなくて、彼を彼が苦闘した歴史状況に投げ入れて理解することによって、彼が果たし得なかった諸点を指摘した。
(2)工場評議会運動期の社会主義的労働勢力以外の労働運動(カソリック労働組合、アナーキズム勢力)の状況を明らかにした。
 (3)第一次世界大戦末期のオーストリア=ハンガリー帝国下の非抑圧民族とイタリア人諸グループとの関係およびそれがイタリア内外の情勢に対して如何なる影響をもたらしたかを明らかにした。
 (4)フィウーメ占領という徹底的にナショナリズムを体現した出来事とみられていたもののなかに、カルナーロ憲章の成立にみられる革新的な側面を見いだした。
 (5)ダンヌンツィオとグラムシの交流を掘り起こし、グラムシの思考の限りなき柔軟性を明らかにした。
 (6)イタリア・ファシズムの原点を突き止め、サンセポルクロ集会、サンセポルクロ綱領を詳細に検討し、アルディーティや未来派はファシストであったが、ムッソリーニは真正のファシストではあり得なかったことを明らかにした。

 したがって本論文の第2の成果は、以上のような新しい視点と新しい歴史的事実の積み上げによって、イタリア自由主義体制からファシズム体制への橋渡し期の歴史的状況と特徴を、労働運動、政治運動を中心にして、これまで以上に明確なものにしたことである。この点は、それ自体としても重要なことであるが、はじめてイタリア・ファシズムの原点を突き止め、イタリア・ファシズム体制成立史をかってなかったほど体系的に提示したことは、高く評価することができる。

 本論文の第3の成果は、労働運動、政治運動を理論、思想と現実の歴史的諸主体の動きとの合力として把握しようとする著者の方法的態度が首尾一貫して論文を貫いていることである。この方法的態度があればこそ、数々の新しい視点が提起でき、些末な実証主義に陥ることなく分析が進められたと考えられる。

 さて、本論文は以上のような極めて大きな成果をあげているが、勿論、問題点がないわけではない。それを以下のように1つの問題点と2つの今後の課題という形で指摘しておくことにする。本論文の一つの問題点は、第1部とそれ以降の2部、3部との関連にいささか希薄なところがあるということである。既にグラムシ研究者として地歩を確立している著者は、労働運動とグラムシの分析を出発点にして、対象期の分析を目指した。第2部、第3部は、第1部とアーティキュレートすることを意図して展開されているが、その間には微妙なズレが存在するように思われる。今後出版物として世に問う際には、そのズレを調整する努力が望ましい。

 本論文の今後の課題は、意図された著者自身の目的をより十全に達成するために、本論文の成果を踏まえて、分析をより一層深めることである。例えば一定の地域の運動だけではなく、全国的な労働運動、政治運動の分析が目指される必要があるし、さらには社会・文化の分析にまで手を伸ばす必要がある。とりわけ、イタリア・カソリシズムの分析は、政治、経済、文化の動態を規定するものとして深められてしかるべきものであろう。

 そして本論文の今後の第2の課題としては、大胆な新しい視点の提起と新しい歴史的事実の発掘・解釈をより確実なものにしてゆくために、より厚い実証を心がけてゆくことである。例えば第2部においてグラムシがダンヌンツィオと会見を持とうとした意図が推量されているが、その推量をより確実な判断にするためには、資料の発掘を含めたより厚い実証が期待される。

 しかし以上の問題点と今後の課題は、本論文の成果をいささかも低めるものではあり得ない。またそれらの問題点と課題は、著者自身良く自覚するところであり、今後の研究の発展の中で、解決される性質のものである。よって審査員一同は、本論文を学位請求論文にふさわしい学術的水準をもつものと評価し、藤岡寛巳氏に、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると結論する。

最終試験の結果の要旨

2005年11月9日

2005年7月20日、学位請求論文提出者藤岡寛巳氏についての最終試験を行った。
 本試験においては、審査員が提出論文『イタリア・ファシズム前夜の労働運動と政治運動‐グラムシ・ダンヌンツィオ・ムッソリーニ‐ 』について、逐一疑問点について説明を求めたのに対し、藤岡寛巳氏はいずれも十分な説明を与えた。
 また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、藤岡寛巳氏は十分な学力を持つことを証明した。
 よって審査委員一同は、藤岡寛巳氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるのに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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