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博士論文審査要旨

論文題目:論戦するロシア知識人-1860年代の論壇状況とトカチョーフの思想形成-
著者:下里 俊行 (SHIMOSATO, Toshiyuki)
論文審査委員:土肥 恒之、森村 敏己、坂内 徳明

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本論文の構成
 19世紀ロシアは世界にその名を知られる錚々たる思想家を生み出したこと、特に世紀後半に「外来思想」であるマルクス主義の担い手たちに先行あるいは雁行して、彼らと激しい論戦をたたかわせた「ナロードニキ」と呼ばれる一群の思想家たちがロシア内外の多くの研究者の注目を集めてきたことは改めて述べるまでもない。「ヴ・ナロード」の運動と思想はそれを象徴するものだが、本論文が取り上げるピョートル・トカチョーフ(1844-1885)は初期の代表的な「ナロードニキ」であるとともに、レーニン等の革命思想にも影響を与えた「ロシア・ブランキスト」としても知られるユニークな思想家でもある。本論文はこれまでほとんど明らかにされてこなかった亡命以前の1860年代のトカチョーフの著述活動に焦点を合わせて、彼の思想形成を当時の論壇状況を踏まえて具体的に跡付けようとした力篇である。本論文の構成は以下の通りである。
 
序に代えて
第一章 「ナロードニキ」概念の再検討―19世紀ロシア社会思想史研究のための論点整理
 はじめに
第一節 「ナロードニキ」の用語法の変遷
第二節 「ナロードニキ」の用語法に関するアカデミズムのなかの議論
第三節 「ナロードニキ」概念の再検討のための論点と見直し
第二章 土壌主義のゆらぎ―1860年代初頭の論壇状況とトカチョーフの位置
 はじめに 奇妙な組み合わせ―「革命家」トカチョーフとドストエフスキイの雑誌 
第一節 雑誌『時代』の思想―「土壌主義」とは何か?
第二節 雑誌『時代』との「土壌」をめぐる論争―ストラーホフの「有機的観点」
第三節 ゼムストヴォ問題とイワン・アクサーコフへの批判
第四節 『時代』誌と1861年秋の学生騒擾をめぐる論戦
第五節 首都大火と檄文『若きロシア』をめぐる論争
第六節 トカチョーフの論壇デビューの意味と文脈
第三章 聖なるロシアの「乞食」―1860年代の貧困と慈善をめぐる論争とトカチョーフの慈善論
 はじめに ソ連崩壊直後に復活したもの
第一節 ロシアにおける「乞食」の歴史の概観
第二節 「乞食」論争のはじまり―プルィジョフの『聖なるルーシにおける乞食』
第三節 プルィジョフの『聖なるルーシにおける乞食』への反響
第四節 「慈善」をめぐる論争の展開―『モスクワ報知』紙の問題提起と反響
第五節 社会的慈善の論客たち―チェルヌイシェフスキイの論点と『何をなすべきか?』
第六節 トカチョーフの貧困研究と「社会的慈善」論
第七節 トカチョーフの社会改革構想と革命国家論―ベッヒャー『労働者問題』への評注
むすびにかえて
第四章 クリミア戦争後の「世界イメージ」―刑法秩序をめぐる議論とトカチョーフの「力」の概念
 はじめに 「世界イメージ」と刑法秩序をめぐる問題
第一節 合法則的必然的な歴史理解から「偶然性」への注目
第二節 クリミア戦争後の刑法をめぐる議論とトカチョーフの位置
第三節 古代インドの法観念「力こそ法である」への注目―トカチョーフの国家論の原型
第四節 クリミア戦争後の心象風景―「幸福な偶然性」への賭け
むすびにかえて 理性の外部にある「偶然」のリアリティ
第五章 ロシアにおけるスペンサーの受容の諸側面とトカチョーフの対応
 はじめに H.スペンサーとロシア思想 
第一節 スペンサーの思想をめぐる諸論点―その解釈の多様性
第二節 関連する先行研究での論点と課題
第三節 スペンサー受容の時代背景と検閲の基準
第四節 スペンサー受容の思想史的背景―目的論的自然観から偶然性の支配する世界イメージへ
第五節 スペンサーの著作の最初のロシア語訳の登場とその書評
第六節 スペンサー『著作集』第一巻の刊行とその書評
第七節 教育学者ウシンスキイによるスペンサーの『心理学原理』への批評
第八節 トカチョーフによる『著作集』第一巻への書評
第九節 ラヴローフの論文「ハーバート・スペンサーと彼の研究」
第十節 スペンサー『第一原理』への「ロシア語版序文」―宗教検閲への予防線
第十一節  さまざまな書評とミハイロフスキイの論文「進歩とは何か?」
第十二節  匿名(ラヴローフ)「ミハイロフスキイ氏の進歩の公式」
第十三節  トカチョーフ「社会的自己保存の法則」―スペンサー『生物学原理』の読解
終章 トカチョーフの目的論的世界観の樹立―ラヴローフとの未完の論争
 はじめに
第一節 1860年代の「ニヒリズム」の問題性
第二節 1860年代末における価値論の浮上
第三節 共通の価値の根拠付けの問題
第四節 目的論の復権
第五節 トカチョーフの世界観の歴史的性格


2 本論文の要旨
「序に代えて」で著者はロシア内外のトカチョーフ研究史について短く批判的な検討を行うとともに、自己の課題を凡そ次のように設定する。新帝アレクサンドル二世の即位に伴う「ペレストロイカ」の開始とともに、上層貴族出身の知識人からなる「40年代人」にかわって、聖職者や下級官吏、商人、町人などの比較的下層の身分出身の「雑階級」知識人が台頭した。「60年代人」と呼ばれたこれら新しいタイプの知識人たちは活発な言論活動をくり広げ、そして社会運動を企画したが、それらは非合法活動を排除するものではなかった。学生運動のためにペテルブルク大学法学部を中退した後に急進的な月刊誌『ロシアの言葉』と『事業』の常任編集委員として文筆を揮ったピョートル・トカチョーフはその代表的思想家であった。トカチョーフの初期の著述の大半は「書評」「書評論文」という形を取ったが、先行研究はこの点に十分な注意を払ってこなかった。書物を読み、批評することを通して表明されたトカチョーフの思想を、当時の論壇状況を踏まえながら「解読する」こと、本論文の中心的な課題はここにある。このような厳密な課題設定はこれまでの研究に対するより本質的な批判を含むものである。つまり先行研究のほとんどは亡命後の1870年代後半に展開された「過激な」主張、つまり「ロシア・ブランキストとしてのトカチョーフ」を「遡及的に1860年代の彼の思想と行動のうちに読み込む」ことによって、彼が最初から首尾一貫した「革命家」であったという偏った解釈に陥っている。本論文は、上にのべた課題をあくまで具体的に追求することによって「革命家」「社会改良家」というこれまでのトカチョーフ像とは別のゆたかな思想世界を浮かび上がらせようとする。
第一章では、全体の予備的な作業として「ナロードニキ」「ナロードニチェストヴォ」という言葉の用語法の変遷が時系列に沿って検討されている。「ナロードニキ」という言葉には「自称」「他称」の区別など幾つかの留意が必要である。つまり文献上の初出は1862年5月に認められるが、再び登場した1868年でも「ナロードニキ」とは「農奴解放に尽力した人々にたいして投げつけられた悪罵、レッテル」であった。1870年代に入ると「特定の活動家の一類型」を意味するようになり、1876年にペテルブルクを中心に結成された秘密組織のメンバーは「ナロードニキ」を自称した。その後この組織のネットワークが全国的規模に拡大していくなかで、「土地と自由」が結社され機関紙が創刊された。こうして1870年代末には「ナロードニキ」と「土地と自由」派とがほぼ同一のものと認知された。「土地と自由」派における「ナロード主義」の特徴は、それ以前の運動家の「社会主義」の教条性、書物性、形而上学的性格に対置されるものとしての、「あるがままのナロードの要求への立脚」にある。とくに「実証主義」や「土壌」は彼らの思想を特徴づけるキーワードであるが、外来文化への反発から土着の価値を尊重しようとする「ネイティヴィズム」ともいうべき、「ナショナルな契機」も含まれていたことにも注意する必要がある。1880年代にはいわば国粋派的「ナロードニキ」の誕生がみられるが、新たにマルクス主義の立場から「ナロードニキ」を批判したプレハーノフは、1889年の論文で「ナロードニキ」の定義に際して、はじめてロシアの「共同体」の評価の問題に焦点を当てた。つまり「ナロードニキ」とは資本主義以前の「共同体」を積極的に評価する人々という意味を持つようになった。彼によって「ナロードニキ」は社会の「進化」を否定し、歴史の時計を後ろに戻そうとする思想的実践的な立場とされたのである。1890年代以降、ロシアにおける「資本主義経済」の発展の可能性を否定する立場から多くの重要な社会経済史研究が生み出されたが、レーニン等の厳しい批判を受けた。そのレーニンの規定を受け継いだソヴィエト史学については措いて、著者は主に国外のアカデミズムにおける「ナロードニキ」の用語法について、イタリアのフランコ・ヴェントゥーリ、ポーランドのアンジェイ・ヴァリツキなどの見解を検討するとともに、ソヴィエト崩壊後の新しい動向を紹介している。最後に「ナロードニキ」概念の「見直し」のための幾つかの論点を提示している。
第二章ではトカチョーフの論壇デビューの場となった雑誌『時代』の思想の分析を通して、彼の思想形成をめぐる状況が明らかにされている。1861年に創刊された『時代』誌の「事実上の編集者」は、新帝アレクサンドル二世による政治犯に対する恩赦で十年ぶりに首都に帰還した作家フョードル・ドストエフスキイであった。「文才と専門的水準の高さ」を認められたトカチョーフはここで司法改革、犯罪と刑罰などの問題を論じた。『時代』誌の掲げる思想は「あらゆる果実にとって必要なのは、自分の土壌(ポーチヴァ)であり、自分の気候であり、自分の教養である」というもので、「土壌主義者」という渾名はここから付けられた。「われわれの課題とは、自分たち自身の血のかよった、自分たちの土壌で得られたナロード的精神から、ナロード的源泉から採られた形式を創り出すことである」、という『時代』誌の主張はスラヴ派の新聞『日』とも西欧派的な『同時代人』とも異なる。つまりピョートル大帝の改革を「是々非々で」評価するとともに、ピョートル以降のロシア社会の西欧化とそれに伴って形成されてきた「教養階級」の意義をある程度積極的に評価する姿勢をもっていた。つまり彼らは往時のスラヴ主義と西欧主義との対立を超えた地平で、「文明とナロード的源泉との和解」を呼びかけたのである。具体的には、『時代』誌は「読み書き能力」の向上をテコとする「ロシアのナロードの自覚的・自立的な発展の可能性」という理念を打ち出した。「ナロードの救済」ではなく、「ナロードの自己救済の支援」という「土壌主義」の主張は当時の若者たちから「少なからぬ支持」を得たのである。編集者ドストエフスキイにとって、「学生」は教養社会の一員として「教養の原理」とともに、「ナロードの原理」の担い手として想定されていた。著者は1861年秋の学生運動や翌年5月の首都大火、そして檄文『若きロシア』の流布といった出来事をめぐる知識人たちの議論を検討するなかで、『時代』編集部は「土壌主義」の立場から「ナロードとの接近」というスローガンを掲げ、学生たちに特別な期待をかけ、学生たちも『時代』誌に自らの理想を見出していたことを明らかにしている。トカチョーフのような投獄歴があっても優秀で志の高い元学生たちにも積極的に執筆機会が提供された。したがって「革命家トカチョーフ」と「革命とは無縁の作家ドストエフスキイ」という一見奇妙な組み合わせは、実は「奇妙」ではなく、明確な思想的論拠があると著者は指摘している。
第三章では1860年代初頭に巻き起こった「乞食と慈善」をめぐる論争を検討することによって、当時の知識人が「ナロード」や下層の民衆をどのように理解していたかを探るとともに、トカチョーフの「慈善」論の位置を明らかにしている。「ルーシでは飢えで死ぬ人間は一人もいない」というよく知られた諺があるが、論争の契機は1862年にモスクワで刊行されたイワン・プルィジョフの『聖なるルーシにおける乞食』にあった。プルィジョフは誰もが知っているが、深い関心を払うことのなかった都市の「乞食(ニシチイ)」、特にモスクワにおける「乞食」(約4万人にのぼる)の実態をリアルに描くとともに、その歴史的起源について独自の解釈を示した。彼はキリスト教受容以前のルーシにおけるナロードの精神を純粋で神聖なものと理想化し、それが中世キリスト教の影響によって最終的に堕落させられた形態として当時の「乞食」を位置付けた。プルィジョフが特に問題視したのは、自発的な乞食であれ、不慮の災難によって余儀なくされた乞食であれ、彼らを「乞食」として社会に定着させ育んでいったキリスト教の教え、つまり贖罪の思想である。コペイカ銭(小銭)を施して満足を得る「コペイカ喜捨」の慣行こそ贖罪行為の最も形骸化した形に他ならず、「偽善」であると糾弾したのである。初版2000部はすぐに売り切れ、『乞食』はベストセラーになった。これを契機に多くの誌紙で「乞食と慈善」をめぐる論争が展開された。より合理的な救貧政策を提言する『モスクワ報知』誌、困窮者の経済的な自立をめざす協同組合の設立を説くチェルヌイシェフスキイなどから、困窮者の境遇改善よりも喜捨をする人びとの宗教的・道徳的精神、つまり相互扶助の精神を鼓舞する論者まで百家争鳴、さまざまな見解が表明された。それに対してトカチョーフの立場は明瞭であった。彼は1864年の「統計エッセイ(第三部貧困と慈善)」で「貧民」と「乞食」を区別して、前者を約32万、後者を37,000人と推計した上で、ロシアの「乞食」問題を同時代の西欧社会で危惧されていた「プロレタリアート」あるいは「窮乏状態(パウペリズム)」と同種のものと位置付ける。その上で、やはり西欧社会での経験に依拠するかたちで「中央集権化された社会的慈善」の整備を求めるという社会政策論へと向かった。つまりトカチョーフは民間の自発的な慈善よりも、国家によって統制された救貧策を重視し、その目的のために「労働者国家」の樹立を要求したことを、著者はベッヒャーの著書『労働者問題』のロシア語訳に付された彼の序文から明らかにしている。
第四章で著者は刑法学者スパソーヴィチの『刑法学教科書』とそれに対するトカチョーフの書評を詳しく検討することで、クリミア戦争後の知識人のなかで偶然的な力や個々人の恣意に支配されているという「世界イメージ」が生まれていたという仮説を立てている。スパソーヴィチが法実証主義の立場から、法治国家を志向し、専制国家に制限を加えようとしたのに対して、トカチョーフが「力こそ法である」という古代インドの法観念に着目することで、刑法秩序のもつ暴力性とその相対的・恣意的性格に注意を向けている点が明らかにされている。
第五章ではロシアにおけるスペンサーの受容をめぐる諸問題が分析されている。1860年代にダーウィン、バックル、ミル等の「英語圏の思想家」の知的流行がみられたが、なかでも社会における「最適者の生存」を主張する「社会進化論」「社会ダーウィニズム」の創始者とされるハーバート・スペンサー(1820-1903)は特別の位置を占めていた。その思想史的背景としては、19世紀前半の有神論的・目的論的自然観から、ダーウィン理論の影響のもとで偶然性が支配する世界イメージへの「自然」観の変容が生じていたとされる。ダーウィンの『種の起源』のロシア語訳が出た1864年の翌々年からスペンサーの『著作集』(全7巻)の翻訳刊行が始まり、論壇に大きな波紋をまきおこした。著者は出版者チブレンについての解説に続き、同世代の評論家ミハイロフスキイ、教育学者ウシンスキイ、ラヴローフをはじめさまざまな「書評」を詳細に検討している。トカチョーフもまたこの論戦に参加した。固体間闘争が支配する「自然状態」、そしてその「闘争」の原理に「進歩の原動力」をみるスペンサーの議論とは正反対に、トカチョーフは「社会の自己保存」あるいは「種の保存」という観点から人類の再生産と個体の発達とが「集団的権力」によって「調整」されることこそ、人間「社会」に固有のあり方であるとした。このように人と人との闘争を「調整」する集団的権力による「立法」の役割を重視する点で、他の論者とは大きく異なる特徴をもっていた。また彼がいう「法則」とは、「歴史の必然的な発展法則」ではなく、「社会的自己保存」のための経験的で個別具体的な実定法(つまり規範としての法)のことを指しており、実践的には社会的な立法権力の要求や、立法権を独占していた皇帝の専制政治体制に対する批判が含まれていたとする解釈が示されている。
終章では亡命前夜のトカチョーフの世界観について、特にラヴローフの論文「歴史書簡」に対して書かれた批評論文「進歩の党とは何か」の分析を通して明らかにされる。1860年代末のロシアは実証主義、つまり「科学的な真理」「科学的な法則」の圧倒的な影響の下におかれていた。ラヴローフの「歴史書簡」は、そうした啓蒙主義の危機的な状況に対する独自の解決策として書かれたものであり、歴史における人格の価値の第一義性を主張した。つまり人間の認識と価値判断の「主観性」を積極的に位置づけることによって、実証諸科学の影響のもとで蔓延していた歴史や人間の宿命論・決定論的な理解を打破するとともに、1866年皇帝暗殺未遂事件後の若い知識人に新たな実践行動の指針を与えるものであった。これに対してトカチョーフは、ラヴローフのいう「主観的方法」が実質的な価値内容については無規定であり、夫々の行為主体が採るべき価値・規範の統一性が担保されていないと批判した。トカチョーフによると、スペンサーのいう諸個人間の「闘争」状態を調整するためには、社会全体の「目的」という「絶対的規範」が打ち立てられなければならない。具体的には、等しく「生命」を持つ人間個体が可能な限り平等に生存が保障されるような社会状態がどれだけ実現されたか、これこそが歴史の進歩の「絶対的な基準」である。言い換えると、「普遍的価値」は「多数者の利害」ではなく、「諸個人全体の生存」にあるとするものであり、「最大多数の最大幸福」という周知の原理も、少数者とはいえ具体的に生きている個人の犠牲を合理化する論理に他ならないという根源的な批判を展開した。トカチョーフのこうした議論は、同時代のヨーロッパの「大衆的窮乏化」やマルサス的な人口制限論への批判を念頭に置いたものである。こうした彼の議論の背景として、トカチョーフ自身の過酷な監獄体験、そして独房生活のなかで「独特に肥大化した自己意識」があること、併せて「自己に沈潜する寡黙な人間」「内省の強い、思索の深い人間」としてのトカチョーフという思想家の独特の性格が示唆されている。

本論文の成果と問題点
 本論文は「大改革の時代」が始まった1860年代ロシアの新しい政治状況のなかで、ロシアの知識人たちが「論壇」で交わした活発な論戦を取り上げるとともに、その中心的思想家でもあった若きピョートル・トカチョーフの思想形成を具体的に跡付けようとしたものである。まだ体系的な著作のない若い知識人の初期思想を解明するという困難な課題に対して、著者は先行諸研究のように、後期の著作から「遡及的」に解釈するという「方法」を拒否する。新進の批評家としてさまざまな雑誌に発表したトカチョーフの長短の「書評」「書評論文」「批評」を漏れなく蒐集するとともに、対象とされた著作をも丹念に読み込むことで彼の「思想形成」に迫るという著者の「方法」はきわめてオーソドックスなものである。対象とされた著作は単に知識人のそれだけではなく、刑法学教科書や「乞食」論、あるいは自然論・進化論に関するものまで多岐にわたるが、それらの緻密な分析と検討を通して著者は若きトカチョーフにおける「目的論的世界観」を再現することに成功している。本論文の最大の成果はこの点にある。第二の成果としては、従来ともすれば「共同体的社会主義」論として単純化される傾きがあった「ナロードニキ」の思想が当時の社会・経済・政治の思潮全体にわたる豊かな思想世界であることが明らかにされたことが挙げられるだろう。著者は一方で「土壌主義者」ドストエフスキイと彼の『時代』誌の主張を詳細に分析することで両者の思想の交叉を照らしだし、他方で代表的な「ナロードニキ」ラヴローフの「歴史書簡」などの分析と対比を通してトカチョーフの独自性を明らかにしている。本論文によって初期の「ナロードニキ」の裾野と拡がりがはじめて明らかにされたのであり、この分野の研究に確かな礎石が据えられたものと高く評価出来るだろう。第三に上述のテーマを追求するなかで試みられている乞食と慈善、あるいは監獄などのいわば社会史的な問題についての考察は詳細をきわめており、それ自体一個の貴重な貢献と言うことが出来るだろう。また全体としてトカチョーフが取り上げた時事的なテーマをロシア社会思想史における大きな流れと結びつけて分析されていることも本論文の主張をより説得的なものにしている。
 以上の他にも本論文の成果は少なくないが、もとより不十分な点がないわけではない。一つは1860年代の論壇や社会状況の記述に重点が置かれた反面、時事的な問題への対応という側面とは別の、トカチョーフ自身の問題関心の推移の解明にいまひとつ不分明な部分を残したことである。つまり最終的な「目的論的世界観」の樹立はそれとして理解できるにしても、そうした「思想形成」へと向かう内面的な「過程」の分析がいまひとつ具体的でない憾みがある。また先行研究にみられる「遡及的な」理解に対する批判から問題を1860代に限定したことは理解できるが、そのことによって亡命後のも含めたトカチョーフ像全体がどのように修正されるべきかという問題については積極的な言及がないことも惜しまれる。その他に論文からは西欧経済学についてもトカチョーフはかなり精通していたと推測されるが、そうした点についても纏まった記述が望まれたところである。更に論壇と雑誌読者の増加、そして「公共圏」という問題についてももう少し丁寧な扱いが求められるが、そうした問題点については著者もよく自覚しており、今後の研究のなかで克服されていくものと思われる。
 以上のことから、審査員一同は本論文が当該分野の研究に大きく貢献したと認め、下里俊行氏に対して一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2005年10月12日

平成17年9月22日、学位論文提出者下里俊行氏の論文に対して最終試験を行った。試験においては、提出論文「論戦するロシア知識人―1860年代の論壇状況とトカチョーフの思想形成」に関する疑問点について審査委員から逐一説明を求めたのに対して、下里俊行氏はいずれも十分な説明を与えた。
 以上により、審査員一同は下里俊行氏が学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有することを認定した。

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