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博士論文審査要旨

論文題目:「部族」の創出―合衆国南西部における先住社会の再編過程―
著者:水野 由美子 (MIZUNO, Yumiko)
論文審査委員:中野聡、貴堂嘉之、関啓子

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1 本論文の構成

水野由美子氏(以下、著者と記す)の学位請求論文「『部族』の創出―合衆国南西部における先住社会の再編過程」は、アメリカ・メキシコ戦争(1846-1848)の結果、メキシコからアメリカ合衆国に割譲・売却された地域(以下、合衆国南西部)の先住民社会、具体的にはプエブロとナヴァホ(と国家によって同定・認定された先住社会)と合衆国連邦政府の19世紀末から1940年代にいたる関係史を、先住民が付与された「インディアン」と「市民」という法的地位・概念に対して先住社会と連邦政府の双方が託した認識、願望、戦略を分析の軸として、土地制度・法的地位・学校教育を具体的な問題領域として検討したものである。
本論文の構成は以下の通りである(節以下の構成は省略した)。

序章
第Ⅰ部 合衆国による併合と南西部先住社会:19世紀後半~1910年代
第1章 法的地位をめぐる論争と「インディアン」教育―併合後の先住民政策とプエブロ社会―
第2章 放任主義にもとづく保留地拡張と教育政策―併合後の先住民政策とナヴァホ社会―
第Ⅱ部 先住民政策改革運動の高揚と南西部先住社会:1920年代~1930年代
第3章 土地関連法案と「トライバルダンス」論争―先住民政策改革運動とプエブロ社会―
第4章 石油関連法案と「トライバルファンド」をめぐる論争―重要法案審議過程とナヴァホ社会―
第Ⅲ部 「インディアン・ニューディール」と南西部先住社会:1930年代~1940年代
第5章 再組織法案の審議過程と教育改革―重点施策地域・プエブロ社会における諸改革の意義―
第6章 家畜削減政策と通学学校論争―ナヴァホ社会における「第二のロング・ウォーク」の波紋―
終章
巻末図表
史料文献一覧

2 本論文の概要

まず序章において、著者は、領土膨張によって成立したアメリカ合衆国の領域変動における土地問題と先住者の処遇(法的地位)の再編過程を相関的に検討する必要性を強調し、「インディアン」と「市民」という法的地位に対して連邦政府・議会と先住民社会の双方が見いだした可能性と限界、願望と認識を分析・解釈し、それらをめぐって被支配(先住社会)側にも多様な対応策や戦略がみられたことを例証して、連邦・先住社会関係史における単純な告発的歴史像を克服しようとする立場を明らかにしている。
著者はさらに、研究史上の課題を次のように整理する。合衆国史研究の対象として長らく否認されてきた存在としての「インディアン」問題は、まず1950年代半ば以降の公民権運動の高揚などを背景として見直され、先住民政策批判という実践的な問題関心に基づいた制度・政策史研究が盛んに展開した。そして、1970年代以降、オーラルヒストリーの手法や人類学などの隣接諸学の影響を受けて、先住民社会の多様性・流動性に注目し、また単なる無抵抗な犠牲者としてではなく、限定的にではあっても、回避・沈黙・サボタージュ・パロディー化といった戦略を通して同化圧力に対抗する主体性をもった存在として先住社会を捉える視点からの研究が、特定の先住民社会や時代に特化したトライバルヒストリーの分野で成果を蓄積してきた。著者は、こうしたローカルな視点と州・連邦レベルの制度・政策史を有機的に結びつけて実証的に総合化することが現段階の研究史上の課題であると総括する。
次に第I部は、1846年に勃発したアメリカ・メキシコ戦争の結果、メキシコが割譲・売却した広大な領土(以下、合衆国南西部)の先住社会が合衆国に編入された過程を、プエブロとナヴァホそれぞれの社会に即して、法的地位と土地所有、学校教育の観点から検証し、一旦は「インディアン」として同定された集団に対して「市民」としての同化圧力が強まった経緯を追っている。
まずプエブロ社会をあつかった第1章では、スペイン植民地時代にスペイン国王が「下賜」したプエブロの土地が、合衆国の法理のもとで「インディアン・カントリー」(保留地)として再編される経緯が検討される。その過程で、プエブロは「市民」でも「インディアン」でもない無権利状態におかれたが、最終的には「インディアン」として承認され、プエブロの土地は保留地とみなされることになった。南北戦争後の混乱が収束した1880年代頃から、「インディアン」の特殊な法的地位は国民統合の障害とみなされ、その漸進的解消が新たな政策目標となり、保留地の個別土地割り当て政策と「文明化」教育の普及が先住民政策上の車の両輪となった。しかし入植地としての魅力に欠ける南西部の先住社会には保留地の私有地化を促進する1887年ドーズ法は適用されず、学校教育を通じた先住民の「文明化」に主力が注がれたと著者は指摘する。さらに強制就学や断髪に対する先住社会の抗議が知られている「インディアン・スクール」に対する南西部先住社会の反応には、反発や同調など多様な反応があったことに著者は注目する。定住農耕民で、スペイン植民地支配下ですでに外部の圧力をかわしつつ自文化を継承するシステムを確立していたプエブロでは、英語習得や官給品を目当てに「実を取る」戦略として学校教育が受容された一方、ホピの場合は、同じように定住農耕民でも、スペイン植民地支配が及んでいなかったため、就学の圧力は前代未聞の外部の干渉と捉えられ、村を二分する激しい内部対立に発展した、と指摘する。
次に第2章は、同時期のナヴァホ社会の再編過程を検討する。連邦政府・議会では当該地域が「不毛」だという共通認識があったために、1860年代に一旦施行された強制移住(通称「ロング・ウォーク」)は撤回され、その後、保留地拡張、ドーズ法不適用など、通説とは異なる先住民政策が講じられた。それに対してナヴァホ社会は、従来の生産文化を維持しつつ、保留地の境界線を無視して家畜数と人口を増やした。一方、学校教育では、プエブロと対照的に初等教育の就学率は一向に上昇せず、伝統的な「一対一の実地教育方式」と学校教育システムが並存する状況が数十年にわたり続いた。ナヴァホの場合、移牧という移動を伴う生産文化ゆえに支配権力との接触を避けることがある程度まで可能で、家族のうちの一人か二人が学校で英語能力を習得するメリットは享受しつつ、従来の経済的・教育的再生産のシステムを維持しつづける選択の余地が残されていたと著者は指摘する。
次に第2部で著者は、20世紀初頭、それまで比較的放置されていた南西部の先住民社会においても土地や天然資源をめぐる争いが表面化する一方、「市民的生活」への「インディアン」の同化を目指す諸施策が、実際には著しい権利侵害や違法行為を黙認・助長していたことが明らかとなり、先住民政策改革の機運が高まる過程を検討している。
まず第3章は、1920年代の先住民政策改革運動の起点となったニューメキシコ州プエブロに焦点を絞り、改革運動の展開とその歴史的意義を明らかにしている。連邦議会では、土地所有権や先住民の「ダンス」・信仰生活をめぐる論争の過程で、保留地におけるインディアン局の「圧政」と権限の肥大化が問題化した。これらの論争では先住民には発言の機会すら与えられなかったという限界があったものの、その過程で、先住民のイニシアチブによる文化的・政治的活動が議論の対象となり、それらを隠蔽してきた従来の制度への批判が高まり、先住民政策をめぐる新旧の思潮の対立を経て、新しい政策理念が形成されてゆくことになったと著者は指摘する。
 続いて第4章では、ナヴァホ保留地における石油発見を契機として浮上した石油採掘権法案(ヘイデン法案)の審議過程と「トライバル・ファンド」(合衆国政府に信託された特定トライブの共有財産)流用をめぐる連邦議会での議論を通じて、従来、一般市民と別個の「変則的な存在」とみなされてきた「インディアン」が、1924年市民権法で市民権を一括付与されたことを境に、「インディアン市民」という新しい視点からその諸権利が論じられるようになった経緯が検討される。依然として先住民不在の先住民政策論争という限界はあったものの、一部の連邦議員が「インディアン」を他の市民と同等に処遇しないことを「不正」と断じたことが示すように、従来の温情主義や人道とは異なり、「インディアン」の市民権やナヴァホ自身の見解を重視すべきだという観点からの主張が連邦議会でみられたことは、先住民政策史上の重要な転機になったと著者は指摘する。
1933年、フランクリン・ローズベルト政権が発足していわゆる「ニュー・ディール」政策が始まるとともに、第Ⅱ部で検討した先住民政策改革運動を主導してきたロビー団体「インディアン擁護協会」のハロルド・イッキーズとジョン・コリアがそれぞれ内務長官とインディアン局長に就任、「インディアン・ニューディール」を標榜した一連の政策改革が始まった。第Ⅲ部は、改革理念としてコリア局長が挙げた三点、すなわち「土地に根ざした経済的再建」、「インディアン・トライブが自らの手で業務を執り行うための組織化」、「インディアンのための市民的・文化的自由と機会の確保」を柱とする「インディアン・ニューディール」を、改革のモデルケースとなったプエブロとナヴァホ社会にそれぞれ即して、具体的に検討している。
第5章で著者はまず、「土地基盤の回復」と「自治政府」の設立などを目的としたインディアン再組織法(以下再組織法)について、インディアン局とプエブロ指導層との審議会議事録を分析する。そして、1934年再組織法が1887年ドーズ法を破棄したことは、ドーズ法が適用されなかったプエブロにとっても、将来の脅威(個別土地割り当て政策実施の可能性)を取り除く意味があったことを指摘する。さらに著者は、再組織法案の「自治政府」構想が、プエブロ既存の統治機構をモデルとするのみならず、「自治政府」がプエブロの神聖首長の権限を侵害しないよう腐心していた事実に注目する。著者によれば、この事実は、構想の立案者が、ウィル・キムリッカのいう「対内的制約」―「内部の異論(たとえば伝統的慣習や習慣に従わないという個々の成員の決断)のもたらす不安定化から保護することを意図した」「ある集団が自らの成員に対して行う権利要求」―を認識していたことを意味しており、この認識に基づいて起草された再組織法が、仮に「対内的制約」の問題が浮上した場合に「自治政府」の権限のもとで外部者ではなくプエブロの指導層がイニシアチブを発揮できる余地を残したことは、当時のプエブロ指導層の願望と一致していたと指摘する。
次に著者は、19世紀後半以降、「主流文化への同化」政策の象徴とみなされてきた寄宿学校の改革のモデル校で、「文化的遺産の上に築こう」を標語として掲げたサンタフェ寄宿学校の試みを、同校その他の寄宿学校を対象にしたオーラルヒストリー・プロジェクトなどの史料を通じて分析する。そして、1930年代以降、先住民側の寄宿学校観がおおむね肯定的・好意的なものへと変化した一方、基礎教科や実業教育で改革の方向性が具体化されることはなかったと指摘する。「文化的遺産」の強調も、必ずしも先住民社会に歓迎されたわけではなかった。ドロシー・ダンの絵画教室は、プエブロの陶器の彩飾技術や伝統的モチーフを参考にした独特な画風を作り上げ、ダンの生徒による絵画は内外で注目を集めて「インディアン・ペインティング」ブームを巻き起こしたが、プエブロ側の反応は無関心または冷淡なものであった。この背景について著者は、スペイン植民地支配や合衆国政府の習俗への干渉ゆえに、プエブロ社会では、研究者や観光客に自文化の情報を提供することが一種の秘密漏洩罪とみなされてきた経緯があったと指摘する。
 次に第6章は、ナヴァホ社会に即して、「経済的再建」や「文化的自由」を標榜した「インディアン・ニュー・ディール」の理念と現実の乖離を検討している。ナヴァホ保留地で断行された過放牧対策としての家畜削減政策は、当局側の説明とは異なり無計画かつ強制的に実施され、約10年間で57パーセントもの家畜が削減され、それまで経済的に自立していたナヴァホ社会は、その後数十年にわたり政治的・社会的な混乱と連邦助成金への経済的依存が続くことになった。ナヴァホ社会内部では、穏健派の指導者チー・ドッジに飽き足らない急進派がJ.C.モーガンを筆頭として台頭して内部対立が激化し、再組織法案の審議もままならず、コリアの率いるインディアン局改革派への不信感が強まった。家畜削減政策が断行されるなかで、プエブロ社会では歓迎された再組織法の「自治政府」構想も、ナヴァホ指導層からみれば画餅にすぎなかった。
学校教育政策でも、インディアン局とナヴァホ指導層の見解は乖離していた。当局側は「コミュニティ・スクール」(通学学校)増設による就学率向上と教育環境の改善を促す方針を打ち出したが、移牧という生産文化をもつナヴァホの場合、通学学校は非現実的であるとの「常識」がナヴァホ社会の側にはあった。さらに第2次世界大戦の勃発後、従軍経験者や保留地外での雇用機会が増えてナヴァホの人々の就学への関心が高まったが、ナヴァホ指導層は通学学校ではなく寄宿学校による就学率の向上を連邦議会で訴えるようになった。人口の急増や土壌の浸食、積年の土地紛争や家畜削減政策の混乱によって、従来のようにナヴァホ保留地内で生計を立てることはきわめて困難となりつつあった。このような状況のなかで、ナヴァホ指導層は、寄宿学校という異質な教育機関で英語や「白人のやり方」に精通した次世代を育成しなければ「連邦議会で嘆願すらできない」といった切迫感や葛藤から寄宿学校制度を支持したのだと、著者は指摘する。
終章で著者は、これまでの検討をふまえ、19世紀末から20世紀前半にかけての南西部(ニューメキシコとアリゾナ)は、天然資源や肥沃な農地に乏しいこともあって、連邦政府が創出した「インディアン」という「変則的な法的地位」を解消するメリットはあまりないと先住社会側でも認識されていたこと、このため結果的に「市民」と「インディアン」という二つの法的概念が矛盾を孕みつつ並存する状況が半世紀以上も続いたことが先住民社会のあり方を規定する基本的要因となったと総括したうえで、次の点を指摘する。
第一に、この状況を通じて、「インディアン」という法的概念、その法的地位をめぐる見解や解釈は、立場や時代によって大きく変化し、為政者側の都合で定義・解釈されてきたが、このことは、先住民側にとっても、その解釈の揺れを利用しうる余地が(非常に限定的とはいえ)あったことを意味していた。併合後の半世紀以上にわたり「インディアン」として処遇されてきたプエブロやナヴァホ社会では、「インディアン」という法的地位を利用して州による土地課税と州裁判所の管轄を逃れ、あるいは国家による保留地の線引きを無視して占有の既成事実をつくりあげて結果的に保留地拡張を導きだす戦略が功を奏したのである。
第二に、すべての先住民を対象として一括して市民権を付与した1924年市民権法は、連邦政府・議会からみると、第一次世界大戦中の先住民志願兵の処遇や、国内の人種差別問題への国際的関心の高まりなどの政治的要因から法的整合性の問題を棚上げにして連邦議会が一方的に市民権付与を宣言したという事情があったが、一方、先住民側においては、「先住インディアン」としての権利要求が「市民権」概念に基づく「市民」としての権利要求とは必ずしも一致しないという問題があった。占有地の維持などで法的擬制としての「インディアン」に「市民」にはない利点があることを見抜き、「市民」としてではなく「インディアン」としての処遇を要求し、州の参政権を拒否したプエブロ指導層の事例が示すように、参政権や権利章典といった市民的諸権利と先住民の集団別権利としての自治権のあいだには一定の緊張関係が存在した。
第三に、1930年代の「インディアン・ニュー・ディール」は、一言でいえば、現代社会に適合した法的擬制としての「部族」(インディアン・トライブ)を創出する政策であり、その「自治政府」構想は、連邦制への包摂によって「自治」を確保するという両義性を伴っていた。同様の両義性は、近代化と同化の相克がもっとも先鋭化する学校教育の分野でも明らかであった。学校教育の果たす統合機能は、先住社会において従来の教育的・経済的再生産の方法を一部あるいは全面的に否定し、「次世代の育成方法」(広義の教育)や「経済的成功」などに関する価値観の変革を促す役割を担わざるを得なかったからである。「文化的遺産の上に築く」寄宿学校改革に対するプエブロ社会の微妙な反応や、家畜削減政策に揺れたナヴァホ評議会が寄宿学校による就学率の向上を文字通りの死活問題とみなしていたことなどは、先住民が近代化と同化の緊張関係を常に認識していたことを示していると著者は指摘する。
最後に著者は、南西部の歴史を振り返るとき、「イスパーノ」(スペイン系支配層)や「アングロ」が先住民について知っていたことよりも、先住民の方が「イスパーノ」や「アングロ」についてより多くを知っていたし、知らなければ生きていけなかったということ、すなわち「支配的文化」との非対称性を日常生活のなかで常に意識せざるを得ない先住社会の歴史経験に耳を傾けることは、結果的に、市民的権利や民主主義といった普遍的な原理を強調する合衆国の支配的文化を相対化する契機にもなると指摘して、本論文を締め括っている。

3 本論文の評価

本論文は、南西部ナヴァホ社会とプエブロ社会の連邦政府・議会との19世紀末から1940年代にいたる半世紀あまりの関係史を、これまでにない水準で実証的・総合的に検討することを通じて、アメリカ合衆国史研究の新分野として注目を集めている「新しい西部史(New Western History)」あるいは「(米墨)国境研究(Border Studies)」に、先住民社会史研究とシティズンシップ(市民権・市民像)研究を総合した新しい視点と知見を導入した意欲的な研究である。
本論文の成果として第一にあげられるのは、連邦政府・議会と先住民社会の関係史を、もとより両者の権力構造の非対称性は十分にふまえつつも、トライバルヒストリーの近年の研究蓄積をふまえつつ総合的に再検討することによって、一対一かつ一方向の制度・政策の押しつけの歴史として捉えられがちだった過去の歴史像をのりこえた、より双方向的な関係史として描くことに成功している点である。この視点から著者は、ナヴァホ社会の保留地拡大の経緯や、土地保全のために「インディアン」の法的地位を維持しようとしたプエブロ社会の戦略、通学学校よりも寄宿学校を望んだナヴァホ社会の選択など、連邦の制度や政策を一方的に押しつけられる受け身の犠牲者像とは鋭く異なる、先住民社会の多様性や主体性を描出し、説明することに成功している。
本論文の第二の成果は、連邦・先住社会関係史を通して、アメリカ合衆国の国民国家としての歴史構造を捉える重要な座標軸を提起している点である。南北戦争後から20世紀中葉までのアメリカ合衆国を、国籍としての市民権の有無による外国人とアメリカ人の境界に加えて人種やエスニシティを基準に市民権の内部が制度的・慣習的に複数化・階層化した多様なメンバーシップから構成される断片化した社会としてとらえるとき、一般的には、いわゆる白人市民による公民権の完全な行使を理念型として中央におき、より完全な市民権を求める移民や人種的マイノリティを同心円状に配置した国民国家構造が前提とされることが多い。これに対して、「インディアン」として法的に同定され、やがて市民権を一括付与され、さらに「部族」として再編の対象となった状況に、法的地位としての「インディアン」を保持しながら対応した先住民社会の対応は、上述の同心円構造に包摂され得ず、また包摂されることを望まない主体のあり方を示す点で、単線的に捉えられがちなアメリカの市民像に対する重要な問題提起を含んでいる。
本論文の第三の成果は、上に述べた巨視的な視点を念頭におきながら、多岐にわたる連邦・先住社会関係史を、ナヴァホ社会、プエブロ社会に即して丹念に実証し、再構成している点に求めることができる。各章は先住社会の土地制度史、市民権史、教育史のモノグラフとしても研究史に貢献する充実した内容をもっており、著者は、一群の同世代の若手研究者とともに、日本のアメリカ先住社会史研究の水準を一気に高める役割を果たしていると言えるだろう。
本論文には、こうした重要な成果が見出される反面、若干の疑問点や問題点も残されている。まず連邦・先住社会関係史を、制度・政策・経済関係・教育・文化認識など広範な領域にわたり総合的に把握しようとする一方、同時代の思潮や社会経済構造の変動が連邦政府・議会の先住民政策に与えた影響については、叙述に物足りない面がないわけではない。学校教育をはじめとする外部からの介入に対する先住社会の反応についても、その多面的で融通無碍な側面を先住会の側の実利性や実際主義に注目してうまく析出し、また、先進的な教師の芸術教育実践に対する先住民の多様な評価を追うことによって、自文化への向き合い方の微妙な変化を浮かび上がらせることには成功する一方で、底流する「育ちの文化」や価値意識のような側面については叙述に物足りない面がないわけではない。さらに「インディアン」と市民権の問題についても、上に述べたアメリカ合衆国の国民国家としての歴史構造との関係で、外国人の概念・地位や、より広義の市民像との関係などについての議論がもう少し展開されても良かった。
ただし、これらの問題は、本論文が学位論文としてその射程を絞るうえで生じた叙述上の制約に由来する面が大きく、本論文の研究上の意義を低めるものではない。また今後より本格的に展開されるべき問題であることは著者もよく自覚するところであり、この研究が喚起するであろう学問的議論のなかで、著者のさらなる応答を期待するものである。
以上、審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に寄与するところが大きいと認め、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断する。

最終試験の結果の要旨

2005年7月13日

2005年6月13日、学位論文提出者水野由美子氏についての最終試験をおこなった。本試験においては、審査委員が提出論文「『部族』の創出―合衆国南西部における先住社会の再編過程」に関して、逐一疑問点について説明を求めたのにたいし、水野由美子氏はいずれも簡潔かつ明快で過不足ない説明を与えた。

また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、水野由美子氏は十分な学力を持つことを証明した。

よって審査委員一同は水野由美子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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