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博士論文審査要旨

論文題目:オーストラリアにおける障害生徒のトランジション~ニューサウスウェールズ州の学校役割を中心に
著者:安倍(山中) 冴子 (Yamanaka-Abe, Saeko)
論文審査委員:関 啓子、藤田和也、茂木俊彦

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1.本論文の構成
 本論文は、多様な「自立」を保障するために学校はどのような役割を担う必要があるかという問題意識のもと、具体的にはオーストラリアにおける障害生徒のトタンジション保障について、ニューサウスウェールズ州の学校役割を中心に研究したものである。トランジションとは、学校教育から就労を含めた最終オプションの間に、職業訓練機関などを介入させ、障害者の個々に適した形で学校教育修了後の生活を充実させることを目指す取り組みを意味している。1960年代の学校・仕事プログラムに端を発し、1970年代のキャリア教育を経て、1980年代に第三の理論・実践として登場したのが、このトランジションである。アメリカやOECDの影響を受け、世界的にもその重要性は認識されているが、日本ではまだ十分な取り組みがなされていない。本論文は、日本においてこの分野のさきがけとなる本格的研究である。

序章 
第1節 問題関心~障害生徒の後期中等教育における学校役割とは
第2節 先行研究~障害生徒のトランジション
第3節 研究課題と研究方法
第4節 論文構成
第1章 障害者のトランジションとは何か
第1節 トランジションの萌芽~仕事・学習プログラムとキャリア教育 
第2節 トランジションの誕生
第3節 OECD/CERIによるトランジション研究
第2章 オーストラリアにおけるトランジション導入の背景
第1節 OECD/CERIによるトランジション調査
第2節 障害者施策におけるトランジションの位置づけ
第3節 経済合理主義と職業教育訓練の拡大
第3章 ニューサウスウェールズ州におけるトランジション関連施策
第1節 パイロットプログラムの実施
第2節 インテグレーション・インクルージョンの推進
第3節 ポストスクールオプションの変遷
第4章 ニューサウスウェールズ州における学校の取り組み
第1節 スタッフ体制
第2節 カリキュラムと関連機関連携
第3節 個別トランジション計画の策定
終章
第1節 総括
第2節 本稿の意義
略語一覧
参考文献・論文一覧

2.本論文の概要
 序章では、障害者の「自立」概念を問い直す視点から、障害生徒のためのトランジションのあり方を検討する必要性について筆者なりの問題関心を述べ、そのトランジションにおける学校役割を明らかにするために、オーストラリアにおけるトランジションの先進州とされるニューサウスウェールズの施策に焦点化して検討することを課題として設定する。
 まず筆者は、従来の障害者教育における「自立」概念の狭さを指摘し、近年では、幅広い多面性をもった「自立」概念が深化しつつあることを国内外の理論状況を踏まえて整理している。それは、全ての人が指向する目標としての「自立」概念の提唱や、身辺自立や職業的自立に留まらない「人間的自立」や「社会的独立」を含んだ幅広い「自立」概念の提唱へと深化しつつあり、こうした議論の到達点は「従来からの限定的な自立概念から脱却し、権利としての福祉サービスを受給しながら個々人の自己実現を可能にする」ことを保障しうるものであるとする。
 ついで筆者は、トランジションの先行研究について、主として1970年代以降のOECDにおけるトランジション研究の進展に照らして、日本におけるトランジション研究の動向をとらえ、日本におけるトランジションの生成過程とその到達点、そしてトランジションにおける学校役割が必ずしも明確になっていないことを指摘する。
第1章では、障害者にとってのトランジションとは何か、トランジション保障における学校役割とは何かについて考察され、アメリカをはじめとする国際的な理論の到達点が示される。トランジションをめぐる先進的なアメリカの理論、ユネスコやOECDといった国際機関におけるトランジションの位置づけが解説される。筆者は、障害者のトランジションを仕事・学習プログラムとキャリア教育の2つの流れを受けた第三の理論と実践とみなすHalpern(国際的に著名なアメリカのトランジション研究者で、同氏のトランジションモデルがオーストラリアをはじめ多くの国々の施策や考え方に影響を与えている人物)の見解にもとづき、仕事・学習プログラム、キャリア教育、キャリア教育からトランジションへの変遷を、法整備とあわせて明らかにする。ついで、OECDのトランジション理論が解説される。また、トランジション導入の経済的要因も考察される。
こうしてトランジションの導入過程が検討され、現在のトランジションモデルの構築にキャリア・デベロップメント研究が果した役割が析出された。
第2章では、オーストラリアにおけるトランジション導入の背景が明らかにされる。オーストラリアでは、障害者を先住民や移民などといった社会的弱者としてのマイノリティと同列に並べる指針の上にノーマライゼーションの理論を反映させ、教育と福祉の充実が図られてきたという。
そこで、筆者はオーストラリアがトランジションを導入する契機となったOECD/CERIによるトランジション調査について述べる。続いて、ノーマライゼーションとその影響を受けた障害者関連法規について、次にトランジション導入とかかわる経済合理主義と教育政策との関係が論じられる。
オーストラリアにおいては、1970年代に形成された障害者の雇用可能性や地域での就労という視点が、1980年代のノーマライゼーションや国際障害者年の施策によって積極的に意義付けられた。トランジションはノーマライゼーションの実現にむけた具体策の一つと見なされ、推進すべき課題とされた。筆者はこのようにオーストラリアにおけるトランジション導入過程を読み解いている。
 第3章では、オーストラリアがトランジション施策を導入する際に、他の州に先駆けてそのパイロットプログラムを実施し、その後その施策を充実させ、現在ではトランジションの先進州とされるニューサウスウェールズ州(以下NSW州と略記)のトランジション関連施策の分析を行っている。
 NSWでは、1989年にオーストラリアの連邦レベルのトランジション施策の具体化に向けたパイロットプログラムに着手している。そのプログラムは、Halpernのトランジションモデルをベースにして作られた、いわばオーストラリア版トランジションモデルをプログラムに具体化したもので、その内容の特徴は、Halpernの考え方の影響を受けて多面的な(単なる職業的自立に留まらない)幅広い自立を保障することを基本理念とし、そのため学校においては多面的な内容をもったカリキュラム編成がなされ、さらに学校(自立に向けての個別の学習支援)と地域(個々の生徒のトランジション支援)の相互連携を図りながら、障害生徒の「地域での自立(Community Independence)」を促そうとしているところにあるという。
 また、NSWの障害者教育におけるインテグレーション・インクルージョン施策の進展もトランジション施策の充実と相保の関係にあり、NSWにおける人的リソースの整備(障害教育コンサルタントの配置や障害児教育委員会の設置など)、教育施設の改善・改築、教育条件整備、移動のための送迎サービス、などの充実が並行して進展しているという。また、障害生徒の卒業後のポストスクールオプションの整備もトランジションには欠かせないが、NSWでは、上級学校への進学、就労、その他の社会活動などの多様なオプションにつなぐサービス(障害者職業訓練機関、重度の障害者を対象にした訓練と学習の支援、連邦政府による雇用サービスなど)の充実を図っているという。
 こうした充実の方向が認められるものの、障害者へのサポートにはオーストラリアがとる経済合理主義の路線と相容れない側面もあり、こういった整備の前進面と合わせて、サービスの合理化の影響を慎重に見守る必要があるとしている。
第4章では、NSW州の学校レベルにおけるトランジションの実際的展開を観察している。具体的には、学校におけるトランジションのためのスタッフ体制、カリキュラム内容、その遂行のための関係機関との連携、個々の障害生徒に即したトランジション計画の策定など、NSW州の各学校段階での取り組みの実態がとらえられている。
その特徴は、次のような点にあるという。生徒の豊かな自立を促す多面的な内容をもったカリキュラム編成、それを可能にするための地域の多様なトランジションサービスとの連携、障害生徒の特別なニーズに即した各種専門家の配置、などに優れた面をもっているという。しかしながら、他面で、職業教育訓練への時間配分の多さや能力(労働能力)重視を基礎においた訓練内容など、ノーマライゼーションの理念と相容れない側面をもつ経済合理主義の影響が読みとれることを指摘している。
 終章では、本論全体を総括し、論文の独自性や意義について述べられている。トランジションにおいて必要とされる関係諸機関連携のなかでの学校役割を解明したこと、特別な教育的ニーズとアト・リスクの総合的な把握にもとづき学校役割を捉える必要を明らかにしたこと、ポストスクールオプションの整備がトランジションにおける学校役割に影響を与えることを明らかにしたこと等が、簡潔に論じられている。

3.本論文の成果と問題点
 本論文の成果は次の四点である。
第一に、本論文は障害のある生徒を対象とする学校から社会へのトランジションサービスに関する、わが国ではじめての本格的な研究である。わが国では障害者の「職業教育と進路指導」という枠組みに限定した研究や実践は数多くあるが、「成人になることへの権利とその保障」という包括的な概念であるトランジションに関する実践・研究は小さなものを除くとほとんどまったく存在しない。
第二の成果は以下のところにある。上記のような事情もあって、さしあたり重要なのは外国における動向、研究等を精査し分析することである。筆者は、文献を広く渉猟すると同時に、NSWで現地調査も行い、この課題に本格的に取り組んだ。OECD、アメリカ合衆国におけるこの問題の歴史、現状、サービスシステム等について整理し、その上でオーストラリア、とくにニューサウスウェールズにおける考え方、制度、実践について突っ込んだ解明を行った。その内容は、今後わが国においてトランジションサービスを発展させるための示唆を多くふくんでおり、それ自体ですでに本論文の意義はおおきい。
第三に、「障害者にとっての自立」概念について、今日的水準の諸議論を世界的視野で丁寧にフォローし、含意すべきその意味内容を筆者なりに整理して明示していることは、今後の障害者教育における自立概念の深化と発展に貢献しうるであろう。
第四に、オーストラリアにおけるトランジション理念とその政策を丁寧に分析・吟味し、トランジションにおける学校役割に焦点化しながら今日的段階の先進面と特徴を明示的にあぶり出しており、日本の障害児教育におけるトランジションのあり方、特に学校役割、学校を中心とした諸機関と人材の連携のあり方に少なくない示唆を提示している。
 このように優れた研究成果を確認できるが、問題がないわけではない。2つの問題点を指摘する。
筆者はHalpernのトランジションに関する理論をもっとも重視している。Halpernはトランジションを職業・雇用と学校教育の課題に限定せず、多様な自立を許容しつつそれに対応するトランジションのあり方を提起していると見られる。これに関連して筆者が直接の研究対象としたオーストラリア、NSWのトランジションサービスのシステムは、一般就労、援助つき雇用が可能な障害生徒を念頭に組み立てられているように思われ、その背後に経済合理主義があるように思われる。
オーストラリアの障害者教育とトランジションの先進面のあぶり出しに意を注いでいる分、その背後あるいは他面で持つ、ある種の限界や弱点についての慎重な吟味の作業が必ずしも十分とはいえない。重度・重症の障害生徒も含んで多様な自立を考慮し、トランジションサービスを考えようとするとき、オーストラリア、NSWの取り組みにはその意義と限界が認められることとなるのではないか。この点で、特に限界を鮮明にする点で、筆者の詰めは不十分である。以上が、第一の問題点である。限界の整理とその乗り越え方に関する提案があれば、本論文はもっと力強さを増したであろう。今後の努力を期待したい。
 NSWで現地調査も行って、そのリアルな実態の把握が、トランジションの理念や政策レベルの特徴の論述に説得力を付与しているが、学校関係者の実際の活動の様子や障害生徒の学習・体験状況などの把握は控えめに示されている。教育実践・現場につての記述がやや不十分なところが第二の問題点である。調査データを十分にいかす別稿を期待したい。
 このような問題点はあるが、それらは筆者の学問的な貢献をいささかも傷つけるものではない。今後の研究のいっそうの進展を期待している。
以上のように審査委員一同は、本論文が当該分野の研究に大きく寄与するものと認め、安倍(山中)冴子氏に対し、一橋大学博士(社会学)の学位を授与することが適当であると判断した。

最終試験の結果の要旨

2005年7月13日


2005年6月17日、学位請求論文提出者安倍(山中)冴子氏についての最終試験をおこなった。本試験においては、審査委員が提出論文「オーストラリアにおける障害生徒のトランジション~ニューサウスウェールズ州の学校役割を中心に」に関して、逐一疑問点について説明を求めたのにたいし、安倍(山中)冴子氏はいずれも簡潔かつ明快で過不足ない説明を与えた。
また、本学学位規則第4条第3項に定める外国語および専攻学術に関する学力認定においても、安倍(山中)冴子氏は十分な学力を持つことを証明した。
よって審査委員一同は安倍(山中)冴子氏が一橋大学博士(社会学)の学位を授与されるに必要な研究業績および学力を有するものと認定した。

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